はてなキーワード: 境内とは
川崎の奇祭、かなまら祭をご存じだろう。あのピンクのチンコ神輿が有名なやつだ。
あのピンクちんこを奉納した会社が潰れてしまった。日本の伝統の危機だ。
あのピンクちんこ神輿は、実は浅草橋と新宿にあった女装クラブ、エリザベスが奉納したものだった。神輿だけじゃない、それ以外の玉串料も奉納して金山神社を支えていたと思われる。
このエリザベスはアント商事という会社が運営していたのだがこの会社が去年廃業してしまった。
アント商事は元々女性用下着の商社だったのが、どうも通販で下着を買う客の中に男性が多いという事に気が付いた。つまり女装需要である。店で買うのが憚れるので通販を使っているのだと。
同商事はこれはニッチな需要だと見抜いた。ニッチって隙間産業みたいな意味じゃないよ。生態学で安定的生存圏って意味だよ。
しかもこのニッチは下着市場だけじゃない、「ドリルを求める客は穴が欲しい」のアレだ。「女装市場」を作り出す事が出来る。
そういう判断で1979年にエリザベス会館をオープンした。会員制で衣装を預かるロッカーを置き、女装を手ほどき、同じ趣味のお友達とも交流できるってサービスだ。そこで販売するのは当然自社の下着や服。地産地消みたいな商売やね。
ここはそのスジでは有名だったが、会員が年齢層結構高め。だから言っちゃ悪いがちょっと汚装っぽい方に寄っていて綺麗系じゃない(綺麗な人もちゃんといた為念)。でも年齢層高めって事は結構お金持ってる。会社で偉い人も多い訳だしな。
金山神社の方は性信仰がある神社ではあったのだが、かなり廃れてしまっていた。
んで、日本では1969年に盛り上がった学生運動が消沈した後、70年代中頃から民俗学が盛んになる。大きな物語のマルクス主義が萎んだあとに小さな物語の日本の伝承を探求するのが流行ったわけ。自分探しの旅とか国鉄のいい日旅立ちキャンペーンとかもこれに繋がるものだよ。
当時の金山神社の宮司は民俗学にインスパイアされ、自身の神社の昔の姿、江戸時代の伝統的な祭りを再現しようとした。特に性的な信仰っていうのは明治以降は国家神道の下に抑圧され、その後も恥ずかしいものとして人々から忌避されてきた。でも民俗学的にはそんな忌避はナンセンスだ。
それで大根を男性器、女性器、いやそんな言葉の忌避はしちゃいけないな。ちんことまんこに削ったご神体を崇め練り歩く祭を毎年開いていた。この表現は民俗学的表現だからあしからず。
1980年代中頃にエイズ禍が起こると、当時は同性愛者の病気と思われていたのでエリザベス界隈は肩身が狭い。客足も遠のいて経営的にも辛い。
そこで景気づけ&疫病退散の願掛けとしてこのお祭にドーンと奉納して盛り上げて来たのだな。そのスジじゃ有名なあの店が裏スジが通ったちんこ神輿を寄付ってわけやね。
あの屹立するピンクの怪物がいつ作られたかは良く知らない。でもあの神輿はオフザケが多分に入ってるのね。どうしても客層におっさんが多かったりして綺麗でお高くとまってる感じにはなり難い。世間に言えない秘密の趣味っていう暗さもある。
んだったらぶっちゃけちゃえって感じ。んだから江戸時代の習俗復刻みたいな文脈からもぶっとんだピンクちんこを作ってしまった。そしたらそのぶっ飛び具合が群を抜いていて人気が出てしまった。
因みに写真見るとピンクちんこ神輿担いでるのって女装したおっさんたちじゃん。あれがエリザベス関係者です。お客ですな。
15年ぐらい前から男の娘ブームがあるけど、そうするとメイクルームとかもあちこちに出来てくる。エリザベスの競合ですな。
しかも男の娘ブームの方はレベルが高い。そうするとどうしてもエリザの方は汚装っぽく見えて見劣りがしてしまう。
因みにそういうお店の経営者にはエリザ出身者も居る。昔はエリザぐらいしか無かった訳でな。
そういう情況でエリザベスの運営会社のアント商事は2020年2月に廃業してしまった。コロナの最初期だ。
一方、かなまら祭の方は毎年3月開催だがコロナのせいで去年から練り歩きは行われていない。境内での神事で終わりだ。警察が道路使用許可出してくれないからな。
なので同社廃業でピンクちんこ神輿がどうなるかとか女装おっさんズ担ぎ手はどうなるかとかは不明なままなのだ。まぁ、いきなりピンクちんこが萎れたり無くなったりは無いだろうが、大手の後援者が居なくなるのは痛いかもしれん。
って事で、あのピンクちんこが有名な祭の外形は実は日本の伝統じゃなくてスポンサーによって作られた復刻&アレンジされた姿だったのだな。最初に言ってる事と違うな、あとでまとめて謝る。でも中身は民俗学的に線を繋いだもんで偽ものじゃない。
あと、他の男根神輿は健在だからちんこの消失に悲しまなくてもいい。是非来年は祭に来て出店のちんこキャンディーとかを頬張って欲しい。
なんで女装界隈詳しいのかっていえばワイがニューハーフ崩れだからだ。
最後に、はてな事務局諸兄には民俗学的必要とはいえちんこ連呼した事を、またちんこ連呼で男女同権的に偏りがある文章となった事を、表題がクリックバイトになった事をお詫びしたい。
どうもすいまんこ。
7月25日の13時から行われた東京オリンピック 女子ロードレースで起こった奇跡について書いた前回の記事(https://anond.hatelabo.jp/20210727115101)が思いがけず多くの人に読んでいただけたようなので、その時に2位となったオランダ選手についても解説してみました。
そう、前にいたキーゼンホファー選手を見落として自分が1位だと思ったまま、2位でゴールしてしまった彼女の物語です。
名前はアネミーク・ファンフルーテン、1982年生まれの38歳です。
38歳という年齢は選手として決して若いとは言えませんが、現在でもスペインのプロチーム「モビスター」に所属し、エースを務めています。
「エース」というのはそのチームで1番の実力者であり、チーム全員が力を合わせて1位を取らせる人です。
他の選手は「アシスト」となりエースの前を走って風よけとなったりしながら、エースの脚を温存させてゴール前まで送り届けるのです。
そんな彼女が自転車競技を始めたきっかけは、2007年にオランダのワーゲニンゲン大学で疫学の修士号を取得した頃に、同時に楽しんでいたサッカーを膝のケガのために止めることになり、自転車競技に参加するようになったそうです。
スタートは遅かったですが、その後順調に自転車選手としてのキャリアを積み上げ、2009年にはプロチームと契約し、2012年のロンドン五輪では4人のオランダ チームの一員として女子ロードレースに参加して、オランダの選手が金メダルを獲得するのに貢献しました。
そして、2016年のリオ五輪にもオランダ チームの一員として参加しました。
しかし、ここで今回の東京オリンピックで何としても金メダルを獲得したい理由が生まれてしまったのです。
リオ五輪の女子ロードレースは全長137kmのコースで行われ、彼女はゴールまで残り約10㎞という地点で2位に差をつけて単独1位となっており、金メダルをほぼ手中にしていました。
しかし、そこは前日の男子ロードレースで複数の選手が転倒して鎖骨や骨盤や肩甲骨を骨折するという事故が発生していた魔の下り坂だったのです。
そして、ファンフルーテン選手も右カーブを曲がる際に一瞬後輪がスリップしてコントロールを失い、かなりの速度で落車して頭から地面に叩きつけられてしまいました。
その結果、重度の脳震盪と腰椎の3か所を骨折し、直ちに集中治療室に搬送されるという大ケガを負ってしまったのです。
レースは当然、リタイアでDNF(Did Not Finish:ゴール出来ず)扱いとなり、同じオランダの選手が金メダルを獲得しましたが、彼女自身はメダルを手にすることは出来ませんでした。
そんな経験をしている彼女が今回の東京オリンピックでの金メダル獲得に並々ならぬ意欲を抱いていたことは想像に難くありません。
リオ五輪で大ケガをした彼女はその後、事故から10日目には自転車に乗り始め、その年のベルギー ツアーというステージレースで総合優勝を果たすというとんでもなく順調な回復を示しました。
ステージレースというのはオリンピックのロードレースのように1日で終わるワンデーレースではなく、様々なステージ(コース)を舞台として何回もレースを行い、その総合成績で勝者を決めるという形式のレースです。
2016年のベルギー ツアーは全4ステージ、4日間というものでしたが、有名なツール・ド・フランスというような大きな大会になると、今年は全21ステージ、2度の休憩日をはさんで全23日間で3,383kmを走破するという過酷なものになります。
彼女はその後の4年間も様々なレースで勝利を重ねており、万全な体制で東京オリンピックに乗り込んできたものと思われます。
またチームとしても、パレード スタート後あまりの暑さに冷たいボトルを無理やり背中に突っ込んでいる選手もいる中、オランダ チームの4人はオレンジのジャージの上に揃いの白いアイスベストを着ていたことから準備万端整えてきたことが伺い知れました。
ちなみにパレード スタートというのは、今回のコース全長147kmのうち最初の10㎞は観客への顔見せのため、選手全員が先導車の後についてゆっくりパレード走行するというものです。
TVのニュースやネットで自転車の集団が神社の境内に突入していく映像を見た人もいるかもしれませんが、あれはパレード走行中の映像です。
さすがに多くがプロの選手とはいえ、本気で走っている時にあそこを集団で走り抜けるのは無理があるでしょう。
また、パレード走行中も選手同士は集団の中でどの位置を確保するか戦略を巡らせています。
オランダ チームは4人並んで集団の先頭を堂々と走り、キーゼンホファー選手はスタート直後から最後尾を単独でずっと走っているのが確認できます。
そして、10㎞を走ってアクチュアル スタート地点の是政橋を過ぎたところから、本当の戦いに雪崩れ込んでいったのです。
レースは前回の記事で説明したように、スタート直後にキーゼンホファー選手を含む5人が飛び出して逃げ集団を形成し、しばらくは何事もなく進んでいきました。
ところで、逃げ集団は最後にはほとんどの場合、メイン集団に追いつかれてしまうのになぜ良くつくられるのでしょうか。
理由の一つは、万が一にでも勝てる確率があるからです。逆にメイン集団に残った場合、ゴール前までついていけたとしても「ゴール スプリント」と言われるゴール前数十メートルから数百メートルで行われる最後のラストスパート争いに「スプリンター」でないと勝てないからです。
スプリンターというのは長距離は苦手だが、短距離を爆発的な加速力で速く走るのが得意という選手のことです。
特に今回のオリンピックの場合、国毎に参加人数が違うので単独で参加している選手はスプリンターであっても、他の国がスプリンターにアシストを付けている場合、ほとんど勝てる可能性は無かったでしょう。
メイン集団にいると先頭付近にいないとカメラに映ってもほぼ分かりませんが、逃げ集団であれば必ずカメラに映れます。
目立ちたい理由は選手によって「家族に見てほしい」や「より良いチームにスカウトされたい」というものがあるようです。
さらに、有力チームが逃げ集団に選手を送り込んでおくというのもあります。
万が一、逃げ集団が逃げ切ってしまった場合でも勝利の可能性を残しておくという目的もありますが、逆に逃げ集団のペースをわざと遅くさせて、確実にメイン集団が追いつけるようにするという目的の場合もあります。
そしてレースに戻ると、ゴールまで残り約80km弱の地点に近づいた時にそれは起こりました。
ファンフルーテン選手の前を走っていた選手が突然、転倒したのです。
実は前日の男子ロードレースでもまったく同じ場所で5人が落車するという事故が起こっていました。
道路に横たわった選手と自転車を前に彼女もブレーキを掛けますが止まり切れず、相手の自転車に突っ込んで前に投げ出される形となりました。
映像を見ると分かるのですが、2車線道路の中央部分に細い溝のような部分があるのが見て取れます。
どうやら、この部分でタイヤを取られて転倒してしまったようです。
バイクや乗用車のタイヤの太さなら問題ないのでしょうが、ロードバイクの細いタイヤにとっては危険な構造になっていると思われます。
今後もし、同じコースでロードレースが開催されることがあれば何らかの対策が欲しい所です。
幸い速度が落ちていたため大きなダメージは無かったようで、彼女は直ぐに起き上がりました。
しかし、2台の自転車は知恵の輪のように絡み合ってしまってはずれません。
すると、サポートカーから降りてきた男性が2台を引き離してくれ、転倒した選手の自転車は交換となりましたが、ファンフルーテン選手はそのまま自転車に乗り、再び走り始めました。
しかし、落車した瞬間はリオ五輪の悪夢が脳裏をよぎったことでしょう。
ロードレースでは暗黙の了解として、落車した選手がいた場合などは集団のスピードを上げずに、その選手が集団に復帰してくるのを待つという慣習があります。
また、サポートカーを風よけにして後ろを走るのは普段は許されませんが、こういう時は暗黙の了解で許されたりします。
そうして、メイン集団に復帰してしばらくすると、ゴールまで約60kmの山伏トンネルの手前でアタックを掛けて先行し、一時はメイン集団から1分以上先行しました。
しかし、それでも逃げ集団との差は5分以下には縮められず、ゴールまで約30㎞ぐらいの地点でメイン集団に戻ってきてしまいました。
さすがに5分以上先行している逃げ集団に一人で追いつこうというのは無茶だったようです。
レース後のインタビューで3位になったイタリアの選手が「逃げ集団を追う責任はオランダにあった」と言っていますが、これもロードレースの暗黙の了解のひとつで、そのレースで一番強いと思われているチームはメイン集団をコントロールし、レース終盤に確実に逃げ集団に追いつくよう集団のペースを調整する責任があるという考え方が下敷きにあります。
今回オランダ チームはその責任を果たすことが出来なかったわけです。
ファンフルーテン選手が山伏トンネルの手前で逃げ集団を追うべく先行したのはタイミングとしては正しかったと思いますが、さすがに一人で追いつくのは無理なので他のオランダ チームの選手も同調して動くべきだったと思います。
これは単に無線が使えなかったからというよりは、誰がエースで誰がアシストをするかというチームとしての戦略が徹底されていなかったか、あるいは最初からそんな戦略が無かったように見えました。
オランダ チームの4人はそれぞれがすごい人ばかりなので、調整がつかなかったのかもしれません。
終盤はメイン集団の先頭をオランダ チームの4人が並んで引っ張るシーンもありましたが、時すでに遅しで富士スピードウェイに入ってから2位と3位のイスラエル、ポーランドの選手には追いつくことが出来ましたが、キーゼンホファー選手の背中を見ることは最後までありませんでした。
そうして前にキーゼンホファー選手がいることに気がつくことなく、彼女は自分が1位と信じてガッツポーズをしながら2位でゴールラインを越えたのです。
ゴール時のガッツポーズは暗黙の了解として1位の選手のみがするものとなっているため、彼女が自身を1位だと思っていたのは明らかでした。
ゴール後に自分が2位だったことを知らされ、レース後のインタビューで「銀メダルでも美しい」と答えたファンフルーテン選手の胸中はどのようなものだったのでしょうか。
仮に現国の試験で「この時の選手の心境を説明しなさい」という問題があったら、いくらでも書けそうな気がします。
女子ロードレースが行われた3日後の7月28日、彼女は富士スピードウェイのスターティング グリッドに自転車に乗って立っていました。
個人タイムトライアルというのは、ロードレースと違い数分間隔で選手が一人ずつスタートし、単独走行でゴールするまでのタイムを競うという競技です。
今回は富士スピードウェイとその周辺道路に全長22.1kmのコースが設定され男子は2周、女子は1周します。
それも22.1kmを30分13.49秒というタイムで走り切り、2位に約56秒差という圧倒的大差をつけての1位でした。
この差がどれだけ圧倒的かというと、2位と3位は4秒差、3位と4位は7秒差、4位と5位は4秒差でしたので、どれだけ彼女が頭抜けた選手なのかが良く分かります。
最後の走者がゴールして金メダルが確定してから表彰式が終わるまで、ずうっと嬉しさ爆発という感じで喜びの表情だったのが印象的でした。
歓喜の様子はNHKの見逃し配信(https://sports.nhk.or.jp/olympic/highlights/list/sport/cycling/)で「女子個人タイムトライアル」とタイトルに入っている動画の1:12ぐらいから見られます。
しいて言えば、タイムトライアル競技のコースというのは普通、平地が主体のコースとなるのが通例なのですが、今回は富士の裾野にある富士スピードウェイとその周辺道路がコースとなったため、タイムトライアル競技としては珍しく上り下りの多いコースとなっていました。
そのため、タイムトライアル競技に特化した選手は記録があまり伸びなかったものと思われます。
それでも彼女と同じオールラウンダー型の選手も大勢参加していたので、彼女のすごさは変わらないでしょう。
しかもレース後のインタビューによると、タイムトライアル用の自転車にはDHバーという肘を載せるパッドがついた前に2本の棒が突き出した形の部品がハンドルの上に付けられているのですが、棒の先っぽにギヤの変速(シフト操作と言います)を行うためのレバーやスイッチが付いています。
このスイッチが本番で機能しなくなり、ハンドルのブレーキバーについている本来のシフトレバーを使うしかなくなってしまっていたそうです。
シフト操作自体は出来るとはいえ、タイムへの影響は避けられなかったでしょう。
それでもこの圧倒的大差です。
また、件のスイッチはレース後は正常に動作して、レース前の確認でも正常だったため、これは仕方がないということで整備したメカニックが怒られることは無かったそうです。
ちなみに、キーゼンホファー選手は個人タイムトライアル競技には出場していませんでした。
もし、この競技を得意とするキーゼンホファー選手も出場していたら、ものすごく興味深い対決となっていたことでしょう。
こうして彼女の東京オリンピックは今度こそ本当に終わったのです。
その後、彼女はオランダには帰国せず直接スペインに飛び、7月31日に行われた「クラシカ・サンセバスティアン」という全長約140kmのワンデーレースに出場して、最後は独走で優勝したそうです。
東京オリンピックのロードレースで金メダルを逃した影響の心配はいらないようです。
ロードレースの基礎知識を盛り込んだら随分と長文になってしまいました。
今後も機会があったらロードレース観戦を楽しんでいただければと思います。
それでは、またいつの日か。
母親が所謂「萌え」系アニメに強い嫌悪感を抱いていることはうすぼんやりと気付いていたが、自分が学生の頃にそれが確信に変わった。
ある冬の事、NHKのニュースで鷲宮神社が取り上げられたことがあった。若者に人気のアニメ「らき☆すた」の舞台の一つとして、大勢のファンが参拝しているという話だった。
オタクの聖地巡礼スポットだっただけに、境内に飾られていた絵馬はイラスト付きで推し(当時の言葉で言えば嫁)への愛を訴えるものが多くあった。
その映像が流れたのはほんの数秒だった。しかしたったそれだけで、お茶の間が凍り付いた。冷気の発信源はまぎれもなく母だった。
その時に、母にも地雷があることを知った。
幼いころからジブリやディズニーを見せられて育ち、食事中のアニメ鑑賞なども割と寛容だった母だっただけに、あの凍り付きっぷりは印象的だった。
その数年後も、初音ミクがライブを成功したというニュースを観て大量の冷気を放っていた。ミクちゃんのライブ成功の報道に内心喜んでいた私には結構ショックだった。
冷気は重い圧の様にのしかかって、初音ミクの話題を出すことを避けさせた。
そのせいか、十数年の月日が経ち、一人暮らしをするようになった今になってもアニメを観ていると母に品定めをされているような気持ちになってしまう。
このアニメは母に受け入れられるアニメなのか、そうでないのか。そんな目でアニメを観てしまう時がある。
今期もメイドラゴンSの作画のクオリティや演出などにテンション爆上がりしながらも、脳内の母に散々言い訳をしている自分がいた。
いや、違うんだお母さん。イルルの体型は精神的な幼さに反してドラゴンとしての実力を十分に持っているというアンバランスさを表した姿であって決して原作者のフェチだからという理由だけでは語れないものがあって……
そんなことを頭で反芻していると、アニメを一話観ただけでもドッと疲れてしまう。
ここまで散々脳内の母に言い訳をしてきた私でも、母に理解を求めているわけではない。理解よりも共生を望んでいたんだと思う。
仮に母の嗜好にそぐわない作品が紹介されても、それが好きな人達もいるよね、と話せる間柄でありたかった。
母の冷気のように噴射する圧は私にはとても居心地が悪く、何よりそれが無性に寂しかった。圧で沈黙させるのではなく、対話で互いの落としどころを見つけたかった。
メイドラSの終盤のシーンを思い返しながら、何故だかそんなことを思った。
母親が所謂「萌え」系アニメに強い嫌悪感を抱いていることはうすぼんやりと気付いていたが、自分が学生の頃にそれが確信に変わった。
ある冬の事、NHKのニュースで鷲宮神社が取り上げられたことがあった。若者に人気のアニメ「らき☆すた」の舞台の一つとして、大勢のファンが参拝しているという話だった。
オタクの聖地巡礼スポットだっただけに、境内に飾られていた絵馬はイラスト付きで推し(当時の言葉で言えば嫁)への愛を訴えるものが多くあった。
その映像が流れたのはほんの数秒だった。しかしたったそれだけで、お茶の間が凍り付いた。冷気の発信源はまぎれもなく母だった。
その時に、母にも地雷があることを知った。
幼いころからジブリやディズニーを見せられて育ち、食事中のアニメ鑑賞なども割と寛容だった母だっただけに、あの凍り付きっぷりは印象的だった。
その数年後も、初音ミクがライブを成功したというニュースを観て大量の冷気を放っていた。ミクちゃんのライブ成功の報道に内心喜んでいた私には結構ショックだった。
冷気は重い圧の様にのしかかって、初音ミクの話題を出すことを避けさせた。
そのせいか、十数年の月日が経ち、一人暮らしをするようになった今になってもアニメを観ていると母に品定めをされているような気持ちになってしまう。
このアニメは母に受け入れられるアニメなのか、そうでないのか。そんな目でアニメを観てしまう時がある。
今期もメイドラゴンSの作画のクオリティや演出などにテンション爆上がりしながらも、脳内の母に散々言い訳をしている自分がいた。
いや、違うんだお母さん。イルルの体型は精神的な幼さに反してドラゴンとしての実力を十分に持っているというアンバランスさを表した姿であって決して原作者のフェチだからという理由だけでは語れないものがあって……
そんなことを頭で反芻していると、アニメを一話観ただけでもドッと疲れてしまう。
ここまで散々脳内の母に言い訳をしてきた私でも、母に理解を求めているわけではない。理解よりも共生を望んでいたんだと思う。
仮に母の嗜好にそぐわない作品が紹介されても、それが好きな人達もいるよね、と話せる間柄でありたかった。
母の冷気のように噴射する圧は私にはとても居心地が悪く、何よりそれが無性に寂しかった。圧で沈黙させるのではなく、対話で互いの落としどころを見つけたかった。
メイドラSの終盤のシーンを思い返しながら、何故だかそんなことを思った。
東京って言うと定義でぐだぐだ言うやついるから、まぁ普通に考えて23区内な。ていうか上京者の俺の感覚な。
俺は靖国神社に特別政治的感情は無い。思想的な話で言うと侵略戦争の美化だとか、国の為に戦った英霊だとか、そんなことはどっちでもいい。
ただ、上京する前はそういう「何にせよややこしい場所」だと思ってた。基本的にどっち寄りだろうと思想の話でしか聞かないし、テレビで見るのも公式参拝だとか私的参拝だとかだからな。どんな思想であれ何かしらの覚悟を持って行く場所だと思ってた。
だけど、上京してみると、普通の人がなんにもなくただただ行く場所なんだな。気になった女の子に誘われたのは靖国の夏祭りである、みたままつりだし、行ってみればいわゆる祭り。なんなら一時期はナンパ祭りなんて呼ばれてたらしい。
東京出身の会社の先輩と近くの会社に用事があれば、帰りに境内の喫煙所行って普通に参拝して帰る感じ。多分、京都の北野天満宮近くや名古屋の熱田神宮やら近くに行ったら普通に寄ってくよねの感覚。
もちろん、行けばがっつり右翼の人もいるし、なんか思想的ポスターもあるんだけど、そんな誰も気にしてない感じ。
東京の人にとっちゃ近所の有名な神社程度なんだなぁとびっくりした。この感覚の差が、まぁなんか色々引き起こすんだろうなとは思う。
とにかく内容はいろんな宗教の神の名前あげて伝説とは無関係の土地を書いて
まあ要約すると「北海道は邪悪」ということが山本和美のランドくらいの厚みの本に書いてあっただけで、神話に関しては意味不明だった。
本の感想は以上。
ここからは、身近なところに変な活動をしている人がいて、遠巻きからどう見えているかということを書く。
ただ、本を執筆した人は母親の知り合いで俺自身は一度しか会ったことがない。
だからぶっちゃけそこまで詳しく書けないし、親もあんまり興味ないからあくまで野鳥の目撃例みたいな話しか書けない。
西村は教団の幹部のひとりだそうで、他の幹部のヒロユキ・ヒロチョ・ヒロユカナイと協力して
あまり活動的でない教祖の代わりに全国を行脚し、地道にセミナーを行っている。今回の執筆もその活動の一環だそうだ。
他のヒロシリーズがどうかは知らないが、元々西村は神話に関して全く知識がなかったらしい。
そこに上手いことつけこんだのが動かない教祖・ダンさんである。
教祖と言っても普通の人らしい…まあ変なパワーは使えるらしいが。
そして、入信すれば変なパワーが使えるそうだ。
もともと厳しい人で口数も少ないし笑ったところも見たことがなかったらしい。
それがある日、別人のように明るくなったそうだ。
母と仲の良い別のオバチャン(ニライさんと呼ぶ)の会話に割り込むようになったとかどうとか。
やがて変なパワーについて口を外すようになった。
俺を心配する母を見かねて、変なパワーを使って神に俺の鬱を治してクレメンスと毎日1時間掛けてお願いしてくれたそうだ。
そして俺が知らん間にとうとう俺の体に神を埋め込んだ。やめろや。
職場のよしみもあって動かない教祖・ダンさんのセミナーへ参加することとなったのだ。
当時の俺は西村を悪い人と思わなかったし、母が誰かとご飯を食べに出かけるところを見たことがなかったので
むしろ喜ばしく思えた。
だが話が違った。出かけてから数時間、夜も遅いのに帰ってこない母。あの母から返事がない。
いつも持ち歩いているカバンも置きっぱなしで、何かおかしい…と勘付いた。
あれはカルトだ。
すぐさまカバンから連絡先メモを取り出し、西村と思しき人物に鬼電する。
すると、5分後に電話が返ってきた。
その声色は俺の焦燥に反して落ち着いていて、それが俺の神経をサカナでした。
「親を返せ!このエセ宗教家!」その後、西村は1時間掛けて俺を諭した。
思い返すだけでも恥ずかしい。
俺が鬼の形相でまさに鬼電をしていた時間、動かない教祖・ダンさんのスピーチが行われていたそうだ。
だから変な気持ちにさせたのなら申し訳ない、西村はそう俺に謝ると一言、優しい言葉をかけてくれた。
「無理しないでね」
その後、母とはすぐに連絡がついた。マジで意味不明なダンさんの話・エンドレスと極度の空腹で寝ていたらしい。
だが、その日を境に母は西村の話をしなくなった。不信感からではない、動かない教祖・ダンさんの態度が気に入らなかったからだそうだ。
一方でニライさんはインスタに神社の写真ばかりあげるようになった。
それから2年後。
俺が西村と落合う事になったのは、地元にある小さな神社。節分祭が終わったばかりの夕暮れ時の神社だ。
そこを集合場所にしたのは西村の方で、曰く「神がそこに来るから現地集合で」ということだった。
初めて訪れるその神社は、町に近い場所にありながら堀江に囲まれた不思議な造りで、
すぐそこに町の明かりが見えるのに、神秘的なほどに静まりかえっていた。
成り行きで決まった予定なのに、西村を待っている閑静で暇な時間が無駄に期待を高めさせる。
ようやくこの目で見ることができる。
まだまだ変なパワーについても謎が多いところだが、ネタバレすると神通力(宇宙の神を引っ張り下ろしてその一部を体に埋め込んでいる)で対話しているそうだ。
俺にはボソボソとつぶやいてるようにしか見えなかったが、西村と神の対話があまりに楽しそうだったので酷いことは言わないでおく。
とにかくその日、俺は初めて行った神社の境内で西村と西村妻と神(見えない)に会った。
西村はあの時の電話での語り口のように、聡明で感じが良かった。だが、目の奥に熱いもの〜俺を鬱に追い込んだ中途半端なベンチャー社長のような〜を秘めているようだった。一方妻の目は終始申し訳なさそうだった。
早速、変なパワーを見せてくれる西村。曰く「神は鳥居から数えて3本目の木に降りてくれたんだ。抱きついてみて。」もちろん拒否。
代わりに西村が木にしがみつくので、その様子を俺はすかさずスマホに収める。
西村と神(*木のなかにいる*)の交流は5分におよんだ。俺のケツからこっそり顔を覗かせていたスマホは、
カラスの鳴き声と遠くからかすかに聴こえる移動販売のななひらボイスをBGMに、オッサンが木にしがみついているだけの静止画を映像として無事に収めると、やがて火を吹いてホッカイロに変わった。
その様子を俺がとやかく言う道理はない。儀式は静かに終わったのだ。
その後西村は熱心に動かない教祖・ダンさんへの想いを俺に語ったあと、俺に会った目的を簡ケツに告げた。
てっきりダンの会に誘われるのかと思い込んでいたが、ダイゴサンだったようだ。
西村は活動範囲を広げるべく、仕事を辞めてまで布教のために上京するので最後に挨拶したいということだった。
「東京でも頑張るから、陰ながらでも良いから応援しててね。」なんて、声優になりたくて上京した幼馴染みと同じことを言っていたか。
なんで疑っちゃってたんだろう。
だがあと5年もすれば、ダンの会を…あの西村の顔をネットで見ることができるのだろうか?
俺はその時まで、あの静寂とケツのぬくもりを忘れることはないだろう。
日本には数多の新宗教と呼ばれる宗教が存在する。そして大体の宗教は聖地を持っている。そんな聖地に信者でもない人間が入ってもいいのか?と思ってしまうが開放している宗教はそこそこあるので行ったことがある宗教本部の思い出を辿ってみる
・霊友会
法華系新宗教の先駆けであり数多くの分派を輩出したことで知られる霊友会は東京都港区麻布台という都内の一等地に「釈迦殿」と呼ばれる巨大な建物を保有している。最寄り駅の神谷町駅からとぼとぼ徒歩で行ったが、自分は平日に行ったのでほとんど人が居なかった。巨大な礼拝スペースががらんとしているのはこの世の終わりを感じさせてなかなか楽しいものだった。霊友会には小谷喜美と久保角太郎という二人の教祖的な人物がいるのだけれど歴史紹介コーナー的なところはほとんど小谷恩師小谷恩師と書かれていて久保角太郎の名はあまり見受けられなかった。(霊友会の元会長が久保角太郎の息子なのだが、平成に入って分裂騒動があり現在の霊友会と袂を分ったためか)
奥の方には食堂もあったが行く前に食事してしまったので食べずに終わった。
上に書いた霊友会の分派として戦後期に創価学会と並んで肥大化した新宗教である立正佼成会の本部は杉並区和田にある。方南町駅から北に向かって歩いていくと円柱が多数取り囲んだような形の立正佼成会の大聖堂が見えてくる。道を挟んで南側には「吹奏楽の甲子園」と呼ばれた教団所有の普門館があるのだが、自分が行った2019年のクリスマスには耐震上の問題から取り壊しが行われていた。
中に入ると一階には土産物屋があった。教団関連の書籍や仏具とともになぜか国旗が売られていたのを妙に覚えている。上の階の展示室では脇祖・長沼妙佼の特集が組まれていた。若いころの開祖・庭野日敬の写真などもあったがなかなかいい顔立ちだなと感じた。展示を見終えた後、屋上に上がり中野から東京を見たりした。
昼ぐらいになったので食堂に行った。この日はクリスマスだったのでシフォンケーキが売られていた。仏教系とかあんまり関係ないのね…大聖堂の外にもいろいろあったが博物館的なところは休館だったのでコロナが収まったら行ってみたいと思います。
・国柱会
さっきから法華系の新宗教ばかりに偏ってる気がするけど次に国柱会の説明を。戦前に日蓮主義を引っ提げた田中智学の国柱会の本部は江戸川区一之江にある。一之江駅からバスで行くものの最初はどこが入り口かわからずぐるっと回りを一周してしまった。やっとこさ入口らしき道を見つけたが、教団が経営する老人ホームが本部の中にあって驚いた。老人ホームの道を進んでいくと国柱会の本部が見えてくる。ただまあそんなにデカい建物ではなかったのですけどね。道の端々にいろんな石碑が残っていたけどあんまり記憶にない。本部の中も恐る恐る入った。術師みたいな恰好の人が居た位しか覚えてないですね。本部の中のパンフは教団関係のやつもあれば右派的な主張のものもあった。そこは戦前からの流れがまだ生き残ってるんだなあ…と思った。
・霊波之光
いままでは東京都内だったが今度は千葉県野田市にある霊波之光本部へ。東武野田線運河駅を降り東京理科大学を横目に歩いていく。途中で信者らしき人々がすれ違いざまに挨拶をしてくる。霊波之光は教義上挨拶を重視してるようでまあ返さないと申し訳ないな…という感じで返事をする。
入り口についたころはちょうど正午で礼拝タイムだったのでそれを眺めてから境内にINする。入り口で記念撮影ができるようだが内部では写真は撮影禁止らしかった。休日であったこともあり先に述べた三つの本部よりも人が多かった。とりあえず腹ごしらえに一部オタクに認知されているドムドムバーガーの生き残りの店で昼食を食べた。お好み焼きバーガーって炭水化物ばっかじゃん!!!!
施設内のことで覚えてることが花が多いとか焼き物が飾ってあったとかその程度しかない…教団について知らなかったので資料館的なところも見たかったけど休館だった悲しみ。
・金光教
中国地方に18きっぷ旅行した時にせっかくだからと行ってみた金光教本部はその名もズバリ金光駅から歩いて行った。
本部までの道にある店が軒並み金光教マークの提灯を掲げていたのは流石宗教都市だな…と思ったりしました。本部に入ったけど手水鉢とかもあって割と神社に近い感じでしたね、教派神道ですから。
歩き回ろうと思ったけど信者の方々が掃除の奉仕活動的なことをしてたからなんか申し訳なくなってそそくさと退出してしまいました。帰りに買った金光教マーク入りのまんじゅうはなかなかおいしかったです。
…と、ここまで駄文を垂れ流してきたわけですが、見に行ける新宗教施設は割とあるように思います。ただ、そこにいる信者の皆さんに失礼とならないようなふるまいは必要となってきます。あくまでアウトサイダーなのですから…
あと、創価学会でおなじみの信濃町なんかは行ったけれど学会本部は厳重に守られてますし土産物屋で三色グッズを買うくらいしかできないからあまり面白くはなかったですね。
今後もいろいろな新宗教施設を訪ね歩きたいと思います。天理とかまだ行ってないですからいずれコロナが収まったら行きたいですね…!
幼少の頃の記憶。当時は人口一万人弱だった私の郷里の、小さな町。そのまた更に片隅に在った、小さな神社の祭り。その夏の一夜も毎年の恒例どおり、屋台が並んだ神社前の商店街―――と呼ぶにはあまりにも短い道―――を御神輿が練り歩いていた。
「ワッショイ!ワッショイ!ワッショイ!ワッショイ!」
(※掛け声や会話を正確に表記すると方言などから地域を特定される虞れが有るので、この文では誤魔化してあります。)
盛大で楽しげな掛け声と共に、御神輿は上下に、前後左右にと、激しく揺れ動いていた。
その御神輿を担ぐ集団が、幼い私の前を通過しようとした時のことだった。
「ワッショイ!ワッショイ!ワッ」
大きな音を立てて、御神輿の担ぎ棒が、見物客の一人である中年のおじさんの額に当たった。
おじさんの額は割れて、血が流れ落ちた。飲酒して赤ら顔だったおじさんの皮膚よりも、もっと色が鮮やかな血は、瞬く間におじさんの着ていた白い半袖肌シャツを赤シャツに変えた。
御神輿の動きは止まり、夜の街に集まった群衆も、水を打ったような静寂に包まれた。
ドッ!!!!
一瞬で群衆は笑いに包まれた。血を流したオジサンも一緒になって、腹を抱えて愉快そうに笑っていた。
「ワッショイ!ワッショイ!」
「ワッショイ!ワッショイ!」
「ワッショイ!ワッショイ!」
再び担ぎ手たちが声を上げて、御神輿が進み始めた。その動きは止まる前よりも一層激しく、上下に、前後左右にと、揺れ動いていた。御神輿は、夜の街並みを屋台と群衆の間を縫って進み、やがて幼い私の視界から消えた。流血おじさんも消えていた。きっと、あの後は手当を済ませ、何食わぬ顔でまた何処かのお家にお邪魔して、酒を飲み直したことだろう。小さな漁港の傍にある小さな街で暮らしていた、平凡で呑兵衛のおじさんたちは、それが普通だったから。
あの時の群衆を成していた、御近所のおじさんたち、おばさんたちの殆どが故人だ。今では私も同級生の大多数も、故郷を離れて暮らしている。Googleマップで現在の様子を見ることができる郷里の小さな商店街は、残念ながら所謂シャッター商店街となっている。
コロナの影響で、老齢の両親や彼らと同居する兄夫婦の元に帰省することも、おちおちできなくなった。私が郷里を出た後も、祭りは行われていたのだろうか?高校生の頃まで暮らしていたというのに、あの流血の夜の翌年以降の祭りについて、実は私には記憶らしい記憶が無い。私は自分の思い出を、何処に置き忘れて来てしまったのだろうか?
何か思い出せることと言えば、神社の境内へ上がる高い石段から見下ろした、屋台が並ぶ夜の商店街の光景ぐらいである。とはいえ、幼い時には聳え立つように見えた神社の石段も、大人になってから帰省した時に一度訪れたので、実はそんなに高くはないと今では知っている。
現在の私が暮らしている場所にだって、神社ぐらい幾つも有るが、幼い頃の私が目撃したような楽しそうな祭りは見ていない。私が移り住んで来る以前の、昔にはあったのだろうか?もちろん、あったのだろう。しかし、仮にあったとしてもコロナの影響下では、やはり御神輿を担いで練り歩くなんて事も出来はしない。
あの後、流血おじさんに御利益はあったのだろうか?
きっと私は、幼い頃の思い出を美化しているだけなのだ。双眼鏡を逆に覗くと、普通の風景が小さくまとまって何だか美しく見えるように。
それでも何時かまた、あんなささやかで、しかし猥雑なエネルギーに満ち溢れた、夏祭りの夜に巡り会えたら良いなと思ってしまうのだ。父や兄、幼い頃の御近所のおじさんおばさんたちとは違い、大人になっても私はてんでお酒が駄目だし、おまけに酔っ払いは苦手なのだから、きっと御神輿の担ぎ手にも楽しげな群衆の輪にも上手く混じれないだろうけれど、楽しそうにしている彼らの姿を、少し端っこの方から私は眺めていたい。
ワッショイ!ワッショイ!と呟きながら。
戸隠神社中社の境内正面に建つ大鳥居。今春から秋にかけて、老朽化に伴う建替え工事が行われました。
新しい大鳥居を設計したのは戸隠出身在住の建築士・宮川和工さん(40歳・日本伝統建築事務所)。
国の重要伝統的建造物群保存地区にあり長野県指定史跡にあり、何より"地域のシンボル"である大鳥居の模り役は大変な重圧であったに違いありません。
工事がひと段落して、どこか安堵した表情の宮川さんに、新大鳥居のこと、旧大鳥居のことを伺いました。
旧大鳥居が建立していた19(令和元)年11月、新大鳥居の建替えに向け、測量調査が行われました。新大鳥居は旧大鳥居と同じ寸法・形状とされ、そこには時代や地域を見守ってきた旧大鳥居と、当時建設に当たった人々への敬意が込められています。84年の時を過ごした旧大鳥居は風食し、建設当初より小さくなっているため「同じ」大鳥居を建てるには、測量値から当初の計画寸法に「戻して」設計する必要がありました。この頃、旧大鳥居の設計史料は見つかっていませんでした。
そこで、宮川さんは江戸時代初期の木割書「匠明(しょうめい)」を参考に寸法を「戻して」設計したといいます。匠明には柱と柱の間の距離から各部の寸法を割り出す比率が記されており、これを基に当初の旧大鳥居の寸法、つまりは新大鳥居の寸法を予測していました。
しかし、測量調査の結果、貫(ぬき:地面に近い方の横木)が木割書より長いことが判明。これにより、笠木や島木の切り口の勾配が変わるため「古い鳥居にフィットする」よう設計し直す必要がありました。言うは易し行うは難しとはまさにこのこと。宮川さんは、旧大鳥居の「オリジナリティ」を生かすため、この山場に挑みました。
宮川さんが設計の山場としてもう一つ上げるのは、笠木や島木(かさぎとしまぎ:貫の上にある横木。島木の上に笠木が重なっています)の反り具合「反り形状」の決定です。こちらも「戻して」設計する必要があり、何パターンか計算して反り形状を算出。 旧大鳥居に一番合うものを編み出しました。
年が明けて2月初旬、「原寸検査」の日、宮川さんが頭を悩ませた末、出来上がった設計図が敷き詰めたベニヤ板に実寸大で描かれました。集まった関係者とともに大鳥居上部の笠木や島木の反り具合や寸法・形状を入念に確認しました。
3月下旬、旧大鳥居解体工事の無事を祈る「清祓式」が執行され、4月中旬、新しい大鳥居の材木が戸隠の地へ。いよいよ建替え工事の始まりです。まずは、旧大鳥居の解体作業。クレーンで笠木と島木が取り外され、貫と柱がゆっくりと地面に横たわりました。「地域住民や観光客の皆さんにご覧いただけるように」と、分解された旧大鳥居は中社近くに保管。旧大鳥居には、当時建設に携わった面々の名前が記されていました。
実は5月ごろ、旧大鳥居の建設に関する文書が戸隠神社中社境内で発見されました。文書から、旧大鳥居のそのまた前の大鳥居は1934(昭和9)年の正月に吹雪の中倒れたこと、その2年後の昭和11年に奥社のスギを使って旧大鳥居が建てられたことが判明。そして、今回、新大鳥居建替え工事を監修していただいた「日本建築工藝設計事務所」の前身の設計者が旧大鳥居の設計を手掛けていたことも分かりました。
また、柱の下には十文字の土台が据えられ、そこに柱が刺さっている状態であったことから、旧大鳥居は持ち上げられ、上から土台に下ろす方法で建てられたと考えられます。それも、人力で。
新大鳥居の工事は着々と進められました。柱は、宮大工職人の手作業によるかんなかけで、八角形から十六角形に、十六角形から三十二角形に、そして丸に。並行して行われた基礎工事も順調にいき、迎えた9月1日。多くの戸隠人が見守る中、新大鳥居が建ちました。職人たちが地上で柱に貫を差し込んだ後、それをクレーンで持ち上げ基礎に差し込む。そして、島木、笠木と重ねる。「建て方」と呼ばれるこの工程が終わったとき、自然と拍手が湧きました。祝福と労いの音が戸隠に響き渡った良き日。一部始終を見届けた地元の子供たちの歓声も印象的でした。
地元の子供たちは、新大鳥居の工事見学だけでなく、実際に柱にかんなをかける体験会にも参加していました。かんなかけ体験会は宮川さんが企画。新大鳥居に親近感を持ってほしい、将来「あの鳥居の柱にかんなをかけたんだよ」と語り継ぎ過去の積み上げを大切に思ってほしい、そしてプロの仕事を見て将来楽しく仕事をしてほしい…。いろんな想いが込められた体験会で、真剣に丁寧にかんなを進めていた子供たちの表情は大変頼もしいものでした。
コロナで生活が一変しました。これから、居住地と勤務地にこだわらない生活スタイルが主流になっていくかもしれません。宮川さんはいいます。「戸隠のおそば屋さんって一流で、その技術で日本そば好きを戸隠でもてなしている。一流になれば日本中からオファーがある中で、それでも都会に住まず戸隠が好きだから戸隠に居るってかっこいいですよね」。謙虚な宮川さんの代わりに言わせてもらうと、宮川さんも一流で、とてもかっこいい戸隠人です。
11月1日、工事を無事に終え、竣功祭が執り行われました。生まれ変わった"地域のシンボル"を一目見ようと多くの戸隠人の姿がありました。これから平穏なときが続き、一流の姿と想いが受け継がれることを祈って。
最後に、宮川さんはじめ、今回の建替え工事にご尽力いただいた皆様、本当に本当にありがとうございました。
俺は京都市北山通在住の大学生。最近、ずっと家にこもってる生活ばかりしてたのだが、集中力が大きく落ち、そわそわするような感じがした。原因は運動不足かも知れない。ずっとほとんど体を動かしてこなかったからだ。そこで北山通から京都御所の方まで歩いて行くことにした。鴨川沿いをひたすら下った。周りには散歩してる人、少年のサッカーチーム、楽しそうに遊ぶ親子連れなど大勢の人が居た。川の方をみれば、サギ、カモ、カモメと多種多様な鳥たちがいた。途中でウが何度も川に潜って、浮かんでくる度に魚を咥えてたので大したものだなと感心した。他にもスズメを狙う三毛猫がいた。大勢のスズメが土手に群れなしていて、それを猫が虎視眈々と狙っていた。姿勢を低くし、じっとスズメたちをにらみつける。できる限り低姿勢で大股に歩み寄る様子は以前に自然番組で見たチーターかヒョウの狩りの様子を彷彿とさせた。ある程度近づいたところで一転、全力で突撃したのだが、鳥たちは一斉に飛び立ち、猫は一羽も捕まえられなかった。それを見て笑うと猫はさっさと走って行ったのだが、その様子が笑われたのを恥ずかしがっているように見えた。こうしてひたすら川を下り、丸太町の橋で川から離れ、御所へ向かおうかと思ったが、やっぱり面倒くさくなったので引き返すことにした。
今度は対岸沿いを歩いて帰ることにした。途中、鴨川デルタに差し掛かった。そうだついでに下鴨神社に参ろうと思った。立派な赤い鳥居を潜り、林の中をひたすら進む。途中、河合神社という小さな神社に寄った。下鴨には参ったことがあるのだが、河合神社は初めてだ。そこにも参ってみよう。すると面白い形をした絵馬がいくつも並んでいた。鏡みたいな形の絵馬だ。どうやらこれは美容を祝う神社らしい。ぼっちの俺には関係ないやと思いながらも5円納めた。河合神社を離れ、下鴨へと向かう。朱塗りの立派な建物だ。中には複数の神殿があり、自分の干支の神様を選んでお参りするらしい。卯の神様を選んだのだが、隣で白い服を着た男が賽銭箱を開けて、中を漁っていた。別に神社の金儲けを否定するつもりなんて無いが、こういうことは参拝客がいないときにやってほしいものだ。神社にはイメージが大切だ。すぐ横で金銭主義を見せつけられては興ざめも甚だしい。次に水みくじというのをやってきた。神のくじを境内の川の水に浸すと文字が浮かび上がってくる。読みにくい字で苦労した。内容は以下の通り
・体調 少しずつ体を鍛えよ
・旅行 用心せよ
・学業 続ければ実力がつく
・願い事 いずれ叶う
体調に関しては納得だ。ずっと引きこもりの運動不足の生活だったんだから。恋愛はまじで意味が分からない。俺はずっとぼっち。年齢=彼女いない歴で絶望的にコミュ症だから、これからも出来ないだろう。なのに今の愛情を信じろってどういうことだ?好きなアニメのキャラを一途に愛し続けろとでも言うのか?次に旅行。インドアの俺に無関係だ。学業はどうだろう。ずっと勉強もできないアホで、大学では学業を頑張ろうと誓うも、志が折れ、周囲への劣等感で病んでずっとやる気が出なかった。眉唾物だが、それでも少し勇気がもらえた。願い事。本当に叶うのだろうか。俺の夢は死一流の動物生態学者になることだ。正直俺みたいなやつに研究者になる資格なんて無いだろう。現状に反しておみくじの答えはポジティブだ。馬鹿馬鹿しかったがちょっとだけ元気になった。来た道を引き返し、帰宅することにした。
途中の公園を見ると、ベンチに見慣れた顔が二人並んでいた。同じ部活のカップルだ。それを見て泣きそうになりながら帰った。俺は今までカップルを見ても、そこまでショックを受けることはなかったのだが、なぜか今回は応えた。こんな俺に産んだ親を呪った。やっぱり人生は椅子取りゲームなんだな。
思いついた順。順番に意味は無い。
・田舎の道路は舗装されて無いのがあたりまえだった。ごく一部が舗装されていたが、舗装はコンクリートだった。アスファルト舗装はまだほとんど無かった。
・川にかかる橋はまだ木と土でできていた。わずか数年のうちに、全部コンクリート造りに作り変えられた。その時の橋がまだ現役。
・石炭がまだ日常的に使われていた。学校の隅の方には石炭を積み上げておく小屋があって、冬は当番の子供がその日のストーブで燃やす石炭を小屋から教室に運んでいた。炭の燃えカスの掃除は先生がやってくれていた気がする。石炭ストーブが石油ストーブに置き換わると、石炭小屋は鶏小屋に改装されて、学校でニワトリを飼っていた。
・火鉢や七輪がまだ現役だった。火鉢の中では炭を燃やして暖をとっていた。
・掘りごたつの底は格子状になっていて、その下で炭か何か燃やして暖を取る構造だったが、それは当時すでに廃れていた。電熱線を使った電気ごたつが安くて便利なので、かなりはやくから普及していた気がする。
・家にかまどがあった。物ごころついた時にはもう使われなくなっていてプロパンガスだった。お年寄りの家ではまだ現役でかまどが使われていた。
・洗濯ものは川や湧水のあるところでやっていた。湧水は出口すぐが飲用水の採取場所、数m下ると食器や食べ物を洗う場所、そこからさらに数m下るとそれ以外を洗うもの、と順番が決まっていて、いつもだれか数人の主婦が何か家事をやっていた。水道が普及するといつしか誰も使わなくなり、掃除されなくなり、廃れた。
・秋には落ち葉のたき火で焼き芋を焼いて食べるのが定番のおやつだった。
・農業に使うかごなどが、まだ藁で作られていた。この伝統は数年後にはすっかり無くなってしまった。
・村の加治屋さんがいて、農機具の修理などをやっていた。
・軽トラックが普及しはじめていたが、農道がまだほとんど整備されていなかった。車が通れない歩行者用の山道を、天秤棒をつかって前後に思い荷物をぶらさげて運ぶという仕事がまだあった。
・コンクリートブロックを使って塀を作るのが流行り、みんなで競うように塀を作っていた時期があった。へー。
・車はどの車も数年でサビサビになった。今のような耐久性のある焼付塗装がまだ開発されておらず、車検のたびに車の塗装をやりなおしていた。車検とはある意味、車の塗装をやりなおすイベントだった。
・街へ行くたびに、あちこちでボコボコビルが建ち始めていた時代。1970年より前に建築されたコンクリート作りのビルというのはかなり珍しいが、1970年代にはめちゃめちゃ大量のコンクリート造りのビルが建設されて、日本の街の風景が一変した。
・いまはシャッター街となっている田舎の商店街に、もっとも活気があった時代。
・軍隊帰りの教師が現役でいた。ゼロ戦の特攻隊の訓練生だったとか、広島に原爆が投下された後の遺体を積み上げて燃やす作業をやったという教師がリアルに居た。多くの大人たちが原爆のキノコ雲の目撃者だった。
・家を建てる時、壁は土壁だった。そのへんの土に藁を混ぜて建材として使っていた。土壁の中の芯は細い竹を格子に編んだものだった。
・貯金の金利がめちゃめちゃ高かった。しかし実際には金利以上にインフレになったので、真面目に貯金した人はむしろ損をした。
・缶ジュースは当時から1本100円だった。子供には高級な飲み物だった。
・お豆腐屋さんに毎日お豆腐を買いに行っていた。田舎でも数100mも歩けば、一軒は豆腐を豆から作っている豆腐屋さんがあった。
・主婦が買い物に行くときは、細い竹を編んだような、かわいらしい買い物かごを持って買い物に行っていた。レジ袋などというものはまだ無かった。せいぜい紙袋。
・生ゴミはかまどで燃やして処分していた。灰は肥料として活用された。街のゴミの収集車は、不燃ごみの回収が主だった。
・冠婚葬祭は、5人組といわれる隣近所のグループで協力しあって、自宅で行うのが当たり前だった。
・どこの家にも子供がいた。夜は外出を厳しく制限された。今思えば、どこの家庭も夜になると夫婦でセックスして楽しむのが当たり前だったんだろう。
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・子どもは神社やお寺の境内に集まってよく遊んでいた。缶けりとかが定番だった。
・そんなド田舎にもエロ本はあった。子どもたちが拾い集めたエロ本の隠し場所が神社の床下だった。
・雨の日はよくトランプしていた気がする。
・こたつのテーブルの板をひっくりかえすと麻雀用の緑のフェルトが貼ってあった。
・蛍光灯が爆発的に普及したのがこの頃だった。電球よりずっと明るいので最初はみんな驚いた。
(しかし、統計を見ると子どもが減り始めたのもこの頃。電球の方がエロい気分になりやすかったというメリットはあったのかもしれない)
・バスには運転手のほかに、切符を売ったり、バックする時に誘導したりする車掌がもう1人乗っていた。それがワンマンになったのも昭和50年代
・国鉄で荷物を送るときは、包み方にめんどくさい規定があって、紐で縛ったり指定のタグをつけたりしなくてはならなかった。
・昭和50年代に複数の宅配便会社が競争で一気に普及して、国鉄で荷物を送ることは全くなくなった。
・女子の体操服はブルマだった。バレー部が人気だった。部活やマラソン大会では女子が校外を体操服(下はブルマ)で走っていた。
・ダンボールは既に普及していた。ダンボールが普及する前は農作物は木の箱に入れて出荷していたらしい。使われなくなった木の箱がよく他の事に転用されていた。
・そんなド田舎でも新聞と牛乳は毎朝届いていた。牛乳はビンに入っていた。
・学校の校舎は当然木造。体育館も木造。今思うと、体育館のような大きな建物が木造っていうのは当時としてはなかなか凄い事だったんじゃないかという気がする。
・バイクといえばスーパーカブのことだった。それ以外のバイクは見たことが無いレベルだった。
・車と言えば軽トラだった。それ以外の車も見かけたが、変わり者扱いされるレベルだった。
・仕出し弁当とかは薄い木で作った箱に入っていた。プラスチックや発泡スチロール製のトレ―が普及したのも昭和50年代
・幹線道路なのに1車線のところがあり、ときどき渋滞でにっちもさっちもいかなくなって警察を呼ぶことがあった。
・リヤカーを引いて魚を売りに来るおじさんがいた。スーパーカブに山ほど靴を積み上げて靴を売りにくるおじさんもいた。富山の薬売りもいた。
いや、お前着物が私服だった時代の事を洋服が普及した今でも言うか?
実際問題お参りの服装とかどうだって良い。ただ地元の神社とかだと写真館と提携してたりして神職のくせに良い顔しなかったり差をつけたり平気でやるのでいっそメジャーどころの方がシステマチックなのでストレスも少ない
そもそも三歳の子供が着慣れてない着物を着て境内への移動、祈祷、写真撮影を良い子にするわけがない。こだわりが無ければ写真撮影だけ着物で、それ以外は私服が一番ラクである
神社は一生に一度とか言うけど、ぶっちゃけ七歳の時にやればいい。だいたいそういうのに必死な神社は七五三のお納めを1万~とかにしてる。でかいとこだと何も言わないし、5000円からとかだし
パルテノン神殿行ったときですら、神殿そのものをじっくり見ていた時間は10分もなかったと思う
風つえー!アテネ市街の写真とるか!あっピント合わねえな、アテネにピントがあってねえw!とか言ってるうちにいつの間にか帰ってた
何かを得た感じはあまりしない パルテノンクラスのクソ有名建造物でも、心を打たれるって感じはなくてただ「へー、これか…」程度の感動だった
旅行はわりと好きなはずなんだけど、どこに行った記憶を思い出してもあんまり観光地を楽しんだ感じがしない
金閣寺とか見たはずなんだけど、具体的にどういう風に見えたかとかマジで覚えてない ただ境内が混雑してて、良い天気の十一月で、楽しかった そのくらいのボンヤリした記憶しかない (これに関しては修学旅行だったのが悪いのか?)
伊豆とか箱根とか旅行したいな!と思うんだけど、じゃあ行った先で具体的に何を見たいっていうのは全然ない
神社とかはあんまり興味ない 山に登って景色を見るのは好きだけど、近所にもなかなか良い山があり、わざわざ遠くまで行って山に登る意味があるか?というとちょっと疑問
温泉だってどこのやつに入ってもそんなに違いを感じねえし、すぐのぼせて上がってしまう 脱衣所のすのこ(?)の床の質感とかはすげー好きなんだが、そんなん近所の銭湯でも味わえる
メシにしたって貧乏性でつい旅先でも安いものを求めてしまう いやいや、せっかく来たんだから奮発しようぜ!とときどき思って高いものを食うと、まあうまいんだけど、そりゃ高いんだしな…という気持ちが先に立ってしまって満足度が低い
旅行でいちばん好きなのは宿の部屋に入る瞬間 部屋の鍵をあけ、薄暗い部屋に入っていって電気をつけるときのワクワク感はかなりある
荷物置いてそのまま寝るってことはほぼなく、そのあともう一度出かけないといけないから、あんまり気を抜いてダラダラはできねえんだけど、だからこその良さがあるというか、外出着のまましばらく横になるあの気持ちよさは替えがたい
そう、宿はいいんだよな めちゃくちゃ良い
どうしたらいいんだ
みんな何を目当てに旅行してるんだ?
どこ行っても最初数分「お〜」つってるくらいのところで熱量が燃え尽きて、あとは惰性みたいな感じになってしまう
いっそ移動と宿をメインにしたらいいのか?
むかし彼女とブダペストに旅行に行って、チタデラって名前のちょっとした山に登った。
英語かイタリア語かフランス語か知らないが、とにかく城砦を意味するCitadelって単語からきた名前らしい。たしかに無骨な砦のようなものが頂上にあった。
砦そのものには入れないが、高度と位置がちょうど良くて市街が一望できる。いろんな国籍の人が集まって街を見下ろし、思い思いに写真を撮ったりしている姿は牧歌的で素敵だった。ドナウの真珠と呼ばれるだけあってブダペストの街は美しく、それなりに感動した覚えがある。俺たちもドナウの真珠をバックに写真を撮ったが、自撮りが下手すぎて2人の顔ばっかり写っていた。
チタデラ、いい思い出だ。
で、この前なんとなくグーグルマップを見ていたら近所に「知足寺」という寺をみつけた。ちそくじ、とでも読むのだろうが、ちたでらとも読める。なんてことはない普通の寺だが俺たちは大いに盛り上がり、日本のチタデラへと向かった…というのはウソで、彼女は「べつに行くほどではないかな…」とつれない態度だったので俺だけ行った。
普通の寺だった。人はいなかった。境内に入って声をかけられたら怖いので、外から眺めるだけで帰った。
彼女にその話をすると、「よかったね」と言われた。 完
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年末年始にタウンワークで見つけた露店のバイトをしてきた。露天というと893的な怪しいやつかなと考えてしまって結構ビビった。働く前に実際はどんなカンジなのか知りたくて検索したのだけど、参考になるものが全然でてこなく、出てきたとしても、記事の内容が薄く最後の方に「いかがでしたか?」が書いてあるようなアフィブログがほとんどだったので、僕が匿名でここに書いておく。近い未来に誰かの参考になると思う。
▼どんなバイトだったのか箇条書きで
・場所は東京にあるかなり有名な神社の参道で、初詣の参拝客がターゲット
12月中旬、タウンワークを見ていたら「短期間でガッツリ稼げる!」とか「初詣で賑わう神社の境内で食品の販売」とか書いてある求人を見つける。給料は良いし、「未経験でも大丈夫!」という謳い文句があったので応募。テキ屋というとヤクザという印象があった。タウンワークには雇用者の名前と住所、電話番号が載っているから、国税庁の法人番号検索サイトを使って法人登記があるのか調査。求人に書いてあった「xx商店」という事業者名称や住所を使って、法人登記があるのか調べたが、それらしきものは見当たらなかった。また住所や商店の名前でGoogle検索したりストリートビューを確認しても、何も出てこない。ここで少し不安になる。
応募から少し経って、携帯電話に知らない番号から電話が来た。電話先はおばさんで「xx商店です」と名乗ってきた。履歴書をFAXで送れということと、年末に面接を行うと言われた。この時点では「食品の屋台をやっていただきます」ということしか言われず、お好み焼きとかたこ焼きとか具体的な食品名は教えてくれなかった。翌日に電話で指定された番号へFAXで履歴書を送った。ちなみにFAX番号で検索しても何も出てこなかった。
面接は、働く前日に神社の近くのコンビニ前に集合して行った。集合場所には自分の他に10人くらいいて、割合は5人が学生、2人が30代前後、3人が50代以上に見えた。面接といっても何か質問されるということはなく、社長と名乗るおじさんが来て誓約書にサインをするだけだった。面接で不採用になることはないと思う。誓約書の内容は「無断で欠勤しません」や「勝手に売り物の値段を変えません」といった社会通念的に問題のないと思えるもので、誓約書には日付と住所と氏名を書かされた。
▼実際働いてみてどうだったか
電話の段階では何の屋台をやるのか教えてもらわなかったけど、理由は簡単で、自分が働いたxx商店では複数の屋台をやっていたからだ。具体的な食品名を言うと特定されそうだから控えるが、たこやき2店、やきそば2店、甘酒1店、りんご飴1店、というようなカンジ。初詣に行くと露店がいっぱいあるけど、あれ実は中の人は繋がっていて系列店だったりするんだね。
露店をやっている社長とかは全国のイベントを回っているようで、東京の神社なのに大阪から来たようだった。初詣期間は安いホテルを取っているようで、ずっとそこに泊まっていると言っていた。
仕事自体はとても楽で、体力があれば未経験者でも大丈夫だと思う。僕は12時間拘束だったのだけど、トイレ以外は休憩がなくて(トイレ行って帰ってくるだけ。一息ついたりはできない。)、でも暇な時間はあるから、そういうときは店番しながら椅子に座ってスマホいじってOKだった。それを休憩とみなしていた。社長は「寒くない?」とか「トイレ大丈夫?」とかこまめに話しかけに来てくれて、カイロや弁当をくれた。それと自分と同じようにタウンワークから応募してきた人と一緒に働いていたので、気が緩かった。僕が一緒に屋台をやったのは大学生だった。社長が来たときは一生懸命に呼び込みの声掛けをするけど、基本は大学生と世間話。
▼893なのか
結論から言うとxx商店の人たちは暴力団関係者ではないと思う。ただし、全身に入れ墨があったし、怒るととんでもなく怖かったので、昔そういう人だったのかもしれない。露店のテントの中に「販売許可証」というのが貼ってあったのだけど、そこには社長の免許証のコピーと、暴力団関係者ではないことの誓約などが書いてあったから、そういう人はテキ屋が開けないのだと感じた。
洗濯物を取り込もうとして窓を開けたら、ベランダの隅に恐竜がいた。
恐竜を見るのは初めてだったが、第一印象はそんなに怖いものでもなかった。薄明かりの中で鱗がキラキラと光っていて、まるで黒いガラス玉を全身に撒いたようだと思った。
恐竜の方も私に怯えているような様子はなく、少し首を傾げてこちらを見ていた。まだ子供なのだろうか。
ちょうど冷蔵庫に鶏の胸肉があったのを思い出したので、「ちょっと待ってて」とジェスチャーで合図して(伝わるわけないが)、冷蔵庫から胸肉を持ってきた。恐竜の前に差し出すと、パクッと器用に歯で挟んでそのまま見る間に一呑みしてしまった。
食べっぷりといい、呑み込む時に見えた綺麗に並んだ鋭い歯といい、やはり肉食なのだなと思った。
恐竜はまだ私の方を見ていたが、私が「もう無いよ」と言うと、手すりに脚をかけてそのまま下の駐車場にジャンプして、トットットッと軽い足取りでどこかへ行ってしまった。街灯に照らされた姿は誰がどう見ても恐竜だったが、幸い自分以外に見た人はいないようだった。
次の夜も恐竜は来た。
私が居間でテレビを見ていると、窓をコツンコツンと硬いもので叩く音がしたので、もしやと思って見ると昨夜の恐竜だった。
そしてまた同じように首をかしげるので、私は昼間のうちに用意しておいた豚バラ肉を一枚一枚恐竜に与えた。恐竜はそれをまた美味しそうに食べた。そして食べ終わるとまたどこかへ行ってしまった。
それからは毎晩、恐竜に肉をあげるのが日課のようになった。恐竜は私の用意した肉を平らげ、またどこかへ帰っていった。そして、いつのまにかその後ろ姿は着実に大きくなっているように見えた。
この恐竜はどこまで大きくなるのだろうか。夜のうちはまだ暗いから大丈夫かもしれないが、昼間はその大きくなっていく体をどうやって隠しているのだろうか。
神社の境内の裏手やビルの屋上の隅に、その大きな身体を蹲ってじっとしている。褐色の身体の中で、目だけが細く開いている。そんな姿を想像せずにいられなかった。
恐竜が最初に来てから1月ほど経った夜、私がいつものように肉を持ってベランダへ出ると、そこに恐竜はいなかった。30分待っても来なかった。そして次の夜も恐竜は来なかった。それからの晩、恐竜が来ることはなくなってしまった。
私は冷蔵庫にある肉類を見つめて呆然としていた。なぜ彼は来なくなったのだろう。
きっと、恐竜は自分で食べ物を調達できるくらいの大人になったのだと思った。そして私の助けを必要としなくなったのだろう。
つまりは巣立ちをしたのだ。
おそらく自分がもう巣立ちできるくらい大きくなったことがわかった恐竜は、昼間は隠れて夜に食べ物をもらう生活を止めたのだろう。きっとこの街を捨ててどっかへ旅に出たのではないかと思う。
ベランダから外を見ながら、私は日本のどこかの山奥の森で、誰の目にも気にせずに過ごす恐竜を想像した。きっとのびのびと暮らしているのではないかと思う。
もし、山の中で恐竜の足跡を見つけたり鳴き声を聞いたり、もしかしたら恐竜と出会った時は、誰にも言わずにそっとしておいて、できれば知らせてほしいです。
また会いたいので。