はてなキーワード: ユーモアとは
バービーとオッペンハイマーを合わせた #BARBENHEIMER ハッシュタグについてまとめた
togetter が Hatena のホットエントリに入ってるけど、
問題のある画像と、内容を読めば特に問題ないものが混じってるので翻訳を載せとく。
https://togetter.com/li/2196541
https://twitter.com/MovieMantz/status/1681176592507363328
まず↑については、
Now that I’ve seen #BARBENHEIMER, I highly recommend watching #BARBIE first, then #OPPENHEIMER!
#BARBENHEIMERのハッシュタグを見ちゃったから言っとくけど、まず『バービー』を見てから『オッペンハイマー』を鑑賞することを強くお勧めする。
“Barbie” is really fun, but “Oppenheimer” stays with you —
you don’t wanna be thinking about “Oppenheimer” while watching “Barbie!” (Or maybe you do?)
『バービー』はひたすら楽しいんだけど、『オッペンハイマー』はいつまでも心に残る映画だ。
『バービー』を観てる間も『オッペンハイマー』のことが頭を離れないなんてことになったら嫌でしょ?(気にしない人もいる?)
と述べた上で、例のコラージュ画像です。
これは、心置きなく『バービー』を楽しみたいのに『オッペンハイマー』のことが忘れられなくてダブって見えてしまう図ですよね?
つまり、『オッペンハイマー』を観て、原爆の恐怖、人類の罪が深く心に刻まれて、
『バービー』のようなおバカ映画を観てる最中でさえも、それが頭を離れないという状況…
それって問題ですか?
https://twitter.com/RishiSunak/status/1682812164111728643
The family vote was only ever going one way…
Barbie first it is #Barbenheimer
はい(いつもの通り、妻と娘の要望にしたがって今回も)まずは『バービー』を観るってことで決定
という内容だけど、まずスナク首相は「自分はオッペンハイマーを観て原爆についてじっくり考えたいんだけど…」
また、インド系は男尊女卑という偏見が根強くあるという文脈を押さえておくのも有益でしょう。
家族が妻と娘というのがポイントで、「ちゃんと話しあった上で、女性の意見を尊重してますよ」
ということをユーモアを交えて言っている側面もある。
そういう画像を作ったらどうだと提案したのは親父だ。「いいね」をしたら親父と同じ価値観ということになる、
みたいな説明をしてて、「いいね」するなよと仄めかしてる節がある。
それで、逆にみんなが面白がって「いいね」したというか、最初からそれを狙ってた
(押すなよ!絶対に押すなよ!!と言いながら押されるのを待ってるやつ)
のかもしれないけど…
とにかく、不謹慎(親次世代は許容されたかもしれないが今はダメ)なのはわかってるっぽい
ただ、これについてはアウトだと思う。
バービー公式アカウントが「スタイリストの Ken がここにも」的な反応するのは完全にアウト。
無視すべきでした。
「理系に女子が少ない理由」がTwitterで話題になってる。
高専から大学の工学部(機械系)に編入して現在大学院生の女のポエムを書く。
同級生は話してみれば気のいい人達ばっかりだったけど、ほぼ男子校だから笑とか高専病wとかたまに溢れる非モテユーモアは聞いてて辛かった。
私(女子)の存在を透明化してることへの怒りはもちろんあるけど、それより互いに呪いを掛け合ってダークサイドに堕ちてく男子達の様子がとにかく痛々しくて悲しかったからだ。
「女子が少ないのは女子が少ない(というイメージがある)からだ」って意見をひとつの真とするなら、このユーモアはもうやめた方がいい。
誰も幸せにしない。
Twitterで男性っぽい人が「理系に女子が少ないのはチー牛とかキモオタが嫌だから!キラキラしてないから!」とかツイートして、男性っぽい人がそれにいいねやリプライで賛同してるのをよく見る。
でも女子の気持ちが知りたいとき、顔も知らない男の発言を鵜呑みにして隣に机を並べている女の話を聞かないのはなんで?
他の女子は知らないけど、少なくとも私は学校に彼氏作るためとかファッションショーするために通ってたわけじゃない。
本当に女子に顔を突き合わせて“理系男子はキモい”って言われたことある?
私が話しかけにいっても目を合わせて会話してくれる男子はほとんどいなかった。
男子を責めてるわけじゃない。
ただ、一回記号とかイメージで語るのやめてみない?って伝えたい。
私たちは“陰キャ”でも“チー牛”でも“キモオタ”でも“オタサーの姫”でもなくて一人ひとりの人間なんだから、きっと対話できるはず。
↓以外自分語り↓
「工学部の女子なら男選び放題でしょ?」「過去問もノートも男の方から見せてくれるんでしょ?」って何回も言われたけど、基本腫れ物扱いだし恋人はできたことない。
ただ、実習の班のメンバー(女子は私だけ)で深夜に通話してヒイヒイ言いながらレポートを書き上げたときは、私は確かに仲間の一員になれたと感じた。
修士まで進んで同じ6年費やすなら普通校行って薬学部を選んだ方が良かったって親も親戚も言うけど、私はこの道で良かったと思う。
なぜなら、数学の神童じゃなくてガンダムに興味なくて幼い頃にラジオを分解したことがない人間(女)でも工学部に進んでいいし、それなりにやっていけるってことが分かったからだ。
男女関係なく、みんなが“なんとなく”で工学部に来てくれるようになったら嬉しい。
四力を学べば世界が色づいて見える。
親が忙しくて家にいないし友達も居ないから10歳くらいまではず〜っとテレビ見てた
流石に飽きてきた頃にPCを購入してからはニコニコと2chその後はYoutube
その後もメンヘラ界隈行ったりvineやtiktokみたいな非オタクコミュ行ったり
電子音声実況見たり作ったり絵描いたり
春から1年生タグ使って大学のコミュに忍び込んだり(1年生のツイッターはネットハマりたてのユーモアや目立ちたがり、バチバチのノロケが居て面白い)
MMOやったりソシャゲしたりwiiやPS4でいっぱいゲームしたり
アンチフェミやったりネットの論争(笑)に参加したり炎上に怒ったり
色々したけど
飽きた
Youtubeの動画、最後まで見てるはずなのに動画内容を一切覚えていない、脳が記憶することを拒否してる
助けてくれ、友達少なかったけどずっとネットアニメゲームテレビで何となく人生楽しめると思ってた
どうすれば良いですか?
50m20秒とクラスでダントツに足が遅くて、先生の提案でクラス全員参加リレーでメンバーから外される
運動会の台風の目の競技のリハーサルで、外側回ってると遠心力に絶えられずふっとばされて脳震盪起こして運動会参加できず
持久走の授業で自分だけ授業時間内に終わらないことが続いたため自分だけ特別に距離を短くしてもらう。
強制参加の校内マラソン大会では10km2時間半かかってしまい、走り終わる頃には担任以外全員帰宅してた
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
席替えのくじ引きで俺の隣になった女子が俺が嫌いすぎて不登校になった。
テニス部で女子一同が俺と一緒に練習したくないと部活をボイコットした。
女子一同が先生に懇願して、俺を女子から隔離する目的で高校で史上初めて男子オンリークラスができた。
同じゼミの女性の後輩のTwitterのおすすめに俺のアカウントが出てきてそれだけで、学生相談室にSNSストーカーされてるって通報された。
そのため、夏休み前とかクリスマス前とかバレンタイン前とか、そういうプレッシャーの強まるシーズンに非モテユーモアが増える。
ただし、この要因は、男女同様だと思う。
(実際、女性も非モテユーモアを言うし、このシーズンに増える。)
男性の場合は、今なお「アプローチするのは男性から」という風潮がより強いので、プレッシャーがより強い。
噛み砕いて言えば、女性の非モテに対する社会的評価は「求められないのね。かわいそうに」色を帯びるが、男性の非モテに対する社会的評価は「がんばらないお前が悪い」色が強まる。
(たとえば、男性に言うのと同じ気安さで、女性に「清潔感のある格好をしろ」と言うやつはまずいない。)
蛇足だけど。
非モテ男性が「女性を増やしたい」と思っているわけではないので、「女性を増やしたいなら非モテユーモアを減らせ」というのは誰に向けて言っているのかよくわからない。
紛らわしいので見間違えないコツを教えて下さい
この記事に限らない話ではあるけど自分の思いを連ねた記事消すくらいなら最初から書かない方がいいと思う。
個人情報載せちゃってたり特定の人物への誹謗中傷とかだったら消すのは仕方ないというのがわかるけど、自分の考えくらいは責任持てよ。いい所もわるい所も取り込めよ。
昨今、ネットではミソジニーが巻き返していて理系男性オタク中心にフェミニズムに恨みを持つ連中が台頭してる。
現にきのうの、理系女性が非モテユーモアをやめてほしいって記事にも。邪悪な意見がベトベトにくっついてた。
俺ら非モテは何も変わらず同じ態度をとってるだけお前ら女は俺を無視してきたのに一方的に要求するのか、などなど。
男は母親を手助けして『ありがとう』って言われたい既得権益を貪るラクする男の我が儘、憎しみのエネルギーに焼き殺されたんだよ。
「理系に女子が少ない理由」からなんで「非モテ男性の傷の舐め合い」をぶん殴ったんだ??
おかしいだろ。非モテ男性が非モテトークしなくなったら理系に女子増えるなんてないだろ。逆じゃねえ??
なんかこの増田に否定的な反応すると「こうやって真摯な意見に反発するからいけない」とか「ここまで言っても女のせいにしたがるのか」とか「文章が読めてないのに反射で否定してる」とか言われてるけどさ。
この増田に書いてある内容は何回読み返しても「理系女子の居心地が悪いから非モテ男子は理系女子を気遣ってトークしろ」じゃねえか。
気遣いは当然必要だよ。それを求めたっていいよ。非モテユーモアなんて誰の得にもならないよ。
でもお前の周りにいた男子は、本当の仲間だったんだろ? 気のいい奴らだったんだろ?
お前はそんな彼らがなぜそんな何の得にもならない非モテユーモアなんて言わなきゃいけなかったのかおもんぱかってやれなかったのか? Twitterで理系男子はキモいからどうだと言われてるとかの先入観で自分たちを傷つけあってるって? 違うだろ。現に非モテだからだよ。傷ついた心を舐め合ってるんだよ。
それにさそれってお前に面と向かって言われてたのか? そんなに頻繁だったのか? 居心地悪いのはわかるよ。我慢するなとも言わない。でも友達なら直接言ってやれよ。増田なんかに今更書かずに。相談に乗ってあげればよかったのに。
理系女子を増やしたいならさ、お前が最後に書いてたみたいに「普通の女が工学を学んでたけど最高だった!」って発信して同じ道に進む後輩を導いてやれば良かったんじゃないのかよ。
必要な連絡事項すら積極的に教えようとしないのは教員の手抜きでもあろうが
元増田はそれをいじめとはいわないだけえらいけど、それでも辛い目に遭っていることは想像がつく。
あと増田での荒しの性的非対称性(女とみるとクンニパンティ、非モテ「ユーモア」ですらないハラスメント)のなかでこれをいう神経がわからんよ。
首都圏から地方に移住して現在地域協力隊の都会人のポエムを書く。
周辺住民は話してみれば気のいい人達ばっかりだったけど、ど田舎だから笑とか限界集落wとかたまに溢れる因習村ユーモアは聞いてて辛かった。
私(移住者)の存在を透明化してることへの怒りはもちろんあるけど、それより互いに呪いを掛け合ってダークサイドに堕ちてく田舎者達の様子がとにかく痛々しくて悲しかったからだ。
「移住者が少ないのは移住者が少ない(というイメージがある)からだ」って意見をひとつの真とするなら、このユーモアはもうやめた方がいい。
誰も幸せにしない。
はてなーが「田舎に移住者が少ないのは田舎者が嫌だから!キラキラしてないから!」とかブコメして、お上りさんっぽい人がそれにスター付けたり同じようなブコメしてるのをよく見る。
でも移住者の気持ちが知りたいとき、顔も知らないはてなーの発言を鵜呑みにして移住者の話を聞かないのはなんで?
他の移住者は知らないけど、少なくとも私は地方に家庭作るためとか村祭りするために移住したわけじゃない。
本当に都会人に顔を突き合わせて“田舎の因習はキモい”って言われたことある?
私が話しかけにいっても目を合わせて会話してくれる田舎者はほとんどいなかった。
田舎者を責めてるわけじゃない。
都会人には分からない苦労も沢山あるんだと思う。
ただ、一回記号とかイメージで語るのやめてみない?って伝えたい。
私たちは“因習村”でも“土人”でも“高齢者”でも“意識高い系”でもなくて一人ひとりの人間なんだから、きっと対話できるはず。