2009-11-13

ハッピーエンドなんか信じられるか


『昔の失敗が成長につながったと考えれば、つらい過去もそこまで気にすることないんじゃない』

 そう言われたけれど、受け入れられなかった。からだが拒絶したのだ。
 ほとんど渇いた喉元に無理やり甘いパンを詰め込まれたようで、味を噛み締める余裕もなくわずかな水分を奪われた気がしたのだ。
 けれど、人はパンを食べなきゃ生きていけないし糖分がなきゃ脳も働かないらしいから無理やり飲み込もうとしてみて、
 後でトイレで吐いた。
 相手は100パーセント善意なはずなのに。

 正直言って、ハッピーエンドアレルギーがある。
 映画とかの架空の話ならまだ割り切れるけど、それを実社会適応しようとする考えが気持ち悪い。
 だからフジテレビエチカの泉』みたいなゲスト人生を全肯定する番組も嫌いだ。というか、生理的に受け付けない。

 できるだけ、ただの具体例として聞いてほしい。
 高校一年の時、ある人を傷つけた。
 それまで僕は彼女を救おうとか思い上がっていたけれど、自分が死に値するようなバカだったせいで、連絡は途切れた。
 連絡が途切れて数ヶ月後に彼女の友人からもう会えないことを聞いた。
 その人は僕を人殺しと呼んだ。
 声が頭を反響し続けた数週間後、教室でパニック発作を起こした。
 僕は保健室に連れていかれ、精神科に通い始めた。教員から留年を伴う入院を勧められた。

 高校二年の終わり頃まで僕は必要以上に死にかかっていたけれど、
 自分でひねり出した『自分だけが要因じゃない』みたいな言い訳をにわかに信じられるようになってきた。
 それから少しして掛けられた言葉が、冒頭のあれだ。

『人を傷つけたことも含めて全肯定するなんて、まるで彼女を踏み台にしたみたいじゃないか。
 というか、今それなりに元気でやれていること自体が踏み台にした“おかげ”なのか?
 挙げ句ハッピーエンドとみなすなんて、他人を利用して自己陶酔決め込んでるだけじゃないか!』

 ……自分過去正当化しようとするたびに、俺は自分をこんな言葉で責めてしまう。
 いまや薬なんか飲んでないけれど、この影みたいなのは完全に消えはしないだろう。
 消すことに罪悪感が付きまとうんだから、そうできるわけがない。

 話を変えよう。
 よくあるハリウッド映画とかで、テロリストに占拠された人々がヒーローによって解放されたとする。
 けれどもヒーローが悪を倒したところで人質トラウマとかが消える訳では、決してない。
 また別の映画では、余命幾ばくもない男の子供を身ごもった少女決断の末に家族に見守られながら出産するかもしれない。
 けれどそれだけでハッピーエンド、なのか?
 もちろんそんなことを架空の話に持ち出すのが無粋なのはわかってるし、僕だってなんだかんだ言っていろんな物語に感動する。
 けれどこの『感動』はどこか射精と似て見える。
 それが理性を一旦黙らせてることに自覚的じゃなきゃ、果てには誰かを傷つけるに違いない。
 そうとしか思えないのは、俺がおかしいからなのかな。

 だからこういうのはハッピーエンドじゃなくて、ただのハッピーと見るべきなんだ。
 本来の人生ハッピーエンドなんかない。
 人生エンディングハッピーでもバッドでもなく、大抵はカタルシスカタストロフィーもないただのエンドだ。
 そう考えなくてはいけないのに、物語はそれを忘れさせてしまう。
 一時忘れられるからこそ『感動』だとしても、見る側は現実回帰しなくてはなるまい。
 なのに、ひどい時にはその文法を実社会にまで当てはめてしまう。

 人殺しだって肯定されるのか。犯した罪ごと。
 改心や更生が、犯した罪を消去できるとでも思ってるのか。
 反省と罪の存在は別のことだろうに。
 極論なのは知ってる、けど。

 感動とか美しいものを追い求めるだけでいたら、いずれ自分を壊してしまう気がした。
 そりゃ甘いパンだけ食べていれば、そのうち虫歯にもなる。
 現実を噛み締めて理解することができないなら、それはもう物語人生の主権を奪われたようなものだろう。
 感動至上主義は下手したら『美しい死』さえも望みかねない。
 射精の果てに腹上死とか、笑えないよ。

 ……ハッピーエンドなんか、信じられるか。
 信じたいのに。

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