はてなキーワード: ハードカバーとは
それは全く把握が逆で、欧米では書籍一般(=ハードカバー)の値段が非常に高かったんだよ。
安価な書籍(=ペーパーバック)は酸性紙で印刷クオリティも低く読み捨てるならまだしも保存できるようなものではない。
わりと普及している英語圏では、本を作るときに最初から電子書籍のフォーマットで作成し、それを紙でも出版しているという状態。
日本の場合、極少数の出版社を除き、まず紙ベースで書籍を作成し、その後何らかの方法で電子化するという手順を踏む。
もうこの時点で電子化がオプショナルな扱いを受けるにきまっている。
で、なんで紙ベースで作るかというと、英語圏だと紙の出版物だとハードカバーで装丁がしっかりした本くらいしか売れなくなってるんだけど、
日本だとまだ紙で作られた安価な書籍がまだまだ売れるから、別に電子化前提で作らなくともよくね?という現実があるから。
なんてのはたいていどこ言っても見かけるもんだ。
ところが、このテンプレラノベの一見した多さというのはライトノベルではなくて、アニメ業界の危なさを象徴するものだということに気づいていない。
今現在、ライトノベル業界はかつてないほど盛り上がっているといってもいい。
ライトノベルを過去に書いていた人たちはライト文芸や少しターゲットを大人向けに絞ったレーベルに新作を書き下ろすパターンが増えている。
また、なろうに代表されるWeb小説が増加し、かつてない盛り上がりを見せている。
既存のライトノベルレーベルだけを注力しているとその豊穣さに気づかないことが多い。
年間2~3千冊が刊行され、かつないほどに多様なジャンルが生み出され、市場規模もハードカバーなどを含めるとどんどん拡大して言っているのが現状だ。
ところが、アニメファンからライトノベルはテンプレ作品が多すぎるという発言をよく耳にする。
「最弱無敗の神装機龍」がテンプレート的であるという批判も耳にした。
しかし、冷静になってアニメーションの作品と、ライトノベルの作品を見比べれてみると強烈なまでにアニメの作品がテンプレート塗れなのに気づく。
テンプレラノベアニメといわれる作品がまさにそうなのだが似たようなラノベばかりアニメ化するのだ。
また、日常系、ロボットアニメなどの作品も毎回のように作られておりその画一的な作風にあまりにもおどろかされる。
そして気づく。
と。
はっきり言ってしまえば、アニメを通してみるといろんなメディア原作の作品(漫画・大衆小説・ラノベ)が画一的に見えてしまうのだ。
一読者としては、文庫本は小さすぎて文量のわりにページをめくる回数が多くて嫌、
質問の件に触れる前に前回の補足と今回の質問に関係する部分をお話ししたいと思います。話が長くなって申し訳ないです。くどかったら飛ばして下さい。
ものには何でも「値ごろ感」とでも言うべきものがあり、それはその値段の歴史でおおざっぱに決まっているようです。原価や需給のバランスというのは経済学的には価格決定の要素として解説されるのですが、マクロにはともかくミクロや日常レベルではそこまでビビッドは要因にはなりません(人間の目は店頭で需給バランスが可視化して見えるというわけではないですからね)。書籍で言えば文庫本って500円から1000円弱くらいだよなあ。ハードカバーって2000円から3000円くらい? そういう肌感覚です。もちろんこれは永遠不変のものではなく、値上げしたり値下げしたりがおこなわれ、受け入れられ日常化する繰り返しです。いまから10年ほど前、おそらく文庫本の平均価格は50円ほど安かったと思いますし、僕たちが子どもの頃(というとばらつきがありますが)週刊少年ジャンプは200円を切っていました。
前回はなした「ハードカバー3000円ほどで売り出して、後に廉価版で700円ほどの文庫で出し直す」というのも、この値ごろ感が関係した結果です。最初から3000円の文庫でだし、部数が伸びるに従って値段を下げることは(少なくとも法制上や原理上)不可能ではありませんが、みなさんの「値ごろ感」が邪魔をして、3000円の文庫は購入してもらえないのです。なかには「いいや俺は本棚圧縮のために喜んで金を払うね」という方もいらっしゃいますが、それは少数派です。
さて、値ごろ感の話ですが「ハードカバーって2000円から3000円くらい」の本は売れます。多くは売れません。しかし少なくとも、その規格の本が現在でも毎月出る程度には、世間に受容されているわけです。「この大きさの商品に2000円から3000円くらいは払うよ」というのが一定読者層からは理解を得られていると考えられます。それは文庫も同じです。文庫サイズで500円から1000円弱(じりじり値上がりしています)は世間に「まあ、そんな値段のアイテムだろう」と思われているわけです。パッケージと値段のセットはセットであって、たとえば「ハードカバーと文庫の間の大きさで、値段も真ん中くらい」とか自由に決めてもなかなか浸透しません。書棚のサイズの問題や整理の問題もありますし、なにしろ値ごろ感は皆さんの内部の常識ですからそれを固定化するのに時間やコストがかかります。
角川ホラー文庫とかあとハヤカワとかの、
さてやっとこの話が出来るのですが、「B6程度のソフトカバーで1000円~1500円程度の小説を売る」というのは、最近「発明」されて「根付いた」新しい値ごろ感なのです。
いやいや昔からあったよ、という指摘もあるとは思いますが、いまほど安定できたのはごく最近のことだと思います。(さらに以前はカッパノベルスなどのノベルス判型があった地位なのですが、仮想戦記没落のあたりで徐々に廃れて行ってしまいましたね)
この新しい値ごろ感は、Web小説などをきっかけに広まったように思います(ここは私見です。きちんと統計などを蒐集すれば別の経緯かもしれません)。
新しい値ごろ感の発見というのは、そのまま、新しい読者層の発見でもあります。いってみれば「文庫しか買ってくれないと思っていたライトノベルユーザーが、少し大きめの判型であれば1200円だしてくれるのだ!」というエウレカでした。はっきりとした統計データなどはもっていませんが、現場の肌触り的な感覚で言えば、a)初期ラノベを読んでいた読者の皆さんが年齢を重ね可処分所得が増えた結果、1200円程度のレーベルでも購入してくれるようになった。b)すべての国内大衆小説が多かれ少なかれラノベの影響を受ける中で、文庫判型ではないライトノベル(の隣接したなにか)が要請された――などの実感を持っています。
日常的に書店に行く皆さんであれば判ると思うのですが、ここ数年の間に書店ではB6判型ソフトカバーのライトノベル的な書籍がふえていませんか? Web小説が主流ですがそれ以外の参入や、ボカロ小説と呼ばれるものや、自動文学的なもの、推理小説とライトノベルのハイブリットのようなものも見られると思います。それはこの「新しい値ごろ感」=「新しい判型と価格のバランスポイント」が皆さんに受け入れられ、希望があると出版社が判断したからです。もちろんそれが全面的に善だとはいいません。まだ固まっていない規格でぼったくってやれ、というような出版社やレーベルがあるかもしれませんし、読者的には「文庫で良かったのに」と思われるかもしれません。
とはいえ、新しいチャレンジなど10して1つか2つ成功すれば万歳ですから、この「B6ソフトカバーで1000円~1500円」というチャレンジは、最近の出版業界では(かなり)成功した部類だと言えます。
http://anond.hatelabo.jp/20151118225408
まず、本当にどうしようもない(不可抗力ではなくしょうもないという意味)理由として、その作者さんと編集者さんのアクセスできるラインに制約があります。文庫しかアクセス出来なければ文庫で出しますし、文芸書的な編集部ならその判型で出すというのはあります。作家や編集者は、どんな装幀の本でも自由に出せるかと言えばそんな事もなく、編集部の主戦場にしてる判型や書店の本棚というものがあるのです。営業が影響力を発揮できる範囲は書店全域ではありません。まあ、これは後付けのところのしょうもない理由ですね。
より本質的な理由としては、「想定読者数(≒初版部数)」の問題があります。もし、新書、四六判、文庫など自由な判型が選びうる編集部で企画が進んだ場合、問題になるのは、この本を何人くらいの読者が求めてくれるか? という点です。本を作る編集やデザインの作業というのは、どんな装幀でも実はさして大きくコストが変わるわけではありません(紙代や印刷費は変わります。部数が増えれば安くなるので、文庫本で部数が多いものは負担少ないです)。つまり、書籍の値段の本質は「(作者が著述に要したコスト+編集やデザインにかかったコスト+必要な利益)を初期読者がシェアして負担する。」ということなのです。
たとえば「5000人しかかってくれそうにない」「だったら3000円にしないとまずいな」「じゃあ判型は文芸で表紙もハードカバーにするか」というような展開で判型は決まります。この段階で幾つか疑問が発生すると思います。
Q.3000円の文庫本じゃだめなの?
A.読者の皆さんは3000円の文庫は買ってくれないです。読書体験は文庫でも四六判でも(内容という意味で)大差はありませんが、物質商品としては購入してもらえなくなります。出版人として自分が関わった3000円の本がソーシャルゲームのガチャ6回に劣るとは思っていませんが、やはり売れない物は売れません。
Q.値段を下げて、つまり判型を最初から文庫にして薄利多売を狙う企業努力はしないの?
A.もちろんそういう戦略判断をする場合もあります。ベストセラー著者が最初から文庫に殴り込みなどと言うのはそう言ったパターンです。しかし大多数の著者において「値段を下げる」というのは部数増加には結びつきません。たとえば作家Aさんの本が欲しい人というのは値段に関係なく買ってくれる傾向があり、逆にこのAさんに興味がない人や知らない人は、値段を下げても買ってくれません。
以上のような条件から、出版ビジネスの値付けは「初期読者(=おおよそ初版部数に相関)で製作費用と最低限の売り上げを確保する」という方向性になっています。増刷や文庫化というのは収益のボーナスステージであって、その段階になると利益がどんどん出て黒字になるわけです。しかし、おそらく読者の皆さんが思っているほど、このステージに行ける本は多くはありません。多くの本は、最初の売り上げ確保のステージに失敗して赤字になるか、もしくはなんとかトントン程度の収益になります。文芸畑ではより顕著ですが、ライトノベルなどの文庫でも、一部の売れっ子作家さんの書籍とそうでない多数の作家さんの書籍の二極化が深刻です。
こういう状況に問題を感じないのか? といえば個人的には感じています。本をもっと安くすべきだという問題意識ではありません(日本の本は世界的に見ても安価だと思います)。どちらかというと、初期読者の人に十分報いていないと思うからです。ある作家を(ひいては編集部や出版社を)支えているのは初期読者(=初版で買ってくれるような読者)です。彼らの数が予想部数を通して本の値段や判型を決める基礎材料になっているのです。しかし、実際には彼らは文庫化ではなくその前の段階の大きな判型で購入するなど、経済的な負担を大きく受け持つ構造になっています。映像作品などには「初回限定特典」のような概念がありますが、出版では一般的ではありません。その点は不公平で歪だと考えています。元増田氏の言及したコメントは、この不公平感にたいして「初期読者はいち早く読める」という点を解説したかったのだと思いますが、それに対してどこまで価値を感じるかという点は読者次第だとも思っています。このへんは個人的な感想なので、出版業界の中にもいろんな意見があると考えて下さい。
読書にたいしてお金を使う習慣のある方、書店を日常行動の経路に含んでいる方、読書家という人種はある意味非常に高尚で「紙の書籍を手にとる楽しみ」「装幀を愛でる楽しみ」という点に価値を感じて下さっています。それはすごく嬉しいしありがたいことです。そういう文化があるおかげで命脈を保てる出版社が存在することも事実です。しかし一方でそれに甘えてこなかったか? といわれればたぶんそういう部分もあると思います。こういった読者の方は、読者であると同時にパトロン的な性格さえ持っているのです。
今後十年から二十年かけて、その文化も徐々に変わっていくと思います。どうなるかはまだ判らないのですが、そういうアーリー読者&パトロン的な文化を完全否定する方向ではなくて、リスペクトやコミュニティに対する利益還元出来る方向の出版方式や企画などが(もちろん試行錯誤の残骸の中からの芽生えとして)産まれてくることを願っています。
ちょっと違うけど ステキっぽいアイテムを配置したイラストがもはや嫌い
15年前くらいから感じていて最近全くイラストなんて見てないから曖昧なイメージしか持っていないし今まだそういうものが生き残っているのかわからないけれど
たとえば女の子の横顔かなんかの周りに各種ステキっぽいものを配置して何かシャレオツっぽい雰囲気はあるんだけどよくわからない 多分何かの影響を受けている
うまく説明できない 伝わるだろうか
例:
屋上 図書館 セーラー服 魚 リップクリーム 毛糸 子猫 水中 カメラ 花 花弁 ぬいぐるみ ケーキ クッキー ドーナツ カラーシュガー 万年筆 手紙 マニキュア 鹿 切手 標識 旗 石膏像 額縁 窓枠 鯨 鍵盤 鍵 楽器 歯車 鏡 香水 学ラン 剥製 鞄 家電 拡声器 果物 瓶 時計 靴下 調理器具 主にハードカバーの本 バス停 食器 ポット ティーカップ 切り抜き レコード アンプ ひも状のもの コード 譜面台 看板 金平糖 ベンチ 工具 箒 爬虫類 人形
魚は本当に多い
あれ俺行けんじゃね? と一瞬思いかけたが一番の問題として自分は37になったばかりのキモメンのゲーヲタおっさんという部分を思い出して冷静になる。
http://d.hatena.ne.jp/REV/20090810/p1
これ読んでて思い出したけど、自分は昔すごく本を大事にしていた。漫画から小説まで古本で買った本もすごく大事にしてた。本が好きだったから、本は大事に扱うもので、本は自分の知識の宝庫で、楽しみの象徴だったから。友人に貸した本にポテトチップスが挟まっていて、汚されて帰ってきた時はかなり怒ったこともあった。
子供のころはおこづかいは漫画と小説につぎ込み、図書館に通い、大人になってからはハードカバーの本を買って…幸せだなあ!って思っていた。
子供を産んで、子供がちいさいころに、ゲートをうまく越えたのか、いつもは入れなくしていた部屋の本をぐちゃぐちゃにしてたことがあった。すごく大事にしていた一群の本。一瞬かなりカッと来たけど、まあ、そんなのしまってない自分が悪いのはわかった。本より大事なのは、息子。当然である。
でもそれからは、本をあまり大事にしなくなってしまった気がする。本を買う分も減った。単に子育てや生活が忙しいからかもしれない。
でも、本がぐちゃぐちゃでカバーが全て外されていて、そしてその光景と、赤ん坊に怒りかけた自分を思い出すと、あの本に対する純粋な熱情みたいなのは、自分やいろんなことに良くないような気持ちになるし、そういう自分もいやになる。気持ちにけちがついてしまったような。子供のころの熱情を思い出して余計に悲しいなら、もう大事にするのはやめたい、みたいな。混じりけが無いような感動にけちがついてしまったら反動でもうどうでもいいやーってなったのかもしれない。
という息子がもう中学生になった。一緒に絵本を読むこともあったし、図書館にもいった。だんだん本を読むことが復活していった。今は私が昔読んだ本を息子が読んでいたりする。昔のような気持ちではないけど、本を読むこともまた増えた。私が昔読んでいたラノベの作者の本を息子が読んでいた。
本を集めはしなくなったけど、読むことは今でもやはりすばらしい。たのしい。
今朝、嫌な夢を見た。
それはフラッシュバックのような断片的な夢の集まりだった。最初は自分を第三者的視点で眺めている夢だった。ビデオの早送りのように自分の生活が映し出されている。会社、家、会社、家、たまに土日、まれに飲み会。それはちょっと年式の古いガソリンエンジンのアイドリング時のノイズのように、不安定さの中に一定のリズムを保っていた。そしてそれが改善する見込みは全くないように見えた。
次の夢では、床に古びた大判のハードカバーの本が置いてあった。布地の装丁の青い本だ。表紙が伏せてあったので裏返してみると「人生、思い通りに生きるのが一番の幸せ」と金箔でタイトルが刻まれてあった。著者の名前は自分の本名だった。言っていることは一見立派だが、実質を伴っていない点、むしろ安っぽく見えてしまう点で今の自分にそっくりだった。
また次の夢。グレイトフル・デッドのように小型のバンで各地を回るミュージシャンになっていた。暮らしは厳しいが毎日が楽しい。ギターは現実でも夢の中でも顔から火が出るほど下手くそだったが、夢の中ではグルーヴという謎のキーワードで裏打ちされて一定の評価を得ていた。
どこで足を踏み外したのだろう。自分は自分の好きなように生きると大昔に決めたはずだ。今は派遣社員として見事に社会の歯車にハメられている。なぜだ。なぜ抜け出せない。
気が付くと監獄か囚人の移送車のようなところで寺沢武一の「コブラ」の主人公と2人きりになっていた。「困ってるようだな。現ナマで30万持ってきな。あとは何とかしてやる。」と頼もしそうにコブラは言った。30万? はした金じゃないか。一瞬そう思った。しかし次の瞬間、バブルの余韻から抜けだせず、会計をなんでもクレジットで済ませている自分に気がついた。30万だと? 俺は今同じくらいの借金をしてるじゃないか。これか。これを止めればいいのか。こんな生活が俺を歯車にハメていたのか。
たった30万で何ができるっていうんだ。そう訝ってる俺にコブラは言った。
「心配すんなよ。任せておけ」
俺は答えた。
夢のお告げを信じるなどバカげているかも知れない。世には1億貯金しようなどという連中がいる中で30万の貯金など噴飯物かも知れない。けどいいんだ。どうせこのままだと同じ生活の繰り返し。信じてみようじゃないか。俺は生まれつき毛色が薄く、天パで猿顔をしている。俺はあんなにカッコよくないが、昔から、彼には一定の親近感を得ていた。あれは俺の中にいる別の俺だったのかも知れない。
今度こそ、今度こそ抜けだすんだ。この同じ循環から。