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無理くね?
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
基本的に自己責任の国だぞ、生活保護と医療保険があるからなんとかなるだろうの精神だ
にも関わらず、生活保護と医療保険を無くそう・縮小しようというバカがいる
現場猫コラはセンス抜群ですきだが、医療保険のクソキャンペーンにイラストを提供していた オリジナルのくまみね氏の方はブロックしている。お前はすべて自己責任でいけ
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
サザエさんもそういうのこだわって言うぞ?
サザエさんは監督はいなくてチーフディレクターって役職の人はいるけど、各話で変わるわけではないので特に話題にならない。
原作については、まず、アニメのサザエさんの各話は概ね3パートに分かれてて、
サブタイトル、メイン、エンディングの3つとすると、サブタイトルとエンディングは原作の話が使われることが多い。
まあ、原作未読でも特に問題ないと思うし、あえて原作の話はしないけど。
サブタイトル、エンディングっていう概念はサザエさん音楽大全を参照しました。「サブタイトル」「エンディング」って曲が使われる部分。
毎週見てるとすぐ慣れるんだけど、たまにしか見ないやつに限ってガタガタうるさい。
脚本家の話はよくするけど、雪室先生と城山先生をメインとして、最近は浪江先生が脚本の回も増えてる。
浪江先生はポスト雪室俊一を狙ってるのか、キャラの使い方が雪室先生に似てるけど、レアBGM使う頻度が高い印象。
主 文
事 実
一、債権者ら
(1) 債権者aに対する前橋営林局事業部土木課根利林道事業所に配置換する旨
の意思表示
(2) 債権者bに対する浪江営林署事業課椚平製品事業所に配置換する旨の意思
表示
(3) 債権者cに対する沼田営林署経営課に配置換する旨の意思表示
は、本案判決確定に至るまでいずれもその効力を停止する。
二、債務者
主文同旨
第二、申請の理由
一、(当事者)
債権者らはいずれも農林省林野庁農林技官として、債権者aは林野庁前橋営林局
福島営林署に、債権者b・cは同営林局白河営林署に勤務していた。
(一) 債務者(林野庁前橋営林局長n)は、昭和四二年四月一日付をもつて、債
権者aを前橋営林局事業部土木課根利林道事業所に、債権者bを浪江営林署事業課
椚平製品事業所に、債権者cを沼田営林署経営課に、それぞれ配置換する旨発令し
(二) しかしながら、本件配置換の意思表示は、債務者の不当労働行為であり、
すなわち債務者は債権者らが組合活動に積極的に従事している者であることの故
をもつて、債権者らに対して本件配置換を命じ、債権者らに対して不利益な取扱を
し(労働組合法第七条第一号違反)、本件配置換によつて債権者らがその中核とな
っている組合の青年婦人部、後記学習協議会、同音楽協議会の組織を破壊し、労働
者が組合を運営することを支配し、これに介入(同法第七条第三号違反)したもの
である。
詳言するに、債権者らはいずれも全林野労働組合(以下組合という。)の組合員
で
(1) 債権者aは昭和三八年組合前橋地方本部福島営林署分会青年婦人部事務局
長、昭和三九年同分会執行委員、昭和四〇年同分会執行委員教宣部長、全林野福島
県連絡会議常任委員、青年婦人部長、昭和四一年同分会青年婦人部長に任じ現在に
至り、他方昭和三八年一一月以来労働団体の集合体にして組合前橋地方本部福島筥
林署分会がその一員たる福島県労働者学習協議会(以下学習協議会という。)福島
支部全林野班代表者として、組合における学習活動の中心となり、分会教宣部発行
の日刊紙の担当責任者であるとともにその間昭和三九年一〇月から学習協議会福島
支部常任理事となり昭和四一年二月から同協議会福島支部事務局長として現在に至
り、
(2) 債権者bは昭和三八年二月組合全林野前橋地方本部白河営林署分会青年婦
人部書記長、昭和四一年四月から六月まで同分会執行委員、昭和四一年七月から現
在まで同分会青年婦人部書記長兼組合前橋地方本部中通りブロツク青年婦人部常任
委員に任ずる他方昭和四〇年から昭和四一年五月まで組合前橋地方本部白河営林署
分会がサークルの一員となつている白河勤労者音楽協議会(以下音楽協議会とい
う。)の企画部委員・事業部副部長・運営委員・事務局長を歴任し、組合の文化活
(3) 債権者cは昭和四〇年三月組合前橋地方本部白河営林署分会青年婦人部副
部長、昭和四一年七月同分会青年婦人部長に任じて現在に至り、他方昭和四〇年四
月から現在まで白河勤労者音楽協議会における組合のサークル代表者であるととも
に、同音楽協議会の企画部副部長として組合の文化活動に従事してきたものである
が、右組合青年婦人部、学習協議会、音楽協議会は、組合活動の中核的存在であ
り、また、組合組織の強化建設維持、文化活動にとつて不可欠の存在である。すな
わち、
(イ) 労働組合にとつて一般にその青年婦人部が組合活動の中心であることは周
知の事実であるがとりわけ、全林野労働組合にあつては青年婦人部が中核的存在で
あり、債権者aの所属する組合福島分会においては、組合員総数二八四名のうち
ち、青年婦人部員は八二名を占め、債権者b・cの所属する組合白河分会において
(ロ) 学習協議会は労働組合員の意識を高め、自覚にもとづく規律によつて労働
組合の組織を強化し、民主的組織としての労働組合を建設維持するため不可欠の組
織であり、組合においても組合活動の重要な一環としてこれを組織し運営してい
る。
(ハ) 音楽協議会は地方都市における労働組合にとつて重要な文化活動であり、
組合員の文化的要求の充足、文化水準の維持向上のため不可欠の組織である。
従つて、債権者らを配置換することは組合組織の基盤をゆるがし、組合員が組合
を運営することを人事移動に藉口して支配し、介入することとなるものである。し
かも、債権者aと同居しているその両親は病弱であり、同じく同居している弟は未
だ中学校三学年に在学中であり、東京へ就職したばかりの弟(当一九年)の収入は
全く債権者aの家計に入らないため長男である債権者aが一家の支柱で、同人には
現在結婚の予定もあり現任地を離れ遠く群馬県内である前橋管内の山深い僻地への
配置換は一家の家族生活経済生活にとつて耐え難い打撃を与えるし、債権者aは、
昭和三五年福島営林署に現地採用されて以来今日まで同営林署に勤務しているもの
であり、また債権者bは、現在地を離れることができない家族事情のため、高等学
校卒業後白河営林署に採用されたものであり、本件配置換により現任地を離れると
同人を小学校三学年以来成人に達するまで養育してくれた病弱の伯母の身辺の面倒
をみることができなくなるばかりでなく、同人には結婚の予定もあるので、本件配
置換は債権者bの一家にとつて、家族生活経済生活両面にわたり堪え難い打撃を与
えるのである。
(三) 本件配置換については、次の事実により債務者に不当労働行為意思の存す
ることが明白である。すなわち、
(1) 債務者は次のとおり組合の特定部門の役員に対し集中して毎年配置換をく
りかえしている。
(イ) 昭和三九年四月一日付をもつて組合福島分会執行委員であつた福島営林署
(ロ) 昭和四〇年四月一日付をもつて、組合福島分会生月年婦人部事務局長であ
つた福島営林署経理課勤務の農林技官eを群馬県大間々営林署経理課に配置換
(ハ) 右同日付をもつて、組合福島分会執行委員であつた福島営林署経営課勤務
・帰還困難区域 放射線が年間50mSv以上。5年以上帰還は困難。立入禁止
・居住制限区域 放射線が年間20~50mSv。立ち入りのみ可。
・避難指示解除準備区域 放射線が年間20mSv以下。立入、事業の再開等可。宿泊不可。
さて、現在、浪江、双葉、大熊、富岡の4町が、「仮の町を作る」とか、「5年間は帰還しない」とか言ってゐる。
理由は主に、「賠償の額に差が生じる」からださうだ。
さて、町民の方には申し訳ないが、敢へて言ふ。
5年も帰還しないなら、いっそ閉町して、町を政府の直轄地にしてしまふ方が良い。
そして解除準備区域だが、今年の8月に小高へと行った。
一応国道6号線は応急処置は施してをり、電気も復旧してゐた。瓦礫も一応片付いてゐた。
然れど、活気がない。人は住んでゐないのだが、どうもそれだけでは無ささうだ。
おそらく解除準備区域とは名ばかりで、しばらくは解除されないのであらう。
・帰還困難区域 放射線が年間50mSv以上。5年以上帰還は困難。立入禁止
・居住制限区域 放射線が年間20~50mSv。立ち入りのみ可。
・避難指示解除準備区域 放射線が年間20mSv以下。立入、事業の再開等可。宿泊不可。
さて、現在、浪江、双葉、大熊、富岡の4町が、「仮の町を作る」とか、「5年間は帰還しない」とか言ってゐる。
理由は主に、「賠償の額に差が生じる」からださうだ。
さて、町民の方には申し訳ないが、敢へて言ふ。
5年も帰還しないなら、いっそ閉町して、町を政府の直轄地にしてしまふ方が良い。
そして解除準備区域だが、今年の8月に小高へと行った。
一応国道6号線は応急処置は施してをり、電気も復旧してゐた。瓦礫も一応片付いてゐた。
然れど、活気がない。人は住んでゐないのだが、どうもそれだけでは無ささうだ。
おそらく解除準備区域とは名ばかりで、しばらくは解除されないのであらう。
http://anond.hatelabo.jp/20110923092610
こんなこと書くのは心苦しいけど、敢えて書く。
東京人が電気で世話になってるってたって、一方で労働力も増えてたし交付金も貰ってたんでしょ?
福島産の風評被害を回避するために、放射線計測器で詳しく計測するとか
あるいは、各スーパーに計測器を置く。
(やましいこと沢山あってごまかしたくて仕方がない連中だから無理か...)
消費者庁の連中よ、おまえらの本分わかってるのか?例の議員とかまけて、こんにゃくゼリーで売名してる場合じゃねえだろ。
もしくは東北ってところでは
福島という共同体からのぬけがけを許さないという因習が未だに残ってるのかな?と感じる。
って、そりゃ嫌だよ。
ましてや子供らに放射能の危険(があるかもしれない⇒計測してないから)にさらせなんてな。