はてなキーワード: フェーズとは
私の周りでも特に若い年齢の男性だと「嫁」に含まれる差別性についてまったく知らない人もいたりするので、今は「もともと差別的な意味合いがあったことが忘れ去られて一般用語として使われつつある」フェーズかもしれない。
けれど、知らずに使っていれば、あるいは「言葉狩りに対抗するために敢えて」使っていれば問題ないのだろうか?
たとえば「バカだのチョンだの」という言葉。原義ではこの「チョン」は朝鮮人のことを指している訳ではないことになっているけど、「チョン」という言葉を朝鮮人に対する蔑称として使う人たちが増えたせいで今はこの表現自体使うのは自粛した方がいいという類のものになっている。
いわゆる「言葉狩り」に反対する人なら「原義は違うのだから使用を控えるのは間違いだ」と考えて敢えてこの言葉を使ったりするのだろうけど、その行為と、意図的に蔑称として使用している人がそれを非難されたときに「原義は違うのだから使用を控えるのは間違いだ」と言い訳する行為と、果たしてそんなに容易に見分けはつくだろうか?
むしろ蔑称として使用する側がその揺らぎを利用して「差別と思う方が差別しているんだ」という被差別側に責任を被せる論法を使うのもよくある光景である。
そんな色のついた言葉を敢えて使い続ける意義はなんだろうか。
そもそも「言葉狩り」という言い方をするが、差別事象の告発の一環として蔑称に対して抗議をするのも被差別側の当然の権利である。
それに対して指摘された言葉を使わないようにするというのは、「私は差別には加担しません」という意思表示となるのは確かである。
そうやって多くの良識ある人たちが言葉を切り替え、その蔑称の言葉を使うのは少数の差別主義者たちだけという状況になれば、自分はマジョリティだから心置きなくマイノリティを差別できると思っている人たちは認識を改めざるを得なくなるのではないだろうか。
「言葉の問題でなく使用している人の問題なので言葉を制限したって意味がない」として使い続ける行為よりも、そうやって目に見える意思表示をするほうが、差別解消に繋がるのではないかと私は思う。
個体と母集団との関係は一意的ではないからもちろん理屈としてはなり得る。
ただし個体と母集団との相互作用の度合いは一定ではないから、どんなフェーズにおいても一定の再評価対象となるわけではない。
したがって「ひとえまぶた」「現在、茶髪」などの母集団が「女性」や「日本人」という母集団と同等の評価を得ることは難しいだろう。
これってとても不思議なことで
別のことなんだよね。
別のことのように見えて、実は別のことではないよ。
個体というのは母集団があって機能する。つまり澤選手個人を全くどんな母集団とも切り離した状態で思考することは現実的ではないし、あまり有意義な議論にはなり得ない。
ただ個体と母集団との関係は一意的ではなく、様々なフェーズで母集団を設定することが可能である。
例えば、増田の例のようの「女性」という母集団だったり、「日本人」とか「女子サッカー」という母集団だったり。
あるいはもっと限定的に出身地である「東京都府中市」だったり、もっと小さい単位、「澤家」だったり。
そして個体の活躍によって当然母集団の能力は再評価される。なぜならその母集団がこれからも同様の、あるいはそれ以上の個体を生み出す潜在能力を有していることが明であるからだ。
立ち上げ直後のベンチャーには当然優秀な人材はこない。優秀な人材を獲得するには金がかかるからだ。優秀な人材は引く手数多で、基本的には高給を貰っている場合が多い。現職以上の給与を出すことができなければ、殆どの人はわざわざこの先どうなるかもわからない創業直後の会社に入ってみようとは思わないだろう。そんなわけで創業期にはモチベーションは高いが、必ずしも能力が優秀ではないという人材が集まりやすい。元増田が書いているようにそれはそれで良さもある。
優秀な人材が振り向いてくれるようになるのはだいたい上場後。会社の知名度や利益がついてくると、優秀な人材が興味をもってくれるようになるし、高い給料も出せるようになる。元増田の会社がこのフェーズまで事業を大きくできれば、状況はまた変わってくると思う。そのときにわりとありがちなのが、創業メンバーより後から入ってくる人間のほうが優秀で、上司と部下で能力的に逆転現象を起こすことだ。ここをうまく乗り切らないと優秀な人材が居続けることはできなくなる。多くの大きくなった日本のベンチャーはこの状態になってると感じる。
ただ創業期の何も持ってないベンチャーが優秀な人材を獲得する方法がないわけじゃないと思う。俺が可能性が高いと思うのは、若い人材を取りにいくことだ。優秀な学生をバイトで使うとか、社会人1,2年目くらいの優秀層へアプローチする。彼らはまだ高給取りではないので、比較的安い給料でも獲得できるので交渉の余地もある。もちろん人を見る目がより必要になるわけだが。
自分はレイパーにレイプされたんだから別のレイパーをレイプしていいってことにはならないでしょう。もちろん自分をレイプしたレイパーすら自分はレイプする権利を持たない。
炎上は必然的に発生する物だし、絶対悪だとは思わない。いい面も悪い面もある。
ネット上での度が過ぎる行為や単なる中傷いじめ=レイパーに対するレイプで、学校はこうすべきって具体的に憤ること=レイプ魔を糾弾するレイプ被害者の会だと思う。
問題解決無しに許せとは言わないし、最終的に許されなくてもいいけど、許される可能性を残すべきだとが大切だと思う。
非難の放棄ではなく、中傷の放棄。絶対悪の行為自体を弾劾するフェーズで終わらせるのではなく、被害者のために具体的解決策を考え圧力をかけることまですることが出来たら良い。
エンターテイメントとしての偽善から、社会的正義の面被った偽善にできないかなぁ。ただそこら辺考えるとそもそも炎上は人間の本能で動いてるから社会正義で行動するなんて単なる幻想なのかなと。
炎上って学校側からしたらすごい脅威なんだけど、炎上自体には「いじめた奴死ね」以外のメッセージが薄いから、炎上して学校側が萎縮することはあってもより良い行動や制裁をすることは少ないと思うんだ。
なんでこうも理解力に欠けた人ばかりなんだろう。
理解力がどうとかではなく、結局、一体何が言いたいのか分かりづらいのだが...。
具体的にいうと、タイトルがいう放射線だけを気にする連中と、本文でいうチェルノブイリと同じレベル7という言葉で騒いでいる連中とは論理的にイコールではないはずなのに、まぜこぜに書いているのが分かりづらい。
・チェルノブイリと同じレベル7という言葉で騒いでいるが、福島はチェルノブイリよりマシといいたい?
(そういう連中は「レベル7」認定報道の直後はそれなりにいたかもしれないが、今やかなり激減していると思う。
個人的には、現時点では総合的にチェルノブイリよりもマシだと思っているが、まだ事故そのものも終わっていないので評価しようがない。
で、そもそもチェルノブイリと比較しても誰得感が否めない。それこそ一番じゃなきゃいけないんですかw)
・放射線を気することは正しいが、副流煙、排ガス、他にも発がん性物質があるから、それらも気にしたほうがよいといいたい?
・それとも副流煙、排ガス、他にも発がん性物質があるから、放射線が加わったところで気にするなと言いたい?
(そういう主張ならば、「それはそれ、これはこれ」だと言う話に尽きる。
しかも、その手の論理展開は、ポピュラーな詭弁法のひとつで、免責臭がぷんぷんするのが気になる。
すでに借金が900兆円あるのだから、数兆円バラまいたってかまわないということにはならないのと同じ。
人間は、既成事実として存在するものと、新たに加わるものは別物と認識するのが普通であり、
さらに、今回は、識者でも言うことが見事にバラバラで、パンピーにとってリスクの把握は不可能に近いことが問題を深めているし、
事故直後、報道、政府、識者は、自らの発言のデタラメぶりで信頼を失墜させてしまった。
放射線量にしても、以前は原発作業員が労災認定されていたほどの放射線量を自分もあびせられて、はいそうですかとは引き下がるのはなかなかできないのが人間というものじゃあないだろうか。
でもそのうち、放射線が「あたりまえ」かつ「どうしようもない」となり、既成事実に転化するフェーズになれば、排ガス程度の認識になるかもしれない。新型インフルエンザの流行のとき、最初は、成田空港入った、いや出たみたいなんで大騒ぎしたのが、何百人でてもニュースにもならなくなったのがいい例。
ただ、一方で、副流煙、排ガスも、リスクである以上抑制しようという方向に世の中が動いているのも見過ごしてはならないと思う。
顕在化するリスクはやっぱり叩かれるもの。ほったらかしにはできない。)
・それとも、これだからこうと言うように特に何か主張するでもなく、単なるぼやき?
(ということは、
じゃぁ本質を詳しく語ってもらおうかw
まあどうせ語れないのだろうけどね(笑
ってのも釣り?それともマジ?)
これに対してどれだけのマンパワーが必要なのか、が示されていない。
エリアの放射線量を勘案すれば、「1人の人間を連続して投入することができない」のは
明白であり、その辺の兵站を勘案した収束工程表なのかどうかが、とても気になる。
とりあえず、「腰溜めの数字」で、収束のためのマンパワー数をラフ算出するので、
皆で訂正して欲しい。
一応、「現場は平均して100ミリシーベルト/時」と仮定する。
また、「作業員が許容できる累積放射線量=250ミリシーベルト/年・名」と仮定する。
2.次に、現場で必要な作業量を、「各号機当り10名、計40名」を
「24時間365日投入する」と仮定する。
この前提で、必要とされる「年間の延べ作業員数」は、
年間で40名×24時間×365日=350,400名・時間となる。
そして彼等の浴びる放射線総量=350,400名・時間×100ミリシーベルト/時=35,040,000ミリシーベルト・名
一方、許容される放射線量=250ミリシーベルト/年・名なので、
必要な人数=35,040,000÷250=140,160名となる。
つまり、140,160名全員が250ミリシーベルトを被曝して、ようやっと1年間の作業が可能になる、ということになる。
では、「140,160名」とはいかなる数値か?
http://profile.yahoo.co.jp/fundamental/9501
によれば、東京電力の従業員数は
つまり、連結決算ベースの従業員(要は子会社)を全員(含ホワイトカラー)むかき集めても、
まだ足らない、ということになる。
実際には下請け孫請け総動員になったり、関電工の社員も使用するのであろう(=「フェーズ1」)が、
それでも足りるのかどうか、疑問である。
「東電グループだけでは足らず、関西電力等の九電力会社に応援要請しなければ充足できない」
(=フェーズ2)
という結論が出てきたように感じるのであるが、自分が計算間違いしているのであろうか?
実は、自分としては
「九電力会社全員のマンパワーでも足りず、警察消防自衛隊のマンパワーが必要になる事態(フェーズ3)」
「警察消防自衛隊全員のマンパワーでも足りず、全国家公務員・全地方公務員のマンパワーが必要になる事態(フェーズ4)」
「全公務員のマンパワーでも足りず、一般国民からくじ引きで作業員を強制徴用する事態、徴兵の復活(フェーズ5)」
まで考えていたのであるが、さすがにフェーズ3・4・5にまでは達しない・・・ですよね?
いずれにしても、マンパワーの計算なしの収束工程表は「絵に描いたモチ」であり、
本当です。邪魔です。救命最優先でインフラのエンジニアすら物流負担を考えて現地入りを遠慮するのです。
ただしそれは被災後3日間とかの話。
時間がたてばた立つほど、物流負担の弊害よりも人手不足の弊害の方が高くなります。
1週間もあれば、ホントにひどい場所以外は素人でも役に立ちます。
すでに10日間が経過しようとしている現在は素人でもやる気さえあればOKです。
救命のフェーズで素人が混じろうとするなら、それは殺人同然ですが、復興のフェーズなら素人でも労働力です。
これからは「さあボランティアに行こう!」キャンペーンをおおいにやってください。
今でも連絡はつきません。
まだ希望は捨てていませんが、もしかしたら・・・もう・・・という思いを抱えて眠れません。
まだ助かっていない人もいるというのに、災害対策本部長が、なぜ大将御自ら現場に飛ぶのか?
菅直人が わ ざ わ ざ 上空を視察するというので、放射能を含む水蒸気の開放を遅らせたという情報も書き込まれていますが本当ですか?
貴重な燃料とヘリを使って報告した内容は、もう何時間も前から各TV局、SNSで散々報じられてきたことです。
それを わ ざ わ ざ 、 誇 ら し げ に 、 自 慢 げ に 語ることに 何 の 意 味 が あるのでしょうか。
意味、ありますか?他の人でよかったのでは?自衛隊からの報告を待てばよかったのでは?
全ての行動が支持率目当ての媚売りパフォーマンスにしか見えない。
千年に一度の自然災害を前に、国益を見ずに己の自己保身しか省みない菅直人の行動にはほとほと愛想が尽きています。
元々前回の総選挙でも民主党なんぞには投票していませんけどね。あんな詐欺政党、極左売国政党に投票した人も反省してください。
わけの分からん社会保障という名のパンとサーカスにつぎ込まれた予算には、今回のような自然災害に対応するための復興費用などが バ ン バ ン 使われているんですよ。
塩の備蓄って必要ですか?
ふ ざ け ん な
それ、資本主義と一緒。 資本主義とは決して良策ではないが、他に方法がない。なぜならば、社会主義のほうが望ましいが、人間は愚かであるから社会主義を適用することができない。
というのと全く同じじゃね。
分散しようとしても、集まっちゃうんだから。無理だろ。 副都心で都庁を新宿に移転しただけでもえらいよ。
それに、首都圏の人間からすれば、一回 リセットするためにある程度 破綻することは織り込み済みだから(JALのように破綻させなければ構造改革できない例が多すぎるため)
マイナスっていわれても、今更驚かないし。地方だって破綻させてリセットと考えてる人は多いと思うよ。
言い方を変えれば、破綻せずに回復してもよし、破綻してリセットしてもよし。でしょ。
破綻させないことに血道をあげるにはもう手遅れだからね。一定の破綻が織り込まれている。
あとは、みんなで努力して、破綻せずにどうするか?というのを 個別に考えるフェーズに来ているだけ。
そういう意味では、戦略というフェーズで、リセットのために破綻やむなし。という所まで来ちゃってるんだから、いまさら、破綻反対、全救済って叫んでも遅いでしょ。
それを叫ぶなら、バブルの真っ只中に叫ばないと。
安い外国製品が入ってきていた頃に、コレでは産業が空洞化する。国内製品を高くても買おうよ!という流れは潰された気がするからねぇ。
あの時、安くて良い物 という フレーズに飛びついた人たちが、自分の給料をめぐりめぐって下げたんだけど。 自分たちで選んだことだからねぇ。
今おきている問題は、バブルの頃にとっくに指摘されていたでしょ。そして、今を選んだ国民がいると。
すぺっく
何の因果か、リーダーとかやるはめになったのでその経験を書いてみる。
「任務は遂行する。部下も守る。両方やらなくちゃならないのが『幹部』のつらいところだな。覚悟はいいか? 」
プブチャラティさん!俺やるよ!
…というわけで、尊敬するプブチャラティさんの姿勢をすべての行動の方針とした。
■実際にやったこと。
○作業日誌を送りつけた。
われわれたはちゃんとやってますよという言い訳と、問題が発生した場合に上司に詰め腹を切ってもらうため。
○朝会
これで、問題点を抱え込まない状況を作り出すのと、一体感、連帯感的なものを演出した。
○作業の目的を語る
作業の目的を語った。
これは、会社的なメリットだけじゃなくて、メンバーの利益になりそうな目的につなげた。
例:
人事権のありそうな上司の前でほめてたり、お礼のメールを出す際のBCCに上司のアドレスをこっそり入れていた。
ぶっちゃけ、報酬を私権限で払えない以上、それくらいしかできることはない。
例:
「~してくれてありがとうございます」
「あなたのおかげで、XXXがYYYになった。ありがとうございます」
「いいセンスだ」
「褒美におぷーな購入権をあたえよう」
例:
「~してくれてありがとう。ただ、ここについては私は、こう思うが、どう考えている?」
○話は聞くが、決めるのは私だ。
「~の意見は確かに正しい。ただし、現状はこういう状況なので、XXしてくれ」
ちなみに「話はきくが頑固」という称号を手に入れた。
どのような結果がでようとも、責任の所在は命令者にあるという基本を徹底させるため。
例えば、メンバーが私の指示での作業中でサーバーのデータを壊した場合、その責任は私にあるということ。
○ふりかえりをした。
Keep: いままでやっていることで引き続き続けるべきこと。
Problem:問題点
お前のやりかたが気に入らんという意見がいつでるかドキドキしながらやっていた。
○将来食っていけるようなスキルを身に着けてもらうに心掛けた
何年たっても単純作業しか割り当てられなかった。
その後、そのメンバーはスキルが低いという理由で会社を追われた。
なんで、将来の事を考えて、とりあえず、自分とこのメンバーはスケジュールが守れている限り、新しい事をチャレンジさせた。
もちろん、任務を遂行するという絶対条件があるので、チェックは行う。
メンバーから仕事を取り上げる判断基準として、自分が土日でてリカバリーが効かなくなった時点で、自分でやるようにした。
おかげで、最後の方は私より、上手くなった。
あと、派生として、新技術の自社でのプレゼンとか上層部受けしそうな作業はメンバーにやってもらった。
(もともとヒッキーなのでやりたくなかったという感情は否定しない)
「軍隊において、現場士官というのは、ただ、勇気を見せればいいんです。
誰よりも先頭で勇敢に戦い、撤退の時は最後まで居る。少なくとも、我々兵や下士官にとって理想の士官とは、それです。
鼻水だそうが泣きながらだろうが、あるいは何にも考えてなかろうが、常に先頭に立ち、あるいは最後まで粘る、それで満点です。
まあ、頭の足りんところは、我々も同じですからな。そんな姿を見て奮い立たん人間は、おりませんよ。
そこを良く覚えておいてください。」
基本、残業させんようにしてたが、メンバーが一人でも残っている間は、残った。
あと、付き合い残業をさせないため、残っているようなら進捗を確認して問題なければ、帰させた。
次に、作業の責任者がとっとと帰るのはないだろJKという趣味の観点
最後に疲労度の観点。
メンバーが仕事で感じる疲労度をリアルなところで感じておきたいため。
当然、疲労度の感じ方は労働時間だけできまるものではないので、次の項目のような細工も併用した。
○疲労度とかモチベーションのチェック
…これは、強制じゃなくて、こういうのがあるよっていう感じで広めた。
ぶっちゃけ、半ヒッキーで人付き合いが苦手な私にとって数値でメンバーの疲弊を検知できるのはかなり助かったし、実際、大ごとになるまえに、問題を摘み取れた。
■結果
私の権限でできる任務は完了した。
・
・
・
でも残念ながら我々は特定派遣だった。
不思議なことに、ドナドナ先の仕事の成果は、あまり、関係ない。
社員の評価をサイコロで決めていたとしても、一向におどろかない。
私はメンバーに報いることもできずに、なんやかんやで、私は会社を去らざるをえなくなり職を失った。
てへぺろ(・ω<)
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追記。
また、就職面で、いろいろコメントをいただき、ありがとうございました。
組織に対する愛着とか、同僚に対する仲間意識とかの結果として、上記のようなマネージメントが可能だったのだと思います。
なお、規模については3~4人の少人数
そのため、私たちのところで有効だったことが、他のところで有効とは限らないです。
それでも、このやり方が有効だと感じていただけるのであれば、それは、そのやり方につきあってくれた人達のおかげであると覚えておいていただけると、助かります。
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追記2
「10年以上、『ブ』チャラティさんを『プ』チャラティと思い込むことなんてあるわけないじゃないですか!」
「この味は嘘をついている味だッ!!アリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリ、、アリーベデルチ!(さよならだ)」
世の中には、分析屋タイプの人と、プレイヤータイプの人がいる。もうひとつ、わけのわからないエネルギーを周囲に発散しまくる種類の人間もいるが、そういう人はやはり例外だろう。
分析屋タイプの人は、今まではそれなりに評価されてきた。こういう人は規範意識も高くて言うことに説得力があるので、中間管理職レベルのマネジメントには結構向いているように思う。いわゆる才能みたいなものがなくても自己研鑽によってこのタイプにはなれるので、一般人が目指すにはもってこいだ。ただ、最近は社会全体の底上げが進んだせいか、このタイプがあまり評価されなくなってきている。言葉を換えれば市場に溢れているとも言える。ネットなんかで見かけるのもこのタイプが多いかもしれない。
反対に評価されているのが、プレイヤータイプの人だ。このタイプの人の特徴はなんといっても当事者意識。社会を変革しようとか、既存の枠組みを躊躇なくぶっ壊すことに興味を持ち、実行しようとする。実行フェーズにおいても、自分で陣頭指揮を執りたがるし、現場に出たがる。また受け身になることに我慢ができず、つい自分から動いてしまう。言ってることはよくわからなくても、行動で裏付けて周囲を黙らせる。ただこのタイプは少ない上に敵を作りやすい。異端児扱いされたり、自己中心的に思われることも多い。しかし本人は割り切って考えることも多い。
プレイヤータイプは近年急に求められるようになったが、その原因はおそらく日本社会全体が行き詰まっていることにある。この閉塞感を打開してくれる「誰か」をみんなが求めているのだ。しかしそんな人間はそうそう見つかるものではない。多くの場合見つかるのは「自称」プレイヤータイプで、過度な期待と自己評価によって結局潰れてしまう。だが社会が必要としているのならば、プレイヤータイプにならない手はない。ではどうすればなれるのか。断言はできないが、プレイヤータイプになるための第一歩は、欲望に対して素直になることだろう。プレイヤータイプの人を観察してみると、規範意識よりも欲望に対しての執着が強い傾向があることがわかる。そもそも日本人は規範意識が強すぎる。正確に言うと、他人の規範意識に対しての監視が強すぎるのだが。そしてこの傾向が変わりゆく社会にフィットする人材を輩出できない大きな原因であることはおそらく間違いない。そうと決まれば、六畳一間の幸せとか言うのはやめて街へ出よう。そしてガンガン稼いでガンガン美味いものを食べて、良い酒を飲もう。もはやそういう人の方が評価される時代なのだから。
それぞれ「これはもっと早い・遅い時期じゃないの?」という指摘はあると思うけど、今回は個人的な主観で振り分けた。はてブや SNS で見かけるあの人や、身近なあの人がどの辺りに属するだろうと考えながら読むと面白いかも。
2011年時点の今書くとこんな感じだけど、それぞれの時期にどのインターネット上のサービスを使っているかというのは着目点ではないと思う。昔は SNS も RSS も、さらに検索なんて無かった時代でも、それが別のものに置き換わるだけで「知識を蓄え段々と発信者になっていく」という流れは大筋でずっと変わっていないのではないかと。逆に言えば、それぞれのフェーズに適したサービスがうまくこのインターネットの流れに溶け込めているんじゃないかと。
インターネットに初めて触れる。
昨今の民主党の数々の失政の最大の原因が、官僚の軽視にあることは論を待たないと思う。
そもそも、「ズブのド素人」である政治家の、安易な思いつきで政治をやることが「リーダーシップ」と勘違いされるに至ったのは、いったい何時頃からなのだろう。既得権益を解体し、ゼロベースの「政治家主導」で政策の優先順位を判断する。ここまではいい。しかし、実際に優先順位を判断し、具体的な施策を決めていくには、専門家の協力が不可欠だったはずだ。
そう、少なからぬ数の官僚が自分の権益を守るために行政を捻じ曲げていたとはいえ、それ以前に、官僚は各政策領域の専門家(エキスパート)なのだ。しかし、民主党は、官僚全てを十把一絡げに「既得権益の象徴」として排除しただけでなく、代わって在野の専門家を味方に付けることもしなかった。
現在の迷走ぶりは、その当然の帰結と言える。どんな「リーダーシップ」も、それを背後で支える多数の専門家の協力無しには成り立たないという当然の話に、何故気付かないのか。
しかし、これら全ての責を民主党に帰すのも、また酷な話であるのかもしれない。なぜなら、こうした専門家軽視の態度は、彼らに限った話でも、今に始まった話でもないからだ。
学者、科学者、技術者、医師、弁護士、裁判官、そして官僚、エトセトラエトセトラ。この十年や二十年、我々の社会はひたすら専門家を貶め、その影響力を削ぐことに邁進してきた。曰く、『あいつらは一般人に理解できない理屈を捏ね回してばかりで、社会常識からかけ離れている』。
裁判員制度などは、その典型だ。「社会常識の無い裁判官に任せてはおけない。市民感覚を反映してこそ、正しく罪を裁くことができる」。法を犯した人間を何百人と見てきた裁判官(=専門家)より、初見の一般市民(=ド素人)の方が正しい判断ができるとは、なんという傲慢だろう。
『いや、そのようなことはない。「はやぶさ」の帰還を成し遂げた科学者や技術者達に、人々は惜しみない賛辞を送っているではないか』と反論する人がいるかもしれない。しかし、それは単に「はやぶさ」の感動的な帰還物語が「一般市民」にも分かりやすく、また自分達との利害の接点が見えにくいからに過ぎない。
果たして、宇宙開発に要するコストが、人々の身近な利害とのトレードオフとして明確に突き付けられた時、それでもなお手のひらを返さずにいる人間が何人いるだろうか。
政権が代わったことで露になったのは、「私は何も口出ししないので良きに計らってくれ。ただし、自分の利害に関わる場合は全力で阻止するけどね」という素晴らしい国民性だった。こうして、自分の狭い視野の範囲内での利害にしか興味のない人々による「総論賛成、各論反対」の前に、あらゆる政策は頓挫することになる。
まぁ、優先度の低い事柄の切り捨てを決断することも「リーダーシップ」の一部に入っているわけで、それすらできない「政治主導」とは何なのか、という話ではある。しかし、そこを押し切る決断ができないのも足腰の弱さ、すなわち専門的知見によるバックアップがない「思いつき駆動政策」の当然の帰結と言える。
こうして、事態はいよいよもって袋小路に陥った。
民主党が、そしてこの国が、今すぐ専門家軽視を改めない限り、次のフェーズとしてやってくるのはウルトラ保守によるバックラッシュ、あるいはカリスマの登場による熱狂と、それに伴う民主主義の崩壊だろう。
http://blog.livedoor.jp/ikiradio/archives/51561151.html
それは人にとって「健康であること」が人生の目的になり得ないのと同じ。
社員のやりたいことを目的にしてはいけない。「誰の」会社だい?
社員がバクチを打って失敗しても、そのケツ持ちをやるというのかい?
努力することは美しいけれど、そんなことをしている暇があるのかい?
これが明確化されない状態では、どんな利益を
やめたりしなければいけない訳ではない。
いま相当頭が硬くなっているだろうし
視野もすごく狭くなっていると思う。
頭が硬くなっているならば、柔らかくすればいい。
一番良いのは組織から完全に離れることだけれども
そこまでしなくても、2週間くらいの休憩をとれば
頭を柔らかくすることだって出来るかもしれない。
苦しんでいることが分かっただろう。
熱中出来ていない状況は、半年後に会社全体の業績に現れてくる。
スタッフを路頭に迷わせたくないのであれば
微生物は4つのフェーズでその増殖曲線を描く1、誘導期、2、対数期、3静止期、4、死滅期。ようは定着してぷりぷり生みまくって(実際は分裂か)、疲れてだらけるって感じ。細かい話は教科書でも読んでください。
微生物の場合この過程をたどる原因は主に栄養だ。つまり食いもんがあるだけ増えて不足しだすと、増えるのが止まって減り始める。
まず誘導期は戦争終わってすぐ(1950年くらい?)、食い物ないし、インフラもないし、ついでに男も少ないけど、日が経つに連れて環境が安定してくる。
戦争経って10年くらい、ここでやっと飯とかそこそこ出回ってくる。インフラも急ピッチで進む。ここら辺から俗に言う高度経済成長期に入る。微生物で言えば対数期。人口がめっちゃ増えだす。これが20年くらいは続くのかな。
それでだんだん減速してきて1980年代だいたいここらで人口的には落ち着いてくる。たぶん。(なぜ多分かといえば調べるのがめんどくさいので時期的には結構適当)物質的にもかなり豊か。俗言う飽食の時代に突入。バブルとか。
1990年。ここらへんから急速に出生率が低下。たぶん。(ry)バブルもはじける。人口も頭打ち。微生物で言えば静止期。ここら辺で恋愛のビッドとオファーが急速にかみ合わなくなる。(おかげでアッシーとかメッシーとか言ってた腐れマンコがあまりだす、リサイクルは可能ですか?)
現在。死滅期突入。もう全然子供生まれてこない。生めないのか生まないのかは若干議論の余地はあるにしてもとにかく人口が減り始める。しかし物質的には未だに豊か。
んで何が言いたいのかやっと本題に入る。ここで不思議のは(別に不思議じゃないかもしれないけど)まだ日本においては少なくとも物質的にはいくらでも同属を養う余力はあるように思われる。さっきの微生物と似てるとかって言う理屈だとまだまだ増えるよね。でもなぜかみんなまったく生もうとは思えない。(金がないから生めないんだって言う意見は却下でお願いします。)
ではなぜか。なぜ日本と言う共同体内では子孫が増えなくなったのか。原因は希望だと思う。人間は希望を食べて増える。ある共同体内に希望が蓄積されているとして、それが多ければ多いほど人口は増える。でも希望は無限じゃないので食い尽くされてくるとだんだん増えなくなる。色々理屈をこねてみんな産もうとしなくなる。正直今の日本には希望が足りないんだと思う。
8割くそ作品の村上龍の数少ない名作に希望の国のエクソダスってのがあるんだけど、その作品でポンちゃんっていう中学生がこんなこと言ってた。(正確ではない点はご容赦を)
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。 だが希望だけがない」
パンドラの箱でも残ってたものがこの国にはない(まったくの0でないにしたって)!なんてこった!
さらに希望について2000文字くらい書いたけどもう止めておこう。結局のところ、じゃあ希望を増やすにはどうしたらいいのか?と言う問いに対する答えを僕は見つけることはできていないから。(とか言うけど実は解決策は正直ある。でもこんな感じで終わったほうが色々いい気がした。と言うのも嘘で書くのがめんどくさくなった。)
以下の続き。
http://anond.hatelabo.jp/20101010201325
対象URIは以下。
http://d.hatena.ne.jp/bolt69/20101027
個人的には、「電子書籍でしか読めない」漫画が登場するのはまだまだ先かと。おそらくこれから「紙媒体と電子媒体の併存」フェーズがやっと始まる、いや始まらないかも、程度だと思います。
当然ですが、漫画を読むのは子供が大多数です。まずは子供が手軽に読める手段じゃないと定着しないと思います。iPadは最安のものでも6万円以上します。これは発売時のPS3より高いです。iPadをお持ちであれば分かると思いますが、あのような高額な精密機械を小学生や中学生が手軽に持てる日が来るのはまだまだ先の話だと思います。児童層にNintendoDS並に普及する必要があるのではないかと。
わかる人にはわかると思いますが、そう、あとは自炊する人の良心にしか頼るところはないんですよ。
今もP2Pファイル共有ソフトを出所として、海外のサーバーなどでとっくに大量にばらまかれてますよ。「パンドラの箱」はとっくの昔に開かれてます。現に海外では、そうやって不法アップロードされた漫画を網羅しているサイトが複数存在し、中には一日に億単位のアクセス数を稼ぎ出している所もあるそうです。少年ジャンプなど、精機の発売日が月曜なのに、その前の木曜か金曜には中国語に翻訳されたスキャン物が出回ってたりします。
で、自炊がまずいと思うのは自分が悪いことをしてるということを自覚してる人はともかく、自覚なく無意識に拡散させる可能性もあることです。
自炊する人全員が全員きちんとした法律的知識と運用方法を知っているわけではありません。(自分も)
むしろ今までの本と同じように考えてしまう人の方が多いのではないでしょうか?
これも長続きしないシチュエーションだと思います。
結局の所「僕貰う人、あなた自炊する人」が固定化されてしまうんですよね。何もせず貰うだけの人から「あの新刊まだ自炊してないの?」「次にこれを自炊して欲しいんだけど」なんてせっつかれる事もあるでしょう。なので自炊のモチベーションはなかなか維持出来ません。
この点についてはあんまり心配する必要がないと思います。子供はPCや画像処理ソフト、オートドキュメントフィーダを購入、運用管理できませんから。
精神性が幼児的な大人の場合、まず自炊のノウハウを習得できませんし、それをタダで不特定多数にばらまくような精神状態に至る事も希でしょう。
約十年前から我々は自力でやってました。一時期はノウハウを一般層に広めようとした事もありましたが、尻すぼみに終わっているのは現状を見ての通りです。
今出版業界がやるべきは、たとえば「実物の本に電子書籍版の無料ダウンロード権(シリアルナンバーみたいなもの)をおまけで付属させる」といった戦術だと思います。「じゃあ、どのハード・フォーマットのダウンロード権なのか?」となった時、未だ特にこれといった定番が無いというのが現状なのではないかと。
いったもん勝ち
とりあえず当面の場を支配するテクニックのこと
やっぱり報告書のほうがいいんじゃない?見てきた事実を淡々と書くような。
2週間足らずの研修で、しかも視察中心でさ、一体どんな蒙を啓かれるというのだろう。
そこで最後の数時間という短い時間で、無理やり考えさせて生煮えのアイデアをださせ、計画書を出させる、
こんなことに何の意味があろう。
間隔があきすぎるとだれてくるということはありうる。ミーティングは低調になり、議論すべきことがなんとなしに先延ばしになり、緩慢になる。
2ヶ月くらいがちょうどよいかもしれない。予算と担当者の他の通常業務との折り合いがつけば。
いかに防 災教 育の理念を浸透させるかもキーポイント(ドライビンフォース)
ただフェーズ2でまったく開発なしというわけには。(味棒)
プラットフォ ームきばんづくりとはいえ。
もしみていなとすれば翻訳必要
ヨネスコ参照
HFAとプラ ットフォーム整理
1理念
追記元
http://anond.hatelabo.jp/20100922023512
まず、ありとあらゆる意識的、随意的な思考・行動は すべて目標を達成されるために行われる。
目標を達成するための最適解は存在する。各種、方法論、戦略によって最適解に限りなく近づくことができる。
だが、"いかなる目標を設定するか" ということには最適解はない。
それは、個人がもつ、固有の欲求、価値観、思想、志向性、評価関数というフィルターを通して
"自分が考える、最も満足のいくであろう、望ましいであろう状態、目標"
を定義しそれに向かっていく。
言わずもがなそれは十人十色で、それゆえに人類は、かような多様性を呈している。
逆説的ではあるが、この多様性こそが"人生そのもの"に"目標設定そのもの"に正解がないことを示していると言える。
ここで問題としているのは、そういう「いかなる目標に向かっていくか」「いかに生きるか」
という問いに答えがないということではなく、そういった現実の中で
個人個人は
いかにしていかに生きるかを、いかなる目標を設定し、それを目指して生きていくかを
どのようにして決めれば良いのか? ということだ。
あと、人は、望ましい状態に向かっていくと書いたが それが自分にとって望ましい状態なのかどうかは
"想像することしかできない" のだ。
その望ましさはあくまでも未来において想定されるもので、それは人間の想像力によって判別される。
もちろんそれは完全ではない。想像力をいくら駆使しても "これこそが私が最も満足のいくであろう選択だ" と断言することは無理である。
こうであったらなと思い描いたそれが実現されても、不満足を覚えることは多分にありえる。
だから人は、思考停止・妥協・悟り・諦め ≒ 信じる という行為をもってして生きていく。というかそうしなくては生きられない。 疑えど疑えど答えは出ない。
そういう悩みに消耗し、逡巡、足踏みし続け、人生を台無しにしてる人間は少なくないように思える。
いうなれば、登る山が決まっていなく、彷徨っているに等しいような人生だ。 私はそれを回避したい。忌避すべきものだそれは。
しかし一口に"信じる"といっても、 信じるための方法というか、信じ方があると思うのだ。
一寸先は闇の現実の中、無限の情報に前にし、いかに考えいかに行動するか。
結局どうすれば、良いのか。
私は理性によってそれが(生きていく中で価値観などは遷移していくので軌道修正は必要としても)
解決、、というか処理?できると思っているんですよ。
どうやって? こうやって。
まず人間が意識的に、随意的に目指しうることのできるありとあらゆる目標をネット、書籍などから情報収集し
徹底的に拡散的な思考をし尽し
"それらを全て洗い出して(MECEに)" かつ、その中から
"現実的に(物理的に) 私という人間が達成を目指すことのできる目標" を全て抽出する。
全てはここにある。 私が目指すことが可能な目標は全てここにあって、考えるべきことは全て目の前にある状態。
まずその状態を作り出す。
その個々の目標を"そこに向かうべきか否か" を判断する。その人その人がもつ固有の価値観に照らし合わせて。
ネットや書籍で判断材料を集めたりしたりもする。 その目標に向かうべきかどうかを個々に評価するのだ。
そして達成すべき目標("α"とする)をリストアップする。それを合格可能性が最大化された日常に目標を達成すべく定義されたタスクを巧妙に組み込む。
もちろんその組み込まれた目標は、 合格可能性を減少させてでも達成を目指すべき何かだ。
合格可能性が最大化された日常をベースとして考える。 それはそれこそが今もっとも優先すべき目標であるからだ。最大化こそが(私にとっては)
そして、そういうことを徹底的に追求したその果てに "今、この時間、本当になすべきこと(タスク)" が完全に把握でき
"今、ここで使っている時間は、私が思う最高の(限りなく最適な)時間の使い方だ" という意識をずーーっと持ち続けることができる。私はそれを目指したい。実現させたい。
というか受験生活が終わっても私は人生を通してずっとそうでありたい。これは誰もが思う願望であろう。
それを実現するのがGTDなのではないのか。それこそがGTDの本質ではないのか。
私がGTDに期待したのはそこである。というかそれが実現できるならば
この際GTDじゃなくても良いのだけど。
//何か突っ込みどころはありますか? ちなみに勉強からの逃避にしか見えないという指摘がありますがむしろ逆です。
これは勉強に集中するためになされる能動的な過程です。 顕在意識(=メモリ、RAM)に "今実行すべきタスク"のことしか頭にない状態が理想。
それを実現させてくれるのがGTDなのでは? そうであれば物凄く快適そうに思える。 なるほどその状態は達成すべき目標だろう。最優先で。
//結局、合格可能性最大化を図ることができれば満足なんです。
//他の何か、つまり"α"、それを邪魔する原因としての"α"さえうまく処理できればそれは実現します、それが難しいのですが…
//未知数な、存在するかどうかわからない"α"が見つかろうと見つからなかろうと どっちでも良いわけです。最大化、最適化さえ図ることができれば。
//とにかくすべては合格可能性最大化を阻む原因をいかに排除するか、そこが核心、主眼なんです。
>まだ自分が認識、意識していない時間を割くべき、日常に組み込むべき何か(合格可能性最大化以外の目標、仮に"α"とします。)があるのではないか?
これでいうαは受験生活を脅かす要素です。
返信。
>合格可能性の最大化を図ることによってαの発見・達成が阻害される、と考える理由はないわけだから
合格可能性が最大化された日常ということは極端に言えば、αを意識すらしません。そんな暇があったら問題を一つでも多く解くのです。
だから発見は阻害されますよね
合格可能性の最大化を図ることによってαの発見が阻害されるということで
αの達成を目指すということは最大化が阻害されることになります 最大化が阻害されても
生産性、効率が低下してもそれでもなお目指すべき目標は存在するのか?
存在しないならば最大化されたまま、それを維持した日常を送れます。
しかし存在するならば、考えなければいけないことがいろいろありますね。
>生活の全てを最適化しなければ合格できないとしたら、入ってからついていけるのかい?
あるいは最適化など目指さなくとも、余裕をもって合格できるにしても他に達成すべき目標がないなら
合格可能性を最大化させることに注力します。念には念を。受かる保証などどこにもないのですから。
ここで問題にすべきなのは"学力の向上における効率、生産性を犠牲にしてでも"達成すべき目標、"α"の処理の仕方についてです。
>そうでなく、やりたいことがまだはっきりしないっていうなら、受験勉強を当面のゲームと考えるといい。
そうですね、やりたいことははっきりしていません。大学をいかなる目的のための手段にするのか?という問いには今のところ答えられません。
それに危機感を覚えます。大学がゴールになっちゃって手段になりえてないっていうのが典型的な失敗例でそういう文脈があちこちに散見されるので。(手段の目的化)
なんとなく、俺はこれをするためにあの大学に入るんだっていう明確な意識があった方が動機づけにもなると思うし…
>他にやることがなくて暇だから受験勉強してる、と考えるんだ。そう考えていれば、普段は合格に最適化した生活を送りつつ、他のおもしろいことにレーダーをはっていられる。
こういう感覚良いですね。 しかし受験勉強と同時進行でなくてはならないのでしょうか?レーダー張り。アンテナ?
そうでないといけないというのは常に新しい情報(速報性があるものやまだ読んでないウェブページとか本とかから)を仕入れないといけないということですよね?
それを、なんというか、最初からいっぺんにできないものなんでしょうか?
>当面の目的から目を逸らすために他の目的を探してるだけであり
>しかも見つかってないあたりは救いようがない
前述のとおり、当面の目的に集中するために他の目的を処理しようとしているのです。
これこそが先延ばしの原因であり、心理的な障壁となっているのです。
もし見つからないのなら受験勉強を蔑にしてずっと探し続けることはしません、受験生ですから。
それは大学を出てやりたいことがないからとりあえずニートになるぐらい危険なことです。
>それはGTDとは関係ないけど、難しい。ほとんど人生そのものと同じだからね。
そう言えますね。ほんと難しい…
>とりあえずは「見晴らしのいい場所(客観的に社会と自分を見られる場所)」に行く(社会的・物理的に)こと、かねえ。
心強い意見です。
>うーん。普通は高校生ともなれば、なんとなく将来、こんな風な仕事をしたいとか、目標と言えないまでも、夢みたいなものはあるんじゃないかな。
それがよくわからないんですよね、、、
生活を維持するためのお金を稼ぐために「仕方なく」働いてると思ってるんですよ。
何らかのきっかけで(宝くじあたったりとか)大金が転がり込んできたら現職を続けないであろう仕事に就いているイメージ。
本当にやりたいことができてる人は、好きを貫いている人はほんの一握りなんだろうなって。
ちょっと恥ずかしいですが、ジョブズでスピーチで語ったように"愛せる仕事"をしたいですね
って、これじゃあ何も言っていないのと同じですよね。 "やりたいことをやりたい" みたいな、、トートロジー的な?身も蓋もない、、
>まあ、中央に[人生の目標]と書いたマインドマップでも書いて、自分の人生の目標でもじっくり考えてみたらどうかな。
>でも、人生は思ったより長い。
>間違った山に登ったかな、と思ったら、降りて違う山に登ることも、特にこれからの時代は不可能じゃない。
>また、寄り道、無駄足だったと思っても、それが次のステップへの足がかりになったりすることもある。違う山へ伸びる吊り橋があったりね。
>大学受験で、また会社選びで、人生のすべてが決まる、とか必要以上に深刻に考えなくてもいいと俺は思うよ。
孫正義「なぜならば、自分で決めた自分の職業、自分で決めた自分の仕事、これコロコロ変えるわけにはそんな簡単にはいきません。
だいたい決めたらその道にほぼ行く可能性が高い。その決めたことをフラフラするということは、効率悪いんです。
こういう意識があって、、、
また引用しますが
>私が思うに、人生を計画的に行おう、と思うのは、なすべきことをしたいという欲望が生じるからだ。
>限りある時間の中で、切実にそれを実現するためには、どういう流れ・ストーリー・フェーズを経て
>実現状態に変貌を遂げるのかをクリアにしようとする。そうすれば実現する可能性が高くなるからだ。
http://works4life.jp/2010/03/gtd-before-big-planning/
もっと明確に、クリアに描きたくてたまらないんですよね
多分どちらにせよ私は志望校を目指すので、将来の目標がどうあれ、今やるべきこと、やっていくこと(受験勉強)は変わらないとしても
心の置き場?というかスタンス? 世界観、人生観、死生観、価値観、思想
そういうことにも心を奪われてしまうんですよね、、考えすぎなんでしょうか?
もっと、こう、なるようになるさって感じでいけたら大分楽かもしれません。気楽に。。
xevraさんのいうよう、悩んでも悩んでも仕方がないことなんでしょうか、、
悩めば悩むほど不安は募り、袋小路の奥にどんどん迷い込んでいくのでしょうか、、
1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/11/14(土) 11:03:45.25 ID:YEzroAVm0
1つの道を選んでそのために一生懸命頑張るということができない
何をするにも何らかの価値観の盲信が必要になるという気分
きっと人生における選択の正しさの根拠なんてないんだと思います。
何か一つを選ぶということはその他の一切の選択肢を捨てることだと弾さんもいっているし
それこそがその他一切の選択肢を選ばないことで何か失うものがあるのではないか という疑いを不安を生んでいるわけなんですね。
ある選択をしてその先一般的に(?)成功したとされても、もっと大きな成功が他の道に転がってたかもしれない、、
そういう迷いや悩みは構造的に人生の原則的に解決が可能なのでしょうか?
私たちはラプラスの魔でもなんでもないので、人間が培ってきた知見と経験則によってのみ、なんとか予測を立てることができる程度で
そこを理性的に突き詰めれば何か見えてくるんじゃないのかな…?と思ってはいるんですが、、
例えばこうするとかも。
ジョブズ「自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に
決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、
己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、
きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。
そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。」
しかしなぜ死と隣り合わせであるという事実を直視するとこういうことが可能になるのでしょう?
死の意識というフィルターを通せば真に、自分にとって大切なことが、死ぬまでにこう生きていたいんだってことがはっきりわかってくるようなのですが
どうも、私はそうなれていない?ように思うのです 死を意識してはいるつもりなんですけどね
孫さんやジョブズのように"実際に死にかけた経験"がないから 死を想像してみてもそれは不明瞭で、漠然とした恐怖とかで その程度ではそういう状態にはなれないのかどうか、、、
更に返信。
>今、どうしてもやりたことが見つからないなら、焦っても無駄。君が時間を無駄にしてるんじゃないかって焦ってる間に、既にやりたいことを見つけた人達は何歩も先を行ってる。天職のことを英語でcallingと言う。>呼ばれちゃうんだよ、そういう人は。こっちから選ぶことなんて出来ない。君もいつか呼ばれるかもしれないし、もしかすると一生呼ばれないかもしれない。どっちにせよ、それに振り回されて迷うっていうのはそれ>自体が無駄。呼ばれた時にすぐ応えられるように準備しておくしかない。
やりたいことってのは、天職ってのは能動的に探すものではないのですか? "呼ばれた時にすぐ応えられるように準備しておくしかない" なるべく選択肢とか可能性が維持できるように
したいところですけれどもね。
>http://anond.hatelabo.jp/20100922183732 //長いのでURLだけ。
なるほど。ってことは一週間かけて考えて見つからなければαを放置して学力の向上におけるパフォーマンスを最大化させればいいのですね。
受験が迫っているため、一週間程度のリソースで見切りをつけ、当座は合格を目指し、大学という場でリソースを獲得し
"目標α発見可能性を最大化して実践" すれば良いのですね。 すごくわかりやすく、かつ的確な回答のように思えます。
しかし一週間ではなく二週間であれば見つかるかもしれないわけじゃないですか。
というか期間の問題ではなく、 目標αはまったく(もしくはこれ以上)発見されないであろう、その可能性はないであろうと判断することを私は求めているのです。
目標αはまったく、もしくは、もうこれ以上生まれないであろうと。 気が変わったりするもんですから、人間も。
定期的に そうであるかどうかを確かめるような手段が欲しいところなのですが。
また言いますが、それこそがGTDの本質なのではないのですか?
そういえば私の提唱した方法論についての反応がありませんね、、
今の私って、無数の目指すべきかどうかは判断されていない目標は見えているけど、それを目指すかどうかっていう判断材料になりえる情報(目の前に膨大に広がっています)
に溺れてる感じなんですよ。 "今" 何をすべきなのか? がわからないんです。
わからないから、わかろうとする。 そうやってるとただ情報の海を漂ってるだけになるんですよね、、困ったことに。
一連の考えを要約すると、 人生において早い段階で 「選択と集中」 をしたいんですよ。
自分は何者でもないし、なにか特別な才能があるわけでもない。
特に何ができるわけでもない、 そんな私ができることって 人より多く一つのことに時間を投入することなんですね。
そのためには「選択」が要ります。それも孫さんのいうように腹の底から、覚悟を伴った"選択" それほどまでの"選択"ができて人はやっと"集中"ができる。し続けられる。
集中ができるほどの、それほどまでの選択を私はしたいんですよね。 もちろんここでいうαである目標の達成を選ばないという選択もありますよ。
受験一筋なパターンです。それも一つの選択ですね。 例えばそういうパターンを選択し、集中できないのはαがあるからなんです。 とにかくこのα。これさえなんとかなれば。
またまた追記ですー
http://anond.hatelabo.jp/20100924192440
読んでて馬鹿馬鹿しいと思ったんだけれど、個人的な感想としては別に構わないんじゃないかという範囲だった。
コメント読むまではそう思ってたんだが、「ikebukuronomori」のコメントみてアホかと思ったので書き捨てていく。
すいません。私の趣旨としては、「オタク」やら「腐女子」への差別なんてのは、「《差別》としてまったく別のフェーズの話だろう?」ということなんです。世間的は「困った趣味」?となるかもしてませんが、それによる障害は私的な「好悪」のレベルで収まるでしょう。しかも、優先順位によっては自主的な「選択」の余地も残されていますよね(捨てろという意味ではなく、選択権があるという意味で)。それが大違いだということです。
この際、大衆に勝手にカテゴライズされた「オタク的」なるものがどれだけ差別的に働いてるかなんてこた書かない。
そんなのは、どうでもいい。
別のフェーズだからどうしたってんだろうか。
「オタクだって攻撃されているんだ、お前らだけが特別じゃない」的な、搦め手への防御しか考えなかったのだとしても反吐が出る。
挙句、絡んでくる連中は「面倒な連中」ときたもんだ。
正直。こういったコメントを掲示板とかに書くと、面倒な連中に絡まれる。それで「面倒くさいなー!」という理由で、その場からフェードアウトしてしまうんだけど(笑)。学校での「いじめ」を見て見ぬフリする、日和見の同級生みたいな感じか(ちょっと違うか)。
だけどね、一応同氏の名誉のためにたらればを書かせていただくよ。
十数年前の鳩山由紀夫はまだまともであった。
彼の中に議会制民主主義とは数の暴力で強行採決するものではなく、
問題点を洗い出して修正していくというフェーズが確かに脳内にあった。
与党自民党の法案、政策が正しければ、より多くの国民にとって有益であれば賛同し、
賛同しても問題点を洗い出す事は必要だと考えていた。
考えていただけでなく彼は実行した。
今から振り返るとさきがけから離れ、民主党を結党し、
民主党代表として小泉純一郎と論戦をした頃が彼にとって一番まともな時期だったと思う。
母、安子から多額の違法献金があったとしても自分自身の足で歩こうとしていた。
いや自分で決定して歩いていた。
自民党が立案しても国民のためになるんだったらそれでいいじゃないか。
小泉純一郎と話しあった末、合意したことを民主党に持ち帰り伝えた彼は、
何故か民主党内で吊し上げられ、罵られ、罵詈雑言を浴びせ続けられた。
そして一番出資したにもかかわらず代表の座を追われるはめになる。
何か言おうとするとよってたかって罵倒される。
この時点で完全に彼は壊れた。
壊れた人間が一国の総理。
壊した人間と壊れているにも関わらず祭り上げた人間は物理的に吊るされるべきでしょうね。
総理という護符を失ってから鳩山由紀夫は法に裁かれ、