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はてなキーワード: 人生の目的とは

2024-10-30

anond:20241030205657

この問いには、宗教オカルト区別が難しいとする疑問と、信仰合理性必要性への問いかけがまれています。これを考えるには、宗教オカルト定義役割の違いを整理しつつ、不合理であるもの意味を深掘りする必要があります

 

宗教オカルトの違い

宗教オカルトは、どちらも非科学的な領域に含まれ場合が多いですが、いくつかの重要な相違点があります宗教一般に、特定歴史教義道徳的価値観信者間の共同体意識を伴い、社会的に長く受け入れられてきたものです。一方、オカルト神秘的・超常的な現象への信仰や、個人体験や啓示に基づく要素が強く、体系的な教義道徳的基盤がない場合が多いです 。

 

宗教の不合理性とその価値

宗教が「不合理」だという指摘は、科学的根拠の不足や、死後の世界など検証不可能な要素に根ざしていますしかし、人間の行動や価値観には、必ずしも合理性けが求められるわけではありません。多くの宗教は、死後の救済や幸福感、人生の目的提供し、精神的な安らぎや共同体の絆を築くための役割果たしてきました。こうした側面は、必ずしも科学的根拠があるからこそ価値があるのではなく、非合理的であっても人々に意義をもたらすという側面が重要です 。

 

不合理の必要性について

宗教象徴的に示すような「不合理」なもの存在は、人間の心の多様なニーズ対応するものです。例えば、日本の伝統行事信仰も、社会的な絆や儀式性を高め、文化的アイデンティティを支える役割があります合理性に重きを置く社会でも、不合理なものが心の拠り所や心の整理の手段として機能する場合があります

 

矛盾点や留意

この問いにある「人間死ぬと無になる」という断定も、科学的に完全には証明されていません。無論、魂の存在も立証されていないため、いずれの側にも「完全な合理性」がないと言えます。また「不合理なもの不要」という前提には、感情文化的背景を軽視する面があるかもしれません。合理性を超えた価値が、特定社会文化において役立つ場合も多いことを認識する必要があります

 

まとめ

宗教オカルト価値は、必ずしも合理的根拠の有無だけでは測れません。不合理な信仰も、精神的な拠り所や社会的な絆の構築に寄与するものであり、人間にとって「不合理」が全く無意味だとは言い切れません。

anond:20241029185443

セックスってなんなんだろうね

 って、今さら何言ってんだよw 人生の目的のものに決まってるじゃんかよww

2024-10-26

仏教では、「我々はなぜ存在するのか」をどう解く?

仏教における「私たち一人一人がなぜ生を受け、ここに存在するのか」という問いは、個人存在人生意味を考える上で重要テーマです。仏教の教えでは、この問いに対して「縁起」(えんぎ)や「輪廻転生」の考え方が大きな役割果たしてます

 

1. 縁起の法

仏教では、すべてのものが「縁起」によって生まれ存在していると教えます。「縁起」とは、「あらゆる現象が他の原因や条件に依存して生じる」という考えで、「私たち存在も、無数の因縁が重なった結果として成り立っている」とされます。つまり私たちがここに生まれ存在するのは、過去からのさまざまな因縁(行動や選択、人とのつながりなど)が影響しているからだというわけです。

 

2. 輪廻カルマ

仏教では、個人存在人生は「輪廻転生」によって説明されることが多く、過去の行い(カルマ)が今世の生に影響を与えていると考えますカルマとは、行為とそれに伴う結果を指し、過去行為現在境遇性格、苦しみや幸福関係しているとされます過去世でのカルマ現在の生を生んでいるため、今私たちがここにいるのは、その行いの結果が現れているという考え方です。

 

3. 苦しみから解脱を目指す

仏教では、生を受ける理由として「苦しみの原因を知り、苦しみから解脱するため」とも説かれます仏教における生の意味は、煩悩や執着を手放し、智慧を持って解脱に至ることにあります。つまり、現世の生は、自己内面を磨き、苦しみを超えて真実を見つけるための機会と見なされています

 

まとめ

仏教においては、私たちが生を受け存在する理由は、「因果法則により存在が生じ、今生において苦しみから解脱するための機会が与えられている」と説明されます。したがって、自分自身ここにいる理由人生の目的を考えることは、苦しみを乗り越えるための道でもあるのです。

2024-10-20

anond:20241007212827

5,000万円で生涯暮らせる環境があれば、それでも良いと思うんだよね

日本ではなかなか難しい気がするけど、自給自足ができる田畑とかがあれば、けっこう行けたりするんだろうか?

働くことが人生の目的じゃないし、何より俺ももう働きたくない

2024-10-15

睡眠時間を削ってまで働くなんていうのは、人生の目的手段が反転してるとしか思えない

2024-10-08

そりゃ配信者や芸能人モテるわけだわ

anond:20241003123135

おもんない男性諸氏に少しだけアドバイスというか具体例

会話は感情を交えながら時に共感を示そうという、ごく当たり前の話だった。

それなのに結構な数の男が反発している。

男の俺からしても基礎的なことだと思うのだが、これに反発する奴らの会話って事務的でつまらないんだろうな……。

YouTubeで人気の配信者を参考にした方がいい。

これが面白い会話なのだ学習できるから

度肝を抜かれるエピソード、抑揚のある話し方、相手の話に対する当意即妙リアクション

一緒にいて楽しいと思わせてくれる。

人生の目的24時間のうち少しでも楽しい時間を増やすことだ。

会話は楽しい時間を過ごすための手段として重要度が高い。

から楽しい時間提供してくれる配信者や芸能人モテて当然なのだ

まらない会話の男が溢れているからこそ、元増田アドバイスを素直に実践できる男は、他の男を出し抜けるだろう。

2024-09-26

anond:20240925223045

ドルエイジになったら、スキルアップ目的にするのをやめて、残りの人生の目的を「体験」に全振りするんだ。

いまからあらた趣味をはじめるのでも、上手くなろうとするのではなく、死ぬ前にやっておきたいことを体験してみるのが目的だ。結果的に上手くなったらそれはそれでラッキー

子育てとか親と一緒に過ごすのとかも「体験」。本を読んだり、ゲームをしたりするのも「体験」。勉強したり、お金を稼ぐのも「体験」。

2024-09-22

anond:20240922115020

最高効率を求めるなら、生まれた瞬間に死ぬのがベスト。それができない我々はいます死ぬべき。

でもそうじゃないやろ? 人生の目的効率か?

楽しむために我々は生まれてきた。生きてるだけで儲かってるやん。死んだら借金できない。生きてるうちは借金して遊んで、返せなくなってから死ねば良い。

仕事は勤勉であるべき、他人迷惑をかけてはいけない に縛られすぎだ日本人は。仕事は怒られない程度にやればいいし、怒られたら「職場で大声出すクソガキまじウケる」と思えばいい。自分プライベートが誰かに迷惑かけても、相手はそれが仕事だ。仕事は鬱にならない程度にやるが正解、と思っていれば、自分迷惑をかけた誰かも、テキトーにやるぜ、迷惑と思わないレベルで。

生活ちゃんとやんなくてもいい。部屋{病気にならん程度の清潔さ、転ばない程度に整頓されてる}ならばオッケイだ。

2024-09-16

あおやまです

私にストーカーしてる人たちは私のキャリアや、私が結婚していないことを批判的に見ているようです

とにかく結婚についてのこだわりが大きいみたいです

今どきキャリア形成結婚の是非なんて人それぞれで、一般他人のそれについて気になるものではないと思うのですが、そういうことについてこだわりがあるようです

恐らく、その人は他人から恋愛にこだわるからキャリアがうまく積めないんだ、みたいなことを言われたりしてコンプレックスがあるのかもしれません

結婚して家族を儲けるのも一つの幸せだと思いますし、何者かを目指すことが全てではないという考えですが、その人はそうした各々の違いというものを許容できないようです

多分何かができないことについて「普通の人」と言われたりとか何かで傷ついたのを私に転嫁しているのでしょうが、私は別に人生の目的は人それぞれで良いと思っているので私に攻撃されても困るんです

2024-09-02

anond:20240424054302

今ごろ書き込み拝見しました。『人生の目的』という虎の絵が表紙の本を読んでみていただきたいです。2600年前に仏陀が明らかにした人間実相はとても心に響きます。僕も学生の頃悩みましたが、本当の生きる意味を知るきっかけになったのが、この本で紹介されている譬え話でした。

anond:20240827141027

人生の目的』という虎の絵が表紙の本を読んでみてください。僕も40代既婚子持ちですが、2600年前に仏陀が明らかにした人間実相はとても心に響きます。僕にとって、本当の生きる意味を知るきっかけになりました。機会があれば語り合いたいですね。

2024-09-01

2024/08/31

 ひとつノートの中に自分精神を集約するという考えがしばしば私の心を捉える。私の注意力は散漫であり、精神活動の成果をただ生活の諸場面に撒き散らして終わってしまう。だがそれを一か所に押しとどめることができれば、そこに何か、私の精神の輝きと呼べるようなものが見えてくるのではないか、と期待するのである

 私という薄ぼんやりした光は集光レンズ必要としている。

 瞑想がその役割果たしてくれればよいのにと思う。だがこうして左手文章を書くことのほうが、はるかに強く光を集める。(注:この文章は紙のノート利き手でない手で書いた文章を転記したものである

 瞑想によって心を集中させるには、私は自分に甘すぎるのかもしれない。単にコツが掴めていないだけかもしれないが。

 これから自分人生に何一つ希望が持てていない。希望というか、楽しみにしていることがない。またそのような対象ができるとも思えない。というのは、未来において何かが得られることを心待ちにするという心理状態が、もはや私においては不可能と感じられるからだ。

 つまりこういうことだ。手を尽くして欲しいものを掴み取ったとする。すると私は「手を尽くしたのでこれは当然のことだ。起こるべきことが起こっただけだ」と思うだろう。そこには高揚感や達成感はなく、自明疲労感が残されるだけである。では苦労なく手に入れたとしたらどうか。その場合は「ただそのようになっただけだ。私の人生とは関係がない」と思うだろう。

 要するに、私は非常に疲れやすいので、達成の小さな喜びは、達成に至るまでの労力に打ち消されてしまい、かといって単なる幸運自分の手柄とも思えない、ということである

 そもそも達成したい事柄自分にはほとんど存在しないのである物質成功はもはや煩わしいものとなっている。もちろん私は虚栄心にまみれた人間からちょっとした成功でしばしば調子に乗ってしまう。そしてしばらくして我に返り、みじめな気分になるのだ。それは、その時の喜びが、純粋に虚栄心に由来するのであって、自分の本当の望みとは関係ないことを知るからだ。何かが上手くいくたびにそれがわかるのだ。

 この記述自体が虚栄心によるのであって、私は自己認識に失敗している、と思う。

 仮に努力の末に二兆円の資産を得たとしよう(自己認識の上では、別にそれが欲しいわけではないが)。私は喜ぶだろうか?働く必要がなくなり、時間的自由を得られたことを自分ポジティブ評価するだろうとは思う。つまり少し安心するだろうということだ。

 私にとって物質成功とは、物質苦痛を減らす方法に過ぎない。苦痛は少ないに越したことはないが、耐えれば済む話でもある。快適に生きて快適に死んだとして、それをよい人生とは思えない。その意味で、快も苦痛も大差ないと考えている。

 私は異常に理想が高いのだ。あるいは、私の理想は、現代社会一般的なそれとは位相が異なっている。これは宗教的感情である

 もちろん、物質快楽よりも宗教的崇高さのほうが格上だから、と私の虚栄心がささやいているだけという可能性は否めない。というかたぶんそうなのだろう。自分のやる気の無さにもっともらしい説明を与えているだけだ。

 異様な無気力。これだけが真実であるしかしそれが真実であるなら、私の人生の目的が形而上学位相にの存在しうる(しないかもしれないが)、ということもまた真実ではないか

 「無気力治療できる」という通念が、社会物質的傾向を強化しているのだ。物質的傾向というのはここでは精神位相無視する傾向性のことを意味している。「我々に迎合しないのは甘えである。なぜならその手段は常に準備されているのだから」というわけだ。コンサータを飲んで労働にいそしまないのは甘えである

 勇気をもって NO を突き返そう。だがその NO が具体的にどのような形をとるのか分からいから困っている、と言える。出家か?だがこの道も物質世界に吸収されて久しい。

 手書きだと時間がかかる。続きは明日考えよう。

2024-08-30

「何のために生きるの」→「人生意味はない」

生きる理由を探すために参考にしたい、と言って人生の目的を問う増田

anond:20240827141027

人気コメントは「意味はない」。

ちょっと違うんじゃないか

2024-08-23

アラフォー独身子なしだけど、将来老衰死したい

35歳、彼氏なし 正社員年収600 一人暮らし

がんばったけどバリキャリにはなれなかった微妙キャリア

妊娠出産が怖くて怖くて、結婚は考えたことがない 

妊娠つわりや、出産の痛みのひどさ 股を麻酔無しでハサミで切って、患部をこすりながらでっかい物体を引きずり出すて どう考えても拷問でしょ‥ どうしても怖くて無理だった

セックスも、最初が痛いと聞いて怖くてやったことない

臆病者で苦痛がとにかく怖い こんなに恐ろしく痛みを避けられない世界に新たに命を作り出すのは罪だなという気持ちもある

めでたく35歳を迎え、生涯独身子なしが確定したので、これから人生どうすべきか困っている

人生の目的は決まっており、親をちゃんと看取り、自分自身老衰で苦しまずに逝くことだが、達成が難しそうで困っている

果たして独身老衰で穏やかに死ねるのだろうか

知り合いの老衰死者はみんな90を超えていた 90まで穏やかに生きることができるのか

いい老人ホームを選んでもらい、手続きをしてもらい、身元引受人になってもらい、定期的に会いに行ってちゃんと世話されるか確認してもらう

そういったことをしてくれる人は、私にはいない

線が悪いと誤嚥肺炎などで苦しい死を迎えることになる 肺炎死ぬのはつらいよ‥

金を貯めれば良いというものでもない

身よりもなく、頭もボケかけた老人から金なんていくらでも奪えるから

また、金を払ったからといってちゃんと世話をしてくれる保証はない なぜなら、世話をチェックしてくれる身内がないからだ 老人ホームでは身寄りのない老人が虐待されると聞く

わかってはいたけど、天涯孤独老人の心細さに、今から胸が冷える

親を看取ったら、その時点で安楽死をさせてもらえないだろうか‥?

将来の天涯孤独諸君はどう思う?今何かやってる終活ってある?

2024-08-18

anond:20240815013829

いいんだよ。

恋人との関係に限らず、親子だって夫婦だって企業とかだっていつかは変化したりなくなったりするもので、それはみんな死ぬまでの生業に過ぎない。

なんも残るものなんかひとつもなくて、そのときそのときを楽しんだり苦しんだり工夫したり諦めたりするその経験けが我々人類人生の目的なんだから

2024-08-02

離婚すると何がつらいのか

はじめに

人生で感じる大きなストレスの第1位が配偶者との死別、そして第2位が離婚です。

なぜ離婚はつらいのか、離婚経験がない人向けに語っていきます。楽しんでもらえれば幸いです。

なおこれは個人的意見が多分に含まれています

また自分離婚された側です。

離婚経験がない人から離婚理解されにくい

離婚するとまず「何か問題があった人」とみなされます

「生涯一緒にいようと約束したのに、その約束を守れなかった人」と思われます

他人から思われるというよりも、むしろ本人がいちばんそう思って苦しみます

結婚は、振り返ってみると、なんだかんだ命を懸けた判断でした。なんとなくであれ、気がついたらであれ、できちゃったからであれ、自分の長い人生を共にあゆむと決意した相手なので、離婚となるとその決意が底から抜けます

離婚経験した感情一覧

離婚で味わった感覚としては以下の通りです。長いので読みやすいように分割してます









このあたりを抱えたまま社会に生息することになります。なので結構キツいです。

対処

離婚経験がない人は、そっと見守りその話題を一切出すことな楽しい話題提供しつづけるのがベストです。へたに聞くとそこは地雷原です。もう何が地雷なのかわからないぐらいやばいです。

相手が話し始めたら聞いてあげるのがいいです。「わからなくてもいいからつらさを少しでもわかってほしい」というのがあります

離婚経験がない人から言われる助言ほどムカつくものはありません。聞かれるまで助言を言うべきではないです。というか聞かれても相手否定することを言わないほうがいいです。否定はめちゃくちゃ自分でしていて、「肯定される」「肯定する」ということを渇望しています。全肯定botになるのがよいです。

そんなことよりも「コーヒー飲む?」とか「音楽何すきでしたっけ」とか「ピザ頼むんですけど何食べますか?」とか「見て!ネコかわいい!」がいちばん心にしみます

これは離婚経験があっても同じことです。離婚経験があるからといって助言が参考になるわけではないです。一緒にすんな!みたいな感じになることもあります基本的には相手に寄り添うことが必要です。

孤立無援感の醸成

離婚者は弱っているので、誰かの一言や行動で簡単に懐くし、簡単絶望します。とにかく愛らしきものを感じると飛びつくのです。

なので悪意がある人に敏感です。悪意がある人は最初悪意があるわけではないと思いますしかし、その人の無理解や無神経さや誤解によって、離婚から次第に悪魔扱いされはじめます言葉にしなくても行動から「どうも自分悪魔扱いされてる」と感じるはずです。

そして、「そんなに悪魔として振舞ってほしいのなら、本当に悪魔みたいに振舞ってやろうか」と考えて、「ざまぁみろ」と鬱憤を晴らし、復讐する感じだと思います。これがセカンドレイプのようなものです。離婚者は、ありとあらゆる場所でこれをされています。なので、世の中に敵しかいないように感じ、悪魔しかいないように感じます

条件付きの愛でなければ愛されない、メリットを渡さなければ愛されないと考えてしまい、他人奴隷のような動きをしたりもします。

人間とはそういう生き物だ」という感覚です。

このあたりが非常につらいです。

離婚者の解決

信用できる人を徹底的に探しはじめます。もしくは人間について絶望しやがて1人で立つことを選び1人で生きていくのかもしれません。

それができなければ死を選ぶか、リビングデッドのように目的なく世の中を彷徨うかすると思います。とんでもなく人を疑う割に、やはり信用できる人を探しているのはおもしろいです。

離婚者を助けることによるメリット

離婚前の彼彼女状態が良ければ、離婚直後に彼彼女らにポジティブな手を差し伸べることは長期的に見て有益です(利用してはいけません。投資と見るとよいと思います)

人生で最も苦しいときに手を差し伸べてくれた相手には、非常に好感を覚えます

逆に自分逆境に陥ったときに助けてくれるかもしれません(必ず助けるとは言ってない)

また、手を差し伸べても、離婚者は手を振り払ったりします。いわゆる試し行動ですが、これに腹を立てて「なんだ!助けてやったのに!」と怒ると、敵対判定されます離婚者はとてもめんどくさいメンヘラなのです。

まとめ

N=1なので、べつにこれがすべてだと言うつもりはありません。

頭の片隅にでも置いておいてもらえると嬉しいです。

いま現在離婚した人を助けるためというよりかは、自分がいざ離婚してしまったときに、「そういえば…」と思い出して、現実に帰ってくるときにこの記事が役立つと思います

離婚前に読んだ方がいいです。離婚防止になるだろうし、離婚後に「このことか」となると思います

離婚後に読んでも「そんなん知っとるわ」となるはずです。

追記

主語はかなりデカかったと思います。振り返ってみると全体ではなく個人的感想ですね。不快な思いをさせてしまった方々に深く謝罪します。すみません

離婚経験者の中でも「自分はせいせいした」という意見もあって参考になりました。

自分リアルでは離婚の深い話はあまりしないようにしています

そもそも離婚したこと結婚経験があることをあまりしません。何か恋愛などについて聞かれたときは濁しています。もともとの自分が味方を作りにくく敵対されやすいので、潜在的な敵に弱点を晒さないというのもあります

たとえば離婚話をして離婚つらかったんですよ〜!と明るく言うと、未婚の人から結婚できたことのマウントだと思われて敵対されることもありました。

「信用できない人に自分の魂部分に関わる深い話をしてはいけない・弱さを見せると凛々として叩く人間がいるので自衛しなければならない」ということは大きな学びでした。

当時は「そんなんだから離婚されるんだよ」とか「メンヘラすぎて無理(笑)」とかの、まさに敵対的なブコメのような言葉が刃のように刺さっていました。ひどいものだと「死にたい」と言ったときに「振られたぐらいで死にたいの?じゃあ死ねよ」などと声をかけられたこともあります自分にとってはそうした発言セカンドレイプだと感じていました。弱っているときは、弱い者を叩きたい人が本当に多く集まってくるのだなと理解しました。

今は比較大丈夫ですが、多少イラッとはします。

言われたとき認知的不協和の解消をされているとか、公正世界仮説によって自分が悪いことにされている、とリフレーミングしています。「離婚でつらかった」という話を聞いて気分が良くなる人は少ないと思うので、「不快な思いをさせてきたこ話者が悪い!」と帰結するのは当然のことかもしれません。

現在はそういう人とリアルで遭遇すると、心の中で敵と判定して切断し、以後は社交辞令的・常識的な付き合いのみするようにしています

しかすると人間性の底を常に観察しているような目をしているかもしれません。

また、自分失恋はこの離婚が初失恋です。元配偶者依存していたのもありますが「他の人に絶対に行かずこの人と人生をともにしようと苦しいときも耐えていたのになんでこんな目に…」という気持ちが大きかったです。

離婚直後はとてつもなくモテず、ほとんど誰から相手にされませんでした。恋愛が久しぶりすぎて何もわからなかったし激病みという状態です。徐々に月日とともにモテるようになっていきました。

ただし、モテることは元配偶者への復讐がメインなこともあり、モテてもほとんど嬉しくありませんでした。

また回復過程で多くの人を恋愛的に傷つけたり逆に傷つけられたりしました。

配偶者への後悔の念が愛情となって相手に行くけれど、それは元配偶者への贖罪悔恨愛情から相手のことはちっとも好きではない。相手からは強烈に好かれるけど、好かれれば好かれるほど試し行為をして振ったり振られたりを繰り返していました。これはかなり長期間続きました。

現在はおかげさまで離婚の辛さは時折思い出す程度でほぼ立ち直っています

追記での自分語りが長くなりすぎましたが、1つのサンプルだと捉えてもらえ、誰かの助けになれば幸いです。

2024-06-25

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あれだけのことをした家康が、一生涯苦しみはなくならなかったと言っているのです。

天下をとったら重荷を下ろせるかと思ったけど、おろせなかった。

将軍になったら重荷を下ろせるかと思ったけど、おろせなかった。

幕府を開いたら重荷を下ろせるかと思ったけど、おろせなかった。

重荷を背負っていても、どこか路傍の石腰掛けて、一休みできればまだいいのですが、「遠き道を行くがごとし」と言っています

果てしなく歩き続けなければならなかったということです。

きりのない道、ゴールのない道を、重荷を背負って歩き続けなければならなかったということです。

それはなぜかというと、家康のやったことは、人生大事業ではなかったからです。

家康は、重荷さえ下ろせれば、天下統一しなくてもよかったし、将軍にならなくてもよかったのです。

私たちの生きている目的は、重荷を下ろすことにあるのです。

家康は、私たち人生目的と思っている仕事や、子育て趣味や生きがいは全部やったのです。

それでも重荷を下ろせず、果てしない道を歩き続けなければならなかったと言っています

死ぬまで苦しみ続けなければならなかったということです。

私たちは、苦しむ為に生まれてきたのではありません。

人生には、人間に生まれてよかったと大満足できる目的があるのです。

そこに到着したというゴールがあります

それを果たすことが本当の生きる意味なのです。

その本当の生きる目的を教えられたのが、浄土真宗の教えであり、平生業成の業なのです。

2024-06-24

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死ぬまで求道は素晴らしい」

これが常識になっている。

「道」とは、剣道柔道茶道華道書道囲碁将棋スポーツマンガグルメ映画芸術政治経済法律教育など、「どう生きるか」の営み全てといえる。

これらの道を死ぬまで求めることを礼賛するのは、「完成したら味気ない、進歩がなくなるじゃないか」と思うからだろう。

オリンピック金メダルに輝いた時は、「今まで生きてきた中で一番幸せ」「チョー気持ちいい」と満足しても、しばらくの間である。追われるプレッシャーとの戦いや、連覇を狙う新たなレースが、すぐに始まる。

ノーベル賞の受賞会見で、さらなる研究意欲が示されるのは、科学医学「道」にも、完成はないからだろう。

私たち日常も、仕事子育て趣味人間形成など、一生懸命になるほど、未熟さと目指す高みが知らされる「道」ばかりである

このように、どんな道にも完成がないのは、「無限の欲」に動かされているかである

キリのない欲を、死ぬまで求め続け、苦しみ続けているのが、「死ぬまで求道」の真相である。そんな道しかないのなら、苦しむために生まれてきたことになってしまう。「それでいいんだ」とどうしていえるだろうか。

だが、ただ一つだけ、完成のある道がある。

それが、「なぜ生きる」を明らかにされた親鸞聖人の「平生業成」の教えである

生きている今、「人間に生まれてよかった」と心の底から喜べる絶対幸福になるために私たちは生まれてきた。

その人生の目的にのみ、完成があるのだ。

死ぬまで求道」の「どう生きる」しか知らぬ人生悲劇だが、「なぜ生きる」(人生の目的)がハッキリすれば、それに向かって、全てが生かされるのである

2024-05-24

生きる目的が分からない

ボーッと増田を眺めてたら「生まれてくる意味」に悩んでる人がいて。

へぇ

と思ってたんだけど、コメントビックリした。

人生意味なんてない。人生を何に使うかを考えなよ」

あっ。

俺やん。

人生残り50年。

この人生を何に使ったらいいかからなくて詰んでる。

先週ニュースミャンマー民主化運動をやってたんだけど、不謹慎ながら、うらやましい。と思ってしまった。

子供たちのために国を民主化するのに一生を捧げる。

人生残機50年に「民主化の道具」という用途が決まってる。

人生目的があるって、なんて幸福だろう、と。

皆んなは、どんな目的があるんだ?

一生を、どんな用途に使う気でいるんだ?

どうすれば俺も目的を見つけられるだろう。

2024-05-10

自分への覚え書き

好き嫌いや愛憎という感情がある。

好き嫌いや愛憎は、個人価値観を反映する。価値観は快・不快と損得(利益と損失)を二軸とするマトリクス図で表せる。マトリクス図には「快く、利益を得る」「不快で、損失を受ける」「快いが、損失を受ける」「不快だが、利益を得る」という四つの区分ができる。このうち「快く、利益になる」が好き、「不快で、損失を受ける」が嫌いに分類される。ちなみに快・不快は生まれつきの性格によって決まり、損得は目的意識によって決まる。すなわち価値観先天的性格後天的人生の目的の二つが揃って初めて確かなものとなる。

快・不快と損得の正負が一致せず、好き嫌いに分類することのできない矛盾した感情がある。「快いが、損失を受ける」「不快だが、利益を得る」の2つである。この2つの感情は、個人内面では明確に区別されない、ほぼ同一のものである。この感情を元にした行動が対象利益になる場合、その感情は愛と呼ばれ、行動が対象に損害を与える場合は憎しみと呼ばれる。

すなわち愛憎は自己他者(あるいは行動主体対象)の快・不快や損得が対立する場合のみ生じる。対象の快や利益が自らの不快や損失となる場合、あるいはその逆の場合に、どちらを選んでどちらを犠牲にするかを選択した場合にのみ、愛や憎しみは生じる。

また、一人の人間内面にも対立する快・不快や損得が存在するため、しばしば自己への愛と自己への憎しみが同時発生する。いわゆるトレードオフである。この対立は、意識して調整する必要がある。

例えば食事について、食べ過ぎて太ることに悩む人がいるとする。食べることが快いのは先天的ことなので簡単には変化しない。太ることにより利益を得ていればそれは「食べることが好き」であり、問題は生じない。しかし太ることにより損失を受けると感じる場合は、自己への愛と自己への憎しみが同時に生じる状態となる。この時、調整の方針は3つある。一つは、愛憎を逆さまにすること、すなわち食べないという不快を選び、太るという損失を受けない状態にすることである二つ目は、快を得たまま利益を得られる方法を考えることである。三つ目は、食べることの快さそのもの否定するものであるが、これは生まれつきの性格否定するため実現は難しい。そして現実には、一つ目の方針として食事制限や拒食、二つ目方針として有酸素運動または過食嘔吐を選ぶ人がいる。そして愛と憎しみを調整せず、好きなだけ食べて自分の体型を嫌悪する人もいる。

愛憎の調整は難しいが、放置はやがて破滅を招く。どの方針を取ってもうまく調整できない場合は、損得の軸を見直す必要がある。すなわち人生の目的見直し場合によっては変更する必要が出てくる。しか人生の目的を変え、損得の軸を変更することは、既存価値観全体が変わることであり、好き嫌いの変化が生じることもある。一人の人間にとって多大なストレスであるため、このような転換はそれを上回るストレスに遭遇しない限りは滅多に行われない。

最近依存先を増やすといって、損得の軸を増やして複数価値観を行き来する方法が紹介されている。価値観の切り替えには、アスリートが用いるルーティン手法が参考になる。

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