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はてなキーワード: 玉串料とは

2024-03-19

anond:20240319214735

文化したら、一部ゴニョゴニョだけど社会的に望ましい女性支援団体とかへの補助助成にもいちいちケチつけられるんよね…

党派関係ない話なので、逆に右翼向けの玉串料とかでもいいけど

いちいちケチつけたら、したいプロジェクトの大半が年度内に実行できんのではと思う

2024-01-11

自衛隊靖国参拝、がっちり証拠写真押さえられてる件

赤旗スクープだと思っていたが、毎日新聞も参拝を事前に把握していたらしく、めっちゃ鮮明な証拠写真を撮っていた。


https://mainichi.jp/articles/20240111/k00/00m/010/228000c


しか毎日新聞の方がかなり詳しい。

•参拝に関する内部文書存在する

実施計画作成されていた

部隊での参拝を禁止する事務次官通達違反している

•参拝の名称は「年頭航空安全祈願」である

玉串料は1人2000円を徴収していた

参加者はこの日の午後に時間休を取得していた

境内に案内担当が配置され、幹部を出迎えたり誘導したりしていた

2023-11-19

anond:20231119092553

それ、そもそも元増田憲法20条3項の問題であることを隠して20条1項に絞って引用してるのよ。ちょっとググればわかることだけど、最高裁玉串料違憲判決20条3項の問題でしょ。

日弁連偏向がないとはいわないが、この件で明確な歪曲してるのは元増田の方。

anond:20231119061509

特に問題はない」はダウト玉串料訴訟でググれ。1回5000円の玉串料でもアウトだから、0円ならセーフというわけでもない。

プライベートではなく内閣総理大臣という行政機関として書いたものから、①目的宗教的意義を持つものであり、かつ、②効果宗教に対する援助・助長・促進・圧迫・干渉等になっているならアウト。今回は②を満たすのは明白だから、①を検討する必要がある。

ただ、日本司法制度だとこれについて合憲違憲を問う裁判手続き存在しないから、裁判所との関係ではやり放題。政治家としてどうなのよってのは選挙判断なのでこれもまぁやり放題だな。

2023-08-28

万引き家族

家の近くに神社があって、通勤で毎朝その前を通る。

そうすると決まった時間に、神社の外からとても丁寧なお辞儀をしてから駅に向かう家族がいる。

どんなお願い事をしているのか、それとも過去に起こったことに感謝しているのかわからない。

両親は50歳くらい。おそらく息子と思われる男子中学生くらいだと思う。

過去に大きな病気にかかったときに頼ったのか、未来のために何か大切な願い事を掛けているのか。

特に会話もなく神社に近づき、入り口の外に3人が横並びになって、特に合図があるわけでもなく3人がきれいお辞儀をして、そのまま何事もなかったかのように駅に向かう道を行く。

そこだけ切り取るととても美しい何かを感じさせるシーンなのだが、何かが引っかかった。

毎日しっかりと決まった時間に家を出ているわけではないので他の日はどうかわからないが、同じ時間神社差しかるときは決まってその家族神社の外からお辞儀をする姿が確認できた。

それでなんとなく他の時間帯でも気にするようになったのだが、この家族以外にも、一定数の人が神社の外から非常に丁寧なお辞儀をしてから駅に向かっていることに気がついた。

朝の時間帯、忙しいという理由で中に入るまでもないという感じなのかもしれないが、お辞儀だけは手を抜くまいとする姿は皆に共通していた。

それだけ切り取ると確かに美しい何かを感じさせるシーンなのだが、やはり何かが引っかかった。

そうなのである

誰一人としてお賽銭を投げていないのである

賽銭を全く投げていないのにも関わらず、お辞儀だけはクソ丁寧なのである

それはもう神社にしてみれば万引きでしょ。

願い事の万引き

いや、神様に手を合わせたいならちゃんと参って。

ちゃんと参るっていう行為自体信仰の対価になるのだから、そこ端折ったら万引きでしょ。

それに気づいてからそれまでどこか神聖に見えてた彼らがエビルな存在だとした感じられなくなってしまった。

しかすると何かのタイミングでまとめてそれなりのお布施(初穂料?玉串料?)を払っているかもしれない。

それにしたって、そんなに大きな神社なわけでもないのだから、たった十数メートルの参拝を省略するのはどうなのか。

だったら神社の前を通るときに心のなかで手を合わせていけばいいだけなのに、お辞儀だけクソ丁寧っていう願掛けの線引はまじで意味がわからない。

神様ガチプレッシャーかけて、絶対に元取ってやろうっていう魂胆が見え見えなのだが。


似たような話で、大手町に将門塚というのがあるのだけど、めちゃくちゃ丁寧なお参りをしてる人がすぐ横に路駐してた車に乗り込む姿をみるとやるせない気持ちになるのよね。

そこを通るとかなりの頻度で路駐があるのだけど、そのせいで左折車線に入りづらくて迷惑だしそもそも危ない。

人に迷惑をかけてまで参られる側がどんな気持ちになるか考えればわかることだろうって。

観光地とか映えスポットならわかる。

エゴ全開で迷惑かけてくれたほうが殴り返せる分いい。

お参りは誰よりも丁寧!って姿が、謙虚の皮を被った傲慢に見えておかしくて仕方ない。

願えば願うほど祟られてるなじゃないかって本気で心配になるよ。

本人必死なら申し訳ない。

ももしかしたら、その問題に対する解決方法もっと別にあるような気がする。

2022-10-09

anond:20221009113055

消費契約であれば、個人に対する勧誘とか具体的な行為で縛ることできるんだろうけど、任意寄付や贈与にまで拡大すると、今は問題ないってされてるお賽銭玉串料お布施禁止しなくちゃいけなくなるんじゃないの?

霊感その他の合理的実証することが困難な特別能力による知見として、そのままでは当該消費者に重大な不利益を与える事態が生ずる旨を示してその不安あおり」って、受け止める人によっては厄年や49日法要とかも当てはまるようになっちゃうでしょ。

その線引きが難しいんじゃないのって話なんだよ。

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-07-17

anond:20220717112647

参拝ぐらいならともかく、玉串料公費で出したりするのは良くないな。どこに境界を設けるかだが裁判所も悩みつつ境界を作ってるのだろう。

カルト宗教広告塔として利用されるって問題があるから政治家特定宗教機関誌投稿するのは禁じる方向にしていくべきではないか

2022-07-12

政教分離って素人が思ってよりゆるく

だっけ?

政治家個人名で統一教会だろうがオウムだろうが参加しても問題ない。

なかなか法律規制するの難しいだろうから自主規制でもしてほしいが無理だろうね。

左派3党からどうぞ

2021-09-11

川崎のかなまら祭の危機

川崎奇祭、かなまら祭をご存じだろう。あのピンクチンコ神輿が有名なやつだ。

あのピンクちんこ奉納した会社が潰れてしまった。日本の伝統危機だ。

 

女装クラブエリザベス奉納した神輿だった

あのピンクちんこ神輿は、実は浅草橋新宿にあった女装クラブエリザベス奉納したものだった。神輿だけじゃない、それ以外の玉串料奉納して金山神社を支えていたと思われる。

このエリザベスはアント商事という会社運営していたのだがこの会社が去年廃業してしまった。

 

下着商社だった

アント商事は元々女性下着商社だったのが、どうも通販下着を買う客の中に男性が多いという事に気が付いた。つまり女装需要である。店で買うのが憚れるので通販を使っているのだと。

 

商事はこれはニッチ需要だと見抜いた。ニッチって隙間産業みたいな意味じゃないよ。生態学安定的生存圏って意味だよ。

しかもこのニッチ下着市場だけじゃない、「ドリルを求める客は穴が欲しい」のアレだ。「女装市場」を作り出す事が出来る。

そういう判断1979年エリザベス会館をオープンした。会員制で衣装を預かるロッカーを置き、女装を手ほどき、同じ趣味のお友達とも交流できるってサービスだ。そこで販売するのは当然自社の下着や服。地産地消みたいな商売やね。

 

ここはそのスジでは有名だったが、会員が年齢層結構高め。だから言っちゃ悪いがちょっと汚装っぽい方に寄っていて綺麗系じゃない(綺麗な人もちゃんといた為念)。でも年齢層高めって事は結構お金持ってる。会社で偉い人も多い訳だしな。

 

学生運動70年代から民俗学の隆盛

金山神社の方は性信仰がある神社ではあったのだが、かなり廃れてしまっていた。

んで、日本では1969年に盛り上がった学生運動が消沈した後、70年代中頃から民俗学が盛んになる。大きな物語マルクス主義が萎んだあとに小さな物語日本伝承を探求するのが流行ったわけ。自分探しの旅とか国鉄いい日旅立ちキャンペーンとかもこれに繋がるものだよ。

当時の金山神社宮司民俗学インスパイアされ、自身神社の昔の姿、江戸時代伝統的な祭り再現しようとした。特に性的信仰っていうのは明治以降国家神道の下に抑圧され、その後も恥ずかしいものとして人々から忌避されてきた。でも民俗学的にはそんな忌避ナンセンスだ。

それで大根男性器、女性器、いやそんな言葉忌避はしちゃいけないな。ちんこまんこに削ったご神体を崇め練り歩く祭を毎年開いていた。この表現民俗学表現からあしからず

 

エイズ疫病退散としてのスポンサーリング

1980年代中頃にエイズ禍が起こると、当時は同性愛者の病気と思われていたのでエリザベス界隈は肩身が狭い。客足も遠のいて経営的にも辛い。

そこで景気づけ&疫病退散の願掛けとしてこのお祭にドーンと奉納して盛り上げて来たのだな。そのスジじゃ有名なあの店が裏スジが通ったちんこ神輿寄付ってわけやね。

あの屹立するピンク怪物がいつ作られたかは良く知らない。でもあの神輿オフザケが多分に入ってるのね。どうしても客層におっさんが多かったりして綺麗でお高くとまってる感じにはなり難い。世間に言えない秘密趣味っていう暗さもある。

んだったらぶっちゃけちゃえって感じ。んだから江戸時代習俗復刻みたいな文脈からもぶっとんだピンクちんこを作ってしまった。そしたらそのぶっ飛び具合が群を抜いていて人気が出てしまった。

因みに写真見るとピンクちんこ神輿担いでるのって女装したおっさんたちじゃん。あれがエリザベス関係者です。お客ですな。

 

男の娘ブームに押される

15年ぐらい前から男の娘ブームがあるけど、そうするとメイクルームとかもあちこちに出来てくる。エリザベスの競合ですな。

しか男の娘ブームの方はレベルが高い。そうするとどうしてもエリザの方は汚装っぽく見えて見劣りがしてしまう。

因みにそういうお店の経営者にはエリザ出身者も居る。昔はエリザぐらいしか無かった訳でな。

 

そういう情況エリザベス運営会社のアント商事2020年2月廃業してしまった。コロナ最初期だ。

祭もコロナ自粛

一方、かなまら祭の方は毎年3月開催だがコロナのせいで去年から練り歩きは行われていない。境内での神事で終わりだ。警察道路使用許可出してくれないからな。

 

なので同社廃業ピンクちんこ神輿がどうなるかとか女装おっさんズ担ぎ手はどうなるかとかは不明なままなのだ。まぁ、いきなりピンクちんこが萎れたり無くなったりは無いだろうが、大手の後援者が居なくなるのは痛いかもしれん。

 

って事で、あのピンクちんこが有名な祭の外形は実は日本の伝統じゃなくてスポンサーによって作られた復刻&アレンジされた姿だったのだな。最初に言ってる事と違うな、あとでまとめて謝る。でも中身は民俗学的に線を繋いだもんで偽ものじゃない。

あと、他の男根神輿は健在だからちんこ消失に悲しまなくてもいい。是非来年は祭に来て出店のちんこキャンディーとかを頬張って欲しい。

 

最後にお詫び

なんで女装界隈詳しいのかっていえばワイがニューハーフ崩れだからだ。

最後に、はてな事務局諸兄には民俗学必要とはいえちんこ連呼した事を、またちんこ連呼で男女同権的に偏りがある文章となった事を、表題クリックバイトになった事をお詫びしたい。

どうもすいまんこ

2021-02-12

anond:20210212100558

香典とか御花料とか玉串料とか社会にでると面倒くさい使い分けができないと恥かくこともあるんやで

2019-08-16

anond:20190815200249

元々日本国内ヤンヤ言ってた問題らしいよ

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C

 

公人における公私の区別

公人においても公私を区別するべきだという論点がある。これは第66代総理であった三木武夫1975年昭和50年8月15日総理としては初めて終戦記念日に参拝した際に、私的参拝4条件(公用車使用玉串料私費支出肩書きを付けない、公職者を随行させない)による「私人」としての参拝を行った。これに対し靖国神社法案を断念した神社本庁および日本遺族会は、「英霊にこたえる会」を結成して、「首相閣僚による公式参拝」を要請する運動を展開する。靖国神社に対して玉串料などを公費支出した参拝は、第72代総理であった中曽根康弘による1985年昭和60年)の参拝が訴訟対象となり(後述)、1992年平成4年)の2つの高等裁判所判決憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされており、これ以降の議論は「私人」としての参拝が許容されるものであるかどうかを巡っての解釈問題となっている。

「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という意見がある。これは、公人であっても人権的な観点から私人の側面を強調視するもので、「首相個人信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」という立場をとっている。「アメリカのように政教分離をうたっていながら、大統領知事就任式のとき聖書に手をのせ神に誓いをたてることは問題になったことは一度もない」ということも論拠の一つに挙げられている。

一方、「公用車を用い、側近・護衛官を従え、閣僚が連れ立って参拝し、職業欄に『内閣総理大臣』などと記帳するという行為公人としてのそれであり、政教分離原則抵触する」という意見がある。こちらは、実効的な観点を重く取り上げ、「首相が在職中に行う行為私的であっても、多少の差はあれ、全て政治的実効性を持つため、私的参拝であっても靖国神社実質的利益を与えるものだ」として問題があるとしている。

第87 - 89代総理小泉純一郎は、2001年平成13年8月13日首相就任最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」と述べた。これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされている。但し福岡地裁判決後は私的参拝であると表明している。 小泉純一郎首相による参拝以降、参拝客が急増した現象についてはマスメディア報道が大きく影響しているとの意見もある[18]。

2018-05-29

anond:20180529223506

子供がいて、たまに飲み会にもいっていると、こういうところは現金払いしかないよねと思う。

玉串料お布施電子マネーで払えるところって1カ所しか知らんぞ。

電子マネーあるいはクレジットカード対応したお祭りの出店は見たことがないね

商店街なんかのお店でクレジットカードを使える方がまれだね。

園の行事お金を集めますといわれたら、基本集金袋にお金を入れて渡すじゃないか

募金箱にお金を入れる代わりに、電子マネークレジットカード募金したいですってできないだろ。

誰かと割り勘にする時、全員がそれぞれクレジットカードを出して払うなんてことを日本で見たことがない。

...とまあ、現金が当たり前という世界はある程度あるから、そこに出入りしていたらカード電子マネーだけなんていう生活はできないんだなぁと思う。

2018-01-11

韓国の求める心から謝罪とは何か

日韓問題

最終的な解決がなされたのに蒸し返すことの契約的な是非はともかく、心情面で日本がどんだけ謝っても韓国納得しないじゃんって話については、2015年戦後70年首相談話の時にパックンが書いたコラムが興味深い。


首相談話についても、アメリカ人なので語りません

以下に一部引用する。

 謝るべきかどうかではなく、何故お詫びを求められ続けるかということだけについて話そう。

 まず挙げられるのは「各国の政府は、内政が厳しいとき反日感情煽り国民の怒りの矛先を外に向けさせる作戦を取る」という説明。これは間違いない。その作戦自体は間違っていると思うけどね。やりすぎてだんだん効果が薄れているみたいだし。

 でもそれだけではないだろう。もう1つの理由として、日本の「反省が伝わっていない可能性」も考えよう。もちろん、これまでに日本政府が謝ってきたのは事実。少なくとも村山首相中曽根首相細川首相小泉首相安倍首相謝罪している。

 しかし、各時代首相が謝っている傍らで、他の政治家たちによる謝罪とは反対の意に捉えられる発言が目立つ。有名な例だと、中曽根内閣時代藤尾正行文部大臣韓国併合についての「韓国側にも責任がある」発言竹下内閣時代奥野誠亮国土庁長官日中戦争についての「侵略意図は無かった」発言最近だと、「慰安婦制度必要だった」という橋本徹大阪府知事(当時)のコメントがある。

 行動も紛らわしく見える。5名の首相がおわびをしている一方で、靖国神社へ参拝している戦後首相は14名。国会議員では数百人に上る。靖国神社は、世界メディアWar Shrine戦争神社)と紹介されている。参拝される人の意図とは関係なく、世界が受ける印象は「お詫び」とは反するものになってしまう。

 今回も謝罪の意をこめた総理談話を発表した翌日に、67名の国会議員が参拝をした。安倍総理は参拝しなかったが玉串料を収めた。こういうことは英語でmixed messageという。その行動により、残念ながら「お詫び」が印象に残らない結果となる。

 その後、おおむね「謝罪した」とみられているドイツとの比較などが行われている。

 つまり日本政府や首脳は、公式声明では確かに何度も謝罪している。だが、公式声明以外の振舞いや、首脳以外の政治家言動に「本当はたいして悪いと思ってません」というホンネが感じられるため、本気で謝っていると思ってもらえないということである

 なので、どうすれば心から謝罪したと納得されるかというと、政治家(たぶん国民も)の大半の意見を「日本が悪かったです」ということで統一し、かつ大々的な声明だけでなくその他の場面でも日本が悪かったという態度を崩さず、あと政治家や元政治家靖国参拝奉納を止めるといったところだろう。

 少なくともパックン見立てではそのような感じだ。


 まあ確かに会社とか友人関係でも、いったんちゃんと頭は下げたものの、その後自分の席に戻って肩をすくめたりする姿が見られたら、本当は反省しておらずしぶしぶ形だけ謝ったのだ、という風に思われるだろうことはわかる。

 靖国は、誰がどの墓や神社に参拝しようが自由なのだがその自由なところから透けて見える気持ち反省のしてなさであるというのはなんか難しい所だ。

 結局のところ、大日本帝国とそれにまつわる物事ナチス第三帝国と同じくらいの扱いにしたら満足してもらえるはずってわけだろうが……。


このコラムへの読者の反応にパックンが返答している記事もあるのでそれも貼っておく。

アメリカ人だからか、語りきれなかったみたい

2017-01-23

[] H24憲法コメント

事実も拾えてるし、評価もきちんとできてるし、普通に上位答案だと思う。なので以下はほぼ難癖なんで、軽く聞き流してくだせぇ

◇草太いわく、平成24年から論点の数が減って、まともな問題になったらしい。平成28年にまたカオスに陥るわけだが・・・。

住民訴訟書き落としてるけど、上位答案(H氏〔142.73点、2833位〕)も書き落としてた。問題文が読みづれぇんだよ。

効果を論ずる際、「宗教に対する援助・助長・促進又は圧迫・干渉」っていちいち書くのだるいからどっちかに絞っていいと思う。

◇「単なる社会的儀礼」かどうかを論じてるんだけど、「儀礼」って言葉からすると地鎮祭とか玉串料とかに使う言葉で、助成金に使う言葉じゃないかなぁと思った。どうでもいいんだけど。

◇埋葬の方式をいちいち調べんのはだるいっしょってのは確かにその通りだなぁと思った。

墓地埋葬法については、被告の方で、C宗典礼方式に従わないことは「正当な理由」だから、これをもって拒否しても、墓地がC宗信徒のためだけのものであることを意味しない、と反論するらしい。反論として成り立ってんのかよく分からんが。

2016-12-15

http://anond.hatelabo.jp/20161215005611

ネットでちょろっと調べた程度だけど、問題は主に医療拒否お布施みたいだな。

ただ医療拒否といっても重篤な場合病院で手術を受けることを否定するとかではないみたいだな。西洋医学の薬に懐疑的な程度。

お布施借金して貢げとかいレベルではないみたい。基本が月500円で、玉串料として任意に支払う金が別にある(ただし額は他人には分からない)。年1回の大きなお祭りでは5000円ぐらい支払うことがあるとのこと(任意)。

教えは新興宗教によくある伝統宗教仏教キリスト教イスラム教神道)の寄せ集めという感じみたいだな。

まあトラブルもそんなになさそうだし、いいんじゃないか?それで救われてるなら別に問題あるまい。結婚とか子どもとかで問題が生じそうだが、その都度解決していけばいいだろ。

もしやめさせるとしたら増田自身が真光に入って勉強するしかないだろうなぁ。信仰宗教の外部から攻撃してもやめるものではないからね。

2016-01-06

神社憲法改正運動政教分離

最初に断っておくが、神社本庁日本会議が企んでいる憲法改正の「具体的内容」に関しては、私は与しない。

憲法リバイアサンである国家権力の横暴を縛り国民自由を守る最後の砦であり、憲法道徳規定するのは近代国家として恥ずべきことであると考えるからだ。

この憲法改正の是非はともかく、一方で、この運動をめぐって「政教分離違反するんじゃね?」的な、「政教分離に関する誤解」が、少なから蔓延していることに驚いた。ここでは、この論点について明らかにしたい。

そもそも、日本国憲法には「政教分離」の言葉は無いが、以下の条文がその根拠とされている。

[第二〇条]

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上権力行使してはならない。

三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

[第八九条]

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体使用、便宜若しくは維持のため、……これを支出し、又はその利用に供してはならない。

まり憲法禁止されているのは、(1)国が特定宗教団体に対して特権付与すること、(2)宗教団体政治権力(=国がも独占すべき統治権力)を行使すること、(3)国が宗教活動を行うこと、のみだ。

これまでの判例によれば、国や地方公共団体などが公費神社玉串料を納めること、市が市有地神社無償提供すること、総理大臣公費を使って公式参拝を行うこと、などが違憲に該当する。

一方で、「宗教団体政治活動を行うこと」は憲法では禁止されていない。実際、公明党-創価学会幸福実現党-幸福の科学真理党-オウム真理教など、特定宗教団体政党を結成して政治活動を行っており、これらは「政教分離」には違反しない。

しろ、「宗教団体政治活動を行うこと」を禁止した場合思想・良心の自由(第十九条)、結社言論の自由(第二十一条1項)、国政選挙における信条による差別禁止(第44条)といった規程に違反することになる。つまり、「宗教団体政治活動を行うこと」の禁止の方こそ憲法違反だ。

2015-08-16

終戦記念日靖国神社へ行った感想

父親の稼ぐ金のおかげで高級住宅街賃貸実家があるのだけど、靖国神社はすぐそばだ。

今年、京都のロクでもなくてどうしようもない大学に通わざる得なくなり、約5ヶ月ぶりに靖国神社を見たのが8月の2日くらいである。

靖国神社看板を見て驚いてしまった。

わざわざ靖国神社はとりあえず終わった70年前の戦争にたいして揉める「大東亜戦争」なんて呼称を使っていることだ。

靖国神社手水舎についている大きな看板に、「大東亜戦争 終戦七十年 今年は終戦70年の節目の年です。御本殿正式参拝致しましょう」なんて書いている。

これでは嫌う人がいても仕方ないのではないか?

ついでに正式参拝するには玉串料2000円が取られる。

なんだかんだ結局「金」なんだということがよくわかり英霊高潔さやらなんやらなんかないんだろうなと思うのだ。

終戦記念日靖国神社は凄まじいものだった。

ロクでもないことを叫ぶ連中ばかりで、日の丸やら、旭日旗やら、満州国の旗を持った奴がうろうろしている。

そんな中で僕が色々と感じたのは終戦記念日靖国神社定番軍服コスをしたおじさんたちを見た時だった。

このおじさんたちのコスプレなんかより、ビッグサイト容姿のいい女の子コスプレの方がずっと価値があるということに気づいてしまった。

たぶん、このおじさんが倒れるよりも容姿のいい女の子が倒れた方が助けようとしてくれる人が多い。

そう、いくらおじさんたちが高いくらいの軍服に身を包んでも、結局容姿がいい女の子トップクラス階級に属するということだ。

容姿のいい女の子は何もしないのに高い地位だ。下手したら今上天皇よりもえらいかもしれない。

性的魅力=世の中での価値という階級軍服コスしたあのおじさんと僕は最底辺だ。

ネトウヨ靖国神社で「日本がー」と叫んでいるおじさんより容姿のいい女の子に最終的にはべったりするに決まってる。

セックスしたいだろうし。

戦場兵士が救いたいと思うのも僕なんかよりも美しい女の子だろう。

高校の中でもっと動物的だった つまり兵士に近い野球部の奴らは、容姿の醜い僕やコイズミくんをあからさまにゴミ扱いしたけど慶応大学にいった美しい容姿ハルカちゃんやマナちゃんをとても大切に扱った。

野球部の奴に高三の春に言われた「お前、肌とても汚いな」は自分価値がとてもよくわかる言葉だ。野球部じゃない奴もそう思っていただろうし、責めたくなるが事実だし仕方ない。

言った奴は早稲田大学に行った。

靖国神社のなかで唯一かわいそうだと思ったのは、親に連れられた小さい可愛い顔した女の子だけだった。

それも、だんだん可愛い顔していることを妬ましくなるのだけど。

男は男が嫌いだ。女は男を選べる。男は誰にも好かれない。特にきもい容姿の男は。

結局、とにかく容姿がいい女が最上級で、自分ゴミだということがよくわかった靖国神社だった。

今ごろ、カナちゃんやハルカちゃんはセックスしているのだろう。靖国神社がどうのとか一切考えず幸せに。

2009-08-15

http://anond.hatelabo.jp/20090815180812

靖国懇とか愛媛玉串料判決も触れて欲しかったなぁ。

特に後者は、最高裁が珍しく目的効果基準を厳格に適用した判例だし。

 
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