はてなキーワード: 命題とは
なるほど、君は「世論の同意」と言う言葉を使えばオタクの人権を踏み躙っていいと思ってる奴なんだね?
最初に言ってたこととかなり立場が変わってるが、まぁいいだろう
でさ、聞きたいんだけど。
「世論」とか言うあやふやで確たる根拠もないもんのために、一方的に権利を奪われ続けるオタクが君らに従属する理由ってなんかあるの?
あと、高校野球だの野球だのゴルフだの、オタクにとっては厄介極まり無い代物だが、それを止めろと運動しないのは「それを好きな奴が居ると分かってるから」だぞ。つまり節操がある。
君ら規制派の節度のなさ、身勝手さは君らが蔑むオタクのはるか下だといえよう
さらに言うなら、世論の合意なんかなくても集団でぶっ叩けばやめさせる事ができる。フェミ達がやってるのはコレ。
そして辞めざるを得なくなって辞めると「世論の合意」と言っちゃう訳だ。
ヤクザだよ。コレ。
さて、私事ではあるが、私はひょんな事から知人の紹介を以て物書きとして仕事をすることになってしまった。
同人小説の一つも書いたことはなく、詩を紡いだこともないズブの素人が物書きとなってしまったのだから、これは一大事である。
世の中に生々しい悪臭を漂わせるクソのような文章を生み出すに違いない。同業の諸先輩方には申し訳のしようもないが、生きていくためには書いてみるしかないようだから、一つ堪忍していただきたい。
具体的に何を書いているのかという話だが、主にソシャゲのシナリオとフレーバーテキストの仕事をしている。
シナリオは新規追加キャラクターに付帯する「ガチャを回したくなるようなストーリー」であり、フレーバーテキストとはアイテムやキャラの説明文といった類のものである。
自他ともに認めるズブの素人であるから、面白いストーリーも売れるキャラクターも分からずに右往左往している私の論は大変滑稽であると思うが、思考を整理しながら意見を頂きつつ、私のような後進があった時の手がかりになればという考えでタイピングしているのでご容赦願いたい。
物申したい訳ではなくて、自らの認識と世の中の齟齬を確かめつつ、様々な意見に触れられれば良いと考えた訳である。
物書きとしてスーリーを生み出す以上、面白いと思われる作品を作らねばならない。
しかし、困ったことに今までの人生で面白いものを作ろうとして作ったことはない。作りたいから作った絵や模型は少々あれど、人にウケる事を目的とした作品を作ったことは全く無い。これでは何を良しとすれば宜しいのかが分からない。
初っ端から大きな壁にぶち当たり、困り果ててしまった私は「ここはひとつ、自分が好む『面白さ』を分析し、自分と同じ感性の人間にウケる物を作ることから始めよう」と考えた訳である。
そのために、まずは自分が好きな作品をリストアップしてみようと思い立った。
そうして思いつくままに好きな作品をリストアップしてみた訳だが、どうやら具体的なことは何も分かりそうにない。 困った困った。
(例として『攻殻機動隊』『エヴァンゲリオン』『松本零士戦場まんがシリーズ』『姉なるもの』『装甲悪鬼村正』『DARKER THAN BLACK』『Fate/stay night』『イヴの時間』『カウボーイビバップ』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』『殻ノ少女』『ARIA』などが浮かんだ)
パッと見で抱く第一感は、大抵の作品には何処か仄暗さがある事、ハーレム物ではない事(Fateはハーレムに近いが)が共通項であるという事ぐらいだろうか。
(一見明るく見えるARIAだって地球の海はすでに人の泳げない環境になっており、テラフォーミングされた火星の海で人が営む話だし、その他の作品も主人公格のキャラが暗い過去を背負っていたり、あるいは直面している状況が暗かったりする。)
あとは私が「根暗で面倒くさいタイプのオタク」のような何かであることぐらいは分かるのかも知れない。
本筋に戻るが、素人なりにこれらの作品を嗜好する人間が好む『面白さ』とは「その世界をキャラクターを通して知ること」ではないかと私は考えた。
例えば草薙素子がメスゴリラではなくか弱い少女であっても、碇シンジが熱血爽やか少年であっても、私は攻殻機動隊やエヴァが好きだっただろう。
なぜなら彼らがどのような性格や外見であっても、あるいは登場せずとも、世界設定が同じならだいたい同じように世界は動くだろう。
極論を言えば草薙素子がか弱い乙女であり公安9課に勤めていなくとも人は義体化し続けてゆくし、あるいは碇シンジが初号機に乗れと言われた時点で超ノリノリであっても、最初に戦う第三使徒サキエルにはコテンパンにされ、進化し続ける使徒を食い止めきれずにサードインパクトを迎えるだろう。
キャラの性格や外見がウケなくとも物語は進行し、あるいは登場せずともその役目は別の人物が担当して物語は収まるべきところに収まる。なぜならその世界はそういうニーズを抱えて生まれるからだ。
しかしそれではつまらないから、面白く見える視点を借り受けることで、物語は娯楽作品として成り立たせることが可能になる。
結論として、私は「キャラクターとは世界観に内包される1つの要素であって、世界の覗き穴でしかない」という考えに至った。
しかしこれを知人に語ったところ、「世界はキャラクターに内包されている」という返答を得て混乱することになり、こじらせ続けた結果としてこの日記を書くに至ったのである。
まず私は混乱を与えた知人に「なぜ世界はキャラクターに内包されるのか?」と問いかけてみた。
すると彼は「大塚英志を読みなさい」と言うので、彼が勧める「物語消費論改」に目を通し、今の私にうってつけの本のように思えた「キャラクター小説の書き方」も読んでみた。
大塚英志の書く文章は客観的なエビデンスを示す事よりも、一つの前提を提示した上で理論を展開する事に重きを置いているように思え、彼の取る左翼的立場(いわゆる大多数の革新派とは別物との自覚があるのか、自身は『サヨク』と表記するが)が突如乱入して辟易する事もあり、中々体力の必要な内容であったが、ひとまず読み切った。
彼の書き込んだ政治的なノイズと、理論展開をしたかっただけの文章をフィルターに掛けながら読んでいくと、どうやら物語というのはキャラクターがいないと生まれないものらしい。
キャラクターが初めに存在し、ストーリーを作る中で世界が見えてくるのだという。
なるほど、確かに何かしらのネタがなければ物語は書けないし、世界を描写することができないように思える。
例えば年齢や性別を設定されたA子さんというキャラクターだけがそこにいて、世界観がなかった場合はどうだろうか。
この場合、A子さんに生まれるのは虚無の中に放り出されたと言う事実だけである。
もし、その「『何もない世界』を受けてA子さんが得た情動こそが物語である」というのならば、それは虚無と言う世界観がないと成り立たないのではないか。
逆に、例えば「中世風の世界」があったとしよう。登場するキャラクターの設定は何もない。
中世風の世界といえば、人の頭の中には剣戟や鎧がたてる金属音や、あるいはそこで生活する人々が桶を片手に井戸に水を汲みに行く姿などを思い浮かべるだろう。
そして、多くの人は中世と言われただけで頭の中にヨーロッパの景色か、日本の中世を思い浮かべたのではないか。
あたり前のことだが世界観には内包する事物があり、事物には経緯がつきまとうものである。
世界観を定めたことで、これらの自然な在り方の幅が定まり、人物も含めて存在する範囲が決定される。
たとえ時間が静止していても、大木には新芽から育った歴史があり、水すらも水素2つと酸素が結合したという経緯が発生する。
私はこれらの変化こそが物語なのではないかと考えているのである。
即ち、その世界で起こった変化を拾い上げた時に、初めて事物がキャラクター化すると考えているが故に、私はキャラクターが世界に内包されるという考えが捨てきれない。
そして、物語の本筋というのは、それらの小さな変化全ての集合体であり、世界観そのものがストーリーであると考えてしまっているのだ。
うーん…困った…。なんでキャラクターに世界が内包されるのだろうか。
A子さんの主観から書いた物こそが物語であり、A子さんの認知した物こそが世界観であると定義するのだろうか?わからん…
うーんこまった。うんこまった。
なぜ困っているのかは次項で触れよう。
上記の様に「世界にキャラが内包されている」と考えている私が、物書きとして初めて書くことになった物語はソーシャルゲームに追加される新キャラのイベントストーリーだった。
この仕事のキモは、有料のクジ引きでプレイヤーが獲得できる新キャラをプレイヤーに対して強烈に売り込むことである。
具体的には運営会社が考えるキャラクターの「良さ」を引き立てるためのお話を一本仕上げるのだ。
ここで私は早くも躓いた。
何故ならソーシャルゲームにはベースとなる世界観があり、主要キャラはすでに出揃っており、本筋の進行に何ら問題のない所に、いきなり「強烈な売り込み」を必要とするキャラが登場してしまうからである。
本筋の話に必要のないキャラクターを、いかにも重大で必要な魅力を持っているかのように持て囃し、そのために何かしらの話を世界観という大地から発掘して、プレイヤーの周りに再配置する作業となる。
そして、運営としては本筋に明確な終わりを与えてしまうとプレイヤーが離れてしまうから、本筋だけを避けて大地を穴ぼこだらけにしながら不要物ばかりが増え続けていき、やがてはプレイヤーの周りに綺麗にそびえ立つ「本当はどうでもいいキャラ」の山が本筋を隠してしまう。
これは、私の「世界に内包されたキャラクター」の考え方だと避けて通ることは叶わない結果のように思える。
しかし、「キャラクターに内包された世界」という考え方であれば、大地の形は定まっていないので、きっとプレイヤーの周りに何処からともなく取り出した土を積んでゆく作業となるだろうから、なるほど確かにそちらの方がソーシャルゲームに向いている。
ただし「どこからその土(物語)を持ってきたんだよ」という疑問とともに、「別にその土がなくてもこの世界は存在しているし、その山は不要じゃない?」という感想を得る私のような面倒な者も少々発生するだろう。
「要・不要でしか語れない虚しい奴め」と言われればそれまでだが、こちらとしてはいきなりステーキか、或いはさわやかハンバーグでも良いが、兎も角ステーキハウスで3000円のステーキを注文したら、鉄板の上にステーキを覆い隠さんほどのミックスベジタブルを乗せられた心持ちなのである。
いきなりステーキの店員としても、ステーキが主役なのに上役の指示でステーキを切り捨ててでもミックスベジタブルを山程ぶち撒けろと言われて途方に暮れててしまうだろう。ステーキの前でアホ面を晒してミックスベジタブルを握りしめている店員こそが私なのである。
私は本筋を覆い隠さんほどのサブキャラを並べるという在り方は、本筋へたどり着かせない為だけの行為にしか思えず、ベースとなる世界観にガチャの新キャラを紐づけていく意義を上手く見いだせなかったのだ。
前項で困っていたのはこの点であって、物語がキャラクターに内包されているのであれば私の考えが間違っているだけなのだが、どうやら一応理屈は通っているように思えてしまっている。
え?意義はお金を稼ぐ事だし、キャラも理由なく存在していてもいいじゃないかって?
まあその通りなんだけどさ…青臭くってウブな駆け出しとしては、ちゃんと物語を進めたいわけよ…
え?面白ければ本筋がどーこーはどうでもいい?
それも最もな話よ…だけど、面白いって何さ?
ようやっとこの4項目にして表題に触れられた。
展望も何もなく書いてきたので、まずはここに着地できた事で一安心である。
「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクター」に塗れた作品であっても、成功しているコンテンツというのは存在する。
何を隠そう大部分のソシャゲは「本筋が遅々として進まず(或いはほとんど存在せず)、本筋に絡まない=世界の動きに絡まないサブキャラクターに塗れている」にも関わらず、利潤を得やすいガチャ商法を確立し、商業的に成功していると言えるだろう。
しかし、これは「プレイヤーが楽をして手に入れられる娯楽としては」という但書が付属するのではなかろうか。
例えば、人が10時間の自由と完全に健康な体を手に入れたとして、目の前に据え置きのゲーム機とスマホが置いてあり、何れかの"ゲーム機"で好きなゲームをして10時間消費できるとしたらどちらを選ぶだろうか?
多くの人は据え置きゲーム機を選ぶと思う。
ソーシャルゲームを10時間プレイするということは、多くの場合は右手の親指で、画面の右下を5秒毎にタップする10時間を過ごすことになるだろう。
ソシャゲのファンタジーゲームよりもドラクエXI、スマホの荒野行動よりもPS4のPUBGのほうが良いユーザー体験を得られることは当然である。
(バトロワゲーにおける「物語」とはプレイヤーのプレイそのものであると私は考えている。つまり、より派手に快適に臨場感を得られるPUBGのほうが物語を鮮明に作り出すことができると思っている。まあ、異論どころか非難轟々かも知れないが、本題とは離れてしまうので一旦放置してほしい。)
しかし現実には日本のゲーム市場はソシャゲが大きな地位を不動のものとしている。
これは、プレイヤー自身が体験・考察・のめり込む事なく「楽に手に入れられる娯楽」を欲しているからだろうと思う。
つまり「さっと注文して、さっと食べ終えられるファストフード」のニーズが高まっているのだと考える。
ここで本題に戻るが、端的に言ってファストフード的娯楽に、「大きな物語の展開を推察し、その行く末を記憶して楽しみにする」という『面白さ』は重すぎる。
世界観や、大きな物語の動きを受け取ることができるプレイヤーに対して、ファストフード的娯楽を求めているプレイヤーが圧倒的に多い。
故に本筋を覆い隠してでもサブキャラを増やしまくり、ゲームの本筋とは関係のないキャラ推しの話を通勤電車の中で10分で摂取させ、その体験を通してガチャを回させて達成感を与える訳である。
本筋というハイカロリーでの御馳走を消化するには、健康な消化管と食後にゆるりと過ごすことができる時間が不可欠だが、これは時間とタスク処理に追われる現代人にはちょっと厳しい要求だ。
故に、消化が楽で手早く終わるローカロリーな立ち食い蕎麦である、本筋に干渉しないキャラシナリオをちょいと摘むぐらいがちょうど良いという世情があり、まぁ立ち食い蕎麦も許せないほどマズイ訳ではないから多くの人が食べるのだ。
そしてこの2つを比べた時、多くの人は無意識のうちに御馳走と立ち食い蕎麦を「比べるべきではない両者」と判断して、或いは意識的に御馳走を我慢して立ち食い蕎麦を選んでいると言う構図なのだろう。
どちらを食べてもひとまず空腹は収まり、なんとなくか明確かの違いはあれど「美味しかった」という感想が残るから、死に物狂いで御馳走を求める酔狂なグルメ以外は、立ち食い蕎麦でも満足感は得られるのである。
つまり、ベストである必要が無いと言うのが、物語の器たる創作物に求められているのではないか。
結局のところ私はここまで考えた所で面倒くさくなってしまった。
本当は物語の捉え方を考えていたはずなのに、到着したのは「求められる面白さ」になり、挙句の果てにはステーキと立ち食い蕎麦だ。救いようがない。
さて、脱線し続けた挙げ句、私はこの記事の命題である「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」という問いには、一旦以下の答えを与えることにしようと思う。
Q.「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」
A.「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは一番面白い訳ではないが、なんとなく面白い位にはなる」
つまり、結論として、「本筋の展開する面白さ」は今の創作物には重すぎる。
キャラを立たせてキャラを売った方が、消費者に優しいし、会社としても嬉しいのだ。
ベストではなくベター良いから、世界に干渉できないキャラクターでも十分であり、安心できる経営につながるということだけは確かなようだ。
私は物書きの入り口に立った以上、そこをうまいことやっていく必要があるらしい。
さて、私の眼前にそびえ立った、ステーキの上にぶち撒けるべきミックスベジタブルはどうしてやろうか。
ミックスベジタブルを手早く、それなりに美味しく仕上げる方法をご存知の方、或いはこのステーキとミックスベジタブルが載っている鉄板料理の良い拵え方をご存知の方がいれば、教えていただければ幸いです。
「フェミニズム」という言葉を徹底的に脱権威化・大衆化したいのか、それとも単に「これこそ真のフェミニズム。そっちはフェミニズムじゃない」という雑なレッテルに反論したいだけなのか、ちゃんと区別すべきだと思う。
もし後者なら、「フェミニズムは一人一派」なんて乱暴なちゃぶ台返しでしかないから今すぐやめるべき。中学校じゃないんだから、「この世に真の客観はない」みたいな古代から知られている当たり前の事実には何の情報もない。それよりも、「フェミニズムとは何か、という問い自体が哲学的命題を含んでいる」とか逃げ方はいくらでもある。
逆に、「フェミニズム」という言葉を脱権威化・大衆化したいなら、それが必ずしも望ましい意味で使われるとは限らないことも認めるべきだ。具体的には、「クソフェミ」のような蔑称や、「フェミニスト=女性に甘い男性」のような誤用にもある程度寛容でなければならない。もちろん、それらの用法は議論には適さないが、大衆化された言葉が議論に適さないのは当たり前。澄まし顔で「フェミニズムは一人一派」とかいう有識者じみた「正論」を述べるより、「俺クソフェミだからこういうの全部女性差別に見えるンスよねーっ。めんどくさいクソフェミですんません!(威圧」くらいの態度を大衆に見せる方が効果的だろう。
たぶん、物言わぬ識者は皆気付いているだろうけど。散々言われているのかもしれないけど。
一連の流れ、文下ろしの一環だよね?
命題は「平和」、反題は「文政権の理想」、合は「朝鮮半島の平和な統一(時期は問わない)」。
文を主体にすると、
命題は「朝鮮半島の統一(赤化は問わない)」、反題は「戦争」、合は「南北の融合(混乱は問わない)」
オリンピックまでに南北を融合したい文さんと、軍が政治的に強い北朝鮮軍を迎合できない韓国軍。
この二者の衝突に日本が利用されているっていう構図。
嘘っぱちな近接飛行の報告を上げるのも、
愛国心を煽って政権交代を促そうという意図を込めているんじゃないかな。
韓国の国際的な地位が下がってでも北朝鮮との融合が嫌ってことなんだろう。わかる。
日本も欧米もそれが分かってるから「しらんがな」な態度なんだろう。
日本が初めは強硬な態度だったのは国内向けのパフォーマンスなんじゃないかな。途中でそれをやめたら信用を無くすとまでは気付いてない感があるが。
命題は「平和」、反題は「朝鮮半島の統一後、恨文化の台頭と軍事主義的な発展」、合は「統一後に西側へ取り込む」
長い目で見れば海軍側につく方が理想に近そうだが…。だがもう統一後の朝鮮半島を西側に取り込むのは、迷惑だという雰囲気すらある。
トランプさんも赤化を容認するんじゃないかな。朝鮮半島の統一を自分の手柄にしたいだろうし。日本は容認のカードを持って北方領土を交渉してたりして。
赤化待ったなしだから、市場も中国に売却する傾向なんだろう。金正宙とか。
小市民たる僕たちがやらなきゃいけないのは、近いうち確実に来る混乱の前に、親しい一般韓国人の友人を東西問わず安全なところへ連れてくることだ。
在日とか云々とかとは別次元の話だ。目に見える範囲のいい人だけでも、せめて混乱から逃がしてあげるべきだ。
駄目なやつは間違っても連れてきちゃ駄目だ。慰安婦ガーとか照射ガーとか盲目的に信じるやつはどうせ赤くなるから、放っておけ。
あ、僕は筆下ろしに見えたので負けです。
命題の真偽と対偶命題の真偽は一致。逆命題と裏命題の真偽も一致。命題と逆命題の真偽の一致は偶発的(命題の意味によって一致したりしなかったりするので一般的にYesともNoともいえない)
命題と対偶命題の真偽は一致するが、命題自体が真でない(恒真でない)ことを忘れて対偶命題を真だと主張する
「成功者は努力家だ。したがって努力をしていないものは成功することはできない」
これは命題が恒真でないことが原因であるので間違いだ。現実世界では努力家でない成功者もいる。論理的には正しいが、意味的に誤っている例といえる。
あっちもこっちもレッド・デッド・リデンプションの話でもちきりだ。
なんとなく面白そうなのは伝わるんだけど、何をするゲームなのかよく分からない。
このゲームだけでなく、よく話に聞くFalloutやグランド・セフト・オートもよくわかってない。
ゲームの中で車を盗んだり、銀行強盗ができるんだよ!凄いよね!
…という話は聞いているけど、盗むのが目的じゃないだろうし、銀行強盗も最終目的ではないだろう。
りゅうおうを倒して姫を救うとか、ガノンを倒してハイラルを救うとか、そういう到達点が全く見えない。
何でもできるんだよ、好きなことしていいんだよ。
と言われると今度はプレイできない。
強大な意志の力で生活を是正しようとするのは無理だと思えてきた今日この頃です
そもそも強大な意志っていうのがないわけで、ないものをあてにして生活して、
それでも時々はきちんとした生活できてうれしくて、すぐに逆転していつも通りの生活になって自分を責めてしまう
カーテン開けて寝るとか画面見ないようにするとか食い物に気を付けるとかエトセトラエトセトラ、
そんなまどろっこしいことしなくてもきちんとした生活ができている人とおれとでは何が違うのだろうか
全国民が画一的に早寝早起き朝ごはんなんていうのは不可能というか不自然な命題なんじゃないかと思えてきた今日この頃です
どうすりゃいいんだ
竹村訳も含めて読んだことがなく、ジェンダー論などの知識もない素人が単に該当部分の前後を英語として読んだ感じでは以下のように思った:
章のまとめ的な段落であることも踏まえると、この部分の those attributes は直前の true / false / real ... ではなくて前段落の gender attributes と解する方が自然と思う。
gender attributes は acts とともに前段落で the various ways in which a body shows or produces its cultural signification と言い換えられている。これは たとえば「逞しさ」「優しさ」など、特定のジェンダーと結びつくとされる属性のことを指している、と素人には思われる(この議論の文脈での常識的な解釈については知らない)。バトラーはそれは expressive ではなく performative なのだという。表現的なものではなく行為遂行的なものだ、くらいに思われる。
つまり、含意としては
「ジェンダー自体は真とか偽とか(略)にはなり得ない。それどころか、「逞しさ」や「優しさ」のような行為遂行的な属性を確かに帯びているジェンダーは、まさにそれ故に、徹底して根本的に不確かなものともいえる」
と読める。
これを踏まえると、この段落の訳はほぼ竹村訳でよいが、those attribute を「そのような属性」と訳すと直前の「真実」などと解する誤解を呼ぶので、前段落を踏まえた理解を促す語を補った方が素人には親切な気もする。
加えて、incredible にポジティブな意味での「すばらしい」のような informal な意味も重ねて込められていると読むのはこの文脈では合わないし、そんな安っぽい言葉遊びをする理由がないように感じる。ここで斜体になっているのは単純に credible / incredible の対比と、確かな所与と思われているジェンダーが実は根本的に不確かなものといえるのだ、ということを強調したものと考えた方がいいと思う。その上で、それって incredible なことだよね、という読みを促すという意味では文彩の一種だと言えなくはないと思うが、解釈がファンシー過ぎる気もする。
1.
竹村は As credible bearers of those attributes . . . を「そのような属性の確かな担い手とみなされているジェンダー」と訳しているが、As credible bearers を単純に読めば「信頼に足る担い手であるジェンダー」とか「確かな担い手であるジェンダー」であり、「とみなされている」というニュアンスを補う必要はない。ここはバトラーはジェンダーが「そのような属性の確かな担い手である」と考えており、それを前提に結論を述べるところとして読むのが素直だと思う。
竹村が「とみなされている」としたのは、おそらく竹村も those attributes が直前の true / false / . . . を指すものと誤読しており、「ジェンダーは真なるもの(略)にはなり得ない」と「真なるもの(略)という属性の確かな担い手である」という相反する命題を接続する必要ができたためだと思う。そのため credible を「人びとがそう信じている」という雰囲気で読んで留保のニュアンスを加えたのではないか。
those attributes を gender attributes ととれば「(「男らしさ」等の)属性の確かな担い手であるジェンダー」でそのまま意味が通じる。
ただし、竹村訳の前段落を読んでいないので、ひょっとしたら竹村訳のままでも正確な理解ができるのかもしれない。
2.
前段落の expressive / performative:
performative を行為遂行的と訳すのはわりと一般的と思うが、適切な訳語は知らない。前段落でいわれていることは、一般的な語彙の延長で読めば、 gender attributes / acts は予め備わっている gender identity を基準として(たとえば)「男らしさ」と評価されるものではなく、反復して演じつづけることで事後的に特定のジェンダーが帯びる「男らしさ」なのだ、くらいの意味に思えた。
この両方を信じている人、多くない?
はじめに断っておく。
俺は全体としての男女間の知能差や知性差について、特段の意見は持ってない。
あるかもしれないし、ないかもしれない。
で、本題は、
と
まず、男子の方が体力的に優れているのは社会的合意事項だと前提する。
多くのスポーツ競技が男女別になっていて、かつ男子の方が大体好成績な点を鑑みればこれに異を唱える人は少ないだろう。
体力的に優れていると、当然に疲れにくい。
というか、体力(≠ 筋力)の定義自体が疲れにくさかもしれない。
で、そうすると命題1より男性は女性に比べて思考力が鈍りにくいということになる。
すると現実的な環境下で知能や知性を運用した際には、知能や知性の面で男性が女性を上回っているという結果にならないだろうか。
命題2より疲労ゼロの時に男女に知能差や知性差がないとしたら、そこからはより劣化しにくい方が現実運用下では有利ということにならないだろうか。
最後が「だろうか」となっているのは、だから男が女より頭良いと言いたいのではないから。
むしろ命題1・2をともに真ととらえていて、かつ、男女間に知能差や知性差がないと確信している人たちからの、反駁を期待してる。
どういう整理がそこにあるのだろうか。