はてなキーワード: 常套句とは
オリンピックのエンブレム、パクリパクリと騒がれているが、偶然の一致じゃねーの? 少なくともあれは、パクらないと思いつかないような形ではない(笑)。
ベルギーのデザイン事務所の人が「うちのは2年も前に世に出ているんだから、デザインを目にしているはず」みたいなことを言っていたけど、悪いけどベルギーの劇場のマークなんて、日本で目にする機会はまずないよ。
だいたい、俺がベルギーについて知っていることなんて、ワッフルとビールとスパ・フランコルシャンぐらいのもんだし。他の人も大差ないんじゃないかな?
色にしたって、黒、金、赤なんて、和風なデザインにするときの常套句みたいな色の構成でしょうに。スペインのデザイン事務所がどうのこうのと言ってるらしいけど、パクリもくそもないよ。だいたい、スペインのデザイン事務所が作ったデザインには、銀が入ってないじゃない。こじつけに近いよ。
これだけありとあらゆるデザインが氾濫している世の中で、シンプルなマークを作ろうと思ったら、どうしたって何かに似るってのはある程度避けられないんじゃないだろうか。まあ、運が悪かった以上のもんではないと思う。
どんなにデザイン事務所がハードワークだなんだ言ったって、二ヶ月も制作期間があったら、ベルギーの劇場のマークなんかわざわざパクって使おうなんて思わないよ。そっちの方が面倒臭いでしょうに。
デザイナーが慌ててSNSのアカウント消しちゃったりしたのが印象悪いね。
ともあれ、デザインなんて、百人が見て百人が気に入るようなものは絶対作れないんだから、こういう公共のデザインを勝ち取ったんだったら、胸を張って対応すれば良かったんだと思うけど。
一次創作にもあてはまるのかもしれない、二次創作に特に思うこと。
ずっとモヤモヤしているので吐き出し。
A.自分の作品への「無断転載」「無断改変」「トレパク・盗作」に、非常に過剰な反応を見せる
B.他者の作品(特に商業作品や写真)への「無断転載」「無断改変(コラや大喜利)」「トレース」
今インターネットお絵かきマンには、このAとBを併せ持つ人が多いと感じる。
無断転載されてその上作品の意味を変えられた、本当に悔しいと嘆きながら、
公式の画像を使用して作成されたコラ画像をリツイートしたり、時には自分で作る。
自分の同人誌を違法にアップロードされて怒る・晒すくせ、動画サイトに投稿された
無断転載者の「拾ったので誰が作者かわからない」・「加筆したから自分の作品だ」と主張する人を糾弾しながら
自分は適当に画像検索してひっかかった写真や公式画像を模写や(改変)トレースする。
このABハイブリッド型の人は作品を愛している、という名目でBを行うことが多いけど
あくまで1つの作品ではなく、自己表現の道具扱いなんだと思ってる。
それも作品愛を盾にした、非常にタチの悪い。自分で気づいていないこともある。
どうしても言いたい。
あなたのやっていること、おんなじですよ。
その姿を見て物を作りたいと思った人たちはそりゃ真似するんじゃないですか。
----------------------------------------------------------------------------------------------
ここでいう二次創作とは、公式が許諾(条件付き含む)や黙認しているから一線超えないでね、と明言しているもの。
公式がダメといっているならやるな。チラシの裏か、せめて隠れてやれ。
あとキャラクターの性質が原作から著しく逸れるのもなるべく隠れてほしい。
お金を払っているから好きにしていいというのは、お客様は神様だと自分で言って過剰なサービスを要求する輩と一緒。
たまに原作者はクズクソ何もわかっていないホント嫌いと罵りながら二次創作は立派に行う人がいるけど、
二次創作は許して「いただいてる」んだから、その感情はせめて隠すかチラシの裏にでも書いてなよ。
コラ・違法アップロードも、作者が喜んでいたり、許諾している(公式コラ素材の配布など)場合は除く。
http://bulldra.hatenablog.com/entry/uogashi-nihonichi
ホッテントリで見つけたこれ読んでたけど、自分へのご褒美(笑)の(笑)って文字列で一気に不快になった。
むしろどんどんやったほうがいいくらいだろ。
いわゆるスイーツ(笑)の常套句だから自嘲的に使うってのが元ネタなんかもしれんけど、
ぶっちゃけ自分へのご褒美って考えができる人間の方が俺はすごいと思う。
他人から見て大したことないのにご褒美とか(笑)ってことなんかもしれんけどさ、子どもの育て方と同じって考えたらわからねえか?
大人になって(ならなくても)自己肯定感を一定のタイミングで持つことができるってのはすごく人間として成熟できてて尊敬できることだと思うんだよ俺は。
逆に斜に構えたり自虐に走る大人のほうがださい。
「普段、休みの日はなにをして過ごしてる?」
初対面の人と話した際、何気なく出てくる話題の一つ。この前もキャバクラに行った際、女の子にこの質問を聞かれた。
「映画を観るのが好きだから、気が付けば映画を見てるよ」と答えた。その答えに対し女の子は、「オススメ教えてよ」と言ってきた。誰もが使う、常套句である。僕はこの意味のない会話を早く終わらせたいがために「アベンジャーズ」を薦めておいた。彼女はアベンジャーズを知らなかったので、たくさんのヒーローが出てきて地球を救う映画だよ、面白いよと太鼓判を押して次の話題に移った。
僕は自分を曝け出すのが苦手だ。苦手というよりも、曝け出したのち「この人変な人だな」と思われるのではないだろうかと考えてしまい、無難な回答をしてその場をやり過ごしてしまう。だってもしこの時仮に「デヴィッド・フィンチャーの作品が好きなんだよね」と言ってエイリアン3やファイト・クラブの良さを2時間語ってもこの女の子は飽きてしまうだろう。そう考えてしまうのだ。これまで僕は、あまり一般受けしないような音楽や映画などのカルチャーを知っていることが、男としてのステータスになるのだと思い、たくさんの音楽を聞いてたくさんの映画を観て学生時代を送っていた。映画が好きだとか音楽が好きだとかではなく、知っていることがステータスだと感じたから、それを実践していた。映画を撮ってみたい、バンドをやりたいなどは思わなかった。もちろん好きな作品やアーティストは多少はある。だが26歳になり社会人になると、AKB48のメンバーを知らないだけで非国民のような眼差しで人に見られることに気がついた。そして想像以上に世の中の人は皆、「三代目J Soul Brothers」のメンバーの名前を知っているのだ。
隣にいた上司は「三代目J Soul Brothers」の話題で彼女と話している。僕はそれに対し、うんうんと頷くだけの時間が過ぎていく。帰り道、上司に「三代目J Soul Brothers」を好きになったきっかけを聞いた。上司は全然好きじゃないと、そう答えた。キャバ嬢の会話に合わせるため、勉強したというのだ。やり方は異なるが、僕と実践していることが一緒だった。「三代目J Soul Brothers」と「デヴィッド・フィンチャー」のどちらが好きか渋谷でアンケートを取れば、9:1くらいで前者が勝つだろう。上司はなんとなく「三代目J Soul Brothers」のことを知っておけばモテるんじゃないかと思っていただけだそうだが、僕にとっては衝撃だった。今まで避けてきたものが大人の世界では有利に働くのかと考えたことはなかったからである。あえてマイナーなものを好きになることで得になることはないのだと、そう思った。デヴィッド・フィンチャー好きの女の子をインターネットで検索すればそりゃあ見つかるかもしれないが、現実世界で見つけるのは難しいのである。今思えば、学生時代アルバイトの面接で「休みの日はラーメン屋めぐりをしてます」と答え、その場で即採用だったことがある。面接をしていた店長がラーメンを好きそうな顔をしており、そう答えたら当たったのだ。
要するに、いかに相手との共通の話題を見つけるかが大人の世界では重要なのだ。これはキャバ嬢に限らず、営業先などのビジネス時の会話でも必要なスキルだと感じた。相手の好きそうなものを予めインプットし、それを面白おかしくアウトプットして話題を作る。僕は学生時代、9:1の1の方をインプットしすぎたせいで、大人になって“なにもない人間”として見られるようになってしまった。だからと言って、今更「三代目J Soul Brothers」のことを好きになろうなんて思えない。が、少しは9:1の9の部分を知ることは重要だろうと考え、僕はこの文章を「三代目J Soul Brothers」を聞きながら書いている。
PVはこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=2iKRxczFkOI
歌詞はこちら。
http://j-lyric.net/artist/a001c7a/l02afa8.html
色んな人の解釈はこちら。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14115776339
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1498075714
http://www.omphalos.co.jp/cp-bin/blog/?eid=220
http://ameblo.jp/kawaharahayato/entry-11476386332.html
PVを見てもらえればわかると思うのですが、これは明らかに片思いの気持ちを歌った曲。
それは"嬉しさと悲しみの間を揺れている"という表現からも読み取れるかと思います。
また、常套句というタイトルは「こんなありふれた言葉でしか表せられない」ということを
多少自嘲気味に表現しているのでしょう。
にも関わらず、上記の知恵袋やブログでは「遠距離の恋人へ」とか「二人は上手く行っている」
もちろん、私の解釈が間違っている可能性もおおいにあるのですが、
自分もクリエイターの端くれとして自分の意図が先方に伝わることを期待し過ぎちゃだめだなーと自省。
「パスタ作ってくれた」だの「情熱が目を覚ます予感」だのの分かりやすい表現が好まれるって話もありますね。
ドラゲナイについてはここでは触れません。
ストレートに言うのがいいとはいっても、留保をつけるべきところで言い切ってしまうと、
「こいつほんとに分かってるのか?」「え?そんな簡単に言っちゃっていいんだったけ?」と信用を失ってしまうことがある。
どれくらい自信があるのかを示したかったり、相手に言質を与えたくなかったり、
論争になりかけているのをやわらげたかったり、あるいは慎重にものごとを進めたかったり。
そういうときのネイティブとかネイティブじゃない人とかのメールを観察していて、表現集が少したまったので公開します。
※なお面倒な場合は多分 maybe と I think だけ使っておけばいいと思います。
「個人的には」「私としては」
例:Personally speaking, I don't trust Nikkei's reporting. (個人的には、日経の報道は信用していない)
IMO (in my opinion), IMHO (in my humble opinion) も類句だが、主語との対応に注意。
Personally ... の場合は後続文中のどこかに「I」が入り、後続文だけでも「私」の意見だと分かることが多い(例 Personally, I don't like that.)。
一方「*I don't like that, IMO」のように IMO と I を併用するとぎこちない。
言い方を控え目にする以外にも、(会社や役職としてではなく)個人の意見です、と明記して言う場合もある。
「……のはずですよ」「きっと……ですよ」
例: I'm sure he will get it back to you soon. (彼はすぐに返事してくれると思いますよ)
maybe のように優柔不断な印象を与えずに言質も与えないことができる便利フレーズ。
I believe ... も類句。
「私の思い違いでなければ、……」
例: If I'm not mistaken, he is the person responsible for this. (思い違いでなければ、彼がこれの責任者だったかと)
字面上は自信がないということだが、常套句すぎてそこまで強く思ってなくても使われる。
(別に勘違いだとは思っていなくて、単にやわらげるためにだけ言っているケースがある)。
「思いだせる範囲で言うと、……」
例: If I recall correctly, that was back in 2010. (たしか2010年だったと思います)
資料を見ずに記憶を頼りに話しているので、間違ってるかもしれませんよ、ということ。
IIRC と略して使うくらい頻出なので、これも意味が字面より幾分か軽くなっていると思う。
recall が remember になることもある。
As far as I know や As far as I understand も概ね同じ(動詞の意味が微妙に違うが)。
「……だったとしても不思議ではないと思う」「……ということも充分ありうると思う」
例:I wouldn't be surprised if it were a fake. (偽物だということも充分ありうると思う)
みんな見過ごしてるかもしれませんが、こういうのも私の想定の範囲にありますよ、という風に何となく賢そうな感じになる。
「……かもなと思います」「……ということはないでしょうか」
ややきつめの提案や質問を書く前の枕として、衝撃をやわらげる一言としての使い方がおすすめ。
例:I wonder if we can lower the budget a little more. For example, some teams might be overstaffed.(予算をもう少し下げられないですかね。たとえば、人員過剰なチームがあるかもしれないですし)
一般に提案にも疑問にも使えるが、何にでも使うと控えめすぎるかも。
「……ということですよね」「……というように聞こえますが」
例:It sounds like we should get started as soon as possible. (できるだけ早くとりかからないといけないみたいですね)
相手や第三者の発言を受けて、「今のって、こういうことですよね」と自分の理解をのべる。
その理解の上で、自分はこう提案します、というのをさらに続けることが多い。
まずは私はこう理解していますと言語化することは、書き言葉のコミュニケーションしかない場合、重要。
特に(お互いが)英語母語話者でない場合、行き違いは思いのほか発生しやすい。
it seems (like|as if|as though) も類句でより広い範囲に使える。
サイコパスのAO義塾塾長の文章に突っ込み入れるンゴwwwwwww
全文は http://aogijuku.com/tk2016/
今回の一件で悶々とする中で、改めていま私が為すべき事は何かと考えた時、
それは「AO入試を通して、全社会を牽引していく先導者を輩出していく」という原点を貫き続けていくことだと、思い至りました。
→勘違いやぞ
自らの頭で考え、行動することを身につけていくことをサポートしていきます。
→まず学力つけるのが第一なんだよなあ
そして、全世界を牽引していく先導者となることを目指す、
それは今回の一件でも痛切に感じました。
それでもなお、私はAO入試が、これからの日本社会にとって欠かせない入試形態の一つだと私は確信しています。
AO入試では、大学から受験生へ必ず「志(=大学で学ぶことへの目的意識)」が問われることになります。
「志」を抱くには「意識」が欠かせない
そして「志」を抱くには、
だから私たちが「意識が高い」と嘲笑されることは避け難いこととも言えるのでしょう。
しかし、これからの日本には社会への「意識」が高い人々が「異端」として嘲笑されてしまう少数派であってはならないと思います。
これからを担っていく高校生にとって、そしてひいては日本人全体にとって、
「社会への意識が高いこと」を普遍的なことにしていくためには、
AO入試という入試形態が社会の教育装置として不可欠だと僕は思っています。
とんだ思い違いやね
社会問題を解決していく、社会への高い意識を持った担い手こそ必要です。
→まあわかる
その担い手を育てる仕組みの一つこそ、私はAO入試なのだと思います。
一方で、一点刻みの受験戦争を勝ち抜くには、
社会へ関心を持つよりも、机に向かうことばかりが奨励されてしまいがちです。
→いかんのか?
もちろん、机の上での勉強や学力を身につけることは極めて重要です。
しかしその重要性は、勉強や学力は「手段」であることに対してであり、それ自体が「目的」ではありません。
→意味不明
点数のみで評価することは、手間がかかりません。
→根拠なし
大学での学びも「手段」であって、入学することが「目的」ではないはずです。
→一時的な目的を達成して、それから手段としての学びを行うことの何が悪いのか
高校生達が大いに学問することへの、それぞれの「目的意識」が最も大切です。
その目的意識を問い、社会全体で育てようとするのが、AO入試です。
このAO入試の可能性を活かして、
「ゴール地点」ではなく「スタート地点」へと描き直していきたいのです。
→一般入学者は大学入学がゴールとかいう妄想を押し付けないで下さい(迫真)
やはり、AO入試で入学するには、意識が高いことが求められます。
要するにバカってことやし
むしろ、意識が高いことで嘲笑されてしまう日本社会の現状こそ、最も正さなければならない深刻の病理だと、真面目に思っています。
そんなこと真面目に思ってるなら真性のバカやな
本来ならAO入試の導入に合わせて、学校が変化するべきでした。
学校がAO入試のサポートを万全に行ってくれるのなら、AO義塾の出番など必要なかったと思います。
学校という教育機関に、高校生達のAO入試への挑戦をサポートしてもらうことを期待するのは難しいのが実情です。
AO入試に挑戦する高校生をサポートするコミュニティを創りたいと決心しました。
幸いなことに、AO義塾は毎年、合格実績の過去最高記録を更新し、
本年度のAO義塾4期生も既に慶應義塾大学に150名以上合格することが出来ました。しかしそれを支えたのは、既存の塾・予備校の概念ではありませんでした。むしろ、全くその逆の概念でした。
→AO用の意識高い実績作りのための団体まで用意しているもよう
教える側、教えられる側という関係でもなく、
茂木健一郎とか
200人の塾生がいれば、200通りの志があります。
みんなそれぞれ、違う色、違う形をしています。
それが私たちにとっての誇りです。
合格を目指しません。社会に貢献出来る人材を輩出することを目指します。
そして、この信念は揺るぎません。
安定した時代には、常識的なライフコースというエスカレーターがあり、
それに乗っていれば、社会のことなど考えられずにいられました。
自らの頭で考え、行動出来なければ、一寸先は闇な時代です。
でも、そんな不安定な時代に生まれた私たちのような世代だからこそ、
スリリングだけれども、わくわくするような人生を送れる世代です。
明日がどうなるのか怯える人生より、明日を切り拓いていく先頭に立つ人生に、僕たちの世代はしたい。
※ポエム終了
そしてそれは全てAO入試に挑戦することで得られる学びです。
時代の転換に合わせてそろそろお役御免です。
こうした背景を考えれば、
やはり、新しい学びの場が不可欠です。
AO義塾はその新しい学びの場たらんと、
そして再出発の第一弾として、
「社会問題を考えるワークショップ」を12月26日(金)に開催します。
皆さんと一緒に「考える」機会としていきたいと思っています。
対象は高校生ですが、参加人数によっては、大学生の見学も受け付けます。
こうした企画等を通じて、全世界を牽引していく先導者となることを目指す、
ぜひ意欲溢れる、才能の原石である高校生の皆さんのイベントへのエントリーをお待ちしております。
それは「結果」で示してみせます。
斎木陽平
全体的に文章が下手で草生えた
なぜかこいつは脳内で一般入学者を大学入学がゴールの「意識低い人間」に仕立て上げてるんだよなあ
自慢じゃないが、私と妹も、虐待を受けて育った。
正直、大した虐待じゃなかった。
父親が、DVモラハラの毒親で、母親がDV被害者特有の毒親だっただけだ。
性的虐待がなかっただけマシだったね、と、今でも妹と当時のことをよく笑いあう。
母と私と妹が、暴力と暴言の嵐の中で育ち、しかも、父親は母曰く「いい父親」だった。
蹴飛ばされ、投げ飛ばされ、無茶苦茶言われても黙って耐えていた。
でもいい父親は、暴力浮気借金ギャンブル上等の人だったので、さすがの私も、高学年頃には、いろんなことが間違っていることに普通に気づいていた。
おかしいのは親だったのに、おしくなったのは私だった。
その頃、まだ洗脳が解けていない私達には、「逃げ出す」という選択肢はなかった。
でも、母の「あなたたちの為に(父親と)一緒にいる」という常套句が、普通にこたえていた。
母は私たちの為にこの環境に耐えているのだから、私たちも耐えろ、という言外の圧力に疲れ切っていた。
実際、母はよく、何も告げずにふらりとどこかにいなくなったりしていたし。
両親は離婚できて、私も楽になれるのなら、もう死んだ方がましだった。
自殺未遂後、精神科閉鎖病棟に保護入院(自殺しないようにする措置)、私は今でも、精神科の病院にお世話になっているメンヘラだ。
幸運だったのは、妹は、おかしくならずに、上京してまともな大学生になり、専門的な教育を受けられたこと。
私が渋る母と妹に、とにかく妹を、上京させてやってほしい、と頼み込んだ。
今話題になっている、北海道のあの子たちが、どこまで追い詰められていたのか知らない。
彼女らが、早く親を殺してよかったと、私は思っている。
この世界は弱肉強食だ。殺られる前に殺るのが鉄則。サバイバルだ。
私たちは何とか生き延びた。
私は、彼女たちの魂が、まだ救われる段階にあることを切に願っている。
「失敗から学ぶ工夫を反映させるための道具ではない。」
→ 人が経験を活かす事を否定するかの如き愚かな発言が平気で出てくる辺り、
余程甘やかされて育った浅ましい人間の像が頭によぎる。
「調べたり考えたりする手間を自分で経験するのが必要...彼らの人生のためにはならない。」
→ その程度のことが「責任」に入るかよ。だいたい30~40年前の親の経験からアドバイスするより
ほんの数年前の先輩の言葉の方が良いに決っている。
そのクセ自分の意見が通らない時は「頭固い、古い」とか文句言ってるんだろう?
「その当時の反省を活かし、妹の入試はとてもうまくいった。正直殺意しかわかない。」
→ 自分が不幸だったから妹も不幸ならないと許せないという、醜い嫉妬心のお手本。
他人の幸せを願えない者に幸福は訪れない。可哀想な人生を送る人のお手本。
「下の子にも解禁するべき。」
→ 解禁されてるのでは・・・?
「この疑問を親にぶつけたところ、見当違いも甚だしい反論をされ」
→ 理性的な判断力を失いかけているように見えるので、お手本さんの言にだまされてはいけない。
「いつもいつも下の子に構っていると、上の子は我慢せざるをえない。」
→ 妹が産まれるまで、親の愛情を一身に受けていた事は都合が良く全て忘れている。
〇〇のお手本(←好きなの挿れて良いよ)
別に嫉妬認定でも何でもいいが(実際うらやまけしからんという感情は無くもない…いや俺は寝取りじゃなく普通のお付き合いがしたいだけだが)、
少なくともいままで一度も浮気ばれしてないし、尾行とかされたことないです。
それが「今まではたまたま見つかっていないだけ」だと思えないってのは結構危ないし、
ネットにはさ、エクストリームなことばっかり書かれてるからそう思っちゃうんだろうけど、慰謝料ってそう簡単に取れるもんじゃないよ。
エクストリームなことだろうと「自分には該当しない」という保証はどこにもない訳で。「まさか自分が」は大事故に遭う奴の常套句だよ?