はてなキーワード: 不正解とは
英語圏では、チェックマークは、その即時性とシンプルな構成から、利便性を示す肯定的なシンボルとして主流となっています。しかし、他の国では、このマークはもっと複雑です。
スウェーデンの学校では、答えが不正解であることを示すために✓が使われ、答えが正解であることを示すためにスウェーデン語のrätt(=「正しい」)に由来する「R」が使われるのが一般的です。
フィンランド語では、「✓」は「väärin(ヴァーリン)」の略で、斜めのV字に似ていることから、「間違っている」ことを表します。\斜めの縦線を2つの点で強調したものです。
日本と韓国では、チェックマークの代わりにOマークが使われ、間違っている場合にはXマークや✓マークが使われることが多い(問題があるが完全に間違っているわけではない場合には三角の△マークもある)。
オランダでは、「V」は物事が欠けていることを示すのに使われ、「krul」はセクションや合計を承認するのに使われます。
ブラジルでは、チェックの文字は「はい」の概念を示すのに使われます。例えば、「はい、チェックされました」や「はい、これが正解です」などです。
幸せなんてない 不幸せなんてない ただのギャップ 川のように雨のようにただ動くだけ
物思いにふけるって言葉自体がない国があるらしい それと一緒で 幸せなんて言葉はない
眠る前の洗脳あれなんなんだろうな 意味わからん あんなの見なくていいのに
そういやHDD0になって イライラしてたけど あれってイライラする必要あるのかね
始祖はオファー オファーがなければよsい社長みたいに 何も考えなくてよかっただろう
でもどうせ オファーくるし
どうせ答えはでないし ならば悩みながら答えでないか 悩まないで答えなしか 2択になってくる
答えがない 生きてること=苦しいこと 苦しさを回避できない →正解不正解もない
運でいきる マミさんみたいに飴さんみたいに 運を信じよう
学校のテストも はいはい これが正解でこれが不正解ね はいはいみたいな 全く信じない なんかいってらあ なーにいってんだ
テストの点がよかったときは運がよかった 悪かったときは運が悪かったですます
外出れなかったのは運が悪かったから 運がそう決めた 風呂をでれなかったらそれも運のせい
生まれてきたのも運のせい
まひと かなしみもくるしみもなやみもない 美容師ひとこい 人に流されるのもたまにはありですよ このひと完璧とか考えないのか
思い込み次第でなんとかなる → じゃあ死んでもよくね → 指針がないとこうなる
始祖は オファーがくること オファーがこなきゃ 何も考えないことになる
常に欲求が満たされればオファーはこないだろうな 感想だけになる あーりんごうまかったなとか
何も考えないのなら 赤ちゃん 幼稚園 小学生のような生き方になるな
欲求がない 天秤が傾いたほうにいくだけ
欲求持ってもさ 眠い時に起きれない 詰め将棋した結果こうなった
ファイナルファンタジーの世界に行きたいって思ってたけどやっぱどっちでもいいかなって思うようになった
オファーがこない世界戦を考えたけど 普通に生きて普通に死ぬんだろうな
ワイドナの松本でいう レジュラーじゃない たまたま毎週きてる純レギュラーだと 別に強制ではない
4つくらい世界戦つくろうかな 洗脳されたままの世界 洗脳を解いて本能 性欲食欲睡眠欲マズロー忠実にの世界 なにもないその場のノリのオファーの世界 正解不正解がない世界
ブブー不正解です
A ⬆️⬆️↪️⬆️🅱️
B ↩️🅰️
の実行結果
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・壁にぶつかって進めなくなりました
A ↪️⬆️↩️⬆️🅱️
B ⬆️🅰️
の実行結果
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█▨☆▨▨▨☆▨█
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██▨▨▨▨▷██
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・壁にぶつかって進めなくなりました
A ⬆️⬆️↩️↩️🅱️
B ⬆️🅰️
の実行結果
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█▨☆◁▨▨▨▨█
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・1つ目の☆を取得しました
・2つ目の☆に1歩届かずループ
人生は泡沫の夢のようなものと喩えることがあるが、そんな泡なら弾けてしまえばいいのに。
Instagramを久々に開いた。
基本的にInstagramはリアルの友人たちと、「会ってはいませんがまだかろうじて繋がっていますよ」という体裁を保つために私は続けている。
そこで、高校時代の友人のストーリーで気になる記述を見つけた。
「このオイルはコロナワクチンのシェディングにも効くそう!これでご高齢の方とお会いするのも安心!」
という文言が載っていた。
(話は脱線するのだけれども、Instagramもデマ拡散の防止のために何かしらのアルゴリズムが組まれているのか、そのストーリーにだけワクチンの正式情報への導線が作られていた。SNS運営とはなかなか難儀なものである。)
その答えを探すべく、私はツイッターの検索欄に「シェディング」と打ち込んだ。
ツイッターの検索はなかなかに便利なもので、今の世の中自ら個人の意見を発する機会というものが気軽に傍らにあるがために、内容の如何に関わらず「誰かの意見」というものに即辿り着ける。
取りまとめると、シェディングとは
「コロナウイルスのワクチンを摂取すると、その人自体が有害なスパイクたんぱく質を周囲へと振り撒くようになり、未摂取者へ湿疹などの害をもたらす」という話の様子である。
また「ワクチン摂取者は独特の匂いを発しており、近づくと異臭に気がつくため即座に離れた方が良い」
「コロナウイルスはただの風邪であり、ワクチン接種により選民を行おうとしている世界的な陰謀である」
と続く。
どうやら私の友人はこうした話に感化されており、高齢者に会うのも安心できる、という文が指すのはワクチン摂取者と出会っても安心できる=間接的にワクチン摂取の拒否の意向を示している、ということになる。
ここで私の立場をきちんと明かしておくが、私はワクチンを摂取する予定だ。シェディングの話も私は気にしない。
ただ、問題点として「ワクチン摂取がコロナウイルスへ対抗するための最良の手段である」という点についての断定的な回答は保留にしたい。
私はそう信じているが、そう信じない友人を庇いたい気持ちもあるためである。
ワクチンを打つと決めた私も、ワクチンを打たないと決めた友人にしても、私たちは同じ日本で、同環境とも言えるインターネットのアクセス権を得ているにも関わらず、評価がこのように分かれるというのは、結局のところどちらにしても私たちは「信じたいものしか信じたくない」という点においては共通しているような気がするからである。
どちらが正しかったのか、どちらが不正解なのかは、もう未来でしかわからない。
未来の世間的な評価に、判断を委ねるしかないだろうと私は考えている。
もちろん、ワクチン接種に反対する活動をする者を陰謀論者と冷ややかに笑うこともできるが、私の場合、知的な会話も出来ていたと感じていた友人が反ワクチン派に加わったのを見ている。
友人を悪く思いたくはない。友人を冷笑するようなことはしたくない。
だからこそ、私はワクチン接種の是非についてはもう何もわからないと保留することにし、私はワクチンを打つことにした。
ただ、私が信じる道を進み、他の道を進むものを嘲笑ったりするようなことはやめておくことにした。
けれども、こういった形で、世間的な評価も分かれる観点において友人と袂を分つ事になったことにどうしても、胸が痛む。その痛みをこうしてここにつぶやくことにした。
こんな形で人と別れることになる、という現実はまるで悪夢のようだ。
悪い夢ならば、本当に覚めてほしい。
最後に、ツイート検索の中で興味深い内容があったのでここに記しておきたい。
「コロナワクチンの危険性、陰謀に気がついているものたちこそ、陰謀に気付いた『覚醒者』であり、まだ気づいていない家族や友人を、ぜひ覚醒させてあげてほしい」
という内容のものだ。
さあ、私の悪夢は、彼らの言う「覚醒」とやらで解放されるのだろうか?
私はそうは信じない。
まるでインセプションだ。
私は7年近く運用しているtwitterアカウントがある.
何でもかんでもフォローして,とめどなく流れるTLを眺めるという生活をかれこれ5年近く続けている.もはや日課となっている.
コロナの影響もあり,最近は人生に緩急がなくなったためTweetもほとんどせずROM専といっても差し支えない状態になってはいるが,Twitter歴だけで見れば中堅と名乗れるくらいの自負はある.
そんな中で,ここ数年でtwitterで漫画を連載するというものが非常に増えたように感じる.
理由は様々あるだろうが,わかりやすいものは「ビジネスに直結する」というものがあるのではないだろうか.
以前までは,漫画家という職業は作品を編集部に持ち込んで,編集者に精査してもらうことで連載を獲得する.またはコンテストで優秀な成績を収めることで編集部に見初めてもらうというものであった.
しかし,今の時代はSNSに投稿することで世間のインプレッションが数字としてわかりやすく提示される.
そうなれば企業が放置するワケもなく,やれコミックス化だ,LINEスタンプだと,とんとん拍子に話が進んでいく.
そのような一連のムーブが確立してしまった以上,漫画家はSNSユーザ向けにと自身の作風を寄せていく.
わかりやすい例を挙げると
・しろまんた作『先輩がうざい後輩の話』
そういう漫画が私は読めなくなった.
別にこの二作品が特段悪いわけでも,これらの作者が嫌いなわけでもない.
この感情を初めて覚えたのは,しゃしゃき作『オタクだってギャルと恋したい』通称『オギャ恋』と呼ばれている作品であると記憶している.
この作品は賛否両論を巻き起こしたきくちゆうき作『100日後に死ぬワニ』のブームにあやかって作成された100日間で展開するというフォーマットに従って進行し,「100日で冴えないオタクが身の回りのギャルたちとの間で展開する恋模様を描く」というものである.
まずこの作品の素晴らしい部分は述べなければならない.何度も断っておくが,作者が嫌いなわけではないし,表現者に対するリスペクトは少なからず持っている.
この作品の称賛できる点は,100日間きっちり描き切ったという部分である.
『100日後に死ぬワニ』が完結した2020年3月下旬,Twitter上で「100日後に〇〇」という作品が大量に溢れた.そのほとんどが100日描き切ることなく中断した.しかし,しゃしゃき氏は根気強く描き続け,先日無事100日目を迎えた.
それに加えて,『100日後に死ぬワニ』と異なり,イラストの水準をかなり高い状態で保ったまま完結させた.キャラクターの表情,髪の毛のツヤ,服のシワ,陰影,背景に至るまで緻密に描かれており,とても描き続けられるような作風ではなかった.しかも本編とは別でキャラクターのオフショット(?)のようなイラストも投稿している.尋常ではない努力だと思う.そういった部分は作風関係なしに賞賛すべき点であると感じる.
しかし,1日目を読んだ段階で私は読みたいと感じられなくなった.
理由は単純だった.「あまりにもステレオタイプ.それでいてオタクをターゲットに見据えすぎている陳腐さ」であった.
ここで,オギャ恋第一話を紹介する.
制服を着崩し,自身の巨乳の谷間を見せている金髪ロングのギャルが,オタクの机に座り「おいオタクっ気持ち悪い漫画ばっか読んでんじゃねーよ笑」「今すぐ購買行ってパンかってこい 秒でなっww」とオタクをからかっている.
この絵を見た私はいたたまれない気持ちになり,次回を能動的に待つことをやめた.しかし私のとどまることのないTLは容赦なくこの作品をリツイートを通して流してくる.私がこの漫画の完結を知ったのもそういった理由である.
このようなことを言うとミュート,ブロック機能を推奨する意見が散見されるが,私自身のエゴで赤の他人をミュート,ブロックするという行為は私自身のTwitter運用に関する信念に反するのである.
わかりやすく言えば,「この程度のことでミュートなんてしたくない」というくだらないプライドなのである.
そういったどっちつかずの感情をぶら下げている自分自身にも嫌気がさす.
本題に戻るが,オギャ恋1話はステレオタイプのギャルがステレオタイプのオタクにステレオタイプのからかい方をするというステレオタイプの展開であった.
私はこのような展開が嫌いというよりも,「こういうの描いときゃウケんだろ」という浅ましさが作品から漏れ出ているような気がしてならないのである.
事実,この作品は多くの支持者を得て,人気作品となりコミックス化も果たした.
そういった作者の考えがあることないこと自身の脳内で想起される感覚がたまらなく気持ち悪いのだ.
いつだったかダ・ヴィンチ・恐山が発言していた「頭の中のインターネットが勝手に炎上する」というものが最も的を得た表現であると思う.
とあるツイートに関して,存在しないユーザが些末なことから揚げ足を取り,その結果炎上するという想像が脳内で組み立てられる.
そういった良くないシミュレーションが長くTwitterを運用していると増えてくる.言い換えれば,ツイートの内容を見てリプライが予測できるようになる.
正解不正解関係なく,人の考えをツイート一つから読めるようになっていき,それが制御できないのである.
純粋に楽しめばいい漫画やイラストにも「どうせこういうのが評判良いから描いてんだろ」と歪んだ視点で見るようになってしまったのである.
何度も例として挙げて申し訳ないが,オギャ恋も当時ウケていた100日フォーマットを採用したがために歪んだ視点で見ざるを得なくなった.
それ以降どのような漫画を読んでも,ポジティブな感想を押しのけてネガティブな感想が優位に立ってしまう.
生意気な後輩に弄ばれる展開
それらすべてが「純粋な面白さを求めた結果」ではなく「ウケやすいテンプレートに則った結果」になっているような気がして嫌になる.
上記の展開が繰り広げられる作品を一つくらいはイメージできたのではないだろうか.
つまりはそういうことである.面白い展開だけを引っ張ってきて,自分の画風をかぶせた作品が世の中に氾濫している.
中世ヨーロッパ異世界転生がなろうのテンプレだと馬鹿にされていたが,それが現在進行形で複数の設定がTwitterで消費されている.なろうの二の舞になっている.
設定構築に尽力し,作りこまれた世界観で物語が進行する漫画が読みたい.
しかし,万人受けを捨てて自身の思う面白さのみにフォーカスした作品よりも,浅く何度も見たことのあるテンプレ通りの作品ばかりがTLには流れてくるジレンマ.
どうすりゃいい?
『争いは同じレベルでしか起こらない』じゃないけど、こういう低レベルなアンチリベラルが出てくるのも、現代のリベラルの酷さと合わせ鏡だということを自覚しておいた方が良いよ。
不正解なんてないとまで極端な意見が出てくるのは、手前勝手な基準で正解と不正解を仕訳して不正解のラベルを貼ったモノを徹底的に弾圧する傲慢極まりないリベラルの暴走に対する反発故だ。
彼らの反発が幼稚なことは否定しないが、しかしそうした幼稚な反発が生まれる根本原因は彼らが馬鹿だからではなく、同レベルに幼稚なリベラリズムが幅を利かせている現実から来る必然であろう。
現代の我々が教授できている人権が過去の偉大なるリベラリストやフェミニストのおかげであったとしても、それは今のリベラリズムの暴走の免罪符にはならない。
そして極めつけに酷いのは、
こういう「もっと酷いことが起きているのにそれを無視して怒るのは間違っている」という言い分はアンチリベラルが使うウイグル論法と同一でないか?
暴走の原因が過去に受けてきた加害や迫害だから仕方ないという考えならば、次の時代では現代において暴走するリベラルやフェミニストに加害された人々が今度はリベラリズムやフェミニズムを踏みにじり返すことが正当化される世界が来ることになるだろう。
そうして争いは永久に繰り返される。
なる程これに関してはその通りかもしれない。
吉本の芸人のEXITというコンビがソニーからアーティストとしてデビューし、その新曲の「なあ人類」が公開された(https://www.youtube.com/watch?v=-llgmjt0C7U)。
されたんだが、これを聞いてみるとまあ酷いというか、現代においてどういう態度が「知性的」とされているかを象徴するような内容だった。
この曲の歌詞は要約すると、「"正義"を振りかざす人間が一番他人を抑圧しているだろ」というよくあるものだ。
具体的に見ていくと、
よくある誤解だが、多様性とは「一つの正解のみが存在するわけではない」という思想であって、「不正解が存在しない」という思想ではない。
こんなのちょっと考えれば解ることだが、我々の社会はすでに法律という規則を設けて、ここから逸脱するような人間を牢獄にぶち込んでいる。明確に正解不正解を権力で判定しながら暮らしているわけ。
この「不正解」の中に実は正解が入ってないか常に見直しましょう、というのが多様性のある社会の一つの姿勢で、「同性愛者」「危険な思想を公言しただけの人」とかいろいろな属性がその中から救い出されてきた。
要するに、社会というモノには厳然として「不正解」は存在する。この辺を曖昧にしてるとすぐ「人の権利を侵害する権利」だの「差別主義も多様性の一つ」みたいな御託が沸いてくる。
じゃあどこで「正解」「不正解」の境界を引くのか、というのが重要で難しい問題で、ここに多様な議論があるのは間違いない。「萌え絵を公共の場に出すな」みたいな議論は「萌え絵」を不正解の側に追いやるような議論な訳で、こういうのには私も同意しないよ。こういう点でリベラルとかフェミニストとかが万全に正しいわけじゃないとは自分も思うが、「不正解とかないし」はいくらなんでも、いくらなんでも酷すぎるほど粗雑。
「どこで正常と異常に線を引くのか?」という、最近なら朝井リョウの小説『正欲』みたいな問題意識なら大きな価値があるだろうが、この歌が言いたいことは「なんか説教してくるやつウザい」でしかない。さすがに中学生くらいでそのメンタルは卒業してくれ。
ここがこの歌のヤバさが爆発するところだが、マジでWikipediaでコロンブスを記事を流し読みするだけでもこんなことは口が裂けても言えないだろ。
コロンブスがアメリカ大陸を見つけた頃の人類社会には言論の自由も思想の自由も信教の自由も職業選択の自由も・・・・・・列挙していけばキリがないくらい何の自由もなかった。
奴隷という身分が公然と存在していたし、そもそもコロンブスは奴隷商人だった。
コロンブスがアメリカ大陸を見つけたのは「希望」だったのかもしれないが、アメリカ大陸側にしてみれば破滅的な悪夢の始まりだった(本当の本当にアメリカ先住民の歴史についてミリも知らないとしか思えない)。
百歩譲って、コロンブスのような当時の社会のマジョリティにとっては自由や希望に溢れた社会だったかも知れないが、なぜその当時差別される側だった有色人種のEXITがこれを肯定的に歌っているんだろうか。あなたたちが大航海時代にタイムスリップしたとしたら、「自由」も「希望」も全く享受できない身分だと思いますけど。この手の人って自分も世界的にはマイノリティの部類なのになぜかマジョリティの視点に共感しがちなんだよな。
コロンブスが生きた時代に、自由も希望もなく絶望に支配されていた人たちが、それでも希望を失わず戦い続けた遙かな延長線上に現代社会があるわけだけど、マジで違う世界を見ているんじゃないかとさえ思ってしまう。
もうね、この歌って要するにリベラルとかフェミニストに対する反感で全てが支配された人間の思考なんですよ。上でも書いたけど、いわゆるリベラルとかフェミニストの中にも粗雑な議論をする人はいっぱいいるし、そもそも端から見れば釣りメガネを掛けた女性教師的な、鼻につく傲慢さを感じるところもあると思うよ。
でも歴史的なスパンで見てリベラリズムやフェミニズムを否定することはいくら何でも出来ないわけ。基本的人権はなくても良かったとか、黒人や女性の人権が向上しなくても良かったと断言できる人だけがそういうことを言うべき。
これもうんざりするほど使い古された「正義の暴走が一番怖い」ってやつなんだけど、頼むから正義の暴走を懸念する前に正義がないことに怒ってくれ。
こういう人たちって例えばアメリカのBLMに対して「あんなのはただのテロ」「こういうことをするから黒人は差別されるんだ」とか言ってる人にかなりダブると思うんだけど、BLMの過激さに憤りを示せるのであれば、長年にわたってアメリカで公然と行われてきた黒人差別にまず怒ってくれよ。なんで彼らがああいう行動に出た考えてくれよ。
読みっていいつつ読んでる通りに答えたら不正解なんだもんね、「全員(ぜいいん)」とか
漢字を覚えたらひらがなではなくその漢字を使うようになるものだし、それでもあえてひらがなに開く場合があるとすれば何らかの表現効果を狙っているはずで、それならその人の頭の中の「表音式」で表記できる方が都合がいいはずなんだよね、訛りとかあえてひらがなで書いて再現する心理を考えれば分かると思うけど
外国人にとっては「全」と漢字では表記される言葉は全員でも全開でも「ぜん」と書くという法則性があった方が都合がいいのは分かるけど、話し言葉から日本語を習得する日本人にとっては、発音する通りに書いていいって方が明らかに勉強や推敲の手間が省ける
さて日本語の規範というものが外国人と日本人のどちらに媚びるべきかという問題になるわけだが… それは言うまでもないことだろう
嫌いな教科1位の算数・数学なわけだけど、これって教師が悪いと思うんだけど。
例えば、答えを求めよという問題なのに、なぜか途中経過の計算式が習ったものでないと不正解にするでしょ。
例:12*3-(4*2)
のような問題が解けないという時点で論外でしょ。
こんなのが小中学生に算数・数学を教えてるんだもの。そりゃキライになるよ。
数式の回答を求めよって書いてるのに計算式でアウトなんて馬鹿げてるもの。
なら、最初から『習った計算式で計算し答えを出しなさい』って書いておきゃいいじゃない。
それを教師のさじ加減で不正解にされてたら、そりゃ納得できないでしょ。
違う計算式で答えを出す子がいたって良いんだよ。