はてなキーワード: 他民族とは
(そんな事は無いと思った皆さん、でも、日本ではシスヘテロ女性はトランスジェンダー女性より自分達は弱者だと言う事に成っているのです)
ではアメリカではどうなのだろうか?アメリカでは、例えば、白人女性と黒人男性、どちらが弱者なんだろうか?
という事をふと考えてみた。が、考えてわかる事ではない、アメリカに行ったことが無い自分には知り様が無い事なので、知って居る方が居たら教えて欲しい
しかし興味深い疑問ではある、日本では、「男性」にどんな属性を追加しても、女性より弱者になるかどうかは疑わしい。
例えば障碍者男性は健常者女性より弱者だ、と公の場で言える人がどのくらい居るだろうか?そしてその発言はどれほどの非難を浴びる事になるだろうか?
先日もADHDを自称する人の増田に女性差別であると揶揄する(もっとも、それは単なる誤読であったようだが)コメントがはてブで多くの支持を集めていた。
その後そのコメントへの非難にも多くの支持が集まったが、実の所そうした非難にも「ADHD男性は健常者女性より弱者である」といった観点のコメントはほぼ無かったように思える。
多くは「(女性や他民族を)差別するべきでないなら、容姿差別もするべきではない」という趣旨であり、「女性が弱者とは言え、更なる弱者であるADHDを差別するとは」という主張では無かったのだ。
実に自然に、我々は「ADHD男性より健常者女性の方が弱者である」という共通意識を疑いも無く受け入れている事が分かる。リベラル・左翼的傾向に批判的である人でさえ、そうなのだ。
例えばとあるポスターが女性差別的であると問題にされたとして、そのイラストの書き手がADHDであると分かったとしても、ポスターへの批判が失速することは無いだろう(そういえば、岡村隆史の発言が問題になった際、彼の鬱病を心配する傾向は少数ながら見受けられたが、だからと言って彼の弱者性を女性より高く見積もる人は居なかった様に思える)
では、アメリカでは?
「非対称性」「権力勾配」という言葉はどのような場面で使われるか、それは論理のみでは解決できない・するべきでない問題に倫理的条件を追加する為に用いられる。
例えば男性が女性を性的に消費する事と、女性が男性を性的に消費する事は、特別な条件が無い限り論理的には等価だ。
しかし現実社会での男性と女性の立場の非対称性や、権力勾配を考慮すれば、それを等価だと見做すこと自体が差別的だという事になる。
従って、現実社会での非対称性を測定したいなら、「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」を観察するのが一番であろう。
アメリカでの白人女性と黒人男性の間の非対称性は最初に書いた通り私には分からない。「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」自体、経験から抽出される物に他ならないからだ。
では日本での生活経験から「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」を挙げることは可能だろう、、、、と考えたその時、
これは非常に良くない思い付きだ。まず、ここまで来て漸く思い至るのも可笑しな話だが、「どちらが弱者か」などと弱者と弱者を対立させるべきではない。
けれども、ということは、弱者と弱者の連帯は、こうした弱者同士の間の非対称性を”見ない事にする”事で漸く可能になっている、とも言えるだろう。
折しも昨日、高須克弥氏が「日本人は黒人を差別したことは無い」とツイートして炎上した。右翼でさえこの発言の誤りには気付くだろうが、しかし、
「日本では黒人男性は日本人女性ほど差別されてはいない」という発言だったらどうだろう、いわゆるはてサの人達でさえ、これに答えるに少しばかりたじろぐのではなかろうか。
当たり前の事だが、日本にも人種差別はある。しかし、日本における「女性」の弱者性と比べて、どうか、という事は、実の所かなり判断が難しい。
あるポスターが女性差別的であると問題にされたとして、その作者が誰であろうと、論理的にはポスターの是非と何も関係が無い。
けれど、現実の非対称性は「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」に差を与える。では、
「女性」より弱者である属性がもし存在するなら、ポスターの作者がそこに該当すれば、その女性差別性は非対称性によりキャンセルされるのではないか、
何故なら、そもそも男性差別的な表現より女性差別的な表現の方がより問題であるのは、現実の非対称性があるから、なのだから。
(いわゆる腐女子達の表現が、フェミニズムの批判の対象になりにくいのもこのためである。腐女子達は女性であり、従って弱者であるので、その表現の加害性はある程度免除される(尤も、保守側の表現規制はこのような論理を共有しないため、実際にはBL表現はその対象になってしまう、と言う現実がある))
例えば、ポスターの作者が黒人男性だったら?・・・・恐らく女性差別であるとの批判は弱まらないだろう。腐女子達の様に免除されることは無いだろう。
恐らく日本において、「男性」にどんな属性を追加しても、女性より弱者になる事は無いのではなかろうか。
ここからは蛇足だが(これまでの文も全て蛇足の様なものだが)、一連の考察は女性にとって不愉快な物ではないか、と心配している。
フェミニストや女性が女性差別に言及すると、必ずと言っていい程「男性だって差別されている」「男もつらい」等と聞いても居ないのに因縁を付けてくる輩が寄ってくる。
何故そうなるかと言えば、多くの男性は(何故か)誰か自分とは異なる属性の者が自分が弱者だと主張すると不愉快になり、何でもいいから因縁を付けてやろうという気になってしまうからなのだが、
多くの人間は、他人が弱者だと主張すると、不愉快になり、「自分の方が弱者だ」と言いたくなってしまうのだ。
けれど、例え女性がそう思ったとしても、全然悪い事ではない、という事をここに書いておきたい。
そもそも女性は実際に弱者であり、差別を受けている。誰かが(特に男性が)「自分は弱者だ」と言っていれば不愉快になることもあろうが、それは仕方の無い事なのだ。
誰かが「自分は弱者だ」と言い募ることに不愉快を覚えるのが男性であれ女性であれ、論理的には変わらないが、「非対称性」を考えれば、両者は異なる。
そして上に示した通り「女性」があらゆる弱者よりも弱者である以上、どのような「自分は弱者だ」に不愉快を覚えたとしても、非対称性から正当化されると言えるだろう。
YouTubeにおいて人種差別、民族差別、ヘイトスピーチを行なっているチャンネルや動画が
5chハンJ民など有志らによって閉鎖やアカウント停止に追い込まれている件が局所的に話題になっている。
そんな騒動の中、ひっそりとテキサス親父のチャンネルがアカウント停止に追い込まれた。
これはある種のネット史上におけるマイルストーンであろうと思い、一ネット住民である名無しの感想という形でテキサス親父にまつわる思い出話を書き連ねたい。
いかにもステレオタイプ通りのアメリカ共和党支持者的、キリスト教的な言動を繰り返すだけの単なるおっさんだった。
そんな彼が日本で注目されるようになった転機はシーシェパード問題だ。
アニマルプラネットの放映する"Whale Wars(鯨戦争)"という番組がアメリカにて2008年頃に大ヒットし、
シーシェパードと名乗る過激なNPOの捕鯨抗議活動と海洋環境問題が世間の耳目を集めていた。
テキサス親父はそんな潮流の中で「シーシェパードはパフォーマンスに堕した差別主義者のテロリストだ」と早い段階でYouTubeに声明をあげた人物だ。
動画が発掘された経緯は定かではないが、これがネトウヨ層に大ヒットした。
字幕がつけられ、ニコニコ動画に転載され、シーシェパードは差別主義者で良識あるアメリカ人はそれを見抜いているのだと注釈をつけられ、ネットの至るところで動画が拡散された。
少なくとも”Whale Wars”に端を発するシーシェパードの過激で傍若無人な振る舞いは日本でもある程度知られ、
その前身であるグリーンピースなどの諍いも含めて、捕鯨は当時のネトウヨ層にとって極めて重要な問題だった。
そんな中でテキサス親父の力強い断言は、ネトウヨ層にとって大変感慨深いものだった。
テキサス親父は快刀乱麻を断つが如く「西洋的な価値観で他民族の伝統や風習を野蛮だと断じるのは差別に他ならない」と論じた。この声明については今でも俺は賛成したい。
その後もテキサス親父はシーシェパードを批判する動画を相次いでYouTubeにアップロードし続け、ネトウヨに賞賛される日々が続いた。
テキサス親父も人が良かったのだろう。ネトウヨのリクエストが殺到したのか、共和党支持者らしい共産主義や社会主義への批判を行うようになり、いつしか慰安婦問題にも触れ、ネトウヨの大好物の「マスコミが報道しない真実」に言及しはじめた。元々、陰謀論好きな一面も見受けられただけに必然的な流れでもあったかと思う。プロパガンダバスターが彼の二つ名だったし。
テキサス親父は一部のネトウヨに持ち上げられ続け、日本事務局なるものが発足し、
テキサス親父の日本での講演会や書籍が出版される事になった。この頃すでに俺はテキサス親父への興味を失っていた。日本事務局は幸福の科学の藤木なる人物が中心人物で、テキサス親父を取り巻く新興宗教のきな臭い話を聞くようになったというのが非常に大きい。YouTubeで正論を言うテキサスのおっさんは、そこにはもういなかった。
ハンJ板にてテキサス親父を振り返るスレッドが立ったので、別角度からの一意見としてレスを転載したい。
>テキサス親父ことトニー・マラーノ Tony Marano について記しておかなければいけないことがる
>あのおっさんは、黒人の射殺に反対し、黒人が教会から排除されたことに反対し
>キリスト教原理主義者が「あいつらはホモの売春ばっかやってるから天罰だ」と言ったのを反対し
>フィリピンのドゥテルテ大領の政策も「麻薬中毒の子供の母親の気持ちになれ」と叩いてた
>韓国叩きさえ、きちんと犯罪者や個人と国籍民族を分けて叩いていた
>じゃあ、なぜ、倒せたのか?
>つまるとことろ、中国の政体批判をトニーはやってるだけなのに
>トニーは「俺は韓国人全てが悪人とは言って無い」とか言ってるのに
>ニダーの顔の絵や字幕を右上にもってきて「ウリたちは土人だから何もわかないニダー」と言わせたり
>とにかくトニーと違い
>そこに弱点があった
>トニー自身の言葉ではなく、日本人スタッフの字幕が俺の攻撃ポイントになった
このハンJ民は明らかにテキサス親父に精通しているもののテキサス親父動画の通報を行なったと思われる事から、
かつて愛した過去の恋人の死に際を看取るような心境だったのではないかと察する。
そう。そうなのだ。かつてシーシェパード問題で先陣をきったテキサス親父は、もうどこにもいない。
パっとしないおっさんが日常の延長で行なったYouTubeの時事問題評論が極東の島国の特殊な層にウケて持ち上げられ、
やがては暴走して韓国人、中国人差別に走り、YouTubeから動画とチャンネルが削除された。それがテキサス親父の歴史的経緯だ。
上記の内容を読むからにテキサス親父は差別主義者ではなかったという反論もあろうが、
その証拠はわざわざ挙げるまでもない。目を覆うようなテキサス親父の差別表現を列挙するのは心苦しいし、YouTubeでのBANという事実だけで客観的な評価は十分だろう。
(ちなみにテキサス親父自身の個人アウカウントは今も生きている。BANされたのはあくまでテキサス親父日本事務局だ。)
テキサス親父は排他的で横暴、高圧的な価値観を非難する良心的な一市民だった。
けれども彼はいつしか排他的で横暴、高圧的な価値観を振りかざして民族差別をする側の代表になっていた。
そんな権利、どこにもないよね。「そのような発言は不愉快なのでやめてください、と訴える権利」「職場や公的な場で性的な要素に言及されない(=ハラスメントを受けない)権利」「路上で性的なからかいを受けない権利」はあるだろうけど、「性的に見られない権利」なんて男にも女にも子どもにも存在しないよ。
ロリエロ漫画を読んでる女性の存在はまるっと無視ですか、おめでてーな。
これは難しいところだし、まあゾーニングはしたほうがいいよね、と思うけど、「政治的発言を見たくない人」「他民族の衣装を見たくない人」「ゲイを見たくない人」とかの権利も同様に尊重すべきか? って考えると、「見ないですむ権利」を言い募るのは不気味だよなぁ。とりあえずゾーニングはしよう。
教育なんざ好きにすればええがな。おうちの中にエロ漫画を一切入れない、アニメや漫画を見せない、ゲームもやらせない、ならどうぞご自由に。ゆらぎ荘の単行本を買うならお小遣いはあげません! と脅すのも親の裁量なんじゃないの? どうぞどうぞやりたいようにおやりになれば。
でもおうちの外で家族以外の人がやってることについて親の教育権は及ばないのよね残念ながら。子どもにアニメを見せたくない親の教育権、ってのはまああるだろうけど、だからアニメの広告は自粛すべき、とは思わんなぁ。よそはよそ、うちはうち!