はてなキーワード: 市場原理とは
愚痴を書かせてください。
私は、彼と同じ学術分野(文系)のQ教授の過去の研究内容に疑義があり、それを指摘するために本講座に参加している。
最近わかってきたのは、Q教授の研究はまさに先行研究だということ。彼らは先行研究だったのに押さえてなかった。つまり、タコツボだった……。
文科省の審議会の人文学・社会科学振興に関する平成21年の報告書を読んだのですが、
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/1246351.htm
基本的にこの頃から問題の性質は変わっていません。十年ぐらい叱られているのに、それでも克服できない。
昔の学者ってどうだったのかなと思って、マックス・ウェーバー『職業としての学問』を読んでみたのですが、当時のドイツの大学では、私講師という資格だけが与えられ、何を教えてもよく、給料は受講生からの授業料の上がりだけ、つまり出来高制だったみたいです。しかし医学や自然科学系の研究に巨額の資金が必要となり、アメリカでは研究者という仕事が月給制になった。ドイツでもアメリカナイズが進んでいるとウェーバーは書いている。ドイツ式だと市場原理が働くので、実力不足の学者は淘汰される。一方、アメリカ式だと雇用が保護されるので、官僚主義がはびこる。
日本で大学が設立された頃の事情ですが、福沢諭吉あたりが大学を創設した後、その後に官立大学を作ったみたい。2011年の東日本大震災で原発御用学者が社会的に批判を受け、国立大学法人改革で彼らは国家公務員ではなくなった。
いままで国は学者個人の自主性・自律性を尊重するとか言って、お金は出すけど口は出さなかった。しかし厚遇しすぎて、仕事をえり好みする人ができあがった。果たして障害者にフッサールを教えることが正しいのか? 私は、彼らがずっとサボタージュしてきたQ教授の過去の研究の批判という仕事の督促のためにやって来たのですが、彼らは、どうしてもフッサールを障害者に教えたいらしい。Q教授の批判という仕事は絶対にやりたくない。病人の私に押しつけたいそうです。病人の私がいまやらないといけないのは自分の病気を治すこと(自己保健義務)です。早く元気になって、勤労と納税の義務を果たすことです。Q教授の批判なんて、病気に障るからできるだけやりたくないのだが。
国が税金で複数の学者を雇っているのは、お互いをチェックさせるためなのですが、彼らはタコツボという自分たちの宿痾を克服したくない。どうしても大好きな哲学学を障害者に教える仕事だけをやりたい。私はいまQ教授が20年前に書いた悪書を読んで、問題点を洗い出す作業をしている状態です。泣きたいですよ。
文系って理屈っぽい。「理論上はこの結果がでるはず」と自説にこだわって、ありのままの事実を認められない。理想主義者なんですけど、理想論を学生にも吹き込む。そうするとモンスター障害者、モンスター高齢者ができる。大学教員もモンスター化しているともいえます。
東京周辺に在住している高齢障害者が熊谷さんの講義を何回も聞いている一方で、沖縄の子どもの貧困率は29.9%です。
いま医療費が年1兆円ベースで急増している。とても国民全員に熊谷さんの講義を何度も聞かせられる財政状況ではない。税金で喰っている哲学者と税金で喰っている障害者が学校を開いたら、そりゃあ「学ぶことはすばらしい」という結論になるでしょう。その学費を稼ぎだしているのは誰? 受講生は病人だから知らなくてもいいと思うけど、プロである学者がそんなことさえわからないとしたら、職業としてもう終わりだと思う。一度、マックス・ウェーバーの時代に戻すべきでしょう。
いまの文系の振興策、例えばこんな研究に三年間で一千万ぐらい使われちゃってるんですけど、
https://www.jsps.go.jp/jissyakai/data/saitaku/h25_houkoku/hamauzu.pdf
こういう税金の使い方、本当にいいのかな。
具体的には,タクシー相乗りすれば,痴漢も満員電車も減って万々歳ってこと.
痴漢が起きるのはタクシー業界が既得権益を守っているからじゃね?って話.
多くの人が女性専用車両が必要かそうでないかで議論してるけどそうじゃないだろと.
倫理的に
みたいな訴えが多い.
それが間違っている.
さらに言えば,全員が利益を享受できるほうが施策は受け入れられやすい.
例を出すと,
という案だったらどうだ.
本当にはねられているのは,高齢者だけか?
もっと良い案があるだろ!って思うじゃん.
じゃあ本題に戻ろう.
・周りの人が気づかない(くらい混んでいる)
・声をだすのが怖い&逃げられない(身動きの取りにくい)環境下にある
それは歩いてる女の尻を揉むのと変わらない.
これをなくせば(男性含む)全員が助かる.
これは,他の交通インフラであれば何でも良い.解決できれば自家用車でも良い.
・高い
・時間通りにつかない
だと思う.この2つが電車と大きく異なる.
要は,みんながタクシーやってれば,
市場原理で電車と同じ(もしくはやや高い)くらいの値段になる.
そして,車の総数が減れば時間通りに着く.
これで車の総数は減るし,安くなる.
相乗りへの批判はあるだろうが,基本的にソフトウェア面と監視で問題は防げる.
聞いたことあるだろうが「Uber」というタクシー配車サービスがある.
海外では「UberX」という相乗り用サービスがあり,渋滞をなくすのに役立っている.
今タクシー業界で相乗りサービスの試運転が行われている.しかし,これ必要か?
海外での膨大な例があるのに.
だから,満員電車はタクシー業界が値段を釣り上げている結果起こっていることだと理解してほしい.
タクシーが高くてみんな使えないから,仕方なく電車を使っている.
これを理解してくれ.
そして,矛先を間違えないでくれ.
女性専用車両で痴漢を防ぐのは良いが,それをみんなが賛成するとは限らない.
以上です.
いわゆるフェミニズムの思想潮流の中に自分を位置付けられるほどは勉強してない。
F1公式の発表は以下だ。
we feel this custom does not resonate with our brand values and clearly is at odds with modern day societal norms. We don’t believe the practice is appropriate or relevant to Formula 1 and its fans, old and new, across the world.
「私たちは、この慣習が世界中の、これまでのそしてこれからのファンにとって適切だとは思わない。」
この台詞を言わせたのは「フェミニズムの圧力」「騒ぎ立てた人権屋」なのか?
どうも私にはそうは思えない。
間接的にはあると思う。
つまり、「modern day societal norms」の醸成に影響しているという点において。
ここからは憶測だが、F1公式の考える「modern day societal norms」にしたがった自分達のあり方が何なのか、というと、
性別と年齢とに関わらず誰もが参加できる「the glamour and spectacle of the Grand Prix」なのだと思う。
客層を限定するメッセージを発しすぎるという判断なのではないか。
(女性だって美しい女性を見るのが好きだと感じる人は多いだろうが、単純にターゲットの問題だ。)
こう考えているブコメが多数あったが、私はそうは思わない。
認めないのは
「性的魅力を、本人の自由意思に基づかず要請されたり搾取されること」で、
目指す理想の世界は
「その人の性的なことを、社会による強制や圧力を一切感じずに取り扱える世界」
だと思っている。
現にセックスワークに従事する女性の権利擁護はフェミニズムの範疇だ。
たとえば性行為を対価にお金を稼ぐ自由は尊重されてしかるべきだと思っている。
もちろん、若さと美しさを披露することで対価を得ることも当然、市場原理に保証されてしかるべき自由だ。
フェミニズムが、それらの行為自体を悪と見なしているように見えるのは、
それらが本当に自由意思で行われているか、疑わしいことがあるからだ。
たとえばセックスワークに望んで従事している、と笑顔で言い切る人がいたとして、
その影には本当にたくさんの要因が含まれることがある。
それはわかりやすいものを挙げてしまえば貧困であり、教育であり、環境であり、
その人個人の性体験であり、社会的な「性的魅力の取り扱い」に関する要請であり、
そしてそんなカテゴリワードが意味をなさないほどに、個人のいりくんだ感情と生育かもしれない。
そこに明確な線引きをすることなどできない。
フェミニズムの名のもとにずかずか入り込むことは許されない。
それでも、その人になにかを強制するものがもし何かあるならば。
もしあるなら、ひとつでもなくなってほしいと願わずにはいられない。
それが起きる社会についてかんがえるし、
それをさせている何か、誰かがいないかと考える。
私にとってのフェミニズムはそういう、自由と抑圧について絶えず考え悩む姿勢のことだ。
私は、私個人の経験から、性にまつわることの有形無形の「自由意思以外」を感じとってきたので
理想の世界があればいいのにな、と思っている。
私は「その女性が、自ら望んでグリッドガールとして働くこと」それ自体には一切の批判はない。
だが、同時に「グリッドガールという役割を作り出す社会そのもの」には疑問を投げ掛け続けると思う。
逆にいうならば、グリッドガール自身が、自分達の美しさと若さがブランド価値に寄与するのだと堂堂と言ってくれるなら、
そしてそこに内面化された抑圧ではなくて彼女たちの自由意思を信じることができるなら、
多いに祝福すると思うし、私が本当に望むのはそうした社会だ。
「それしかできないかわいそうな女性が仕事を奪われた」という構図で話したがる人がいる。
まず第一にこの話が「人権団体」の働きかけによるものだとはどこにも書いてないし、
第二に、グリッドガールは「それしかできないかわいそうな子達がようやく得た仕事」ではない。
彼女たちが美と若さを売り物にするための市場がひとつ消えてしまったのは事実だ。
グリッドガールを夢見ていた女の子がいたら気の毒だとは思うが、
小人プロレスの都市伝説になぞらえて語るものでもまたないのではないか。
だが同時に、グリッドガールは弱者ではない強者だ!ともいえない。
「美しさを競い続け、選ばれ続けるために努力し続け、そしてその先に待つものがなにか」という問題について踏み込むとき、
そこには「誇りをもって美しさから対価を得ていたのに、フェミニストに仕事を奪われたかわいそうなグリッドガール」という弱者像とは別の
「美しさを対価にお金を稼ぐことの苦しさと弱さ」は浮かんでくる。
美しいグリッドガールと嫉妬に歪んだフェミニストが叩きあうという構図をお望みのかたはたくさんいるようだった。
フェミニストは「男性=強者」から「女性=弱者」を守りたいと叫んでいるのに、
ほんとうはグリッドガールを抑圧する「強者」なのだ!という転倒の痛快。
そこにあるのは、普段「社会と女性」の構図でフェミニズムが叫んできた構図のパロディである。
フェミニストという醜いモンスターとグリッドガールという美しい虐げられた弱者ならば
自分達に関係なく、そして美しく弱いものを心置きなく応援できて、
普段から気にくわなかったフェミニストたちを存分に叩けるのだ。
きっとさぞ楽しいのだろう。
だから、特に声明には書かれていないフェミニストは引きずり出され、
さらに関係が疑わしい「人権擁護団体」(誰なのかはよくわからない。架空のそういう人たち)を叩き、小人プロレスを引き合いに出している。
そういう人たちがたくさんいる。
グリッドガールがなくなることが正しいとおもうか?
わからない。
わからない。
けれど確信しているのは、上記のようにみにくいプロレスを望む人の声にのせられて、ファイティングポーズをとる必要はないということだ。
私は、できれば自由について話したい。
自由について、美しさや若さや性を売る自由について、その価値と市場について、それが売り手にとって苦しみをもたらさないための社会について。
それがいくつもいくつも積み重ねられて、次の「modern day societal norms」の話ができることを真剣に望んでいる。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26392390R30C18A1TJ2000/
ネット通販なら取次いらないし、マージンとられないし、出版社が儲かるし、ウハウハじゃんwww。
ではない事情をできるだけ話を単純にして説明してみたいなー。と思った。
→[印刷会社]が本を作って
→[取次会社]が買い取って
まず、これが基本。出版業界は、大別して[出版]、[印刷]、[取次]、[書店]の4つの業種で成り立っている。
再販制;書店で販売する本の価格を、出版社が決定できる契約の事。本など特定の商品以外では独占禁止法に引っかかる違法行為。
委託制;書店で売れ残った本は、出版社が買い戻さなければならない契約の事。
「出版は「文化的な活動」であるため、市場原理から保護されるべきである」という思想から。
単純な市場原理に従って本を作ってしまうと「売れないけど文化的な価値のある本」は儲からないので、作られなく・売られなくなってしまう。これを避けるために上記2つの制度で特別な保護を行っている。
「再販制」によって、出版社は、市場原理に基づく価格競争に対して強い抑止力を持つことができる。
「委託制」によって、書店は、売れない本でもほぼノーリスクで店に置くことができる。
「大して売れないだろうけどニッチなニーズに答えられる可能性のある本」を作るリスクを極端に下げる事ができるので、出版文化の多様性が確保できる。
各出版社が日本の隅々の書店まで本を届けるのは難しいため、その部分に特化した1次受け書店が「取次」。
基本業務は、ある程度まとまった数量の本を出版社から買い入れて倉庫ストックしておいて、全国の書店からの注文に(ある程度)従って適宜本を配る。
ただ、これだけだと、ネット通販の普及とともに消えてしまう業種になる。
委託制のため、取次は「出版社から一旦本を買い取って全国の書店に配本。その後、全国の書店からの返本を受け取り、出版社に買い取らせる」という業務を担う事になる。
このため、出版社は、とりあえず大量の本を作って取次に買い取らせれば、一時的にはまとまった資金を調達する事ができる。
通常、新刊を出してから返本までには1年程度の猶予があるため、出版社は、作った本を担保にして、無利子で1年程度、お金を取次から「借入」する事ができる訳だ。
1) 取次は、出版社に対してはお金を貸して、書店に対しては自分の裁量で本を配る事ができる。
2) 取次は、大規模に展開するほど、商品の多様性が増し、配本コストが下がるため、企業規模が大きくなる。一方で、出版社は高い専門性を保つ必要があり、書店は地域に根差す必要があるため企業規模が小さくなる。
3) 取次は、「文化的な活動を促進する企業」として錦の御旗を掲げることができる。
結果、取次は業界全体に対して圧倒的な支配力を持つことになる。
このように日本の出版業界では、出版文化の多様性を確保しようとした結果、取次が非常に強い力を持ってしまう構造になっている。
Amazonによる取次外しが、いかに大きな話であり、しかしそんな簡単ではない話なのかが判る。
さてここで、これまでの話に全く登場していないプレイヤーが一人いる。
(つづかない)
「~~は悪」みたいなムードを作るのは不可能じゃない?どうやっても。
情報アンテナの高い人は理解を示すかもしれないけど、そうでない人との断絶は深い。
既に親しまれている食材だし、日本人は食への執着が強いからね。
だからそういう人道的アプローチじゃなくて、経済的アプローチしかないと思う。
具体的には、業界が結託して、代用魚を「うなぎ」と称して堂々と売り、
いま「シシャモ」として流通しているのは実は本来のシシャモではなくてカペリンなのだけど、
それに不満を言う人はいないでしょ?
そういう風にしていくのが良いと思うんだけど。
頭の悪い人は偽装呼ばわりして騒ぐかもしれないけど、
ならほぼ流通しない本物のうなぎを高値で買うのか、って言えばだいたい黙って適応するしかなくなるでしょう。
例えば、ブスや不細工だからという理由で、採用試験や昇進試験で不採用や赤点にすることは許されない。
でも、恋愛や結婚でブスや不細工を排除する(市場原理)ことは許される。
この線引きをしっかりすればいいんじゃないかな。
性的に成熟している個体のみを相手にしていることを前提として、中田視した場合に妊娠する個体ごとの蓋然性はほぼ外的には予測できないのでセックスするまでに話を絞ると、ナニに至るまでに負担しなければいけないコストというのは当然あるわけで、自分がセックスに至ることのできる可能性の高い個体が性的に魅力的に感じるのは生殖の成功のコストまたは不確実性を減らす意味で進化論的に正しい。
それは別に白人様の肢体は物として美しいという意味じゃなくて、美しい白人ともしっかりセックスしたいという意味で魅力を感じてるんだけど、それよりは予想されるセックスしやすさのほうが生殖の観点からは断然魅力的だということだな。
まあ実際、性的な意味で魅力的な外見なんてのがどんだけ個体の生存率と関わりがあるかはかなり疑問があるし、それよりは性選択の圧の方がよっぽど強いんだろうから、つまりは美しい外見とお股のゆるさというのは進化的にたいした違いはないということだ。いい女体もヤリマンも男の点数付けがつくる。
というのはまあ当然オス側の観点で、メス側からすれば自分の生殖機能にどれだけの値段が付くかというのは生殖のみならず自らの生存をも左右するな。ここに需要と供給の市場原理が関わってくるから話がややこしいな。手に入らないものほどなぜか高値が付く。ようするに人間(じんかん)は余剰資本がジャブジャブいってるってことか、どこにいっても。なんてこったい。
つまり元増田は希少性などという幻想に惑わされない、資本家の豚ドモとは一線を画した、物の本質のわかる、ヤリマン好きのセックスマシーンだということだな。