はてなキーワード: 責任とは
政治家自身が、政治界はひどい男尊女卑で女性がまともに活躍するのは難しいって口を揃えていってるんだけど
女ってだけでミソジニーおっさんが攻撃しに現れるよね?工学とか医学とかもそう
女性活躍を待つ前に責任持って躾のなってない男を廃棄処理しなよ
稼得役割の代わりに女に家事育児させて経済力奪ってるんだからただの差別コストだし
欧米でAAが慎重なのは権力層の女性割合が過半数を超える業界も珍しくないからですが。ちょっとでも海外に行けば女性が多いからすぐわかるよね。日本はその段階じゃないんだけど(笑)
目とか耳とかついてない人?
専業主婦は単に、家事育児負担をぜんぶ丸投げして押し付けて女性に経済的制裁をくらわせて長時間労働推奨した男さんの政策失敗の話だから
今も既得権益を守りたいみっともない男さんが頑なに守り続けてるよね?経済制裁やめて早く家事育児の責任を負えばいいんじゃないかな?
「女の腐ったような奴」なんて言うけど日本の女さんはほんと幼稚なんだよね
本来女子供として庇護されるべきで、でもそこから脱却すると自分たちで言い出したんだから当然責任はまとわりついてくる
https://togetter.com/li/1905869
御覧の通り日本の女さんはなるべく責任を回避しようという傾向にある
なので自分の意見を述べずに「察して」もらい「動いて」もらい「選択肢を与えて」もらうことが戦略になってる
口だけ開けて待ってるガキなんだよね
そのくせいっちょ前にNOだけは言い出したりする
いらないだろ、人権。周りに流されてるだけじゃん。そっちの方が楽なんでしょ?
太田出版のWebマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。
私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。
映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載
①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった
②自分はアメリカン・ニュー・シネマが好きではない
③60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった
④ニュー・ハリウッドは反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられる
⑤アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流
北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨とみえる。
①「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている
②アメリカン・ニューシネマはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー
③アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない
④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える
⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー
⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評的カテゴリー自体が差別的
須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかりやすくまとまっている
①New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っている
と述べているが、これは明らかに違っていて、
北村氏がいうように、
決めたのは私じゃなくて今までの批評家
つまり、北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ。
ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズそのものに反発している。
北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張である「そもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的なカテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である。
(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)
「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
と言っており、
北村氏は
という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象の範囲が違うようだ。
須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーそのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーそのものであると同時に、カテゴリーに含まれる作品群も含まれると私は解釈した。
須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。
60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。
これに対して須藤氏は、
だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。
「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的
この点、北村氏も、
>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています<<
と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があることは認識しているように見える。
つまり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズに問題があるという点では、共通の認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネマ解釈は一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。
しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリ・サスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究も白人男性の監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
少なくとも発端となった連載は素人が映画をより深く鑑賞する視点を提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点と須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。
たとえば北村紗衣氏がいうように、
というところが、「ダーティ・ハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティ・ハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。
そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから
ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。
serio フェミニストはありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットでキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。
→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている
hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな
→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性をさらけ出しているのがキモい
jassmaz 文学理論や批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的である。87年出版のアラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』を読もう。
→「この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは
tokuniimihanai あちらの記事は批判相手の職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる
takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間が大量発生するのが歪み
→態度を保留するって、どういう立場?後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい
ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ
→そもそも商業媒体とブログの応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。
二人に対するクソブコメの数々は
権威主義的で映画そのものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わずに他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能群
国民の質問に24時間いつでも回答するAI岸田文雄があったとして、使えるかって言ったら無理でしょう?AIの発言に岸田文雄本人が責任持てないもん。
これまでの演説、著書、講演記録を全部学習させても無理だよ。岸田文雄を語った投資詐欺くらいしか用途はないんだ。
同じ理由で、コールセンターをAIに置き換えるのは無理。自信満々に嘘を言うから自由に回答なんかさせられない。なんでも聞けるようで質問集にない質問には何一つ答えてくれないのはそういうこと。
企業はAIに責任がある仕事は任せられない。結局は事務とコーディング補助だけ。
生成AIがカネにならないから、胴元は赤字補填しないとならない。GoogleやYouTube、Instagramは広告だらけになる。広告の先には著名人の名前を騙った詐欺。詐欺まで酷くなくてもフェイク動画。ますます生成AIの評判が悪くなる。結局、生成AIがカネを生んでくれないと、この流れは変わらないんだけど、やっぱりカネにならない。
生理が軽い女がとにかく羨ましい!!まあ本人に責任のある話じゃないから妬ましいではなく羨ましい止まりなんだけど、もう羨ましくてしょうがない。生理激重女が月にかける生理用品代や各種薬剤、そして激重であることによる数え切れない機会損失、考え始めたらもう生理が軽いことは才能であり生涯年収をも左右するんじゃないかと。はーとにかく羨ましい。
とはいえ生理が軽い女と体を交換してやろうかって今ここで悪魔に言われたらちょっと悩む。女の体のめんどくささって生理だけじゃない。ムダ毛の濃さとかお顔立ちとか体臭の問題とか、あとスタイルの良さに内臓の強さに……意外と採点項目はたくさんあって、あくまで私が今ムカついているのは自分の生理に関しての才能のなさなので、生理が軽くなる代わりにそれ以外の部分でガチャ回すってなるとちょっと遠慮かなってなる。割と自分に満足してるんだな、自分。
別にお顔立ちやスタイルがいいわけでも内臓が強いわけでもないんだけど、それでもムダ毛と体臭については楽させてもらってるなって自覚があって、今の自分には結構愛着がある。
あ、ちなみにピルは飲めません。血が固まるので。
日本女は日本でものすごい勢いで行われまくってる中韓差別に対しては何かしたの?在日差別は?慰安婦は?そこから中韓の女性たちを守ってきたか?
あまり間近で見たことないからそんなに差別が酷いとは思わなかったって?
それ男に「自分が性犯罪に遭う訳じゃないからだよね、自分たちマジョリティに差別を止める責任があるよね。知らなかったっていうのもマジョリティ特権だよ?放置することが既にクズ」っていつも言ってるやつじゃん
大学までレスリングをやってたし、社会人になってからMMAを始めて試合とかも出てるし結構頑丈。
増田には3歳の子供がいる。共働きで増田はフルタイム、夫は時短勤務。
保育園の送り迎えは持ち回り。
だいたい月の半分はお迎えと送りを増田がやってる感じ。
家事は9割増田、育児は8割増田。増田はフルタイム勤務で専門職ということもあり収入は夫より300万くらい多い。
夫は増田より8歳年上ということもあり、体も心も増田より繊細で、仕事と育児で目一杯と言う感じ。
増田は恵まれた体なので夫に配慮するのは当然だと思ってたんだけど、
この前夫に「最近、育児と仕事がオーバーワーク気味で辛い。鬱かもしれない。」と言われた。
これまで増田は夫になるべく負担をかけたくないと思って頑張ってきた。
子供が生まれてから3年、リフレッシュの時間が必要ということで、毎週月曜、水曜、金曜の夜は
夫はフリーで家にいない。フリーの日は16時に仕事を終え、映画に行ったりマッサージに行ったり碁会所に行ったりしているらしい。
(ちなみに増田にはフリーの日はない。半年に1回部下達と飲みに行くくらい)
まだ足りないの?これ以上に家事育児分担を増やさなきゃいけないのか?
と思ったら突然不公平感を覚えるようになって
やる気が出ない…親に相談したら「大いなる力には大いなる責任が伴うと思って頑張れ」と言われた。
って感じだったし、やれたんだけど、
今はなんか虚脱感があってなんかこう…つらい。
こんな時間になっても寝られない。
ネット上では様々な暴言が溢れているように見える。ある人は「チー牛はタヒね」と言い、別の人は「弱者男性はキモい」と言う。これらの言葉は、現代社会の深層に潜む闇を映し出す鏡だ。人間の本質的な攻撃性や、社会の歪みが、匿名性という仮面の下で露わになる。しかし、最近はこういう低俗な連中にも寛容になってきた。彼らを「子どもたち」と思うようにしたのである。
この視点の転換は、ある日突然訪れた。自分の地域のbakusaiを覗き込んだときのことだ。そこには頭の悪そうな書き込みが溢れていた。その瞬間、啓示のように一つの考えが浮かんだ。愚かなことを言うのは頭が悪いからであり、頭が悪いということは、精神が子どもだということだ。
この洞察は、人間の本質に対する深い問いを投げかける。我々は本当に理性的な存在なのだろうか。それとも、理性という薄皮の下に、原始的な衝動や感情が渦巻いているのだろうか。ネット上の暴言は、文明社会という仮面の下に潜む人間の野生性の表出なのかもしれない。
子どもたちは社会が責任を持って育てていかなければならない。この命題は、単なる教育論を超えて、人間存在の根本的な在り方を問うている。我々は、自らの内なる「子ども」とどう向き合うべきなのか。社会は、その集合的な「子どもらしさ」をどのように昇華させ、成熟へと導くべきなのか。
人間の意識は、表層と深層が複雑に絡み合った多層構造を成している。表面に現れる攻撃的な言動は、その人の内面にある深い葛藤や不安の一端に過ぎない。我々は、この意識の深層にまで降りていき、そこに潜む真の欲求や恐れを理解しようと努める必要がある。
さらに、個人の意識の奥底には、人類全体が共有する原初的なイメージや衝動が眠っているのかもしれない。この集合的な無意識は、時として社会全体の行動パターンや価値観を形作る。ネット上の暴言は、この集合的無意識が現代社会という文脈の中で歪んだ形で表出したものだと考えることもできる。
しかし、この「症状」を単に抑圧したり、無視したりするのではなく、それを社会の成長のための機会として捉え直す必要がある。子どもたちが成長過程で様々な試行錯誤を経験するように、社会もまた、こうした現象を通じて自己を再定義し、より高次の段階へと進化していく可能性を秘めている。
結局のところ、我々一人一人が「子どもたち」なのかもしれない。完璧な大人など存在せず、皆が日々成長し続けているのだ。その意味で、ネット上の暴言を発する人々も、我々自身も、同じ宇宙船地球号に乗った旅人なのだ。互いの未熟さを認め合い、寛容さを持って接することで、人類全体がより成熟した段階へと進んでいけるのではないだろうか。
人間が抱える問題を個々人の責任に還元した所でキリがないから、社会の構造にその原因を見出してそれに対処する構造を作っていこうね。でもナチスによる悪行は代議政じゃなくてヒトラーが全部悪いよ。
民主主義はみんなが意見できるシステムだよ。でも人権は絶対だし、自己決定を阻むような施策や立法は最悪のポピュリズムだよ。でも必要なパターナリズムもあるから、それは認められるべきだね。民主主義はベストではないけど、他に良いシステムも見当たらないね!
的なアレ、ふ〜〜〜ん……っていう気持ちになる。
地元の駅前が再開発だなんだって色々やってるんだけど全然進んでなくて
昔あった百貨店のビルが取り壊されて更地になったんだけど、前はそのビルで影になって見えなかった駅舎が車道からも見えるようになって
こんなに駅前って広かったんだなあ
でも変化してくのって別に街並みだけじゃないんだよね
同級生は結婚して所帯を持ってる人だって大分増えたし、仕事でも役職付きになったり後輩とか新人を指導する立場になったり、社会人としての責任とか守るべきものを抱えてる人も多くなった
今の会社は中小零細企業で新人採る余裕もなくて、自分は役職付きでもないし直属の後輩がいるわけでもないから、入社して10年だけどずーっとヒラで下っ端
プライベートだって恋人はいないし、同じく地元にいる独身の友達とばっかり遊んでる
昔からの付き合いだから気心知れてるし居心地も良いけど、その居心地の良さにずーっと浸かってると、周りは変わっていくのに自分だけ取り残されてるのかなって
久々にミクシィにログインしたら自分以外誰もログインしてなくて切ない気持ちになったときみたいな
変わらなきゃいけないよなって思うけど、でも変わるって言っても何をすればいいんだろ
交戦国相手には、どんな殺人も一旦受容されるんだから、こんなところで「取外し可能な倫理観」の話なんかしてんじゃねぇよ、としか思わん。
諦めろジャップ。
イスラエルのガザ侵攻の問題点は「イスラエルは国として認定してないけど、諸外国は国家認定しているところに戦争ふっかけている(ここがイスラエル批判の基盤。子どもの殺害とかそんなのは外交にとっては些末な話)が、イスラエルはガザ住民を“テロリスト支援者”としているので、一方的な殺害OK(ゲリラであれば子供でも殺してOK)」っていう人権擁護側もダブルバインドになっている点。
テロ反撃の戦争は、大国は何回も容赦なくやってるし、実際反イスラエル頭目共も何回も殺している。
イスラエルだけダメ!なんてのは典型的な反米主義のお先棒担ぎなのであり、ガザ平定あるいはハマス全滅までは戦争犯罪責任も問われない(前例主義はあらゆるものの基盤。否定するには法理と時間をかけろ。その間の損害は受容しろ。それが民主主義プロセス)。