はてなキーワード: 小学校とは
今から20年ほど前、小学校高学年〜中学生の年頃だった私は同い年の子役を応援していた。
彼はあるテレビ番組にレギュラー出演していて、当時同じ番組を見ていた友人たちはみんな彼が好きだった。
当時は今ほどインターネットが普及してなかったけど、私より少し歳上のお姉さんたちがよく彼のファンサイトを作っていた。
中3になる年に前述の番組を卒業してからは表舞台で見かけなくなり、詳細な時期は不明ながら芸能界からも引退していた。
再び彼の姿を見たのは、社会人になって数年が経ってからのこと。
わずかに面影の残る、それでいて確かに大人の男性になった彼がそこにいた。
引退してからも彼の姿を見ることができるのは純粋に嬉しかった。
けれどその会社が何というか、私が普通に生活していたらきっと触れることのないジャンルの会社だったのでチャンネル登録はしなかった。
友人は関連する仕事をしていたのもあり、それからも何度となく視聴してはTwitterでシェアしていた。
仮にも会社の公式YouTubeチャンネルだというのに、彼の個人的な話の動画が多く上がるようになったから。
子役時代の話や彼個人への質問コーナー、彼の歌ってみた動画が上がることもあった。
正直そういう動画の方が再生数多かったし、会社も迷走していたのかもしれない。
私は何というかモヤモヤが募って、でもあれこれ言うのは違う気もするし…と無駄に考えていた。
それからまた少し経って、彼は個人でYouTubeチャンネルを設立した。
Twitterアカウントも作ったようだ。
そこで私の小さな「違和感」は、明確な「ドン引き」へと変わった。
確かに当時彼は人気だったし、実際本当に恋心を抱く人もいたかもしれない。
でも、「自分で言っちゃうんだ…」と思うと本当に引いてしまった。
もう30歳を過ぎた頃。
私の憧れは、サーっと音を立てて冷めた。
「そういえば最近見なくなったな」と思って、これを書くにあたり彼のYouTubeチャンネルとTwitterを見に行ってみた。
「不真面目にやる」って具体的に何?w
何がどうしたら「不真面目にやってる」になるわけ?
帳簿出してるのだからおかしな使い方をしている団体については支出元が対応している、つまりお前の言い分は支出元の怠慢癒着を指すわけだが。
別で仕事しながらボランティア的に活動してるところも多いんで活動が緩慢なのが不真面目なの?んなわけないよなあ?
いまいち増田の悩みがピンとこなかったんだけど多分自分とは「友達」の考え方が違うんだな。
相手と友達かどうかは自分と相手の一対一の関係性で決まると思ってるから、一緒にいて不愉快だったら(相手に非があろうが自分が悪かろうが)自動的に自分の中では友達ではなくなる。
だから増田の話も「すでに友達じゃないじゃん何に悩んでるの?」と思ってしまった。
思うに増田は友達「グループ」みたいな概念が強くて、自分の外側にあるグループという枠から出るか入るかの選択を迫られるから心理的に密閉され追い詰められてストレスになってるのかな。
たしかに自分も小学校とか中学校のころの「クラス」とか「班」みたいな自分の外側にある概念に縛られていたころはすごくストレスを感じていた。
大学以降はそういうものが少なくなって、プライベートな関係は全部一対一の関係しか気にしなくて良いとなったらすごく楽になったんだけど、
増田は「グループ」のような形で外部にある人間関係の「枠」が強く内面化されている。
日本人全体がそんなもんだぞ
16~65歳を対象に、仕事に必要な「読解力」「数的思考力」「ITスキル」を調べたもので、2011~12年に、OECD加盟の先進国を中心に、24の国と地域で実施されました。
PIAACの「レベル3」は「小学校5年生程度」のスキルで、「読解力」の問題例では、図書館ホームページの図書検索結果から、設問にある書籍の、著者が誰なのかを聞いています。
「そんなの簡単すぎる」と思うでしょうが、驚くべきことに日本の成人の正答率は72.3%です。「レベル4」の問題例は、「150文字程度の本の概要を読み、質問に当てはまる本を選ぶ」ですが、日本人の8割近くが不正解です。
少しフィクション混ぜて書く。
日曜、はてな匿名ダイアリーで、中学の頃に好きだった人(ブクマカ)を見つけた。
人だかりがあったから、なんかやってるな、何やってるんだろって。
私は彼氏といたし、会話に混ざりはしなかった。
って彼氏に呟いたくらい。
かも、じゃなくて、間違いなく奴だったんだけど。
口調が変わってないし。
今は、どうなんだろう。
まあでも、今の彼氏のこと、好きだしね。
そんなことより衝撃だったのは、奴がレスバをしていたということ。
私は口下手だった。
でも、奴のことが好きだった。
小学校から中学校に上がったら、ブクマカはお互いにあんまり話さなくなった。
カースト上位の人たち(有名ブクマカたち)は、気にせず話していたけど。
そんなわけで、私は奴に全然話せなかった。
もし、私が奴に突然おはようとか言ったら、変な空気になったと思う。
ただ、ずっと、見計らってた。
そこで増田が答えていた。
「なんでそんなレスバ上手いんですか〜??」
「まず訂正したいのは、これはレスバじゃなくて討論です。」
少し溜めて、続けてゆっくり言った。
「あと、僕は、少し、手が、大きい。」
増田は顔の横に大きい手を広げて、おどけてみせた。
たしかに、大きかった。
そして、思った。
私は手が大きい。
プログラミングの授業で先生に「手でかいな」って言われたこともある。
タイピングでレスバするなら、なんやかんやで披露する場があるだろうし、奴とも話せるかもしれない。
持ってるスマホだとうまく書けなかったから、パソコンで練習した。
サボると、手がなまるのがわかった。
弟にちょくちょく見せていたけど、反応は悪くなかった。
ただ、奴に見せる自然な流れは来なかった。
そして、やっとメタブで2階を作り、2人きりになる機会が訪れた。
完全に成功だった。
「いや、なんも考えてなかったけど。」
「いや才能あるわー。なったほうがいいよ笑」
そこから二人の恋が、と言いたいところだけど、それ以上のことは何も起こらなかった。
1年以上練習したのに、何も起こらなかった。
少しの達成感はあったけど、それだけだった。
そのまま卒業して会うこともなくなった。
少しフィクション混ぜて書く。
日曜、池袋の駅前の広場で、中学の頃に好きだった人を見つけた。
見つけた、というかマジックショーをやってた。
人だかりがあったから、なんかやってるな、何やってるんだろって。
見たらマジックショーで、マジシャンは中学の頃好きな奴だった。
って彼氏に呟いたくらい。
かも、じゃなくて、間違いなく奴だったんだけど。
顔変わってないし。
今は、どうなんだろう。
まあでも、今の彼氏のこと、好きだしね。
そんなことより衝撃だったのは、奴がマジックをしていたということ。
だって、私は中学の時に、奴にマジックを見せたことがあるから。
私は口下手だった。
でも、奴のことが好きだった。
小学校から中学校に上がったら、女子と男子はお互いにあんまり話さなくなった。
カースト上位の人たちは、気にせず話していたけど。
そんなわけで、私は奴に全然話せなかった。
もし、私が奴に突然おはようとか言ったら、変な空気になったと思う。
ただ、ずっと、見計らってた。
「マジックがなんでそんな上手いんですか〜??」
「まず訂正したいのは、これはマジックじゃなくて超能力です。」
少し溜めて、続けてゆっくり言った。
「あと、僕は、少し、手が、大きい。」
マジシャンは顔の横に大きい手を広げて、おどけてみせた。
たしかに、大きかった。
そして、思った。
私は手が大きい。
キャンプファイヤーのダンスで「手でかいな」って言われたこともある。
マジックなら、なんやかんやで披露する場があるだろうし、奴とも話せるかもしれない。
持ってる手鏡だとよく見えなかったから、洗面台の鏡で練習した。
サボると、手がなまるのがわかった。
弟にちょくちょく見せていたけど、反応は悪くなかった。
ただ、奴に見せる自然な流れは来なかった。
というか、奴は隣のクラスにいたから、隣のクラスの委員会情報をゲットして、同じ委員会に立候補した。
そして、やっと図書室で2人きりになる機会が訪れた。
視線誘導もうまくいったし、思った通りの反応を引き出せた。
完全に成功だった。
「めっちゃ凄いね!練習してるって、将来マジシャンになるの?」
「いや、なんも考えてなかったけど。」
「いや才能あるわー。なったほうがいいよ笑」
そこから二人の恋が、と言いたいところだけど、それ以上のことは何も起こらなかった。
1年以上練習したのに、何も起こらなかった。
少しの達成感はあったけど、それだけだった。
そのまま卒業して会うこともなくなった。
ひえーっ! 俺のイメージはこっちだったよ →
「学校教育法」
学校教育法における児童とは、小学校または特別支援学校の小学部の課程に在籍して、初等教育を受けている者をいう。おおむね6歳から12歳までである(第17条第1項・第2項および第18条)。
0210 Manners maketh man ◆dali1V2LfM (JP 0H87-QfDG [2.56.252.91 [上級国民]]) 2023/08/26(土) 11:42:08.32
ご実家から東大寺学園までのルートを調べたら、大和西大寺駅で乗り換えるようです。安倍さんが撃たれた場所ですね。
暇の発狂の仕方がカラスミ特許で住所晒された時に似てるしガチなんかね?
つまり近鉄奈良線から大和西大寺駅で近鉄京都線に乗り換えるので、実家は近鉄奈良線沿線にあるということ
近鉄奈良線は鶴橋で環状線に接続するから、鶴橋に大学時代の行きつけがあるというのもそういうことやろなぁ
近鉄奈良線は大阪市、東大阪市、生駒市、奈良市にまたがってるわけだが
小学校時代に担任が吉野に飛ばされたエピソードから奈良県出身がほぼ確定なので、奈良市か生駒市のいずれかの出身
住所でポンで奈良市と生駒市の水原家を確認すると以下の住所が確認できる
まだ三次元に執着してるの?
キンモー☆
視姦は「Yes,Lolita! No,touch!」に該当しないと思ってた?
そんなことないよ。
お前みたいな奴から怪しい視線を向けられることで女児は本能的に怯えるし、親は不安になってストレスで子供を無駄に叱るようになる。
お前らが三次元相手に性欲を燃やし続けてるせいで、いつもどこかのロリが不幸になってる。
あれが市場に存在することでどこかにカネに困った親が子供をビデオ会社に売り払うわけだよ。
そして出演させられた女児は一生心に傷を負うわけ。
まあ確定ってわけじゃなくて中には生まれながらのビッチも実在してると思うんだけど、そうじゃない子の方が圧倒的に多いと思う。
顔出しで出演してるIVは一生消えることのないデジタルタトゥーだ。
ネットで検索してみればAVやIVの出演歴を公開してる人が沢山見つかるよ。(リアルがつらくて創作物で済ませたいなら、スマホを落としただけなのにやファブル辺りがオススメ。それ以外の要素も面白いので)
幼少期に一生分の恋愛とセックスを済ませでもしない限りは、非対称性の性欲に死ぬまで固執することになる。
SとMみたいに実際にはどこかで対等であるなんてことはロリコンには存在しないよ。
ナボコフは「ニンフェット」という存在を定義することで、さも中年の側がロリに振り回されることで対称性をロリコンにも生み出せると考えたけど、そんなのは「幼さの割には賢いので生まれつきのスペックでは相手が上なはずだ」という部分によって無理やり下駄を履かせただけで、結局は大人と子供の非対称性はいまだ存在し続けてるわけだよ。
そもそも、ロリコンがある種の純粋悪であるというのはロリータのオチが物語っているだろ?
出産適齢期でない人間とセックスをすることはどうしようもない悪であり、これは前田利家だろうがムハンマドだろうが単なる無知を理由に許されていただけの絶対的な悪徳なんだよ。
二次元の世界だけがロリコンが性欲を発散して良い唯一の場所なんだ。
三次元が相手でもテレビのパンチラ画像集を集めたサイトを見てシコシコするぐらいなら大丈夫だと思っているのか?
そんなことはないぞ?
お前がそうやってアクセスしたサイトはお前らが稼がせてくれたアフィリエイトに味をしめてドンドン過激な画像を投稿するようになる。
自分はそういうのでシコシコしないから大丈夫だなんて本当に思っているのか?
「上にも広がっているので単に何でもアリになっただけだ」と主張するなら、それはむしろよりアウトなんだよ。
なんでもアリになったということは、倫理的にアウトなものもアウトになっているってことじゃないか。
より刺激的であればいいと考えれば、それは過激さを求めてドンドン低年齢なものに寄っていくし、より貴重なものを求めてリアルな盗撮なんかに手を出すのも時間の問題だ。
三次元に性欲を感じてはいけないのは、この世界が結構無防備であり、同時にすぐに犯罪に関わってしまうからってのもあるんだ。
たとえばキミが遂にペドフェリアになったとき、女児のスジマンを拝見したいと思ったとしよう。
するとキミは「子供の写真をただネットにアップしただけなのに児童ポルノで捕まった人がいるらしい……閃いた💡」となるわけだ。
グーグルに「プール 子供 裸」と打ち込んだりするわけだな(❗まさかこれだけでは出ないだろと試しにググったんだけど、辞めたほうがいいかも知れません。試すと変な足跡が残るリスクがあるので皆さんは検索しないことをオススメします❗)
そしてそのあとは検索ワードをどんどん最適化させて遂には、「ビニールプールで我が子を水浴びさせている様子を正面から撮った画像をそのままアップしている無防備なブログ」なんかに出会うわけだ。
そしてキミはそれでオナニーをする。
するとここでキミの脳に恐ろしいことが起きる。
人間はオナニーしたものを学習してそれを性と結びつける最悪の学習機能を持っているんだ。
キミがオナニーするたびにどんどんリアルの女児まんこが君の中で性の対象になっていう。
同時に耐性もついていくのでどんどん刺激的なものを求めるようになる。
たとえば幼児の泌尿器手術について教える学術的な動画なんかを検索したりするわけだな。
そして最後にはダークウェッブに行って、マジでヤバイ動画を見て、最後にはるろうに剣心の作者みたいにそれを買う側になるわけだ。
終わりだよ終わりこうなったらもう終わりだということは分かるよな?
でもその前、君が単なる無防備ブログにアクセスした時にもう君はこの世界の敵になっているんだぜ?
君がアクセスしたことでそのブログが少しだけ検索エンジンで上位に来るようになり、君のようなロリコンにどんどん目をつけられる。
加速度的にアクセスが伸びればどんどん簡単なワードでひっかかるようになり、最後にはそのブログの知り合いに見つかるわけだ。
女児マンコを晒してるページだけやたらアクセスが伸びているのを知った親はきっとショックを受けるだろうし、当の本人が知ったら心にモヤモヤが残るだろうな。
下手したら「隣のクラスのAの子供の頃のマンコがネットに上がっていたぜ!俺それでシコシコしちゃったぜ!」なんて学校で騒ぐ奴が出てきたりしたらもう地獄だろ?
悪なんだよ悪。
ネットを使わなければ大丈夫なんてことはなく、ネットを使わずにリアルでやったらもっとヤバいのは分かるよな?
小学校のプールを双眼鏡で覗きこむとか、幼稚園の出したゴミを漁ってオムツやおもらししたから捨てたパンツを拾ってくるとか、銭湯に女児が入ってくるまでサウナで時間を潰して入ってきたらシレっと近くに座って横目で乳首を見るとか、そういったことをするのはもう一発レッドカードなわけだ。
吹き上がった性欲のコントロールのしづらさは「明日はテストだからオナニーしてる場合じゃないんだけどな~~~」と思いながらもダラダラとシコってしまった学生時代の記憶とかを数えてみなさいよ。
あのね、脳を調教するんだよ。
脳に「俺は二次元でしかオナニーしない人間なんだ。二次元はセックスが出来ないから、俺の人生にセックスはもう存在しないんだ」と刷り込みなさい。
365日のうち1日たりとも三次元でシコらずに過ごした年月が5年もすれば、自然と脳が三次元への性欲を忘れ始めるから。
君ね、ロリコンの癖に二次元一直線でないというのは今の時代においては紛れもなく悪だよ。
二次元が発達してるから日本の性犯罪は少なく、多くの子供がロリコンから守られているのを知りながら、自分は三次元に性欲を向け続けるなんてのはね、犯罪者予備軍であり続ける愚行権の行使でしかなく、その愚行権のあり方は悪そのものなんだよ。
何度も言うが、二次元でだけシコれ。
わかったか?
現代の学校教育では、クラス制度が設けられている。小学校から高校(大学も一部の講義ではクラス制度が存在する)まではクラス制度が当然のように存在するので、毎日固定されたメンバーと共に集団生活を送らねばならない。
こうしたクラス制度の存在がなければ、友達を作ることが難しい人は一定数存在するのではないかというのが今回の記事のテーマである。
どうしてこのような考えを持っているのかというと、高校までは受動的な姿勢のままでいても友達を作ることは容易にできるからだ。高校までは周りに人がいるという環境が既に与えられている。その環境は何かといえば、クラス制度である。これは本人の意思によらず、自分がどこか一つの共同体に属することが強制的に義務付けられるので、周囲の人間と関係を構築しやすいところが多分にある。その理由としては、主に三つの要因があるのではないかと考えている。
一つは、クラスが構成された共同体の一つであることにある。クラスには名簿なるものや連絡簿、名札などが存在するので、自分の顔と名前がほかのクラスメイトに知れ渡っている状況が簡単に作り出されている。そのため、少し交流しただけで、交友関係が容易に発展しやすいという特徴がある。特に何をせずとも自分の個人的な情報が、いくらかクラスのメンバーに知れ渡っているという状況は、交友関係のとっかかりを作りやすい。
二つは、周りに人がいるのが当たり前の環境下で生活することを強いられる点にある。自分の周りには当たり前のように人がいるので、自然に声を掛けられてそのまま流れで友達になったというケースはよくあることだ。実際にそうした経験を持つ人はとても多いのではないだろうか。クラスが存在しないとなれば、自分から進んで声を掛けないと簡単に友達を作ることはできないが、クラスが存在するのであれば、自然にコミュニケーションが発生し、気付いたら友達になっていたという状況になっていることはままある。
三つは、本人の意思によらず問答無用でクラスメイトと一緒にいる時間がとても長いことにある。高校の授業は1限から6限、あるいは1限から7限まで授業があることがほとんどである。そうすると、一日の大半をクラスメートと共に過ごすことになる。高校まではクラスメートと共に同じ机を並べて授業を受けることを強要されるので、同じ体験を共有することができる。この同じ体験を共有しているという状況が関係性の発展に貢献しているところが結構ある。何せよクラスのメンバー全員が、同じ体験を積んでいるので、授業でわからなかったところなどをクラスメイトに相談して問題を解決することもできる。これは会話をするきっかけとしては十分なものである。 こうしたように高校までの環境は特に自分から行動を起こさなくても、自然に友達ができやすい傾向にある。
一方、大学以降の友達作りは、交友関係を形成しにくい面があるように思う。それは大学にはクラスがないことがほとんどなので、自分から積極的に声でもかけない限り、他人と会話をするきっかけそのものがない。きっかけがないと、自分の顔と名前を知ってもらって、関係を構築するという次のステップに達することはできない。また、 同じ学部のメンバー全員が、一様に同じ講義を受講するわけではない。大学では、それぞれ自分の興味関心のある分野を自主的に選択して講義を受ける。つまり、人によって受ける科目にばらつきがあるのだ。そのため、いつも周りの人間と同じ講義の科目を受けることになるわけではない。被っている科目が少なければ、それだけ同じ学部の人間と接触する機会も減る。会う機会が少ないと、会話を重ねて人間関係を形成していくというのは難しいところがある。つまり、高校までと比べて共同体に属しているという感覚が希薄であるように思われる。高校までと違ってクラスもないし、名簿も名札もない。だから、自分の存在を知ってもらうことが高校と比べて難しい。もちろんゼミや語学の講義などのように同じメンバーで定期的に講義を受ける科目も存在するには存在するのだが、その頻度は週に1、2回とさほど多くはない。なので高校までの授業と比べて。同じクラスのメンバーと共に何かをするという経験を積むことが難しい。そうした環境が人間関係を形成しにくくさせる要因の一つになっている面もある。
高校までは周りの人間が声を掛けてくれることで何とか友達(友達らしき存在)を作ることができたが、それがなければ、その間ずっと友達を作れずに学校を卒業したケースも多かったのではないかと思われる。そうした人たちは一定数いるのではないか。むしろそうした人たちの存在の方が多いのではないかというような気さえする。クラス制度の存在が友達作りに貢献しているところを踏まえると、クラス制度の存在に救われている人も結構いるのでは。クラス制度って案外必要な制度なのではないかと思ったりもする。
と言っても、複雑な家庭環境の話ではなく、単に仕事で不在がちな父親に代わって近居していたじいちゃんが父親のような役割もしてくれたという話。
特に内容は無いけど、昨日の夜、なんとなく昔のことを思い出したのでダラダラと書いてみる。特に面白いオチはない。
俺の家は両親が共働きしてる地方公務員で、二人とも結構忙しかったから小学校から帰ると自宅のすぐ近くにある母方のじいちゃん家で晩御飯~お風呂までお世話になってた。自宅には夜寝るときと朝学校に行くまでいる感じで、俺にとってはじいちゃん家の方がよっぽど自宅という感覚だった。
じいちゃんは市役所勤務を定年まで勤めあげ、当時は完全に隠居状態であり、ばあちゃんと一緒に趣味の畑仕事をしながら、俺の面倒を見てくれていた。
じいちゃんは孫の俺に甘々で、色白の俺に対して、もっと外で遊んで日焼けしろと言いながらも「色白は七難隠すといって」可愛がってくれた(この諺は女子に向かって使うものだと思うけど)。俺がピザポテト好きだと言えば毎日おやつにピザポテトを用意してくれたり、晩御飯にモスバーガー食べたいと言ったら軽トラ飛ばして買いに行ってくれたり、デパートに行ったら必ずおもちゃやデパ地下の高いジェラートを買ってくれたりした。
俺もじいちゃんによく懐いていたし、じいちゃんはいつも近所の人に自慢してた。小学校の参観日に両親が仕事で来れなかったときはじいちゃんが来てくれた。
その時の授業は保護者の似顔絵を書くというもので、なぜか俺はじいちゃんの来ていたジャンパーのファスナーを一生懸命書いたらそれが評価されて市の表彰を受けた(大した賞ではなかったけど)。じいちゃんはその話を近所の人によくしてたし、その時の似顔絵はリビングのテレビの真上に飾ってたので、いつも気恥ずかしかった思い出がある。
あと、じいちゃんは達筆で習字を教えてくれた。習字の練習中は普段と違ってすごく厳しかった。でも、一生懸命教えてくれたおかげで身に付いた字の綺麗さは今でも人に褒められることがあるし、当時は習字の表彰をたくさんもらっていた。
そんなじいちゃんだけど、俺が小学校高学年になったあたりから体調を崩すことが増え、人工透析にも通い始めるようになった。同時にばあちゃんの認知症が発覚し、母さんが仕事をセーブし始めて家のことを結構やるようになった記憶がある。中学生になってからは部活で帰りが遅くなり、じいちゃん・ばあちゃんの夕食はデイサービスの弁当配達(体調に配慮した低塩味付けのやつ)、俺は母さんや父さんが作った夕食を自分の家で食べることが多くなった。
俺が高校生になると、じいちゃんは家よりも病院に入院している時間の方が長くなり、ばあちゃんは認知症ケアの老人ホームに入居した。
じいちゃんのお見舞いやばあちゃんの老人ホーム訪問は月に2~3回は母さんと一緒に行っていた記憶がある。
最後にじいちゃんとあったのは高2の12月、部活帰りに母親と一緒に入院しているじいちゃんのお見舞いに行ったとき。
その時、じいちゃんは俺の手を取って「相変わらず色白で女の子みたいな手だな」と言って笑ってた。だけど俺からすると、大きいと思ってたじいちゃんの手はいつの間にかしわくちゃで変に黒ずんでいて冷たくて、昔のように無骨だけど大きくて温かい手じゃなくなっているのを見て、急に泣きそうになった。だけど、高校生にもなって急に泣き出すのは恥ずかしいと思い、必死で涙をこらえながら「そんなことないでしょ。部活で豆だらけだし、俺の手だって大きくなったんだぜ」と言い返すので精一杯だった。じいちゃんは笑ってた。
次の日の深夜、病院からじいちゃんが急死したと電話があった。なんとなくそんな予感はしていた。
でも、葬式では周りがビックリするぐらい泣いてしまった。今もこの日記を書きながら涙が止まらない。
今でも何か文字を書くときはじいちゃんとの習字の練習を思い出す。
俺も息子ができたが、もう少し大きくなったら習字を教えてあげようと思ってる。