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2023-12-02

anond:20231202212150

程よい高さに腰掛け作業できる場所が多かったからでは。

土間や、縁側や、掘りごたつみたいに、建物自体椅子のような機能があちこちにあったせい。

2023-03-12

3月11日、曾祖母が亡くなったらしい

102歳。大往生だよね。

母方の実家福島浜通り、ということで2011年に曾祖母はがっつり被災している。それ以来「様子がずっとおかしかった」と聞いている。心のね。

そりゃそうだろうって感じ。なんせそっちのほうの親類は流されて、未だに見つかってない人も、沢山居たらしいから。

私は顔も名前も知らないけど、それで亡くなった血の繋がった人はわりといたらしい。

最後に曾祖母に会ったの、私が小学生とき。もう何十年も会ってなかった。会ったところで私と分からいかもしれないが、携帯も持たず施設にいて大叔母にあたる人が世話をしてたので結婚した報告もしてなかった。

両親に「お前は若いし忙しいんだから参列も香典もいらないからね」と言われたので、通夜最後の対面の時に、私の代わりに謝っておいてくれとだけ伝えておいた。

古い考え方の人ではあったので、嫁入りしてきた祖母や、叔父らのお嫁さんたちとは折り合いがよくなかったことは知っている。鎌で蛇の頭狙い撃ちにしたり、素手イタチとっ捕まえたり、豪快で偏屈な人ではあったけど、私には優しかったし、優しかったという年頃の記憶で止まっている。

10歳未満の子供なんて役に立たなかっただろうに、田んぼや畑に一緒に行って手伝いをして、大した仕事もできないのに、偉いねえって褒めてくれた。

かにも従兄弟がいるけれど、曾祖母とそうして過ごしたのは一番年長の私だけ。

軟膏や樟脳、線香のにおいがする曾祖母だった。腰が曲がってて、骨と皮みたいな手で、爪が丸くて。目と爪は、曾祖母と、母と、私は同じ形だなとか。

そんなことだけはよく覚えている。


この10年しんどそうだった、と今になって教えられたので3.11だし誰かに連れていかれたのかもしれないな、楽になったのであれば良かったんじゃないか、なんて思っている。

母方の実家の墓、車でないと行けないようなとんでもない山の中にある。数える程しか墓石がなく、戦没者墓地のほうが大きいような、山の斜面にあるような場所

そこに曽祖父も、祖父もいる。ゆくゆくは祖母もそこにいくんだろう。もう後継ぎのいないあの家の墓に入る人は以降いない。

宿題漫画雑誌を持ち込んで夏休みを過ごした、あの日本家はいずれ取り壊すらしい。そこに曾祖母はいないし、あの畑もない。仏壇もない。夜中に鳴り出す柱時計も、ネジを巻く人がもういない。掘りごたつに炭を入れることもないし、縁側の雨戸も腐り落ちていくんだろう。

もう一度くらい、顔を見せておけばよかったな。そしたらそういう思い出に上書きしてボケたなぁ、嫌な人になったなぁとか、可哀想だなぁと思ったかもしれない。そしたらこんなに寂しくなかったかもしれないし、こういう後悔もしなかったと思う。今日明日、曾祖母葬式らしいので、もう少しだけ、曾祖母の顔を思い浮かべて過ごしてみようかと思う。

2023-02-22

anond:20230222035601

フローリングに小上がりつくれる畳ボックス掘りごたつするとええで 夏は真ん中埋めればエアコンの下でごろ寝できるし高さの分だけ収納にもなる

https://item.rakuten.co.jp/hanatech/sd-5336410-s1/

たとえばこんなんある

2021-06-04

anond:20210604205009

えー、まことに心苦しいのですが、それは

加齢です。。。

(ワイも冬はマジで掘りごたつが欲しいお年頃、キッチンカウンターに折りたたみイスで食事しとるやで)

2020-11-20

anond:20201119234440

オレんちと同じくらい田舎やったんねw

ウチでは、昭和の末期ごろに家を建替えるまでは、掘りごたつが現役だったね。四辺に足を乗せる板があるけど、中央部はそのまま炭火を置く構造から、ヘタに足を突っ込むとテキメンに火傷するw

かまども(平常時は主にプロパンガスだったが)盆正月などに大量の料理するとか、味噌仕込むのに大豆を煮るとかのときは現役だった。

裏山に炭焼き窯があって、自前で木炭も作ってたし、風呂を沸かすのも薪で火を焚いてた。

農道は、そのころ絶賛建設途上で、クルマで行けない山の上から農作物とか木材とかをふもとに運ぶのは、架線(かせん)と呼ばれるケーブルカー的なものだったが、昭和50年代後半にはほぼ使われなくなったな。

2020-11-19

昭和50年頃の日本田舎風景

思いついた順。順番に意味は無い。

 

田舎道路舗装されて無いのがあたりまえだった。ごく一部が舗装されていたが、舗装コンクリートだった。アスファルト舗装はまだほとんど無かった。

・川にかかる橋はまだ木と土でできていた。わずか数年のうちに、全部コンクリート造りに作り変えられた。その時の橋がまだ現役。

石炭がまだ日常的に使われていた。学校の隅の方には石炭を積み上げておく小屋があって、冬は当番の子供がその日のストーブで燃やす石炭小屋から教室に運んでいた。炭の燃えカス掃除先生がやってくれていた気がする。石炭ストーブ石油ストーブに置き換わると、石炭小屋は鶏小屋改装されて、学校ニワトリを飼っていた。

火鉢や七輪がまだ現役だった。火鉢の中では炭を燃やして暖をとっていた。

掘りごたつの底は格子状になっていて、その下で炭か何か燃やして暖を取る構造だったが、それは当時すでに廃れていた。電熱線を使った電気ごたつが安くて便利なので、かなりはやくから普及していた気がする。

・家にかまどがあった。物ごころついた時にはもう使われなくなっていてプロパンガスだった。お年寄りの家ではまだ現役でかまどが使われていた。

洗濯ものは川や湧水のあるところでやっていた。湧水は出口すぐが飲用水の採取場所、数m下ると食器食べ物を洗う場所、そこからさらに数m下るとそれ以外を洗うもの、と順番が決まっていて、いつもだれか数人の主婦が何か家事をやっていた。水道が普及するといつしか誰も使わなくなり、掃除されなくなり、廃れた。

・秋には落ち葉のたき火で焼き芋を焼いて食べるのが定番おやつだった。

農業に使うかごなどが、まだ藁で作られていた。この伝統は数年後にはすっかり無くなってしまった。

・村の加治屋さんがいて、農機具の修理などをやっていた。

軽トラックが普及しはじめていたが、農道がまだほとんど整備されていなかった。車が通れない歩行者用の山道を、天秤棒をつかって前後に思い荷物をぶらさげて運ぶという仕事がまだあった。

コンクリートブロックを使って塀を作るのが流行り、みんなで競うように塀を作っていた時期があった。へー。

・車はどの車も数年でサビサビになった。今のような耐久性のある焼付塗装がまだ開発されておらず、車検のたびに車の塗装をやりなおしていた。車検とはある意味、車の塗装をやりなおすイベントだった。

カラーTV田舎にも普及しはじめた頃。

・街へ行くたびに、あちこちボコボコビルが建ち始めていた時代1970年より前に建築されたコンクリート作りのビルというのはかなり珍しいが、1970年代にはめちゃめちゃ大量のコンクリート造りのビル建設されて、日本の街の風景が一変した。

・いまはシャッター街となっている田舎商店街に、もっとも活気があった時代

軍隊帰りの教師が現役でいた。ゼロ戦特攻隊の訓練生だったとか、広島原爆が投下された後の遺体を積み上げて燃やす作業をやったという教師リアルに居た。多くの大人たちが原爆キノコ雲の目撃者だった。

・家を建てる時、壁は土壁だった。そのへんの土に藁を混ぜて建材として使っていた。土壁の中の芯は細い竹を格子に編んだものだった。

貯金金利がめちゃめちゃ高かった。しかし実際には金利以上にインフレになったので、真面目に貯金した人はむしろ損をした。

・缶ジュースは当時から1本100円だった。子供には高級な飲み物だった。

・お豆腐屋さんに毎日豆腐を買いに行っていた。田舎でも数100mも歩けば、一軒は豆腐を豆から作っている豆腐屋さんがあった。

主婦が買い物に行くときは、細い竹を編んだような、かわいらしい買い物かごを持って買い物に行っていた。レジ袋などというものはまだ無かった。せいぜい紙袋

生ゴミはかまどで燃やして処分していた。灰は肥料として活用された。街のゴミ収集車は、不燃ごみの回収が主だった。

冠婚葬祭は、5人組といわれる隣近所のグループで協力しあって、自宅で行うのが当たり前だった。

・どこの家にも子供がいた。夜は外出を厳しく制限された。今思えば、どこの家庭も夜になると夫婦セックスして楽しむのが当たり前だったんだろう。

  

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そのほか、あとで思い出したこと追記

子ども神社やお寺の境内に集まってよく遊んでいた。缶けりとかが定番だった。

・そんなド田舎にもエロ本はあった。子どもたちが拾い集めたエロ本の隠し場所神社の床下だった。

・雨の日はよくトランプしていた気がする。

レゴブロックは既にあった。当時から定番おもちゃだった。

こたつテーブルの板をひっくりかえすと麻雀用の緑のフェルトが貼ってあった。

蛍光灯が爆発的に普及したのがこの頃だった。電球よりずっと明るいので最初はみんな驚いた。

 (しかし、統計を見ると子どもが減り始めたのもこの頃。電球の方がエロい気分になりやすかったというメリットはあったのかもしれない)

バスには運転手のほかに切符を売ったり、バックする時に誘導したりする車掌がもう1人乗っていた。それがワンマンになったのも昭和50年

宅配便はまだ無かった。国鉄の駅から小包を発送していた。

国鉄荷物を送るときは、包み方にめんどくさい規定があって、紐で縛ったり指定タグをつけたりしなくてはならなかった。

昭和50年代に複数宅配便会社競争で一気に普及して、国鉄荷物を送ることは全くなくなった。

女子体操服はブルマだった。バレー部が人気だった。部活マラソン大会では女子が校外を体操服(下はブルマ)で走っていた。

ダンボールは既に普及していた。ダンボールが普及する前は農作物は木の箱に入れて出荷していたらしい。使われなくなった木の箱がよく他の事に転用されていた。

・そんなド田舎でも新聞牛乳は毎朝届いていた。牛乳はビンに入っていた。

学校の校舎は当然木造体育館木造。今思うと、体育館のような大きな建物木造っていうのは当時としてはなかなか凄い事だったんじゃないかという気がする。

バイクといえばスーパーカブのことだった。それ以外のバイクは見たことが無いレベルだった。

・車と言えば軽トラだった。それ以外の車も見かけたが、変わり者扱いされるレベルだった。

・仕出し弁当とかは薄い木で作った箱に入っていた。プラスチック発泡スチロール製のトレ―が普及したのも昭和50年

幹線道路なのに1車線のところがあり、ときどき渋滞にっちもさっちもいかなくなって警察を呼ぶことがあった。

リヤカーを引いて魚を売りに来るおじさんがいた。スーパーカブに山ほど靴を積み上げて靴を売りにくるおじさんもいた。富山の薬売りもいた。

2020-11-05

僕の中ではタイツといえば短いスカート履いてるJKが着用してる黒タイツとか

OLのお姉さんが居酒屋合コンとき掘りごたつの中で足を伸ばしてタイツ足コキしてくるところしか

思い浮かばないのでタイツ性的もの以外の何物でもないんだ

2020-09-16

1つ下の新入社員に何から何までフォローされ続けた話

私の勤務先では四半期毎に社内報が作られており、今日私の手許にも社内報2020年夏号が届いた

そこには「2019年度優秀社員表彰」という記事掲載されており、1年だけ同じ部署で勤務した彼が表彰状を手にしていた

私は入社してからかなり仕事の覚えが悪い駄目社員として周囲から認識されていた

どの部署でも入社1~2年目は駆け出しなので、仕事があまり出来ないのは仕方がない ただ、私は若手社員に求められる社内行事飲み会段取りも大の苦手としていた

部内での飲み会の出欠確認・店の手配・支払などとにかく私は何から何まで手際が悪かった

部署からは店についてああしろこうしろと色々な要望が出ていたが、どうせ対応は出来ないので全て無視 出欠確認もいつも漏れがあり、狭い席に無理やり座ってもらったこともあった

増田ー、食べ物いからすぐに頼んでよ」「わかりました、すいませんほっけを人数分下さい」「なんでほっけを人数分頼むんだよ(呆れ)、店員さん2つでいいです」

というようなやり取りはほぼ毎回繰り広げられていた

そして、私が2年目を迎えた4月、我が部署新入社員の戸折君が配属されてきた

戸折君は仕事の覚えも早く、雑用完璧に熟した そして私が苦手としていた店の手配ではパーフェクトな対応を見せた

これまで私が無視していた「別料金払うから良い日本酒呑ませて」「腰が痛いから座敷じゃなくて掘りごたつで」「男性陣の足が臭いから靴を脱がない椅子のところがいい」

などといった各部員の要望を全て充たし、かつ予算もお手頃な店を次から次へと発掘してくるのである

増田ときは毎回同じ店だったけど戸折君はいい店見つけるセンスあるね」など女性陣が本当に喜んでいたのをよく覚えている

事件が起きたのはその年の忘年会のあとだった

忘年会の手筈も全て戸折君に任せ無事終了 二次会も終わり、最後に私と戸折君の二人で呑んでいるとき、「僕は増田さんのことが好きなんですよ」と急に告白された

「好きというのは社会人として?」「いえ、一個人としてです」

まりの予想外の展開に私は雷に打たれたように思い切り固まってしまった

「そうですよね、増田さんはこっち側の人じゃないですもんね 分かってましたけど」

そのようなことがあり、年明け出社時はとても気まずかったのだが、戸折君はこれまでと何も変わらない態度で仕事をしていた

その後少しして、時期外れの異動で戸折君は他の支社へ移っていった 新入社員最初部署に4~5年在籍するのが通常なので極めて異例の異動であった

これは私の想像であるが、カミングアウトしたあとで同じ部署で働くのは嫌だろうと戸折君が私に配慮し、上司なり人事なりへ掛け合った結果なのだろうと思う

部署内でも異動時には「なんでこのタイミングで」という話になったが、理由誰も知らないようなので弊社なりにLGBTへの最低限の配慮が出来ているということだろうか

戸折君が居なくなったあと、私はまた部内で一番の下っ端へと戻ったわけだが、飲み会の店の手配は戸折君が残してくれたマニュアルを元にまともに熟せるようになった

元々私の部内での評価はかなり低く若手の中では最低レベルに近かったが、色々な雑務が出来るようになり仕事もどうにかこなせるようになったことで評価も中の下くらいまで上がった

本来こちらが指導すべき新入社員フォローされっ放しというのは情けなかったが、彼のおかげでそれなりに仕事が出来るようになったのも事実

私は社内報掲載された彼の社員を見ながら改めてこう思った 「ゲイに身を助けられたということか…」

2019-09-18

キャンプの炭起こし用品を物色していたら、子供の頃の冬の民宿記憶唐突に思い出された。

民宿の広間は父と父の友人たちが酒盛りし、僕は障子で仕切られた隣の部屋に一人でいる。

騒がしい酒盛りの部屋は板の間だか、この薄暗い部屋は畳で20畳はある。

コツコツと鳴る時計と、タンスの上のモンチッチ人形

鴨居には故人の写真が並ぶ。

真ん中の掘りごたつには練炭が入っていて温かい

僕は寂しくなり、酒盛りの部屋からジャンプを持ってくる。

そこにはDrスランプが連載されている。

2019-01-13

鼻緒を直した話

ということで俺は既に高校の時はそれなりの足フェチになってしまっていたのだ。

文系人間だったか国語古典か好きで、小説評論とか読んでいるうちに、江戸時代かに女性の鼻緒を古のイケメンが直すって言う展開があることを知った。

古典先生なんかもその話をしていた。

はいつも、それは足フェチ絶好のシチュエーションだし、でも女性を助けてもいるわけで、なんというかアウフヘーベンしているなと感じていた。

江戸時代浮世絵なんか見てると、結構美女下駄に素足で、足フェチの大先輩たちもこれを見て大いに感激していたのではないか勝手想像していた。

クラスの好きな女の子が、お祭りの時に鼻緒が切れてしまい、自分がそれを直して上手い具合に足の甲にキスする夢を見てから、それを想像するだけでオナニーができた。

ネットは既に人口膾炙していたから、何の気なしに鼻緒の直し方をネットで調べていた。

とくに5円玉を使うやつは、自分でもできそう、と感じて、シチュエーション相手女の子(の足)を想像してドキドキしていた。


ほいで、今日はそれが実際に起こった話なんだけど。

ある日の神社の夏のお祭りの時、クラスKさんの鼻緒が切れているのを見かけた。

俺は祭りに一人で来ていて、友達の集合に遅れてしまっていた。部活動があったんだ。

俺が来たころには田島の家に行ってスマブラしていたようで、俺は置いてけぼりになっていた。

田島の家に行こうとしたところ、クラスで一緒のKさんが灯篭的なところに佇立していた。

俺は素足の入れ食い状態だったので足下ばかりみていたのが幸いした。


Kさんと気付いてすぐに、彼女の鼻緒が切れていることに気が付いた。

「おつ、鼻緒切れた?」

「あー、うん」


Kさんクラスでも目立たないグループにいて書道部の長身女性で、自身もそんなに目立つタイプではない。

人の美醜にあれこれ言うつもりはないけど、クラスの派手なグループに属している女の子ではなかった。

同じクラスだけどほとんど話したことがない。

友達と合流しようとしたら鼻緒が切れてしまったらしい。


「直す?」

「直せるの?」

ネットで見た」


彼女は笑って「じゃあやって」と言いながら足を差し出す。

俺は薄手のハンカチを持っていた(なんでかは聴くいね)。跪く。

5円玉を財布に探すも、ない。Kさんに聴いて、Kさんからもらう形になる。

にわか理想シチュエーションを迎え、いつの間にか俺の心臓は張り詰める。

ややおくれて、ちょっとあれだがあれも張り詰める(仕方ないじゃん高校生なんだから!)。

Kさんの足、大きくて形がきれいで指も長いし形がきれいだし、爪が大きくて奇麗でかっこよくて、また白い肌のきめの細かさや僅かに触れる肌の質感も印象的で忘れられない。

足を通して調整するときの足の蠢きにエロスを思わず感じてしまう。

薄い色のフットネイルにようやく暗がりの中で気が付く。

ちょっと苦心したけど、完成する。

やや緩かったようだけれど歩けそうだとのこと。

少し歩いて、ほどけてしまう。

「ありゃ?」とか言いながらもう一度結び直す。

Kさんも、このやり方でできそうなことを察知して、もう一度足を差し出す。

ちょっときつく縛りなおして、今度こそ完成。


俺はここでミスって、思わずKさん、足きれい……!」とこぼしてしまった。

Kさんは鼻で笑うような感じでちょっと拒絶の色を見せつつも「もー、何言ってんの」と優しく答えてくれた。


「ありがとー」

「いえいえ」

「どっか行く予定だった?」

田島の家」

「あーごめんね」

「いいのいいの」

「じゃあまたね」


そのあとKさんとは特に何もなく、俺は別に人生初めての彼女ができてすぐ別れたりした。

確かKさんはその学年のバレンタインの時にクッキーをくれた。


この前の正月33歳になった我が学年の同窓会で、Kさんと向かい合わせになった。

面長はそのままに、ちょっと大人らしく美しく丸みを帯びた面貌。

お化粧も髪型もすっかり30歳の装いだった。

図書館司書をしているらしく、会計年度任用職員の話で盛り上がった。

嘱託職員は大変だが、図書館司書はご存じの通り非正規雇用が大変多くなっている。

話す際の手ぶりや料理を食べお酒を飲む仕草、いつの間にか大人びた挙措を備えており、自分(達)の至った年齢を改めて感ずる。

鼻緒の話になる。

彼女ちょっと酔った調子で「あのころが懐かしいねえ」と言いながら、掘りごたつの下で、かつて鼻緒を結んだ右足で私の足の甲を優しくペタペタ踏んできた。

黒のタイツ感触、……うん!

ああこうして足フェチの旅は続いて行くんだ……と俺は決意を新たにして、故郷を後にした。

2018-04-26

anond:20180426001420

そういうときは、お店おまかせのコースにしないで、注文するタイプのところにするか

食べ放題にするか。

あと、話がずれるけどデブが多いと座敷がダメなので椅子席か掘りごたつにするように幹事はいわれてる。

2018-03-04

anond:20180301172949

おれ足フェチなんだけど、この前掘りごたつ式の飲食店彼女が足でぺたぺたみんなの見えないところにおいて私の足を踏んで来たんだけど、これ、めちゃ、勃起してしまいましてね。そういうところにですね。あるんですよ。無条件の幸せとやらはね。

2016-05-01

岡山個室居酒屋 柚柚~yuyu~ 岡山駅前店はとんでもない店です

ぐるなび検索して「岡山個室居酒屋 柚柚~yuyu~ 岡山駅前店」を利用しました。クーポン利用で5000円が3500円で飲み放題です。

部屋は掘りごたつ形式で個室です。テーブルの隅には洗ってない吸殻を捨てただけの汚い灰皿が重ねて置いてありました。これだけであまり掃除が行き届いてない印象です。

食事の中身ですが、こんにゃくに魚を乗せたものとタコに魚を乗せたものカルパッチョ風のソースをかけたもの一つずつ、レタス大根にんじんの千切りサラダ、やき鳥一串、コロッケ半分、イカリング1個、鳥の空揚げ2個、たこ焼き2個、冷たいスパゲッテイ、デザートにロッテモナ王アイス最中を半分に切ったもの

特にサラダ以降はすべて冷凍物を揚げたかチンしたものです。

宴会コースコロッケ半分とイカリングで2品です。お酒は熱燗を頼んだらレンジでチンしたお銚子が少しだけ熱燗風でお酒全然熱くなっていなく冷や酒状態

ビール以外のお酒は全くダメでした。

安くてもこんなお店は今後絶対利用しません。

2016-03-13

大手家電メーカーは、もうコタツ作ってないのね

炬燵のヒーター部分が壊れた。メーカー保証はとっくの昔に切れてる年数。

なのでヒーター部分だけ交換しようと思ったが、その前にコタツ丸ごと新品だと値段どのくらいなんだろ?

と試しに調べてみたら

http://kakaku.com/kaden/kotatsu/

並んでるのは「YAMAZEN」とか「コイズミ」とか「東谷」とか馴染みのないメーカーばかり。

大手家電メーカーは揃ってコタツから撤退してたのね。知らんかった。

厳密に言えばパナソニック住宅設備扱いの掘りごたつは作ってるけど。

因みにウチのコタツナショナル

石油ファンヒーターから大手家電メーカーが一斉に撤退したのは、ナショナルFFストーブでの死亡事故を受け

購入顧客を把握できない、定期点検義務付けられてない、なのに永久安全保証しろ、ではやってられん

でそうなったのは知ってたけど、コタツ業界もこんなことになってたとは。

まあ考えてみれば日本しか売れないガラパゴス商品だし(イランには「コルシ(Korsi)」と呼ばれる同様な暖房器具

あるそうだが←wikipediaで知った)、電化製品としての機能はこれ以上あまり発展なさそうで差異化が難しいし

いざヒーター部分が壊れたにしても、ヒーター部分の交換だけで済ませちゃって買い替え需要もあまり望めないから

撤退も宜なるかなって感じだわ。

ヒーター部分を探す。こちらもなかなか寡占化が進んでる。「こたつユニット」と呼ぶのか。

http://www.amazon.co.jp/b/ref=amb_link_69775869_35?ie=UTF8&node=85240051&pf_rd_i=3895761=289254069

山善 (YAMAZEN) はメトロ電気工業からOEMらしい。

すぐ使いたいと家人から要望があったので家電量販店にてメトロ電気工業の品を購入。

こたつユニットの取り付けネジの位置コタツの机部分のネジの位置が異なるのでボルトオンとはいかず。

市販金属ステーを介して取り付け。

昔は取り付けネジの位置をあえて各社変えることで交換用こたつユニットサードパーティ排除してたのか知らんが

こたつ及び補給部品供給から撤退するなら、残存メーカーボルトオン取り付けできる製品生産を依頼するとか

変換キット用意するとかしてほしいと思った。

2015-06-29

今日青二才くん

2014-07-02

俺の思い出話と、ある宗教を嫌いな話

六月の途中くらいから書き出して、七月になってしまった。

ただの好き嫌いの話で、長い思い出話。

思い出話で恥ずかしいから特定されないように細かいことをごまかして書いた。

長えよ、と言われる前にまとめると

「ただの長い思い出話で、宗教が原因で好きな景色が無くなったから、俺はこの宗教が嫌い。」

というだけの話だ。具体的な宗教名は書かない。

六月になると亡くなった祖父を思い出す。祖父が亡くなったのはずっと前の年の瀬来年は会えないかもと入院中に見舞ったのが最後になる。

田舎に住んでいた。両親は同じ地域出会い結婚したので、母方の実家チャリンコ必死に行けばたどり着く距離だった。車では20分くらいか。

思い出す祖父というのは母方の祖父。母はパートがあったので、小さい頃は週の半分以上、学校から帰ると姉と一緒に預けられていた。

その頃は祖父との思い出はあまりない。働き者だったので、俺と姉が預けられるとすれ違いで仕事に行ってしまう。あとから聞けば介護施設ボランティアみたいなことをしていたらしい。祖父が出勤前、早めの夕食をとる食卓で、俺と姉が一緒に座って、その日の出来事を喋ったりしていた。たまに仕事のない日には、ご機嫌、というかんじでビールを飲んでいた。この家は小さな商店だったので、好きなジュースを選んで良いぞと言われて、俺たちは普段の食事時には飲めないジュースを喜んで飲んでいた。

もちろん遊んでくれた記憶もある。夏休みクラスでただ一人乗れていなかった自転車の特訓に付き合ってくれた。川で泳いだりとか。姉ちゃんと喧嘩して両成敗でゲンコツとか。

母方の実家、小さな商店をやっている、ややこしいのでA家としよう。

A家に頻繁に預けられたのは小学生の頃で、中学高校と成長するとそういうのは無くなった。

頻繁に預けられたA家は、よくある、たまに帰省するじいちゃんばあちゃんち、になっていった。

祖父はある病気になった。不調を誤魔化しごまかし過ごしていたのが、発覚したというか。A家の家の中は帰省するたび介護向けに変わっていった。母の兄弟、俺の叔父趣味日曜大工だったので、楽しい変化だと思ってた。(おっちゃんスゲー!階段つけ直したの?!みたいなかんじだった)

手すりが付く。急な階段は段数が増える。トイレ洋式になる。手すりが増える。掘りごたつからテーブルになる。布団がベッドになる。自動で昇降するベッドに変わる。喋れなくなったのでナースコールボタンが付けられる。指先で押せなくなったから顔の横にボタン

じいちゃんはどんどん悪くなる。ばあちゃんのやっている介護は、自宅介護でそんなことするんだ、というくらいプロみたいな作業までこなしていく。詳細は省くけど、いま思い返すとあんなことを無給で、かつ無休でやっていたのは驚く。もちろん医者ヘルパーさんが来てはいたけれど。

中学の後半くらいから、俺はデジカメを触るようになって、ホームページを作って風景や花の写真を載せていた。季節ごとにA家に顔を見せる程度の帰省をしていたので、A家の裏の田んぼだとか、家の軒先にあるバラだとか、そういう写真を撮った。本当にきれいだった。通り雨のあとの、雫が付いた葉っぱとか。俺には写真の才能があるんじゃねーのかと、進路相談の時、ニヤニヤを隠しながら担任に見せたら、景色やバラを褒めるので、あ、俺じゃなくて被写体がよく出来てるんだな、と気付けた。(担任も良い趣味だね、とだけ言う程度のレベル

それでも見せれば褒めてくれる祖母にプリントアウトして渡した。次に帰省すると写真立てに入れてあって、寝たきりの祖父が見るテレビ台の横に飾られていた。

正直に言うと、帰省してもすることが何もない田舎の家で、あんなに元気だった祖父が寝たきりの様子を見ていたくなかったから、理由をつけて外を散策するために写真撮影趣味だとしたんだった。そんな写真を、飾っている。申し訳なく思った。

大学に進学して実家を出た。一年に一度か二度、実家帰省するついでにA家にも顔を出す。時々A家ではなく病院だった。

大学二年の頃だったか帰省するとバラがなくなっていた。A家は小さな商店かつ小さな農家でもあったが、家の裏手、裏庭のようなスペースはすっきりとなにも無いような、更地というほどじゃないけど、なにも、なかった。

母に尋ねると、手入れがねぇ、みたいな答えで濁す。そりゃあ、あんなに大変な介護だ。仕方ない。でもどうしても寂しい。友達が知らぬ間に引っ越していた、という感覚が近いかもしれない。A家の周りががらんとして、入院しているため家の中もがらんとしていた。窓の外から見える裏庭みたいな農地の緑がない。小さなぶどう園は支えの柵だけになっていた。姉は俺よりは多く帰省していて、草花を刈った話は聞いていたらしいが、目の当たりにしたのは初めてらしく、ショックを受けていた。というかちょっと泣いていた。俺よりずっと思い入れがあったらしい。その時まで知らなかったが、初孫である姉が生まれた年に植えた木があって、その木までも全部なくなっていたのだ。

それから数年も経たないうちに、祖父が亡くなった。小学生の時、きげんよく晩酌していた祖父に○○ちゃんが大きくなったらこれを飲もうなと言われた。俺は本当に未成年のうちに酒を飲んだりしなかった。でも成人したところで、祖父は寝たきりだったし、普通食べ物すら食べられない状態だった。

葬式が終わって、A家から実家へ帰った。親戚が父と俺と姉を車で送ってくれた。母はA家に留まった。父は禁煙していた煙草を吸いながら、運転手をしてくれた親戚のおばちゃんとコーヒーを飲みながらぽつりぽつり喋っている。姉はその輪の脇で黙って座っている。俺はすぐにでもスーツを脱ぎたかったが、とりあえずその部屋からは出ないでおいた。葬儀のあとの食事?宴会?で、これでもかと酒を飲んだので、半分寝ながら部屋の隅にいた。従兄弟下戸で、その分まで飲んでたからほんとフラフラになりつつも、みんなまだ着替えないから着替えちゃ駄目とかそういう決まりがあんのかなと寝そうになりながら携帯をいじる。

変な葬式だねとか、やっぱり○○だねとか、そういう話から、姉も会話に加わる。

挨拶してたのは導師さまとかいう奴」

「たぶんね、そういう仕組みはよく知らない」

「○○の木を切れって言ったのあいつなんだ」

なにそれ。俺は隅っこで携帯をいじってたけど、思わず声になった。

祖父が寝たきりになってから数年して、仏壇雰囲気が変わった。その頃俺は中学とか高校くらいのガキなんでよく分かってなかった。いまでも詳しくは知りたくない。

有名な、ある宗教だ。この長い思い出ばなしはこの宗教が嫌いだと言うだけの長話だ。たんに俺の好悪の話なので、具体的な名称は伏せる。

経緯は分からないし知りたくないが、浄土真宗だとかのいわゆるよくある宗教から、その宗教に変わったそうだ。祖父が寝たきりになったところにつけ込んだような気がしてしまう。

祖父が患ったのは国の指定を受けるような難病で、そんな夫と共に生きるためには、新たな宗教必要なのかもしれない。それは仕方ない。祖母が生きるためには必要だったはずだ。

その宗教の、導師さまとかい地位の人が、A家に来てくださって、アドバイスをくださったらしい。

伝聞の伝聞くらいのことしか俺は知らないため正確にはどう言ったかからないが、そいつは、A家にある緑が祖父の生命力を奪っていると言った。

から草花を切りなさいとまで言ったかは知らない。じゃあ切らなきゃねと祖母が感じただけかもしれないが、そいつはそんなことを言って、次にA家へ来たのはじいちゃんの葬式の時だけ。

だって風水で西に金色のものを置くと金運アップと聞いたらなんとなく西に金色を置きたくなるし、ラッキーカラーは青ですなんて言われたらメモを取る時のペンを青にしようかななんて思う。ただ俺の機嫌がよくなるだけだ。その程度でいい。

祖父は、ALSだ。筋萎縮性側索硬化症根本を治すような、有効治療確立されていない。指定難病だ。

導師さま曰く、祖父の健康を吸い取っているのは、ぶどうの木や、小さな露地栽培野菜、姉の生まれ年に植えられた木、雨露がかかると一層美しいバラたちだそうだ。

腹が立つというより、呆然、というかんじだった。

A家周辺の景色や、草花の写真がきれいに撮れたから、嬉しかった。ばあちゃんも褒めてくれた。寝たきりのじいちゃんが見るテレビ台の所に飾ってくれた。姉ちゃんが泣いたくらい思い入れのある木。いろいろある。いろいろあった。

祖父が亡くなって一人になった祖母は、田舎の狭いコミュニティの中で孤立したりしなかった。宗教のおかげだ。会合に参加したり、そこのひとたちとバスツアー旅行に行ったり。それだけは、よかったと思う。

それでもあの宗教は、嫌いだ。祖母も草花を刈ることで病気になにか影響すると真に思っていたのではないと思う。俺の撮った写真だけでなくほかの人が撮ってくれたバラの写真も残していたし。本当に病状に関わっていると信じていたら、写真すら残さないと思う。

祖母も亡くなり、何年も前から、このA家にまつわる話をぼんやりと思い返しては、増田にでも書こうかなあと考えていたが書き切れたことはなかった。

五月や六月の、バラがきれいな時期になるとどうしても書いておきたくなった。

あんなにきれいな景色が寝たきりの祖父の生命力で育っていたらロマンチックだ。ファンタジーだ。ふざけんなあり得るか。

先日、姉が結婚した。なにか特別に贈ろうと写真データを見返していたら、姉と同い年のあの木が写った、緑豊かな写真があった。あげたらすんげー喜んで泣くから俺も泣いちゃったよ。

じいちゃんもばあちゃんも大好きだ。病気はどうしようもないし、ばあちゃんの選択は過ちではない。必要だった。生きる上で、大切な指標で、手段なのだろう。

それでも、その選択肢を救済のように与えたあの宗教が、嫌いだ。

俺の好きな景色や思い出を、踏みにじられた。そう思ってしまうから、あの宗教は、どうしても嫌いだ。

2013-07-01

今日の朝方見た夢は変な夢だった。

8人くらいの若い男の人が一つずつ掘りごたつ式の机に座っていた。それは神様らしい。

服装は宮司みたいな格好だったけど烏帽子はかぶっていなかった。

それで歌がはっきりと聞こえた。「こうじん様のいうことにゃ♪」荒神だろうか?

節は大黒舞の「だいこくさまというひとは♪」と同じである小沢昭一放浪芸のCDで聞いた。

妙に印象に残る夢だった。

2010-10-23

25歳になって感じる体の衰え

この前25歳になったばかりだけど、最近ひしひしと体の衰え、

というか老いを感じるようになってきた。

最近自分が感じている体の衰えをまとめてみたいと思う。

あ、先に言っておきますが当方男です。

抜け毛の増加と生え際の後退

一番感じるのがコレ。

もう毎日抜け毛がひどい。手櫛で軽く髪をといただけで

手に2~3本の抜け毛が絡みつく。毎朝枕には10本近くの

抜け毛が散乱している。髪のボリュームが明らかに

減ってきているのがわかる。生え際はどんどん後退してきて

そろそろヘアスタイルで隠すのが限界になってきている。

悲しいことに、毎日鏡を見てため息を付くのが日課だ。

食欲の不振

学生時代に比べて明らかに食欲が減った。

牛丼屋の並盛が完食できなくなっていることに少しショック。

また、夜にちょっと重いものを食べると、

胃のムカつきが翌日の朝まで続くようになった。

揚げ物はここしばらく食べてない。というか匂いを嗅ぐだけで

胸やけがするので食べられなくなった。

昔はエビフライとか大好物だったのになぁ。

足の臭いの悪化

笑われるかもしれないけど、最近足の臭いが本当にひどい。

仕事から帰って来て靴を脱ぐと、悪臭が玄関中に漂うようになった。

もう人前で迂闊に靴を脱げない。掘りごたつのお店とか勘弁して下さい。

筋肉痛が1日遅れで来るようになった

よく老化のたとえとして、筋肉痛が一日遅れで来る例が挙げられるが

本当にそうなってしまった。

部署のフットサル大会の翌日、筋肉痛が全く来なかったので

「俺もまだまだ現役でいけるんじゃないか?」なんて調子に乗っていたら

その翌日に筋肉痛が来た。ショックだった。


と、こんな感じです。

自分の体の衰え方は年相応なのかな?

他の25歳はどんな感じなんだろう。

 
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