はてなキーワード: 宇多丸とは
ネタバレ有なのでそれでも構わない方のみご覧下さい。
昨日レイトショーに駆け込んで観てきました。
まず初めに、私は吹奏楽におおよそ10年青春を捧げた男です。担当楽器はユーフォニアムとトロンボーンでした。
久しぶりにパンフレットを買いました。
吹奏楽部出身者として映画を観ながら思ったことを書いてみたいと思います。
まず、冒頭のシーンからずっと希美さんとみぞれさんは少しずつ演奏がズレています。
二人で吹いていればそれとなく寄せて合わせていこうとするのが普通です。
冒頭の演奏ではそういった様子が2人からは感じられませんでしたし、
音からだけでも2人は、ほんの少しだけずれた
平行線を辿っているような、
そんな印象を受けました。
吹奏楽部において人間関係の不和が音に影響する、というのは良くあることでして、
ある程度歳を重ねると人間関係を音楽に持ち込まない、ということが出来るようになったりもするのですが、
高校生というのはその辺りむき出しです。
良い演奏を聴いて耳が肥えてきても
お世辞にも上手とは言えない高校生の演奏に胸を打たれることがあるのは
その子たちがどういった高校生活を送って来たのか、それが演奏から透けて見えるような気がするからです。
冒頭のシーンを見たときに、
オーボエやファゴットなどのダブルリードという楽器はアンブシュア(吹く際の口の形)がやや特殊でどう頑張っても横顔が若干不細工になってしまうんですよね
3年生の、しかもフルートという花形の楽器の中心人物で、コンクールの自由曲でソロがあるような子の名前をトレーナーの先生がうろ覚えだということは、まずあり得ません。
希美さんの挫折感を更に煽る結果になったとも言えるかもしれません。
あそこまでの状況はないにせよ、
他人の才能に嫉妬する瞬間、というのは吹奏楽をやっていると感じたことがある人は多い気がします。
この人には敵わないなと思わされた経験は
その後、諦めず努力して、上手くなってやろうという気持ちはとても大事ですし、
高校生であれば追いつき、追い抜くということも不可能ではないでしょう
しかし、高3のコンクール、これで最後だというタイミングでそれを見せつけられることは
絶望です。
希美さんの心情を考えると胸がしめつけられるような気持ちにはなりましたが、
あのシーンはただ、ただ素晴らしかった。
アニメにさほど詳しい訳ではありませんが、
後世に残る映像なのではないでしょうか。
京アニの楽器演奏シーンというとやはり思い出すのは涼宮ハルヒの憂鬱のGod knows…のギターソロですが、あれから10年が経ち、ここまで表現は進化したのかと、圧倒されました。
被写体深度が次々と移り変わり、映像がボヤけ、直接希美さんの視界を映している訳ではないのにまるで泣いているかのような表現、
そして涙を堪え切れなくなった希美さんのフルートが息絶え絶えになってしまって音がかすれ、抜けてしまう表現、
そして何より、あのオーボエ。
上手なオーボエは、
音が飛ぶんです。浮くんです。
それこそまるで鳥が飛び立ち、自由に空を舞っているような、本当にそんな音がします。
あのシーンはそれまでのみぞれさんの音にはなかったオーボエの独特な浮遊感が表現されていました。
名演としか言いようがないです。
音響の良い映画館であればオーボエの音が上から降って来るような感覚に襲われた人もいるかもしれません。正直、あの演奏を聴くだけでも映画館に行く価値があると思います。
あのシーンを見たとき、
「音だけで、こんなにも繊細にものを語ることが出来るんだ」と、
そう思いました。
エンドロールに奏者の名前がありませんでしたが、あれはどなたが吹かれたものなんでしょうか。
あの演奏は、音で、芝居をしていました。演技をしていました。ブラボーと言わせて下さい。
最後に、
劇場版のけいおん!!が公開された後に、宇多丸さんがラジオで評論していたのを思い出しました。
宇多丸さんは映画を観るにあたってTV版も全て視聴されたらしいです。
概ね絶賛されていましたが、一つだけ、
軽音部の面々が同じ大学に進学するという選択をしたことに苦言を呈していました。
というのも、軽音部は本来高校だけの期間限定、終わりがあるからこそ、儚いのだと
まぁそんなようなことをおっしゃっていたような気がします。(記憶が曖昧なので大分脚色が入ってる気がします)
私も当時その通りだと思いました。
だからこそ楽しくて仕方ない一瞬一瞬が
一種の切なさを纏うのだと。
リズと青い鳥の終盤、希美さんとみぞれさんは各々別の進路選択をします。
そのことがハッピーエンドなのかどうなのかというのは微妙なところだと思いますが、
この選択によって
リズと青い鳥という映画の切なさ、儚さ、美しさ、そういったものは際立ったのではないかなと
また、平行線だった2人が別々の方向を向くことで、コンクールに向けて1つに交わることが出来たんじゃないかな、と、そう思いました。
以上です。
とにかく、映画館で観ることが出来て良かった。機会があればもう一回観たい。
RHYMESTERの宇多丸さんがTBSラジオで続けてきたタマフルが、3月で終了するというニュースを見ていちリスナーとして感謝の気持ちを記したくて書く。
1)映画を見る習慣をつけてくれた
映画はデートかレンタルしたものを家で見る、みたいな感覚だったのだけど毎週宇多丸さんの映画評を聞いているうちに映画館でみたい、今映画館でかかっているうちにみたい、となっていきました。1800円は高いなと今でもちょっと思うけれど家では絶対にできない行き届いた環境の中で見る映画は、やっぱり別物です。マッドマックス怒りのデスロードをiMAXで見終えた後の、息をすること忘れてたわ、みたいな感覚はきっと一生忘れません。
あと、宇多丸さんはよく映画体験、という言葉を使いますが映画はその時見たからこその衝撃や感動がやっぱりあって、それは家で猫に邪魔されながら見るのとは全然違う強度でやってくるんですね。映画をみた直後はもちろん、その後の人生観にも影響するような作品も何本かあるのですが、きっとそれは家で見たのならそこまでの影響力は持たなかったのではないかと思います。
見るのは話題作とかすでに高い評価を得ているものが中心。誰でも知ってるビッグネームの監督以外は名前も覚えず系統立てて見るようなこともなかったし、丁寧な伏線や繊細な演出、気の利いた暗喩に気がつかないままおもしろいとかつまらないとか言っていたような気がします。それはそれで全然いいと思うのですが、私は映画を見慣れたことでそのあたりに前より気がつけるようになって、ずっと映画が楽しくなりました。
きっとどんなことでもそうだと思うのですが、知ること、気がつけることって楽しみを増やすことなんですよね。宇多丸さんが評価のポイントとしてどんなものをあげるのか、それを知ることで享受できる楽しみがぐっと増えました。ありがたい。最近だとマジカル・ガールのお父さんが、映画序盤に拾ったものが何で、それが伏線になってるとか私だけではとてもじゃないけど気づかなかったわー!と感動しました。
3)宇多丸さんについて
タマフル10周年。私が聞き始めたのは2010年に「食堂かたつむり」をシネマハスラーで取り上げたときからだから、足掛け8年聴いていたことになります。振り返れば映画評もずいぶん変わった気がします。はじめのころは今ほど体系的に語っていなかったような気がするのだけど、最近では監督の過去作を含め言及することが増え、取り上げた映画がどこにマッピングされるのかとか、演出の傾向や技術的な面にもけっこうな時間を割くようになり、語り口も理性的というかあまり感情を出すことが減ったように思います。私は宇多丸さんのストレートな罵倒がけっこう好きだったので、それは少しさみしいことでもあったのですが。
けれど過去作を追い原作を読んで評論にあたる宇多丸さんの真摯な姿勢には本当に感服するしかありません。そして何より宇多丸さんは親切なんですよね。超ド定番の有名な映画を見ていないという視聴者のコメントに「これからまっさらな状態であの名作を見れるなんて」と言ってくれる優しさよ。時々汚い言葉が出るときもあるけれど、基本的にはだれかを傷つけるようなものではないし、その後でフォローが入ることも多くやっぱり筋金入りの「育ちのよさ」みたいなのが見える好人物です。大好き!
4)後番組について
どんな番組になるのか未知数ですが、ポッドキャストでしっかり追おうと思います! 平日毎日3時間というのが、本業大丈夫?と心配になるのと、もし、もしも万が一新番組があまりふるわず終了してしまったら……という不安はありますが、宇多丸さんのことだからきっと素敵に楽しい番組をつくってくれることと期待しています。(しかも久しぶりの橋Pとのタッグ!)
最後になりましたが、10年間おつかれさまでした。本当に毎週楽しませてもらいました。ありがとうございます!!
フジ社長 「保毛尾田保毛男」批判に陳謝「大変遺憾 謝罪をしないといけない」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170929-00000109-spnannex-ent
ツイッターでは不快というツイート抽出されモーメントになっていた。
そんなに目くじら立てるようなことじゃないと思うのだけど。
ちなみに保毛尾田保毛男がキャラとして現代社会でウケないことは
重々承知している。
実生活で誰かがLGBTを差別しているような発言をしていたら、
怖い。
昔から、勝手に顔だけで近しさのような何とも言い難い感情を抱いてた人らが、こんなに普通の顔だったっけか、と新聞のインタビュー写真二度見してしまうようなことがここ最近立て続けにあった。
平野氏、別に島田雅彦みたいなんではないけど穏やかでとっつきやすそうな丸顔になってたし、世耕氏はどことなしすっきりしてオタク感薄れてるし、ケラ氏はアク強いカエルのイメージが優しそうなおっさんに後退トランスフォームしてた。
ベニントン訃報から久しぶりに洋楽ニュースをスクロールしてたら気のいい兄ちゃんといった風情の黒髪、誰これ?うおっピート・ウェンツぅ?フォールアウトボーイの。ゴスって絶対顔面にコンプあるよなー、デブの方はよく見りゃイケメンだもんなと失礼にも思っていた10数年前から遠くここまできて、近所の三十路の善人感をスナップされたその笑顔をしばしぼんやりと眺めてしまった(その後引っ張り出して聴いた、シュガー、ウィーアー…)。
イケメン見てあーあ!と思う怒りのないまぜになったやっかみと同様に、才能も努力もあまりに及ばないであろうこの人らに、顔面は同じようなもんなのに!という嫉妬感じてたのだろうか?いやむしろハラハラしていたんだと思う、この顔を出して、非難されないだろうかという、それこそ自分の強迫的容姿コンプの内面を勝手に投影した思いで。メディアで顔見るたびちょっとドキっとしてたもんな。
そして非難されてほしいという、再矯正か自罰みたいな気持ちもあったんだと思うわ、今にして思えば。誰も彼をも自分の中で基準を容姿だけにおいて、知らず可・不可に選り分けていたんだな。
容姿ディスが日常の親の下でだいぶん強迫観念的に自分を卑下してて、無駄に卑下してるのは分かってたけど、周りの反応見るにそれが不当なものとも思えず、鏡の前、電車の窓に映る姿でいつまでもうだうだ己の顔を眺めていた10代、20代だった。髭と眼鏡と髪型で誤魔化し隠して防御して、今じゃいつの間にか気付けば鏡を見るのは顔洗う時と歯磨く時ぐらいに減っていった。ヒゲ可の職場でよかった。
もし今自分が高校生なら年中マスクしてる自信がある。ガエル・ガルシア・ベルナルの顔に生まれたかったと今でもふと思う。
宇多丸氏の映画評論が下品で、本人ごと嫌いなタイプだったんだが、CSのミニ番組で、10代の自分について、不細工で運痴で冴えない俺は映画館に座ってこの暗闇にこのまま溶けていきたかったという回想独白してたの聞いたとたん急激に好感度が上がったし(だが評論は好かんまま)、変態仮面の人、誰だっけ、鈴木亮平か、俺は顔で勝負するタイプじゃないんだと若いころ悩んだ末に悟ったとインタビューで語ってたり(いやいや明らか男前っしょとは思うが)、こう自信ありげな人が容姿について自覚してる過去を吐露してるの見ると誰であっても切なくなってしまう。
年取るとみなよい顔になるということもあるのか?人前に出ることが多いから顔がキリッとしてくるのか?写真に写るからには美しく撮るためのお膳立てにたけた様々な人が周りにいるのか?いろいろ謎。
社会的成功も、人を魅了する才能の生んだ果実の数も、美しい伴侶(世耕氏は知らん)も自分にはないが、単に彼らも自分も同じ分だけ年をとって、努力の多寡はあるかもしれないが足掻きはして、美醜より他に考えないといかんこと山のようにあって、人生でいろんな人間の顔を見てきて、皆よい顔に見えるようなここに立っているのか?まあこんなことたらたら書いてる時点で自分はコンプ吹っ切れてはないんだが、10数年前の、今よりずっとずっと悩んでたことと、他人を無闇に顔だけでジャッジしてたことを思い出して、なんかしんみりしたので書いた。いや違うな、「思い出す」ほどには離れてたのかと思って、そこにしんみりしたんだ。
この人らの仕事も性格も知らずに顔面だけうんぬんするなとか、この人らは別に不細工ではないでしょとか、偏見内面化を上乗せしたルッキズムの極みとか、能力があれば顔は関係ないなら能力ない不細工はどうやって尊厳保ってんだよとか思われるかもしらんが、それでも持ってる自分なりの自尊心とコンプとの長い葛藤というか、言及するために挙げてしまった、許してくれ
フリースタイルダンジョンがそこそこ盛り上がってツイッターでもトレンドに上がりMステでも今日オールスター的に出演したらしい。
ツイッターでは「カッコいい」「ヤバい」「あれをよくぞ言った」的な感想に溢れてるが、なんというか見てて恥ずかしくなるのは何故なんだろう。
スチャダラパーは昔好きだった。あれは、日本人が本国のスタイルでラップやったらダサくてこっぱずかしい事の裏返しのスタイルなのかなと思ってた。
ラップを聴かなくなったがライムスター宇多丸のラジオを聴くようになり、そのついでにライムスターの曲を聴いてみたがやっぱりキツかった。
もっというと、ウイークエンドシャッフルの音楽の回はだいたいキツいのでセンスがそもそも違うとしか言い様がないのであるが…。
確かに、日本語ラップのトップシーンの連中は他には見れない色気を持っていて、ものすごいスキルを持っているのだろう。
個体としてのおじさんは別に興味ないけれど、群体としてのおじさんにたまらなく惹かれてしまう。おじさんコンプレックスではなく、おじさんCOMPLEXコンプレックスをひそやかに抱えている。
『水曜どうでしょう』、『相棒』の5課、『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』クルー、『シンゴジラ』の閣僚(余貴美子は広義のおじさんだと思う)、・・・、挙げればきりがないが、「わぁ~、やってる。たのしそう、よくわかんないけど楽しそう」という感情が湧き上がってWhat a lovely day!ってなってる。
一方で、「ん?こういうの好きなんやろ?どや?」みたいな姿勢が透けて見えるものは嫌いなのかもしれない。テレ東の『バイプレイヤーズ』は狙いすぎてて無理だった。あと、はてな村はおじさんコミュニティだと思うけど全然興味ない。きもい。
私a.k.aおじコン的には、上司部下や仕事相手など個人的紐帯によらないドライな関係性の中に、ゆらゆらと見える友情や信頼に対して萌えているのだと思う。立派な社会人であるおじさんへの尊敬と、ホモソーシャルへの憧憬。同好の士がいたらおすすめのおじさんコンテンツを教えてください。
面白い! 以上。
アナ雪の第一印象は、多くの女性が絶賛しているが、私が好きな一部 お笑い芸人さんの評価はイマイチ。っていうか、「特にストーリーは無い」というような評価だった事が強く残っている。
公開当時にネット上で大量に書かれた感想、評論、考察なども結構興味深く読んだ。宇多丸さんと荻上チキさんの評とかも聞いた。
それらを読んだり聞いたりした上で時間が経ってから本編を見たので、完全に真っ白な状態では見れていないのだが、
私の感想としては、少なくない超絶賛には付いて行けないものの、しかし一部 芸人さんの評価は低過ぎると思う。ストーリーはちゃんと有る! むしろ濃過ぎる! 丁寧に煮込まれたスープの上澄みだけを飲んでいるようなモノで パッと見の印象がシンプルに感じられるだけだ。
かなり好き。勿論、素晴らしい作品で、超絶賛される理由も分かる。
んで、ここからが本題なんだけど、
公開当時も沢山の評論や考察はあったんだけど、私が読んだ範囲では それらには書かれていない部分が気になっているんだ。
それをここで書こうと思う。
ザックリ書くと、
「アナ雪って、作中での『運が良い事』が重要な基盤になっているんじゃね?」って事。
まぁ、ディズニーアニメの例によって例のごとく アナ雪も『真実の愛』が重要なテーマになってるじゃん。そして、それが問題解決の鍵じゃん。 それは……、良い。
私が気になるのは、その焦点が「自発的な愛」なのか、他者から与えられる「受動的な愛」なのか、「両方」なのか って事なんだけど、
私は、その「先」も気になるのよ。
つまり、私は、
「エルサの『雪の呪い』は『自発的な真実の愛』でしか解呪出来ない。」という解釈の余地がある事が アナ雪のパワーの源じゃないのか?と思っているんだ。
いや、分からんよ。 旧来型通りクリストフから与えられたであろう「受動的な愛」でも解呪可能なのかもしれない。
でも、無視出来ない描写もある。エルサの良心+妹への贈り物であるオラフが愛が何であるかを知っている事だ。
これは少なくともエルサは愛が何であるかを知っている証拠だし、アナに対して「受動的な愛」を与えている。でも、アナの呪いは解けていない。
また最終盤、エルサが自身の愛を自覚することで氷の魔法を制御出来るようになることも重要だ。
では、仮に「エルサの『雪の呪い』は『自発的な真実の愛』でしか解呪出来ない。」という前提で本編の描写を見てみよう。
まず、最序盤、城の中で二人が雪遊びするシーン、この時点で雪の魔法がアナの心臓に当たっていればアナは為す術無く死んでいたよね。
だって、幼児に自発的自己犠牲的愛なんて期待出来る訳が無いんだから。
これはトロールの長がエルサの魔法を強く警戒する事とも整合性がとれる。子供に対しては致死性の呪いになるからだ。
両親がエルサを自室に閉じ込めるのも危険性を顧みれば已むを得なく、エルサからすれば妹を殺しかけた訳だから強い反省からくる自傷的な引き篭もり、恐怖も理解できる。
つまり、最初にエルサが「運良く」アナを殺さなかった事が最終的なハッピーエンドの結果を生んだのではないか?
日に日に強くなる自分では制御出来ない魔法。閉じ込めるという対処法。最初の被害者は自分より幼く弱い近親者。一度、開放されれば国中を巻き込む影響力。
エルサの雪の魔法は「感染症」のメタファーでもあるのではないか?……
これは”エグゼクティブ・プロデューサーのジョン・ラセターが、難病である1型糖尿病と10歳で診断された息子からエルサのキャラクター作りにインスピレーションを得たと語っている。”
事とも整合性がとれる。
つまり、アナ雪は 表層の魔法とファンタジー+家族再生の物語。中層のディズニープリンセスからの脱却といったジェンダー論。下層の人類の「感染症」との戦いの歴史。対処、献身、治療、回復。の三層構造のストーリーが極めて高い次元で昇華されているため大きな感動を産んでいるのではないか?
そして、ハッピーエンドの核を「運が良い」事に放り投げているので説得力が損なわれず説教臭くさえない。
ただし、無意識の不安は残る。が、アナ雪の場合、コレさえ長所にもなっている。
これを「正義の主人公(達)の努力と理性と決断による悪に対する『必然的勝利』」という構成に出来れば、物語としての強度も視聴者の快感も高まる。が、
同時に説教臭くもなってしまう。作中の「問題」解決の条件と能力に焦点が集まり、説得力が損なわれやすい。
ズートピアとベイマックスは両方とも素晴らしい作品だが、どこか説教臭く、アナ雪に比べ説得力が薄いのはこのためだ。
主人公(達)に「運」の影響が無い作劇は、安心で子供向けにもしやすいが、ややもすると『答え合わせ』になってしまう。
が、主人公(達)に「運」が有りすぎても御都合主義展開になってしまう。
アナ雪はこのバランスが絶妙で、ディズニーアニメとしてはギリギリまで「運」が良く、更にそれを最初の「室内雪遊び事故」一点に絞ってるのが凄い。
要は アナ雪 超良かったです。好き。
ズートピアは素晴らしいし良かったけど、完全には好きになれない。