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はてなキーワード: 東海道とは

2020-08-25


今年のお盆浮世絵ばかり見ていた気がする。一週間ほどの休みのうち、三日間浮世絵を見に行ったのだから美術エンジョイ勢の私にしてはかなりの頻度だと思うし、そのすべてが浮世絵というのも、今までになかった行動パターンだ。楽しかったので、ちょっと振り返ってみる。

最初に行ったのが六本木の「おいしい浮世絵展」だ。友人に誘われて行くことになったのだけれども、食をテーマにしていたため、浮世絵の細かい歴史を知らない自分でもかなり楽しめた。加えて、江戸の町や東海道沿いの名所は今でも残っていることが多く、そこに残る名店の様子を紹介する映像も流されていたため、食欲をそそられた。美術館ではあまり味わえない気分だ。江戸時代の食事レシピが載っている本や、当時醤油を詰めて輸出した磁器も展示してあった。

鑑賞後はお腹が空いたのと、美術館の意図したとおりに和風のものが食べたくなったので、私たちそば和菓子屋わらび餅をいただいた。そこには和風パフェもあって、抹茶好きの私としてはそれにも心惹かれたのだけれど、結局はわらび餅に落ち着いた。パフェはどう見ても夕食前に食べられる量でもなかったからだ。私たちはそこで友人の姪っ子の話だとか、仕事の苦労とかについて話した。もちろん、見たばかりの絵でどれが良かったかについてもたくさん語った。

私にとって面白かったのは、歌舞伎座舞台にした浮世絵だ。お客さんが桟敷で弁当を食べたり酒盛りをしたり好き勝手に楽しんでいる。中には花道を横切って弁当を届ける姿もあり、なんともおおらかな世界だったらしい。それと、そこにいたのが美男美女モブ顔の男性だけだったのが興味深かった。北斎なんかだと、いわゆる美人ではないけれども愛敬のあるおばちゃんが出てくる。なんでだろう。というか、北斎漫画、今でも普通に笑えるので好き。

次に行ったのが上野の「The UKIYO-E 2020 -日本三大浮世絵コレクション」だ。たっぷり二百点近くあるので、あっさり見ても三時間くらいかかってしまった。「おいしい浮世絵展」もそのくらいかかった気がするが、友人と一緒だったので多少は疲れが紛れた。だが、今回は一人だったので、より疲れた。私はジョギングが好きだし、友人と富士山に登ったこともあるので、体力はそこそこあるのだけれど、立ち止まっては進み、立ち止まっては進み、を繰り返す美術館では、結構ぐったりしてしまう。

とはいえ疲れた以上に収穫があった。おおよそ年代順に並んでいたので、浮世絵がどのようにして技法精緻にしていったのかがよくわかったし、歌舞伎俳優グラビアみたいな雰囲気から市井の人々も描くようになっていく様子も楽しめた。

でも、私はやっぱり北斎広重が一番好きみたいだ。この二人はどちらかといえば風景画家で、だから他の人に比べると人物が画面に占める大きさは小さい。当たり前といえば当たり前なのだけれど、私が北斎を見たときにそれっぽいと感じる理由の一つが言語化できたので、何となく気持ちが良くなった。

浮世絵には詳しくなくても、どういうわけか心に残る作品はあるもので、以前に世田谷かどこかで見た広重の「亀戸梅屋舗」と再会できたのはうれしかった。もちろん、浮世絵から一枚ごとに刷り具合が違うのだけれど、私が好きな雰囲気のもの出会えたので、なんだかうれしかった。企画展でよその美術館にあった作品と思いがけなく再会できると、やっぱりうれしい。

あと、驚いたのが歌麿の「娘日時計」という、女性の様子を時刻ごとに描いた作品集だ。やっていることが美人時計と全く同じではないか

あと、思わず笑ってしまったのがこんな事件寛政五年に幕府モデルとなった実在人物名を浮世絵に書くことを禁じたときに、浮世絵師が対抗して、人物名を簡単に解読できる判じ絵表記したらしい。たとえば、歯と手と菜っ葉の絵を描いて、「はてな」と読ませるみたいな感じだ。誰がモデルにした作品なのか簡単に読めるのだけれど、幕府としては人名を書いていないのでそれで良しとしたらしい。お役所出版社の腹の探り合いみたいだ。それか、ちょっとエッチなたとえだけれど、成人向け漫画修正しているんだかしていないんだかわからないアソコの黒線みたい。

ところで、何の関係もないけど、上野駅の公園改札の場所が変わって、信号を渡らずとも済むようになった。あそこは人が溜まっていて危なかったし、いい変化だ。そうそう、横浜駅にも中央南改札と南改札をつなぐ通路ができて、階段上り下りしてホームを経由しなくても移動できるようになったし、新しいエキナカのお店ができた。今度行ってみよう。

最後に行ったのが表参道の「月岡芳年 血と妖艶」。とてもよかった。女性図は、ちょっとしたしぐさからこの人はどんな性格なのかが伝わってくる。細かい動作どれ一つとして見逃せない。血みどろの絵もただ凄惨なだけではなく、今にも動き出しそうだ。たぶん、動き出す直前の瞬間をとらえているから、次にどうなるかが私に見えるのかもしれない。日本歴史歌舞伎取材した作品もよかった。歌舞伎は詳しくないけれど、太田記念美術館は概して解説が細やかなので、どの話のどんな場面かがよくわかる。歌舞伎は三回くらいしか見に行ったことがないけれど、またちょっと行きたくなった。それとも、著名な歌舞伎のあらすじを勉強するのが先かな。

ここでは作品一覧の紙がもらえたのはよかった。新型コロナウイルスのせいか、以前は配っていたのに前の二つの美術館は置いていなかったので、作品名前メモするのが大変だった。

なお、ここは前編と後編に別れていて、今月の終わりに展示替えをするらしい。時間があったらまた行ってみたい。上野のほうも展示替えがあるけれど、また三時間じっくり見るのはちょっと大変かな。

最後に、自分でも意外だったこと。はじめのうちは、美術館はふらりと行くのがいいのであって、予約するのは面倒だな、って考えていたんだけれども、慣れたらそうでもなかった。そういう意味では、三回連続して美術館に行ったのは正解だった。それに、浮世絵のことが前よりも好きになれたので、そういう意味でもよかった。

気が向いたら九月も浮世絵見に行くかもしれない。

ちなみに、今週の末には、横浜トリエンナーレ現代美術を見に行くのだけれど、それも楽しみだ。

2020-08-12

anond:20200811170757

「出発は西/南だが実際の戦いでは東に回り込んでるから東の勝ち!」とか言ったら、関ヶ原だって東海道を南から攻め上がる東軍と、岐阜を押さえて北で待ち構える西軍の戦いやぞ。

2020-08-11

anond:20200811074638

東海道は西にあるんだけど、東ってなのっていて、地図を見ると実際 東 僕たちの謎

どうみても西にあるんだけど 東なんだよ

2020-07-19

旅と地元

旅が嫌いな人はいないと思います。大昔から伊勢参り東海道など旅にまつわる話は多くあって、人は移動することで意識を変えて経験を積んできました。今私たちが旅で非日常を感じるということを、昔の人も感じていたのでしょうか。

移動には危険がともないます。食べることに困っていなければ、そもそもその場に留まり同じ活動を続けていたほうが安全長生きできるでしょう。でも私たち観光といって、まだ見ぬ景色に憧れ、その場から動いていきます。旅は人の本能みたいなもので、ある人は見たい、ある人は知りたい、食べたい、ここにないものに興味を持ちます

持っているものより、持っていないもののほうが大事なんです。家の窓から見る地元より知らない高台からみた街の景色地元商店街より地元にない専門店。食べ慣れた御飯より味わったことのない食材人間の知りたいという欲求を旅で満たしていく。

もちろん私もここじゃないどこかを歩きたいし、新鮮な景色をじっくり眺めていたいです。でも地元があるから、よその良さがわかる。地元のなにを知っているかと聞かれたら、なにもないと言ってしまいたくなる。それが悔しい。

なぜそう思うのか、私の同級生は皆ここから出て行った。といっても過疎地域で12人の同級生だった。私だけがこの町にいる。正直、よそで仕事を得て家庭をつくって家があって暮らしていることが羨ましいと少し思う。でも別にここが嫌いではないし、好きだとも思う。趣味登山釣りができるし友達も少しいる。なんだいいところじゃないかしかしそれは私の範囲の良さであって、ほかの人たちから見たらいいところなんてなく、ただの田舎に見えるだろう。

もっと地元を知る必要がある。20年以上生きたこ場所もっと理解する必要がある。そしてそれを広く伝える技術も。どうすれば「ここはいいとこです」と自然に言えるようになるか。もっと知識が欲しい。

2020-06-27

anond:20200627112946

許してくれとは言われても どのみち死ぬかもなというときに 許さないと言っても みんな しょうがないっておもう

6%の人に死んでくれって うーん。と そりゃいうだろうな。しかも地上案で 既存東海道ではだめ といったあとだから

anond:20200627111504

そもそも関西関東を結ぶ鉄道東海道を通ったのはそう明治政府が決定したからで、最初中山道を通る予定だった。

東海道のおかげというよりは、明治政府の決定のおかげ。

anond:20200627110441

東海道のおかげであって東海道新幹線のおかげではないということでしょ

anond:20200627101947

かつて静岡では丹那トンネル掘ったとき熱海だったかで水が枯れたって事例はあるし

その文脈があるんじゃないかなと

そもそも東海道自体、通過交通であって迷惑施設って要素もあるだろうからなあと。

2020-03-18

これからすごく下品で罰当たりなことを言います、ごめんなさい

昔は女性器のことをホトと呼んだそうです。古事記では秀処という漢字を当てています。くぼんだ土地にホトとついているのは、それが語源だとされることもあるそうです。東海道保土ヶ谷も、そうした説があります

それはそれで構わないのですが、仏ということばは「ホト」に「ケ」で陰毛という意味になってしまうのではないでしょうか。大変罰当たりで申し訳がないのですが、仏教を受容した飛鳥時代日本人は、どうして「ブッダ」を「ほとけ」と訳したのでしょうか。

ブッダ」と「ほとけ」は音が似ていなくもない気がするのですが、当時の日本人は、「ほとけ」という言葉を聞いて、淫猥意味に聞こえなかったのでしょうか。上代特殊仮名遣いか何かで、別の音だったのでしょうか。

たいそう罰当たりで恐縮なのですが、仏教古代日本語に詳しい方に、お尋ねしたく思います

本当に下品で罰当たりでごめんなさい。でも気になっているんです。

2020-03-12

anond:20200312112236

じゃあ電車アカンのか。東海道北海道飛行機も。大声じゃなきゃいいとか無いし

正直年寄り病気持ちのために自粛したくないんだよ。2週間は我慢する。それくらいは仕方ない。

でも1ヶ月、2ヶ月は正直辛い。むしろ重症化して肺炎になって死ぬ人は死んでくれ。そしたらSARS-Cov-2もただの風邪菌になるし

2020-02-23

[]anond:20200223190101

森之助と更科姫は諏訪ヶ原をよく治めていた。

あるとき夫婦山中で道に迷い、たまたま村上家の武芸指南役・井上九郎と再会した。

村上家を出奔したのち隠居していたとのことで、喜んだ森之助は、鹿之助を鍛えてもらえるよう頼みこんだ。

井上九郎のもとで五年ほど鍛えられ、鹿之助は武芸百般に通ずる立派な若武者となった。

その頃、信玄はすでにこの世を去り、武田勝頼が後を継いでいた。

馬場美濃守は己の死を覚悟し、もはや武田家の滅びは避けがたいので城を退去せよと森之助に伝えた。

まさに長篠の戦いにおいて武田大敗を喫し、馬場美濃守が討ち死にするに至り、北条家の軍勢諏訪原城に押し寄せた。

森之助は馬場美濃守の言うとおりに城から去ることにした。

城にはただ更科姫と鹿之助だけが残り、母子北条軍勢をさんざんに打ち破ったあと、二人は落ち延びていった。

ところがその途上、更科姫と鹿之助の夢枕に、承久の乱で亡くなった中御門宗行という貴族の霊が立ち、

鹿之助は見どころがあるので、自分の子である中御門宗教を頼っていけば立身出世は間違いなしである、と告げた。

更科姫は、これぞ霊夢であろうと鹿之助を励まし、鹿之助は惜しみつつも母と別れてひとり京へ向かうこととなった。

東海道を進む鹿之助は、その途中の村にて、盗みをして焼き殺されるところの大谷猪之助という怪力の若者を助けた。

猪之助によると、いまは落ちぶれ、母のために盗みに手を出してしまったのものの、元は武士の息子であると言うので、

鹿之助はいずれ身を立てたのちには家臣として迎えると約して、二人は主従の契りを結んだ。

その猪之助が、鹿之助へ料理を振る舞おうと、大きな古猪と格闘してこれを退治したので、

鹿之助は激賞して、彼に「大谷古猪之助」と改名するよう言ったのであった。

2020-02-14

anond:20200214103828

保育園以来の友達んち

・親戚のいる最寄り新幹線駅×5

福山岡山広島福岡小倉(うしろの2つ東海道じゃないけど)

2019-12-20

anond:20191220082746

東海道53次とかかわらばんとか、

どうだろうな

東方見聞録日本の食い物があったとしても挿絵があるかどうか

という世界から

研究機関でないとわからん

2019-12-18

anond:20191218113607

東海道京浜東北かに乗るけど降りる駅の近くになったら扉の前に行くことなんて不可能だよ。

2019-09-13

anond:20190913135736

雑誌も置いてあったし充電も各席にあった気がする。

東海道しか乗ったことないけど。山陽新幹線のほうはもっと豪華ときいたことがあるよ。

もうしばらく乗ってないけれど。あの光量落とした電球色の空間もいい。

値段に見合っているかというと、ゆっくり気持ちよく過ごせる、という意味ではちょっと高いけど価値はあると思う。

2019-09-09

anond:20190909163739

仕事いってねぇぞって話なんだが

あと交通機関普通に乱れたぞ

環状線運転見合わせが相次いだし東海道山陽線も朝は動いてない

夜が明けてから動いたってのは同じ

2019-06-14

anond:20190614142330

神奈川弁と言われることが多いが実は三河弁東海道経由で伝わった説が有力

まぁくだけた標準語なんぞではない明らかな方言

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2019-02-13

47都道府県 所在地を間違える高校 代表

平成31年2月15日コメント追記

北海道

北海道福島商業高等学校福島町には青函トンネルあるし有名か)

東北

青森千葉学園高等学校私立。たぶん千葉さんがつくった)

岩手福岡高等学校

宮城松山高等学校

秋田国学高等学校国士舘でも国学院でもない)

山形北村高等学校音頭は踊らない)

福島川口高等学校鉄ヲタは「会津川口」でインプットされてる)

関東

茨城東海高等学校原発あるし有名か)

栃木壬生高等学校(駅名にもあるし間違えないと思われるが、歴ヲタは釣れるかも)

群馬常磐高等学校(陸ヲタはむしろ常識だろうけど)

埼玉霞ヶ関高等学校霞ヶ関カンツリー倶楽部やアリさんマークの引越社で有名になったけど)

千葉鶴舞桜が丘高等学校愛知でも東京でもない、もちろん京都でもない)

東京富士高等学校(こう見えて公立

神奈川金沢高等学校赤い電車ヲタは「文庫」「八景」で間違えないか

北陸

新潟荒川高等学校

富山福岡高等学校

石川飯田高等学校

福井三国高等学校三国競艇あるし有名。ただこれ以上間違える高校なかった)

中部

山梨ひばりが丘高等学校パルコはないし二郎もない)

長野池田工業高等学校(むしろ長野アバンギャルド高校名が多い↓)

岐阜益田清風高等学校(陸ヲタには有名。読み方は「ました」)

東海

静岡横須賀高等学校神奈川はもちろん、愛知にもあるため東海道は全部横須賀

愛知福江高等学校

三重代々木高等学校私立三重は激戦区↓。三重だけで打線組める)

近畿

滋賀愛知高等学校(読み方は「えち」読み方でも混乱を招く)

京都南陽高等学校公立は洛つけすぎ、私立は京つけすぎ)

大阪渋谷高等学校

兵庫自由ケ丘高等学校

奈良郡山高等学校金魚あるし甲子園何度も出てるし有名。でも他の候補がない)

和歌山:桐蔭高等学校甲子園何度も出てるし有名。でも他の候補がない)

中国

鳥取日野高等学校

島根:大東高等学校

岡山高松農業高等学校備中高松城で有名。なお、香川県には高松農業はない。あるのは県立農業経営高等学校

広島千代田高等学校広島も激戦区↓)

山口宇部フロンティア大学付属高松高等学校山口と見せかけて香川と見せかけてやっぱり山口

四国

徳島名西高等学校名古屋の西ではない)

香川飯山高等学校

愛媛小松高等学校

高知高岡高等学校

九州

福岡京都高等学校(読み方は「みやこ」森脇健児が来てた)

佐賀白石高等学校(陸ヲタには有名。でも他の候補(ry

長崎小浜高等学校Yes, We canのあとはどうなった?)

熊本大津高等学校

大分三重総合高等学校

宮崎福島高等学校

鹿児島福山高等学校

沖縄石川高等学校

惜しくも地方大会で敗退

池田清里伊達双葉北海道

十和田増田湯沢ゆり支援学校秋田

基督独立学園(山形

日々輝学園(栃木

豊岡松山松山女子埼玉

清水若松あずさ第一千葉

飛鳥国立千早安部学院・日出(東京

志賀・アットマーク国際(石川

エクセラン・コードアカデミー地球環境長野俊英・松本秀峰・UWC ISAK Japan(長野

池田鶯谷・聖マリア学院岐阜

湖西・吉原・星陵(静岡)(松井秀喜は星稜)

上野川越神戸青山三重

佐野鶴見商業豊島長野福井三島淀川清流・むらの高等支援学校大阪

千種阪神特別支援学校三田学園百合学院兵庫

宇治勝山西大寺松山鹿島朝日岡山

加計賀茂祇園北・河内佐伯豊田沼田府中・AICJ(広島

清水太平洋学園(高知

小郡新宮常磐福岡

鳴滝・純心女子聖母騎士長崎

みなみのかぜ支援学校宮崎)(そういや南の風風力3ってどこへ行ったんだろう)

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