はてなキーワード: 最後の晩餐とは
知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分の気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。
2歳6カ月のバハムートが死んだ。
バハムートの平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。
でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。
もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。
バハムートは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。
お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。
でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢をしたこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。
それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。
生きている間はあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、それをよくよく触ってみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。
しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじバハムートだった。
2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。
直前まで本当に元気で、いやもしかしたら元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常がバハムートにも私にもあると信じていたと思う。
もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。
そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。
そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。
バハムートにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。
もし、その日その時間にケージから出さなかったら死ななかったのかもしれない、その日は寒かったから、ちょっと早いけど暖房でもつけていれば死ななかったのかもしれない、1週間前に掃除をしなかったら今日死ぬことはなかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。
それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点で今日死んだのか、分からないから辛い。
まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。
でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとバハムートは成仏できないらしい。そしてバハムートの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。
そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、実際自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってずっと美味しいものを食べてくれたらいいなと思うし、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。
残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にバハムートが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、バハムートに限らずそれは犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。
私は今でもケージに向かってバハムートの名を呼ぶし、バハムートの匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とバハムートの日常は変化し続けながらも、まだそこにある。
知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分の気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。
2歳6カ月のハムスターが死んだ。
ハムスターの平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。
でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。
もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。
ハムは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。
お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。
でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢をしたこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。
それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。
死んでいるとすぐに思った。こんなところで寝るはずがない。
触れるのが怖かった。冷たくなってしまったハムに触れてしまうのがとても怖かった。
生きている間こそあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、冷たくなったハムを抱いてみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。
しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじハムだった。
2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。
直前まで本当に元気で、いや元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常がハムスターにも私にもあると信じていたと思う。
もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。
そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。
そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。
ハムにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。
もし、その日その時間にケージから出さなかったら死ななかったのかもしれない、ちょっと早いけど暖房でもつけていれば死ななかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。
それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点で今日死んだのか、分からないから辛い。
まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。
でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとハムは成仏できないらしい。そしてハムの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。
そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、いざ自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってこいよ、天国でずっと美味しいものを食べてくれよ、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。
残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にハムが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、ハムに限らずそれはお家の犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。
私は今でもケージに向かってハムの名を呼ぶし、ハムの匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とハムの日常は変化し続けながらも、まだそこにある。
寝台では浅く眠っただけだった。起きるとそこは横浜駅を発車したばかりで、車内は人々がまばらに朝の眠気を横たえていた。
金曜、仕事が定時を少し回って終わった。
エンジニアとして現場研修をしている私は、帰路につくためバスから電車へと乗り換える赤羽駅にいた。
――どこか遠くへ行きたい。
そう思いたち、改札を抜ける前にみどりの窓口へと向かった。
用意されたのは、琴平行きの座席特急券。それを手にしたあと、大宮にある自宅へ一旦戻って、身支度を始めた。
最低限の替えの着替えと、歯ブラシ、タオル、文庫本をリュックサックへ突っ込み、口座から少しだけ金を引き出し、気付くと東京駅9番線ホームでサンライズ瀬戸を待っていた。
入線してきた赤色と薄茶色の車体に乗り込み、間もなく発車したサンライズ瀬戸号の車窓へ目を向ける。
通過する品川駅にはまだ多くの通勤客が帰路を急ぐ。彼らを裏切るかのようにして、私は東京を離れた。
小学生の遠足のときのように、興奮で眠りは浅く、然し心地の良い揺れはまるで子守唄のようだ。
沼津を過ぎるまではそんな調子で、しかし体がいよいよ慣れたのか、それからは岡山で出雲市行きと分割するまでぐっすり眠った。
瀬戸大橋線に入り、車窓には瀬戸の島々が並ぶ。それまで横になっていた私は、その時を待っていたかのようにすぐさま体を起こし、洗面台で丁寧に顔を洗い、歯を磨いた。高松では多くの乗客が下車し、それから延長運転を行う琴平行きの車内は伽藍であった。
定刻で琴平に到着したサンライズ瀬戸は、しばらくホームに身を横たえ、旅を始める我々を見送っていたように思えた。
観光案内所も閉まっている。まだ9時前だった。
急ぐ必要もない私は、とりあえずその足で気の向くままに、初めて足を踏み入れた四国の道を歩き出した。
金比羅山の長大で急な階段参道はやはり足に堪えたが、御本宮からの眺めを見てそれも消えてしまった。
初詣からまだ数週間足らずで再びお参りをするのは変な気分だったが、この旅の無事を願い、参道列に加わり手を合わせる。
いきあたりばったりでこのあとの予定も何一つ決まってはいない。不思議とそれが心地よかった。
来た道をそのまま下り、琴平駅に戻る間に土産の品をいくつか買った。飴、手ぬぐい(今治のものだ)、饅頭。
すれ違う人々は意外にもスーツ姿の団体が多く、1人の私は割に目立った。それもまた不思議と気分を高揚させた。
予讃線に乗り継ぐ多度津駅で近くの食堂に入り、日替わりの昼食を注文した。
予想はしていたが、メニューにはナチュラルにうどんが設定されていた。かき揚げやおにぎりと一緒にいただく。もちろんとても美味しかった。
予讃線下り松山行きの特急いしづち、しおかぜの自由席は半分ほど埋まっていた。
空いている窓側席に腰を下ろし、金比羅山で蓄えた疲労をしばしの間、癒やす。
文庫本を開いてすぐ眠ってしまい、松山駅の到着案内で目を覚ますことになった。
松山駅を降りると、失礼ながら想定していた風景とはだいぶ違った街並みが広がった。
すぐそばに伊予鉄道の路面電車が走り、人々が休日らしい顔持ちで道を往きかっていた。
バスターミナルにて1Dayパスを購入し、中心市街である大街道電停に向かう。
大街道電停は松山城の目と鼻の先にあり、電停を降りる瞬間、目に入った。
琴平駅では松山方面に向かうか、高知方面に向かうか一寸悩んだのだが、松山に来て正解だったようだ。非常に立派な天守閣だった。
城を横目にマンホールカード収集のため坂の上の雲ミュージアムに赴き、1時間ほど観賞したのち、喫茶店に入りたばこを吸った。
道後温泉行きの時刻に合わせて喫茶店を出て、再び路面電車に乗り込む。
きっとこのまま温泉宿に泊まるのだろう。車内は温泉客でほぼ席が埋まっていた。
道後温泉街は本当に賑わっていて、改めて今日が土曜日だということを私に再認識させた。
――少し急がなければ。
人混みを縫うようにアーケードを抜け、道後温泉本館で湯に浸かった。
復路の寝台が高松駅を21時半前に発車する。
琴平駅のみどりの窓口ですでに確保していた、その列車のことを念頭に置きながら、再び路面電車に乗り、JR松山駅前電停で降りる。
駅前のキオスクで少しのビールとつまみを購入し、もうすぐ発車する高松行きの特急に乗り込んだ。
もうこの旅も終わりだ。
余韻と若干の寂しさを感じながら、日が暮れかかっている四国の風景を見て、ビールを飲んだ。
2時間以上瀬戸内海のふちを走りきり、降り立った高松駅は、高層ビルがいくつかそびえ立つ、立派な港町だった。
連絡船時代の面影をほんの少しだけ残したホームでまたうどんを食べ、キオスクでビールとつまみを買い足す。最後の晩餐ともいえるような光景だった。
もう少し、ここにいたかったな。
そんな気持ちを奪い去るようにして、寝台特急サンライズ瀬戸は高松を出発。途中の岡山で出雲市から来た列車と連結し、東京に私を運んだ。
<追記>
「座席特急券」と書いたのは、ノビノビ座席について、寝台券の必要がなく座席として発券される特急券というニュアンスを込める為です。
・高知について
今回でサンライズが大好きになったので、また近いうちに乗って、高知城も見てみたいです。
あと、四万十川も。
きょうのテレビ朝日はは台風ニュースでたくさん書き込みがあり出遅れた
・01 バスケ ットボール (45): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:27:06.92
・02 初志貫徹[OK] (82): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:28:51.89
・03 『最後の晩餐《ばんさん》』 (98): ID:88fqusjZ0 13:29:57.32
・04 国 土 交 通(省 (116): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:30:54.88
・05 [3択]女優の山村 紅葉《もみじ》 (133): ID:wMLoF+LL0 13:31:30.61
・06 『54(字の物語』 (147): パブロフの猫 ◆bBexGCASrY 13:32:01.25
・07 ビスマルク (175): ID:pbesmy/n0 13:32:58.04
・08 [3択]自動車 重量(税 (193): ID:pbesmy/n0 13:33:30.84
・09 ガリレオ(衛星 (208): ID:88fqusjZ0 13:33:59.60
・10 香川(県 (229): ID:Fl34Yl4l0 13:34:33.91
・11 クース (248): ID:88fqusjZ0 13:35:03.70
・12 3532鵜(呑み (259): ID:pbesmy/n0 13:35:28.30
・13 ラモス瑠偉《るい》[可] (274): ID:RDxzYPD30 13:36:00.27
・14 クラゲ (283): ID:88fqusjZ0 13:36:26.45
・15 良寛 りょうかん (300): ID:BryWq7gV0 13:37:00.99
・16 にんにく (316): ID:pbesmy/n0 13:37:43.80
・17 [X JAPANの]Toshl トシ (342): ID:F8hyetvza 13:38:29.92
・18 リマインダ ー (376): ID:88fqusjZ0 13:39:02.46
・19 3(番 (391): ID:BryWq7gV0 13:39:29.12
・20 およそ約)10(キロ グラム (423): パブロフの猫 ◆bBexGCASrY 13:40:00.32
・21 [AC]日野 富子 ひの とみこ (503): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:43:41.80
・22 [AC2]淡路 島 (514): ID:pbesmy/n0 13:44:09.64
・23 テニス (547): ID:88fqusjZ0 13:44:51.40
・24 ヒラリー・クリントン (572): パブロフの猫 ◆bBexGCASrY 13:45:28.07
・26 [2択]風 上[→] (603): ID:wMLoF+LL0 13:46:23.94
・27 4711細野晴臣 ほそのはるおみ[→] (630): ID:FLEPP4/J0 13:47:08.78
・28 山形(県 (640): ID:IIIdpXQ00 13:47:24.73
・29e ビーグル 号[OK] (654): ID:88fqusjZ0 13:47:55.09
・xx [ある島の名前]カウアイ 島 (815): ID:IIIdpXQ00 13:52:11.48
7/29pts ID:88fqusjZ0
5pts ID:pbesmy/n0
4pts Rx ◆IRC1/LAAAk
3pts パブロフの猫 ◆bBexGCASrY
2pts*2 ID:BryWq7gV0 ID:wMLoF+LL0
1pt*6 ID:-----
ID:F8hyetvza ID:FLEPP4/J0 ID:Fl34Yl4l0 ID:IIIdpXQ00 ID:RDxzYPD30
ヤバイドラッグを試せて、そのまま高級ソープ嬢とキメセクできる合法的な公営施設があったらなー。
その施設には高級料亭も併設されてて最後の晩餐までできたら言うことない。
1泊50万円ぐらいでコミコミでできないだろうか?
ヤバイ薬なんてどうやったら試せるのかわからないし、やっぱり体力も気力も落ちてるから今更自分で段取りすることもできない。
それに下手を打つと犯罪者としてまわりに迷惑かけてしまうのも気になる。
どうせ死ぬんだから最期に色々試して、そのままわけのわからないままその施設でひっそりと首吊り自殺したい。
もちろんその施設では自殺しても報道なんてされない配慮がされてんの。ぬかりはない。
1年半片思いした人にあっけなく振られた。
最初は憧れだったのだけれど、それはすぐに好きに変わった。でも憧れでもあり続けていたので私はその人に少しでも近づきたくて努力をした。たぶんその努力の方法は間違っていた。
あまりみんなに心を開かない人だと思っていた。たくさん話しかけて距離を詰めようとした。多分距離は詰まった。距離が詰まっただけだった。
どうしようもなくなって、ひた隠しにしていた好意を周りのみんなに話してしまった。周りは全員私の好意に気づいていた。
一緒に遊園地に行って、お化け屋敷とか行って、いろんな話をして、たくさん歩いた帰り際、もう攻略法なんてわからない、私はマインドが童貞だから!と思い改札に入るのを引き止めて告白した。返事は「えっ、これってちゃんと聞いた方がいいやつだよね?」
終電を逃しネカフェに行った。昼よりもいろんな話をした。周り全員に気づかれていたほどの好意は、本人には全くと言っていいほど伝わっていなかった。要するに好きな人がいるから付き合えないらしい。意識が遠のく。ハグしてもらった。どうでもよくなった。どうでもよくなって、あなたが失恋するまで待ちますから、今日の告白は無かったことにしてください、これから今まで通り仲良くしていって、あなたが失恋したらまた告白しますと告げた。訳が分からない。でもそれしか傷を浅く済ませる方法が思いつかなかった。
その日から食欲が全然無くなって、自分は単純な人間だなあと思った。
その一ヶ月後、彼からLINEで「残念なお知らせがある」と来、予想はついていたがそれをLINEで訊いてしまうのは癪なので会うことにした。偶然、彼に会う前の時間に、今までのこと全てを相談している友人に会えた。最後の晩餐だねと言いながらカレーを食べた。カレーを食べると幸せな気持ちになれるらしいという誰かの言葉を信じていた。
友人と別れ、いよいよ本戦へ。しかしこちらから残念なお知らせを訊く勇気は出ず、いつも通りお喋りをして、終電を逃して、ネカフェに行って、寝た。私はひたすら漫画を読んでいた。
朝起きて、お知らせを尋ねる。「彼女が出来ました」へらへら笑ってそう言われる。へらへら笑われると、こっちもへらへらせざるを得ないじゃないか。軽口を叩く。またハグしてもらう。どうでもいい。なんとか気持ちを離せる糸口を見つけたい。
書いていて思ったが客観的に読むと大した話では無い。盛り上がりに欠ける。自分の人生は自分が主役だというが、私の人生はモブの人生だとつくづく思う。モブはモブなりに、そろそろ幸せになりたい。
もちろん明確な首切りはされないけど、いづらいから自主退職という形になると思う。営業なのに数字を上げられてないからね。もう歳も歳だし次のアテなんてない。やりたいこともない。やろうという気概もない。ほんと死にたいと思ってる。ところで死ぬ前の最後の晩餐に豪華なものを食べるとかよくあるけどさ、なんかもう発想がしょぼいな。俺は絶対そんなしょぼい最期は迎えたくないと思った。生き様もしょぼけりゃ死に方もしょぼいなんて絶対に嫌だ。何から何までしょぼい人生なんてまっぴらごめんだ。どうせ死ぬなら最期ぐらいドカンと行きたいだろ。最期ぐらいユーチューブに顔出しで盛大に騒いで楽しく終わろうかな。人生最期の職業、ユーチューバー。自殺を中継なんてそんな陰気なことはしない。パーッとみんなが楽しめる動画を作るかな!なんか楽しくなってきたわ!死なない!
アメリカの死刑囚は死刑が執行される前に、好きな食事をリクエストできるらしい。
俺だったらなにをリクエストするだろうと考えたとき、パッと思いついたのが「極上タン塩と極上カルビ」。死刑前にモリモリ食べられるかは分からないが。
追記1:ブコメを読んでいると母親の手料理が多い。気が変わった。リクエストは「子どものころ、おかんが作ってくれたお好み焼き」。実際に料理を作る人のリクエストまでできるかは知らない。
追記2:アメリカでは事前に本人や家族に死刑執行日が告知されるが、日本では死刑執行当日の朝まで知らされない。また、死刑執行直前に首席矯正処遇官から、祭壇に置いてある供え物の生菓子をすすめられるが、手をつける死刑囚はほとんどいないらしい。
ちょっとはみ出た、つづき
入院が決まった直後に、入院時に必要なものを買い込みレンタカーで母の元に向かった。
徘徊が多く、連絡手段も無い為、朝、荷物だらけの新居に迎えに行っても空振りになってしまう可能性があったからだ。
破たんした呪いの言葉を一晩聞き続ける程度だったら何とかなるだろうと踏んで寝袋を持って家を出た。
アパートにいた母を、最後の晩餐さならが母を食事に連れ出し、禊を済ませるが如く、深夜営業の温泉に連れて行った。
これまで母の病気が進行してから、弟を含め3人で食事をすることは何度かあったが、
私が成人してから母と二人で食事をしたり、温泉に行ったりしたのは初めての事だったと思う。
しかし、あのアパートで母と二人きりで一晩を過ごすのはやはり心理的に無理だった。
そこで、仕事で徹夜を強いられる彼女がいる自宅に、彼女に無理を言って連れて行く事にした。
自宅に母を招いたのも初めてだし、彼女に合わせるのも初めての事だった。
彼女も親に対してトラウマを抱えており、軽くパニックにさせてしまったのは本当に申し訳ないと思っている。
しかし、この母親に対して、親孝行らしい親孝行を始めてしたのかもしれない。
母は何度も夜中に起きて二人の息子が襲われる、警察に助けを呼ばないと、言った事を不安になってしゃべっていた、
うとうとすることもあるが、眠りかけた際は幻聴として聞こえる言葉をそのまま声に出してしゃべっていた様だ。
母にとってみれば、もう25年間、四六時中不安な時を過ごしているのだ。
翌日、車で病院に向かう途中、母は、私が子どもの頃、家族でドライブに行って以来車に乗れて楽しいと語った。
家族の同意があれば、本人の意思に関わらず強制的な入院が可能な制度だ。
その際、思わず、ここまでとても長かったです。と医師に話した。医師も私の苦労を察してくれたようだ。
診断時、私から事情を話す際に、精神科へ行っても結果的に治療が受けられない件を話したくだりで、
やっぱりそうか、といったニュアンスだろうか、ため息を漏らしていた。
法律上定まった手順であろう医師が保護入院の説明をを本人に読み上げる際も、
聞きはするが当人になにが起こるのか 理解していない様子だった。
閉鎖病棟に送る際、持ち込み禁止となる物が母の身に付けたものからいくつも出てきた。
不安からか何枚も重ね着した一張羅のポケットや、鍵だらけのウエストポーチからは、
刃物であるハサミや安全ピン、 南京錠などの金属、ワイヤー錠等のひも状のものが、
わんさと出てきた。しかし、 体を傷つける可能性のあるこれらのものは閉鎖病棟内には一切持ち込めないそうだ。
手続きを済ませ、病院に母を預け、弟や彼女に報告をし、帰路に向かう際は、
涙も出なかったし、ざまあみろ、といった感情にもならなかった。
これでひと段落ついたんだな。という感慨はあったが、正直、いまだに母への気持ちは整理がつかないし、
私が多分死ぬまでこのもやもやした気持ちに整理はつかないのかもしれない。
ともかく、これで弟にかかる負担も減るし、母の不安もいずれは多少なりとも解消されるかもしれない。
本人がいつか病識を持つようになって、まともに話せる日がくれば、また母に対して憎しみの感情が沸くかもしれないし。
そんな日は来ないかもしれないが、ともかくこれで一区切りついた事になる。
繰り返しになるが、「こんな長い期間なんで放っておいたんだ」「お前の責任でもあるだろう」という
声もあるだろうが、自分の気持ちを整理する意味でもこれまでの経緯を書いた。
自分を棚に上げてなにか説教じみた一言を添えて終わりたい気持ちを抑えてこれでこの長文は終わります。
ここまで読んでくれた人がいたらありがとう。
追記:少しだけ文章校正をしました。多くの読んでくれた方、改めてありがとうございます。
乱筆乱文、誤字脱字、事実誤認、諸々失礼。
-----
追記
とても参考になる知見も多くいただきました。
これで終わりではないので、是非、今後に生かしたいと思います。
この話は私の人生のある側面の、ある時間だけをバッサリ切り取ったもので、
別の面では幸せであり、大半の時間は、苦労はありますが、それなりに恵まれた生活を送っています。
悲劇性や誘因性の強い文章になりましたが、自分自身を奮い立たせるために自己演出した部分も多分に含まれていますし、
それなりに珍しい経験をしたので「保育園落ちた日本死ね」位の話題にならないかなー、と。
ただ事実と異なる事柄は書いていないつもりですが、母の性格を受け継いだせいか、感情基準での記憶をする傾向があり
事実の認識に多少の誤りがあるやもしれない事を明記しておきます。
特に地元の総合病院の精神科医師が話してくれた、治療の可能性や、相談内容、他の施設の紹介といった、
具体的な情報のくだりは、今思うと当時の余裕のない状況で色々思い違いをしていたり、
その時点で必要な情報だけを記憶に留めようとした傾向があるので、もしかしたらきちんとした説明を受けていたのかもしれません。
心理面での負担や苦労をねぎらってくださるコメントも多くいただきましたが、
母の事で本当に辛いと感じていたのは母の病気が発症するよりも前の方がはるかに多く、
病気が進行してからは、母の事であまり辛いと感じたことはなく、やっかい毎が面倒だ。
調べ物が面倒だ、なかなかうまい方法が見つからないで面倒だ、事務処理が面倒だ、
と、いったような仕事での面倒毎に近い感覚だったかもしれません。
もやっとした問題に対して、検索するには言葉もあいまいで、答えも方法論も様々過ぎるし制度もたくさんあるしで、
的確な道順や回答を出せる所にいつまでも辿り着けず、情報迷子になった側面は多分にあります。
普段はGoogleさんをそれなりに使いこなし問題解決の為のITリテラシーはそれなりに自信がありますが、
実は 『ケースワーカー』さんという言葉の存在はかなり最近になってから人づてに知りました。
それまでは地元の総合病院に電話した際や行った等、もしかしたらそれに気づかず『受付の人』という認識で相談をしたこともあったかもしれません。
本文には書きませんでしたが、昨年末あたりから、精神科のある病院への電話問い合わせの窓口や、福祉センターの精神保健福祉担当で、
『ケースワーカーさんと相談したい』とわざわざ言ってから色々相談する様になって、
ここには書かなかった世帯分離の手続き等に対しての答えにも、光が見え始め徐々に事態が好転してきた次第です。
『ケースワーカー』さんはここ数年認知され始めたマジックワードで『当番弁護士を呼んでください』
という言葉を知っているか否か、みたいなものかもしれませんね。
もし、私と似たような境遇でどうしてよいかわからない場合は、役所や病院等へ電話をかけ、
まず『ケースワーカーさんと私の〇〇の問題について相談したい』と言うのが良いのかもしれません。
地元の総合病院の精神科の待合室で、母と初めての診断を待つ際の事。
待合室の傍に、精神科病棟への通路があり、おそらく統合失調症の方が、看護師に連れ添われ、
意味不明な話しをしながら歩いて行くのを見て言った母の一言が最高でした。
『かわいそうにねー、頭がおかしいのねー』