はてなキーワード: 少年とは
最初に断っておくと、別に嘘が嫌いなわけではないし自分も結構嘘をつく方である
あとエイプリルフールがもたらす炎上や社会的な混乱についても良くないとは思うが、楽しく無害な嘘もないことはないしそこまで本質的な問題ではない
じゃあ何故嫌いなのかというと嘘の価値や意義を舐め腐ってるから
嘘って「この発言は嘘ではない」「この人は嘘をつかない」と(例え建前でも)思われてるから価値があるんだよ
狼少年だって最初の嘘は信じてもらえたけど嘘つきがバレた最後の方は本当のことを言ってもガン無視されてたじゃん
人を騙すには信用が必要なんだから、「私は嘘をつくかも知れません」は「私の話は真偽に関わらず聞かなくてOKです」と宣言しているのと同じ
エイプリルフールは皆でその宣言をやってるんだから、嘘、ひいては言葉の重みを自らペラ紙以下にしていく馬鹿の祭典と言って差し支えない
多分エイプリルフールを考えた奴は誰かの許しがないと嘘をつくことさえ出来ない、しかも嘘をつく意味を理解することも出来ない色々と不自由な人間なんだと思う
数年前に父が亡くなり、半年前に母も亡くなった。ずっと実家暮らしで、会社仕事の合間に農業をやっていたが、そろそろこの家ともお別れである。家族が俺一人になったので、土地と建物を売りに出して、会社の近くにある空き家ハウスに引っ越すのである。
相続が終わってから、遺品整理屋とかリサイクル屋とか解体屋さんと話をすることが多くなった。処分すべき財産はあっという間に片付いたが、最後に残ったのが……西暦で言うと2000年頃に亡くなった実弟の漫画だった。部屋を共有していたので、本棚には俺と弟の漫画が並んでいた。
その大半は、ブックオフでも1冊10円すらつかないモノだった。メルカリで売るにも手間がかかりそうだ。遺品整理屋も「今のご時世、紙のマンガは売れないんですよ」と引き取りを断った。ほかの価値のなさそうなモノは、タダ同然でも引き取ってもらえたのだが。
何か月か経って、今年の正月を過ぎた頃だった。
実家の本棚にあった俺の漫画を何冊か、手に取って読んでみた。うーん、これは……「懐かしい」という感情が僅かにあった。一番好きだった漫画、『天使禁猟区』『スカイハイ』『クロマティ高校』を読んでみたが、いまいちピンとこない。楽しい思い出が蘇ってこない。お楽しみの記憶は脳裏から消えてしまったのだ……。
ふとここで、亡き弟の漫画を手に取った。あいつは将来裁判官になりたいと言ってたっけ。『家栽の人』が本棚の目につくところに置いてあった。一番上の段だった。
そして、一番下の段に視線を移すと……ここで一番、ドーン!! と、当時の記憶が蘇った。それは、『まもって守護月天!』だった。弟が一番好きだった漫画。
家族で食卓を囲んでいる時も、旅行をしてる時の車内でも、何気ない団らんの瞬間でも、とにかく弟は、この漫画の話をしてることが多かった。
弟の死因は、自動車に轢かれた後の外傷から、内臓の疾患にかかったことにある。交通事故の原因の半分は弟にあり、当時は自業自得だと冷たいことを思ってたけど、まさか亡くなるとは……。病院でお見舞いをしてる時にも、弟はこの漫画を繰り返し読んでいて、ずっとその話の内容とか喋ってるんだよ。どんだけ好きなんだよって思った。
確か、アニメも観たいって言ってたかな。病室にテレビはあったけど、ビデオを再生できるものがなかった。弟は泣いて悔しがっていた。
さて、当時の俺は高校生であり、ガンガンコミックスの漫画を読むことはなかった。守護月天の漫画を読んでみたことはあったが、すぐに読むのをやめた。「稚拙だな」と思ったのもあるし、「絵がちょっとな~」という思いもあった。当時の俺は、CLAMPが描くような、Xとか聖伝とか、ああいう精緻な絵柄のエログロが好きだった。
とにかく弟は『まもって守護月天!』が好きだった。それを、この本棚を見ていて思い出した。この日は休日であり、時間がたくさんあった。せっかくなので、この日から一週間ほどかけて、全11巻を読んでみることにした。
読んでみた感想を、以下に綴っていこう。感想を交えつつ、各巻に1~2箇所ずつ、印象的だったところを抜き出して引用する。
ネタバレがあるように見えるけど、本当に大事なところは抜き出してない。隠してる。まあ、俺の人生で『まもって守護月天!』を取り上げるのはこれっきりなんだし、少しくらいは許してくれ……。
その前に、これはどういう漫画やねん、と気になった方はWikipediaでググってほしい。あらすじは、概ねこんな感じである。
~ブックライブ!から引用~
一人暮らしで寂しさを抱える少年と、ご主人様をあらゆる不幸から守る役目を持つ守護月天の美少女とのファンタジー・ラブストーリー。 一人暮らしの中学2年生・七梨太助(しちり・たすけ)は、中国を旅する父親から支天輪(してんりん)という八角の輪を送られる。
つまり、主人公の何気ない行動をきっかけとして、小璘(シャオリン)という女神様のようなものがやってくる。お互いに惹かれつつ、ラブコメディが進行していく。その中で、超えないといけない壁がいくつもあって、主人公である太助がシャオにふさわしい男になるために奮闘する物語である。
では、さっそく始める。
読み始めは、正直キツかった。絵柄が古いのもあるし、漫画表現が昔風なのもあるし、ラブコメを読んだ経験がない人間には何がどう面白いのかわからない。
あまり楽しめないのは、すでに四十を過ぎているからだろう。子どもの頃であれば、まだマシだったのかもしれない。ただ、まあ……コンセプトはいいと思う。すごく。
なんとなくだが、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という映画を思い出した。某グルメ漫画でいうと、「うん こういうのでいいんだよ こういうので」を地で行く。
①シャオリンが「この平和な時代に、どんなものからご主人様を守るか」を決めたシーン
「太助様…」
「…え……」
「もし迷惑でなければ あなたの中にある「孤独」や「寂しさ」から あなたを守ってさしあげたいのですが それではいけませんか?」
シャオが歴代の主を守ってきた手段は、主に暴力である。星神を呼び出して使役し、主人を狙う者を撃退する日々を過ごしてきた。だが、平和な現代でそんな行為に需要があるはずもなく。シャオは、呼び出されてすぐにお役御免になってしまう。
ならば、主人である太助をどのように守ればいいのか――その答えが上記の台詞である。命を狙う敵がいないのであれば、孤独や寂しさから主人を守るのだ。太助には家族が3人いるが、全員家を離れて放浪の旅をしている。ネグレクトに限りなく近いものがあるが、ラブコメの都合というものだ。
このあたりは、まだだるかった。物語の登場人物は揃いつつあるのだが、展開が退屈でなかなか話が進まない。この巻から、慶幸日天の汝昴(ルーアン)という主人公の恋路を邪魔する、まさにお邪魔キャラみたいな人が出てくる。
別に、なんということはない恋愛妨害工作なのだが、この時代のラブコメは高橋留美子の影響がまだ色濃いのだろうか、暴力性が強い。この巻以外にも「死ぬやろ……」というシーンがけっこうある。昔は気にならなかっただろうが、やはり時代というものか。
②ルーアンの計略によりシャオが太助の元から離れようか迷っているシーン ※太助が駆けつける
「えーっと 今はうまく言えないけど… 俺はシャオにずっとここにいてほしいんだ ――それだけじゃここにいてもらう理由にならないかな……」
ルーアンがそれっぽい発言をして、「シャオは現代には不要ではないか」という意見を伝える(あなたなんて いても邪魔なだけなのよ)。シャオは真に受けてしまって、支天輪に帰ろうとするのだが……すんでのところで太助がやってくる。そして、ふたりきりの状態で上のような会話をする。
この場面は気に入っている。シャオの気持ちも、太助の気持ちもリアルに描いていたからだ。ストレートさがいい。
このあたりから恋愛路線に入ってくる。太助がシャオに愛情を意識する場面が出てくる。
ネタバレは避けるが、シャオには恋愛ができない事情がある。本人ですら認識できない事情が。
以下の山野辺というのは、最初の頃は万引きとかするキャラとして描かれていた。物語が進むにつれて応援キャラになっていく。
③シャオと山野辺が一緒に温泉に入っているシーン
「なあ シャオ…」
「…………」
「シャオ?」
「はい?」
「なんか元気ないけど七梨と何かあったのか?」
「翔子さん…………私 病気かもしれないです なんだか…ね 胸が苦しい… 太助様がルーアンさんと一緒にいると とっても胸が苦しくなります さっきなんか どうしてだか自分でもわからないけど そっけない態度とっちゃったし太助様が話しかけてくれたのに 太助様にきっと変に思われちゃった きっと悪い病気にかかっちゃったんです ――でも どうしたらいいのか わからなくて…」
(へえ…精霊ってのも 人を好きになったりするんだあ…)
うん。女性作者が描いてるラブコメってさ。女性側の心理描写がリアルだよな。女の子ってさ、好きな男性の目の前だと萎縮することがあるじゃん。意中の人を目の前にすると、体がつい後ろに下がってしまうとか、廊下を走って逃げだす子とかいるよな。
なんかこう、恋愛感情に対して不安になった時の女性心理というか。リアルさが伝わってくる。子ども時代に読んでも全く認識はできなかったろう。
この巻くらいになると、ストーリーの基本線が定まってくる。何らかの事件やイベントが起こって、太助とシャオが巻き込まれて、レギュラーキャラがそれぞれの立ち位置で動き回って、なんやかんかで解決して、ふたり(又はほかのキャラ同士)の間柄が深まって……という流れである。
基本は、太助~シャオの関係性がメインだ。この作品のうまいところは、ふたりばかりを推すのではなく、ほかのキャラクター間の友情とか愛情もガッツリ描いてる。
この巻だと、2つの場面が印象に残っている。いずれも、ルーアンがふたりの仲を妨害するための工作を試みて、やってしまった結果である。
④-1太助が高速道路を自転車で走行中にタイヤがバースト、そして前方車両(トラック)と自転車を括っていたロープが取れて転倒した後のシーン
「………え 太助様!? 太助様太助様!! 太…助様あ… ……う…」
「あ…あの小璘さん…」
「どうしよう…どうしようどうしよう ルーアンさん! ――太助様が 死んじゃったらどうしよう!!」
「あ…いや まさかそんなあ」
「どうして支天輪を車に乗せちゃったりしたんですか 私……太助様に何かあったら ルーアンさんのこと絶対許さない!!」
「…………」
「太助様に…太助様に何かあったら… 太助様… 太助様早く帰って来てください」
「小璘…………あんた」
④-2保健室で、シャオがベッドに横たわって寝ているシーン
「なあ…ルーアン」
「はい!?」
「…俺シャオのこと 好きにならない方がいいのかな…」
「………… あんたあのおじょーちゃんになんか言われたでしょ ――じゃあひとつ聞くけどなんでそう思うの?」
「――…」
「…………」
「…ねえ たー様 あたしは たー様のこと好きよ 考えれば悩みなんていくらでも出てくるけど 一番大切なのは自分の気持ちでしょ だからあたしはあんたみたいに悩まない 悩んでも変わらない想いなら 悩むだけ損だと思わない?」
気持ち、とでもいうのかな。かの有名な『BLEACH』でいうと、ウルキオラ・シファーの名台詞のひとつである、
心か
みたいな感じだ。登場人物の心境がさ、わかるんだよな。喜んでるのもわかるし、苦しんでるのもわかる。そんな中でキャラクターが足掻いている姿が印象に残った。
漫画を読む前に下調べはしなかった。今も一切してない。よって推測になるんだけど、この作者である桜野みねねっていう人は、この時(1998頃?)は大学生かそこらの年齢なんだよな。作者あとがきを読むと、若いんだなというのは伝わってくる。
俺が二十代前半の頃は、地面から出てきたばかりのカブトムシの如き勢いでスポーツをするか、水道工事の現場であくせく働くか、盛りのついた獣のように女を口説いて、年間に何人とセックスしたか記録を付けるとか……同じ会社の女の子と無理やりそういうことをした後でも、最後にベッドの上で「愛してるよ」と言ったら許されるから大丈夫とか、そんなことしか考えてなかった。人間性が動物レベルだった。
でも、この桜野みねねという人は、そんなどす黒い人間の対極を行く感性がある。この作者は凄い……と、いい年になったおっさんは感じた。※私個人と作者の年齢差は、干支0.5周り分ほどと思われる。
20年以上前の漫画なので、さすがに創作でも……というシチュエーションが生じることがある。作品内では、たまに登場人物がみんなで旅行とか海とか温泉に行くのだが、メインキャラがほぼ中学生で、20才以上は大変少ない。無理があるし違和感がある。
しかし、旅行とかでないと表現できないラブコメ的なシチュエーションもあると思うので……そこが創作の難しいところである。いや、文学作品の創作とかしたことないからわかんないけどさ。
⑤仲間と海に来ていて、ようやく夜の海岸で二人で話ができたシーン
「なんだかね………私 太助様ととってもお話したかったです 別にお話したいことがあるわけじゃないの… でも… 太助様とお話してるととっても落ち着くから…」
「……シャオ」
太助とシャオは、何度もこういうシチュエーションになっている。が、恋愛が進む気配はない。事情はあるのだが、あまりに絶望的な事情なのだ。
あと、文章量の都合で載せなかったが、クラス演劇(かぐや姫)の数話分も大変よかった。ルーアンと、ほぼサブキャラの乎一郎が主体の話なのだが、中学校の学芸会でかぐや姫をやることを通じて、「離れていても心は繋がってる」という要素を表現している。
この回は、大人ながらにしみじみときた。気になる人は、是非5巻を読んでほしい(ダイレクトマーケティング決行)。
大まかな流れを言うと、ラストのお別れシーンでかぐや姫役のルーアンが台本にないセリフを言う → 月の使者役のシャオがお迎えを中止発言 → 乎一郎がそれを制止 → その後の会話のやりとりで、離れていても心は繋がっていることを示唆~といった具合である。
ここまで五千字以上は書いている。一旦切ることにする。
文量の都合で2分割。
次に続きます。
初代ガンダムって今観ても神がかってるんだよなあ
作画とか枝葉末節にこだわる人にはお勧めできないけど、まず一話が凄い
一話の演出が、シナリオが、作りこまれた設定や世界観が、モビルスーツの巨大さを表現するアオリ構図が、
今となっては当たり前の表現がすべてここに詰め込まれているし、今になっても当たり前になってないのは、
初代ガンダム一話の無駄のなさ、まったくといっていいほど無駄がない、
これから始まるであろう作品に絶対必要となる道具、登場人物、世界観、設定、技術、あらゆるものが詰まってる
はっきり言って、初代ガンダム第一話は教科書に載せるべきレベル
安彦氏の描く、ぐにゃりとしなるロボットによるダイナミックな動き
そして、青葉区での最終決戦まで話は飛ぶ
その間の話は、当然物語に必要な要素も多くあるが、単なる時間稼ぎのようなくだらない話も存在する
そんな枝葉末節をあげつらって、ガンダムが喋ったwとか、作画崩壊wとか、くだらない話である
というか、劇場版での安彦氏による描き直しでさえ、もうかなり今でも観ても十分耐えるどころか素晴らしいものがある
結論を急ぐと、ZやZZはオチがショボい、盛り上がりに凄い欠ける
初代はアバオアクーがあった
最終激戦地という設定が、嫌でも視聴者を盛り上げた、生身でのアムロとシャアとの宇宙でのフェンシングの一騎打ち、
そして、最後には自分にも帰れる場所があったんだ、という全面的な自己肯定感で満たされる主人公
正直言って、初代ガンダムが富野氏の頂点だったと自分は思ってる
つまり、今度は自分で取ってしまった頂点を、更に越さなければならなくなる
自分で最強の敵を生み出してしまい、更に次でその敵を倒さなければならないのに、最強なだけに倒せないのである
ZやZZにはアバオアクーのような舞台が設定されておらず、盛り上がりに欠ける
富野氏自身、なんというか、もう物語全体を盛り上げることより、シャアという人物をどう描くかばかりに固執するようになっていく
初代ガンダムで実現できなかったリアルさ、未来の技術の設定はZの方が格段に上であり、
ZはZで、第一話のリックディアスの地面擦れ擦れの飛行、全天候型スクリーンなど、とにかく設定は盛りだくさんであり、ディティールは格段に上がった
でも、初代ガンダムにあった、ものがたりのようなものは失われ、よくわからない政治描写に煙に巻かれたり、無意味な暴力シーンがあったり、
これって単に現場の苛立ちが作品に反映されただけなんじゃないの?と思わせられるぐらいだった
Z以降には、黒い三連星だの、マチルダさんだの、そういったものがたりっぽいものが失われている
そういった、誰もが観て、共通に語れるような要素がなくなってしまっている
大人はみんな難しい顔をして、複雑な政治に奔走し、かといって、やたらに他人を殴るし、姿は大人なのに、行動は大人のやることじゃない
いや、「絵は施工回数を重ねて初めて能力が開花する」ってのはまあ、そうなんですよ。
幼少期に基礎が仕上がっている人なんて例外中の例外で、大多数は平面的で歪な線を引き続けるところから始まります。適性の差こそあれ、10年20年、たゆまず死ぬほど描き続ければ、大体の人が最低限「正しい絵」を描けるようになるでしょう。
ただね、絵ウマ自認の人がのたまう「努力さえすれば誰でも」という欺瞞には我慢ならんのです。
絵を描くには最低限、正確に線と空間を視覚で入力し、それを頭で解釈し手で出力する作業が必要です。
ネットのオタクが大好きな『ケーキの切れない非行少年たち』を読めばわかりますけど、それらの作業を実行するために必要な能力が先天的に欠けている人って確実にいるんですよ。
いつまで経っても幼稚園児みたいな絵しか描けない人がいることはpixivヘビーユーザーの絵描きが一番よく知ってることでしょ。
彼らが寝食を惜しんで講座受講とデッサンと教則本模写とオリジナル絵作成を並行して行ったとして、上手くなると思います? というか、彼らにできると思います?
そういう人の存在を無視して努力論を語るのはすげー残酷なことですよ。俺だっていつか……と夢見ながら描きまくって、成果が出なければ努力が足りなかったことにされるんです。こんな辛いことってないですよ。
努力論を語りたい絵描きはまず、人は各々のスペックによってスタートラインに絶望的な格差があることを認め、「誰でも」という欺瞞を引っ込めて「やってみなければ適性の有無ははかれない」とでもすべきです。
こと努力の話になると「俺ができたのだからお前らもできるはずだ」と想像力の欠落した根性論を言い始める絵描きが多く、なんとも暗澹たる気分にさせられます。
自慢を兼ねた激励のつもりでしょうが、才能がない人を追い詰めかねないですよ、それ。
あなたは自分が指から血が出るほど小説や詩を書きまくったとして、プロ級の腕前になれると思いますか。思わないとしたら、それはなぜですか。
第一章、第二章とホラー過ぎて怖かった。韓国映画なら祈祷師が呼ばれて悪魔祓いすることになりそう。
予告の映像だとクラス全体、学校全体が何か秘密を隠してる!それは何なんだ!ってスケールが大きそうな話に思えるけど、そんなことなく隠し事してるのは少年2人でこじんまりした物語だった。
で、問題のラストシーン。親と教師が探しにきた時は大雨だったのに、2人が脱出して出てきた時はめちゃめちゃ快晴。これだけなら台風一過かなと思うが、2人が出てきた場所は秘密基地がすぐ見える場所なのに近くにいるはずの親や教師の気配はない。最後は妄想・霊体で駆け回るのかなとも考えられる。火垂るの墓で最後に兄弟が駅をうろつくシーンみたいなことをしているのかなと。
驚いたよ。
「だが待って欲しい。やはり少年は有罪だったのではないか?」だよ。
バカか?
そんなの分かりきった上で、現代的な裁判をする上で推定有罪はありえないという話だろ。
「疑わしきは罰せず」
「コレは賭けになる」
劇中で散々こういったフレーズで語られているのに、それが理解できないのか?
凄い……感動的だ……本当にすごい映画だ。
この感想を持って完成なんだ……。
劇中に登場しない13人目の陪審員がひょっこり現実世界からやってきて「だが待ってくれ。もしかしたら本当に少年が犯人かも知れないだろ?じゃあ念のため殺しちまおうぜ!推定無罪の原則?知ったこっちゃねえよ!」と抜かした所で、作品が完成するんだ。
劇中の人間はなんだかんだで最低限頭がいいっていうか……証拠があって事実があって推理があってそれがひっくり返る話についていけて、そして大前提に推定無罪の原則があるってことが理解出来るわけだ。
でも現実はそうじゃない。
現実には、推定無罪ってことを理解せず、疑われた時点で有罪って原始時代の魔女裁判を今でも続けたがっている間抜けがワンサカいるんだ。
12人の陪審員は最初のうちはそういう原始人に見えたが、実際には偏見のメガネをかけていただけであって、頭の中身は立派に現代人だった。
でも世の中には、偏見を取っ払おうが何をしようが説得できないウホウホギャートルズがいくらでも潜んでいるんだよな。
そしてソイツらは自分が今生きている時代がまだ現代じゃなくて、せいぜいが中世っていう自覚が微塵もない。
映画がきれいに終わり、それでも現実はクソッタレなままで今日も続く。
そこまでをきっちり見終えて完成するんだな。
封切りした後の映画館でもきっと同じように劇場から出ていく人間の中で「でもさ、本当に少年が犯人って可能性はあるんだろ?」「半々じゃねえの」「じゃあやっぱ死刑の方が良かったじゃん!」「でも証拠も不確かなのに殺されたら溜まったもんじゃねえよ」「そもそも人を殺さなきゃいいだけじゃん?」「殺してなくても捕まったら終わりじゃん」「殺さなきゃ捕まらなくね?」「あーもういいわ」「まあつまりさ、殺しておくのが正解だったってことだよな」「もうそれでいいって言ってるじゃん」みたいな会話があって、それを耳にすることで映画が完成する形だったんだろうなあ。
面白い仕組みだ。
ラグビーの起源というのは、「1823年、イングランドの有名なパブリックスクール(私立の中等教育学校)であるラグビー校でのフットボールの試合中、ある少年がボールを抱えたまま走り出したこと」だとされています。
ラグビー発祥の地であるイギリスでは、かつて「フットボール」というスポーツが広く行われていました。このフットボールというスポーツには統一されたルールがなく、街や学校ごとに独自のルールが作られていきました。当時のラグビー校のルールでは、ボールをキャッチすることや一時的に手を使うことは認められていましたが、ボールを抱えて走ることは認められていませんでした。このボールを抱えて走るという少年の反則行為が「ボールを持って走ると相手を簡単に抜くことができて面白い!」となり、現在のラグビーのきっかけとなったのです。
https://www.city.kumagaya.lg.jp/kumagaya-rugby/rugby-try/chishiki2.html