はてなキーワード: ハードカバーとは
エロゲに限らず、活躍の場所を求めて降りてきたクリエイターと、背伸びしたい年頃が出会ったときに波が生まれるんだよ。
なので何事にもタイミングってのがある。運といってもいい。
古くは映画でもロマンポルノってのがあった。普通の映画は撮らせてもらえなかった監督がそういう場で活躍した。
文庫だってそうだ。普通のハードカバーを出せない作家が雑誌連載から文庫というパターンもあった。
アニメもそう。映画をやらせてもらえない人がアニメなら…でヒットメーカーになった例は多い。
エロゲはアニメや映画、メジャーシーンをやれる資金がない人が活躍する場になったことがある。
ニコニコ動画だって、インディーズでも出せなかった人が活躍する場所として活気が溢れた。
ソシャゲもそうだった。
どれでもそうだが、成熟したシーンにあとから乗り込むというのは、ハードルがすごく上がってる。
今はとにかくそのサイクルが早い。あっという間にハードルが上がってレッドオーシャンになる。
エロゲはまだ長く続いている方だ。
でもなぜか覚えてるのは、一緒に図書委員になった子と朝早い時間に肛門に向かって走ってることだ
先いくよーwといいながら楽しげに走っていた記憶がある
中学生ではブラックジャックとブッダとはだしのゲンを読んでいた
高校ではラノベがたくさんあってリクエストしたらそれを入れてくれたからめっちゃ入り浸った
運動部だったのに昼休み図書室いったりして3年間で300冊くらい読んだ
部活帰りの駅で分厚いハードカバー版の模倣犯読んでたら、部活のキャプテン(脳筋系)が、「よく部活の後にそんなん読めるな」とあきれたように言ってきたのを覚えてる
行きの電車は英単語の小テストの勉強、帰りの電車は読書がおきまりのパターンだった
いさかこうたろうとかおんだりくとか
でもその友達に西尾威信すすめたら絵が萌えだからよまないといわれてがっかりした
が出始めたころでクビキリサイクル面白いとすすめたけど絵が・・・といわれて読んでもらえなかった
いつもマスクをしていてなんとなく活気がない感じだったけど、本の話をするときは目がキラキラしてた
そう伝えるとうれしそうにしていた
でも司書とかの方向には進まなかったのはなんでだろうなー
○昼食:なし
○調子
はややー。
天気がよかったので、お散歩してた。
散歩の途中で寄った本屋さんで、急に物欲が刺激されてしまい、クレジットカードで色々お買い物をしてしまった。
特にでかいのが、似鳥鶏ってミステリ作家の市立高校シリーズを7冊まとめ買いした。
四巻ぐらいまでは読んでたんだけど、表紙が新しくなってるし、実家に置きっ放しだしなので、買い直した。
それと、青崎有吾の裏染天馬シリーズの文庫版を2冊購入、ハードカバーでも持ってるけど欲しくなっちゃた。
ただ、3冊目以降は売ってなくて買えなかった。
月曜日に仕事行った帰り道に大きい本屋さんがいくつかあるから、そこに寄って買いたいなあ。
いや、鬱になってから小説の本は読めなくなってたんですけど、この間は古典部シリーズを6冊一気読みするぐらいには読めるんだよね。
なんだかんだで、お仕事も11月から初めて1年以上たってるし。
けど、未だに薬は手放せないし、月に一回ぐらい体調を崩してるけど、
それでも、やっぱり、お仕事を1年続けられて、本も読めるようになって……
さすがに「これも全部増田のおかげです」みたいな綺麗事を言うのは寒いけど、
でも、少しはこうやって自分の気持ちを文章にして、誰かに読んで貰えて反応をもらえることが、支えになっていた。
かも。
この日記を書き続けて、けっこうな年月が過ぎてて。
でも、なんとかかんとか、少しづつだけど、良い方向に進めている気がする。
多分、また調子の良い時と悪い時があって、きっと悪い時もくるんだろうけど、
そこまで極端な振れ幅で落ち込まないんじゃないかなあ、落ち込んだとしても回復が早くなってると思いたい。
なんか、最終回のポエミーな感じになっちゃったけど、今後もダラダラと続けていこうと思います。
特に目標とか目的もないし、なんなら他人が読んで面白いものを目指そうっていう気持ちすらもあんまりないけど、
楽しくゲームをして、楽しくお仕事ができて、楽しくご飯を食べる。
そういう、自分にとっての楽しい気持ちを集めていける場所にしていきたいです。
そして何より、この、はてな匿名ダイアリーが大好きだって気持ちを、ずっと大切にしたい。
とかなんとか良いこと書いた直後にあれなんだけど、今日は散歩と読書ばっかりでゲームはあんまりしてないんだよねー。
デイリー要素のみ。
未プレイ。
ログボのみ。
○ポケとる
悪ポケ全捕獲を目指して頑張り中。
未捕獲:39
捕獲済:35
現時点で最後のメインステージ登場悪ポケはシザリガーの527なので、あと227ステージ。
Sランク取得は110と少し。
現時点で最後のEXステージ登場悪ポケはサザンドラの400なので、あと290ステージ。
ログボのみ。
先月のシルバーウィークに有給含めて1週間のデジタル断ち旅行をしてみた。
旅行といっても、とある僻地にあるグランピング施設に泊まるってだけなんだが、
とにかくスマホとPCなど一切のデジタルガジェットに触れない、という企画旅行だった。
ちょっとググれば出てくるので、ステマと思われるのはイヤなので具体名は明かさないでおく。
そこは当然ながらWifiも飛んでいないし、スマホの電波すら怪しいレベル。
スマホとPCは受付で預けていて、どうしても連絡する必要があるときは受付にある電話かPCを借りるしかない。
(ちなみに、外部からも受付に電話をかけることが出来、その電話番号は告知されているので、緊急連絡は可能)
最初の1日目は地獄だった。具体的に言うと、退屈地獄だった。何をしたらいいかわからない。
普段いかにスマホに依存しているかよく分かる。ヒマになるとすぐにスマホを覗いていたわけだ。
ただ、ヒマになると面白いもので、周囲の色々なものに関心が出てくる。普段なら興味も持たないことだ。
例えば、周囲の自然や空の青さ、風の匂い、鳥の鳴き声、夕焼けの切なさ、月の明るさ、夜の静寂。
自分を取り囲むすべてのものがとてつもなく魅力的に感じられる。
古代の人たちが自然を歌に詠んだのは、こういう感性があってのことなんだな、と気付けた。
ただ、それらの写真を撮りたい衝動に何度も襲われたのには苦笑させられた。
2日目になると早くもスマホへの依存は薄まり、朝はしばらくぶりに快適な目覚めだった。
その日は雨だったが、雨音は読書中のBGMとしては申し分なく、ハードカバーの小説を一気読みしてしまった。
3日目以降になると、もはや驚異の体験。思考が驚くほどクリアなのだ!
次々と新しいアイデアが湧いてくる。仕事のことはもちろん、これからの人生の進路についても色々と有意義な思索を巡らせた。
今まで答えが出てこなかったものにも、「これだ!」と言える答えが次々と湧いてきて、知能指数が上がったような錯覚すら覚えた。
一日のうち、午前中は外でアウトドア活動を満喫し、昼下がりから思索をノートに書き連ねる日々を過ごした。
いつも寝る直前には適度に疲れを覚え、ベッドの中で無駄な考えをすることもなく、スッと寝入ることができた。
普段は睡眠薬に頼り切りだったので、これは驚くべき効果だった。
最終日、自分はもはやスマホの存在を半分忘れていた。そういえばそんなものもあったな、という気分。
受付で手続きを済まし、預けていたスマホとPCを受け取るが、電源を入れてみる気も起きず、そのまま帰途についた。
自宅に戻ると一気に現実感に引き戻されるような気がした。
スマホに電源を入れると、LINEとメールに大量の着信があり、それを見て思わず苦笑した。
ああ、またリアルに戻ってきたな、という実感。もはやネットもリアルの一部なんだな。
旅行から1週間くらいは普段よりも身体も思考も快調な状態が続いたけど、やはりしばらくすると元の状態に戻ってしまった。
でも、デジタル断ちすることにより、いかに人間が本来の能力を回復できるのか知っただけでも収穫があったと思う。
それは全く把握が逆で、欧米では書籍一般(=ハードカバー)の値段が非常に高かったんだよ。
安価な書籍(=ペーパーバック)は酸性紙で印刷クオリティも低く読み捨てるならまだしも保存できるようなものではない。
わりと普及している英語圏では、本を作るときに最初から電子書籍のフォーマットで作成し、それを紙でも出版しているという状態。
日本の場合、極少数の出版社を除き、まず紙ベースで書籍を作成し、その後何らかの方法で電子化するという手順を踏む。
もうこの時点で電子化がオプショナルな扱いを受けるにきまっている。
で、なんで紙ベースで作るかというと、英語圏だと紙の出版物だとハードカバーで装丁がしっかりした本くらいしか売れなくなってるんだけど、
日本だとまだ紙で作られた安価な書籍がまだまだ売れるから、別に電子化前提で作らなくともよくね?という現実があるから。
なんてのはたいていどこ言っても見かけるもんだ。
ところが、このテンプレラノベの一見した多さというのはライトノベルではなくて、アニメ業界の危なさを象徴するものだということに気づいていない。
今現在、ライトノベル業界はかつてないほど盛り上がっているといってもいい。
ライトノベルを過去に書いていた人たちはライト文芸や少しターゲットを大人向けに絞ったレーベルに新作を書き下ろすパターンが増えている。
また、なろうに代表されるWeb小説が増加し、かつてない盛り上がりを見せている。
既存のライトノベルレーベルだけを注力しているとその豊穣さに気づかないことが多い。
年間2~3千冊が刊行され、かつないほどに多様なジャンルが生み出され、市場規模もハードカバーなどを含めるとどんどん拡大して言っているのが現状だ。
ところが、アニメファンからライトノベルはテンプレ作品が多すぎるという発言をよく耳にする。
「最弱無敗の神装機龍」がテンプレート的であるという批判も耳にした。
しかし、冷静になってアニメーションの作品と、ライトノベルの作品を見比べれてみると強烈なまでにアニメの作品がテンプレート塗れなのに気づく。
テンプレラノベアニメといわれる作品がまさにそうなのだが似たようなラノベばかりアニメ化するのだ。
また、日常系、ロボットアニメなどの作品も毎回のように作られておりその画一的な作風にあまりにもおどろかされる。
そして気づく。
と。
はっきり言ってしまえば、アニメを通してみるといろんなメディア原作の作品(漫画・大衆小説・ラノベ)が画一的に見えてしまうのだ。
一読者としては、文庫本は小さすぎて文量のわりにページをめくる回数が多くて嫌、
質問の件に触れる前に前回の補足と今回の質問に関係する部分をお話ししたいと思います。話が長くなって申し訳ないです。くどかったら飛ばして下さい。
ものには何でも「値ごろ感」とでも言うべきものがあり、それはその値段の歴史でおおざっぱに決まっているようです。原価や需給のバランスというのは経済学的には価格決定の要素として解説されるのですが、マクロにはともかくミクロや日常レベルではそこまでビビッドは要因にはなりません(人間の目は店頭で需給バランスが可視化して見えるというわけではないですからね)。書籍で言えば文庫本って500円から1000円弱くらいだよなあ。ハードカバーって2000円から3000円くらい? そういう肌感覚です。もちろんこれは永遠不変のものではなく、値上げしたり値下げしたりがおこなわれ、受け入れられ日常化する繰り返しです。いまから10年ほど前、おそらく文庫本の平均価格は50円ほど安かったと思いますし、僕たちが子どもの頃(というとばらつきがありますが)週刊少年ジャンプは200円を切っていました。
前回はなした「ハードカバー3000円ほどで売り出して、後に廉価版で700円ほどの文庫で出し直す」というのも、この値ごろ感が関係した結果です。最初から3000円の文庫でだし、部数が伸びるに従って値段を下げることは(少なくとも法制上や原理上)不可能ではありませんが、みなさんの「値ごろ感」が邪魔をして、3000円の文庫は購入してもらえないのです。なかには「いいや俺は本棚圧縮のために喜んで金を払うね」という方もいらっしゃいますが、それは少数派です。
さて、値ごろ感の話ですが「ハードカバーって2000円から3000円くらい」の本は売れます。多くは売れません。しかし少なくとも、その規格の本が現在でも毎月出る程度には、世間に受容されているわけです。「この大きさの商品に2000円から3000円くらいは払うよ」というのが一定読者層からは理解を得られていると考えられます。それは文庫も同じです。文庫サイズで500円から1000円弱(じりじり値上がりしています)は世間に「まあ、そんな値段のアイテムだろう」と思われているわけです。パッケージと値段のセットはセットであって、たとえば「ハードカバーと文庫の間の大きさで、値段も真ん中くらい」とか自由に決めてもなかなか浸透しません。書棚のサイズの問題や整理の問題もありますし、なにしろ値ごろ感は皆さんの内部の常識ですからそれを固定化するのに時間やコストがかかります。
角川ホラー文庫とかあとハヤカワとかの、
さてやっとこの話が出来るのですが、「B6程度のソフトカバーで1000円~1500円程度の小説を売る」というのは、最近「発明」されて「根付いた」新しい値ごろ感なのです。
いやいや昔からあったよ、という指摘もあるとは思いますが、いまほど安定できたのはごく最近のことだと思います。(さらに以前はカッパノベルスなどのノベルス判型があった地位なのですが、仮想戦記没落のあたりで徐々に廃れて行ってしまいましたね)
この新しい値ごろ感は、Web小説などをきっかけに広まったように思います(ここは私見です。きちんと統計などを蒐集すれば別の経緯かもしれません)。
新しい値ごろ感の発見というのは、そのまま、新しい読者層の発見でもあります。いってみれば「文庫しか買ってくれないと思っていたライトノベルユーザーが、少し大きめの判型であれば1200円だしてくれるのだ!」というエウレカでした。はっきりとした統計データなどはもっていませんが、現場の肌触り的な感覚で言えば、a)初期ラノベを読んでいた読者の皆さんが年齢を重ね可処分所得が増えた結果、1200円程度のレーベルでも購入してくれるようになった。b)すべての国内大衆小説が多かれ少なかれラノベの影響を受ける中で、文庫判型ではないライトノベル(の隣接したなにか)が要請された――などの実感を持っています。
日常的に書店に行く皆さんであれば判ると思うのですが、ここ数年の間に書店ではB6判型ソフトカバーのライトノベル的な書籍がふえていませんか? Web小説が主流ですがそれ以外の参入や、ボカロ小説と呼ばれるものや、自動文学的なもの、推理小説とライトノベルのハイブリットのようなものも見られると思います。それはこの「新しい値ごろ感」=「新しい判型と価格のバランスポイント」が皆さんに受け入れられ、希望があると出版社が判断したからです。もちろんそれが全面的に善だとはいいません。まだ固まっていない規格でぼったくってやれ、というような出版社やレーベルがあるかもしれませんし、読者的には「文庫で良かったのに」と思われるかもしれません。
とはいえ、新しいチャレンジなど10して1つか2つ成功すれば万歳ですから、この「B6ソフトカバーで1000円~1500円」というチャレンジは、最近の出版業界では(かなり)成功した部類だと言えます。
http://anond.hatelabo.jp/20151118225408
まず、本当にどうしようもない(不可抗力ではなくしょうもないという意味)理由として、その作者さんと編集者さんのアクセスできるラインに制約があります。文庫しかアクセス出来なければ文庫で出しますし、文芸書的な編集部ならその判型で出すというのはあります。作家や編集者は、どんな装幀の本でも自由に出せるかと言えばそんな事もなく、編集部の主戦場にしてる判型や書店の本棚というものがあるのです。営業が影響力を発揮できる範囲は書店全域ではありません。まあ、これは後付けのところのしょうもない理由ですね。
より本質的な理由としては、「想定読者数(≒初版部数)」の問題があります。もし、新書、四六判、文庫など自由な判型が選びうる編集部で企画が進んだ場合、問題になるのは、この本を何人くらいの読者が求めてくれるか? という点です。本を作る編集やデザインの作業というのは、どんな装幀でも実はさして大きくコストが変わるわけではありません(紙代や印刷費は変わります。部数が増えれば安くなるので、文庫本で部数が多いものは負担少ないです)。つまり、書籍の値段の本質は「(作者が著述に要したコスト+編集やデザインにかかったコスト+必要な利益)を初期読者がシェアして負担する。」ということなのです。
たとえば「5000人しかかってくれそうにない」「だったら3000円にしないとまずいな」「じゃあ判型は文芸で表紙もハードカバーにするか」というような展開で判型は決まります。この段階で幾つか疑問が発生すると思います。
Q.3000円の文庫本じゃだめなの?
A.読者の皆さんは3000円の文庫は買ってくれないです。読書体験は文庫でも四六判でも(内容という意味で)大差はありませんが、物質商品としては購入してもらえなくなります。出版人として自分が関わった3000円の本がソーシャルゲームのガチャ6回に劣るとは思っていませんが、やはり売れない物は売れません。
Q.値段を下げて、つまり判型を最初から文庫にして薄利多売を狙う企業努力はしないの?
A.もちろんそういう戦略判断をする場合もあります。ベストセラー著者が最初から文庫に殴り込みなどと言うのはそう言ったパターンです。しかし大多数の著者において「値段を下げる」というのは部数増加には結びつきません。たとえば作家Aさんの本が欲しい人というのは値段に関係なく買ってくれる傾向があり、逆にこのAさんに興味がない人や知らない人は、値段を下げても買ってくれません。
以上のような条件から、出版ビジネスの値付けは「初期読者(=おおよそ初版部数に相関)で製作費用と最低限の売り上げを確保する」という方向性になっています。増刷や文庫化というのは収益のボーナスステージであって、その段階になると利益がどんどん出て黒字になるわけです。しかし、おそらく読者の皆さんが思っているほど、このステージに行ける本は多くはありません。多くの本は、最初の売り上げ確保のステージに失敗して赤字になるか、もしくはなんとかトントン程度の収益になります。文芸畑ではより顕著ですが、ライトノベルなどの文庫でも、一部の売れっ子作家さんの書籍とそうでない多数の作家さんの書籍の二極化が深刻です。
こういう状況に問題を感じないのか? といえば個人的には感じています。本をもっと安くすべきだという問題意識ではありません(日本の本は世界的に見ても安価だと思います)。どちらかというと、初期読者の人に十分報いていないと思うからです。ある作家を(ひいては編集部や出版社を)支えているのは初期読者(=初版で買ってくれるような読者)です。彼らの数が予想部数を通して本の値段や判型を決める基礎材料になっているのです。しかし、実際には彼らは文庫化ではなくその前の段階の大きな判型で購入するなど、経済的な負担を大きく受け持つ構造になっています。映像作品などには「初回限定特典」のような概念がありますが、出版では一般的ではありません。その点は不公平で歪だと考えています。元増田氏の言及したコメントは、この不公平感にたいして「初期読者はいち早く読める」という点を解説したかったのだと思いますが、それに対してどこまで価値を感じるかという点は読者次第だとも思っています。このへんは個人的な感想なので、出版業界の中にもいろんな意見があると考えて下さい。
読書にたいしてお金を使う習慣のある方、書店を日常行動の経路に含んでいる方、読書家という人種はある意味非常に高尚で「紙の書籍を手にとる楽しみ」「装幀を愛でる楽しみ」という点に価値を感じて下さっています。それはすごく嬉しいしありがたいことです。そういう文化があるおかげで命脈を保てる出版社が存在することも事実です。しかし一方でそれに甘えてこなかったか? といわれればたぶんそういう部分もあると思います。こういった読者の方は、読者であると同時にパトロン的な性格さえ持っているのです。
今後十年から二十年かけて、その文化も徐々に変わっていくと思います。どうなるかはまだ判らないのですが、そういうアーリー読者&パトロン的な文化を完全否定する方向ではなくて、リスペクトやコミュニティに対する利益還元出来る方向の出版方式や企画などが(もちろん試行錯誤の残骸の中からの芽生えとして)産まれてくることを願っています。