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2017-04-26

母親特撮好きになる理由

一昔前にイケメン俳優目当てでお母さん方が特撮に夢中的な報道をよく見た

私はひょろっこいイケメン特撮も苦手だし無いだろうなと思っていたが今は子供と一緒に楽しんで見ている

何故か

子供が全力で布教してくるから

朝は強制的リアタイに付き合わされ、それからは何度も同じ録画を流される、最新話の内容や格好いいキャラの魅力を語られて聞き流したり答えないと怒られる

自分の見たい番組はろくに見れない

子供は皆日朝が好きだからよそ様の子供との話のネタにもなり便利

24時間密着押せ押せしてくる狂信的オタク布教はウザいがこれが何年も続き、相手は愛してる子供から付き合ってやろうかと思う、そうするうちに特撮の魅力を理解できるようになっていた

私の入口はトッキュウジャーでした、特撮苦手のフィルター取り払って見たら普通にめっちゃ面白かった

2017-04-25

http://anond.hatelabo.jp/20170425130739

何で男オタってオタアニメ子供とか非オタに見せたがるんだろう。

オタの間だけで楽しんでいればいいのに、何で敢えてそれ以外にも見せつけたがるんだろう。

布教」しているつもりなんだろうか?

あいうのが広く一般に受け入れられると、本気で思っているんだろうか??

腐女子人達みたいに限られた同好の士の間だけで楽しんでりゃ平和なのに。

子供BLアニメ見せて喜んでる主腐とかいない(いや、いるかもしれないが表に出たらまず同じ腐女子から袋叩きは確実だ)よねえ。

男オタの、わざわざ表に出て、関係ない人に見せつけて、嫌がられて叩かれると逆切れするという行動の動機意味不明過ぎる。

露出狂みたいだ。

同性愛は陰でこっそりと」みたいな話と一緒なのですが、BLに対する姿勢を見るにそれを肯定しているのではと不安を覚えます子供BLを見せてはならない理由とはなんでしょう。「同性愛から」ではないですよね。

こういう「AV嫌がるのは性嫌悪だろ」みたいな話って、本気でやっているのかただ揚げ足取りたいのか分からなくて困惑する。

ポリコレなど欠片も配慮せず、当事者たる同性愛者が見る事を想定している訳でもない、

あくま同性愛など他人事しかない異性愛者の女(それ以外も見ているとは言え、メインの客層として想定されている訳ではない)向けの娯楽として

異性愛者の女が他人事として見て楽しいかどうか」だけが考慮された、歪んだ同性愛表現をされた作品子供に見せるのはどうかと思うから

多くの腐女子BL子供に見せたいとは思わないんだよ。

大体子供向け作品なんて男女恋愛もそう過激表現などされない(メインで扱われる事もない)のに。

2017-04-22

http://anond.hatelabo.jp/20170421215211

新興宗教問題は、開祖(もしくはそれに近い人物)が「存命」であるということ。

まり、神ではなく神≒人を信仰しているのに近いことが問題である。もちろん、新興宗教といっても基本的に神仏を信仰しているわけだが、開祖(もしくは近い人物)が存命のため、信者に与える修行世俗的になりがちだ。

開祖1000年以上を経た宗教には「信者を増やせ」「お布施を集めろ」「新聞いかが?」「本買って」「壺はどう?」「ジハードせよ」といった世俗に近い「使命」を強要するところはあまりない。それをやれば新興宗教と変わらないからだ。

新興宗教と定着宗教の違いは、そういう意味では「布教活動が既にある程度完了しているか」「布教活動世俗と結びついてないか」「開祖(に近い人物)がまだ世間に存命か?」というのが一つの基準になる。

イエスにしても、ブッダにしても、マホメットにしてもやはり人間が神に近いところまで昇華するには1000年はかかる。池○大作や大○隆法あたりがそこに至るにはまだ900年ほど足りない。

2017-04-15

http://anond.hatelabo.jp/20170415220001

マーケティングに利用したい側は困るのでは? 各種公式アカとか。

一般ユーザーとしては、部外者からの注目はいらない趣味つながりでの交流にはマストドン

マイナーだけど良い作品を、信者だけでなくもっと広く布教したい時はツイッター

などと使い分ける人が出てきそうだなと思った

2017-04-06

http://anond.hatelabo.jp/20170405220122

個人的に、ゼルダはいろんな遊び方小ネタが日夜発掘されるから面白い

(Twitter布教するほど入れ込んでもないが)

けもフレはよくある一過性覇権アニメしか思えなかった

世界観ガー」つってもファンが無理やり理屈付けた深い言ってるだけだし

萌えボーナスがなけりゃそこら辺のディストピアモノと変わらないじゃんっていう

あと、ネトウヨの自慢なんてそれこそ虚実ない交ぜになってるから聞くに値しない

自分は旬のモノが好きでもあり、嫌いでもあるから

こういうレッテル張りされると心外

2017-04-05

http://anond.hatelabo.jp/20170405162007

フレンズじゃない連中はゾンビを見て「あれはおかしい」というわけ。

ゾンビの連中は自分たち感覚普通のなので、温和なもの感染させようと布教するし、

攻撃的なものは直接噛み付いてくる。ちょっと文章読めないみたいだね!

2017-04-03

ミニマリストってさぁ…

宗教っぽいよなぁ。
はまると、どんどん行動(断捨離)が過激になって行くところとか、
熱心に「持たない生活はいいゾ」と布教活動に勤しむ所とか。

最近職場人間が物を持たない生活にハマったようで、
事あるごとに、必要ないものは捨てた方がいいとか、
そんな物買ってどうするの?とか、
ミニマリスト至上説を説いてくるのがうざい。

別に本人が満足する分には構わないけど、
その行動を他人に推し進めたり
自分生活こそが最高だとか吹聴しないで欲しい。

こっちは無駄ものに囲まれている生活の、
その無駄をこそ楽しんでいるんだから

2017-03-31

http://anond.hatelabo.jp/20170331012715

けものフレンズ面白くないと思った人は、すぐに観るのをやめるので、

わざわざおもしろくないって意見を伝えることもない。

面白くないぞ!と布教しても意味ないしね。

2017-03-26

雨ニモマケズ」は宗教

宮澤賢治のいわゆる「雨ニモマケズ」は検定教科書で出てくることが多く、やたらともてはやされてきた。しかし、「雨ニモマケズ」が宮澤賢治自身信仰の表れであって、いわば宗教であることは、習っただろうか? 習っていないとしたら、いろいろとまずい。国家的にしれっと宗教教育をやっているということであるし、また、正しく教えていないという、まさに学力低下以前の話。

宮澤賢治がなりたかった「そういう人」というのは、ブッダである。欲は無く、いからず(瞋らず)、よく(能く)観聴きする、すなわち貪瞋痴(三毒)の無い、覚った人だ。相談を受けて廻り、調停に入って争いをやめさせる人物。なりたい姿を自ら書いて携帯することで、己への戒めにしたのである本来の「お守り」、憶持仏のたぐいだ。

宮澤賢治には、肉食(ニクジキ)に批判的な著作がよくある。豚を主人公にしてみたり、人の方が食われそうになる話を書いたりした。農業研究していたのもおそらくは、肉食をせずとも生きていけるからだ。

そしておそらく、宮澤賢治は、ブッダ釈尊)に関して事実誤認をしている。史実釈尊は、雨季安居をしている。つまり、雨季には外を出歩かず屋内で過ごしている。

史実釈尊は、無理をするなと説いていた。しかし往々にして捻じ曲げられるもので、無理をしたり、苦行をしたりする「仏教」がつくられてしまっている。

それに、和國(日本)に届いた仏教と称するものは、中国信仰がごちゃまぜになっていて。つまり儒教が混ぜ込まれている。それは、中国での布教教化のために都合がいいからだし、権力者などが儒教教義矛盾しないことを求めたからでもあるだろう。そうして、中国では仏教儒教習合し、それが輸入された。ちなみに、中国技術文化を受容するためにも神道仏教習合したり、儒教とまぜられたりして、現存する神道本来のものではない。

ともかく、史実釈尊も丈夫な身体はもっていたけれども、雨風に勝とうとはしなかった。

教科書にやたらと出てきて「雨ニモマケズ」がもてはやされてきたのは、いわゆる根性論、「頑張る」ということを注入するためだろう。無理をして「頑張る」ことを美化することが未だに行われ、わざわざ公的教育されている。世(国家社会)のため、ひと(他人)のためには、己を傷めつけることも厭わない、そうした生き方がずっと美化されてきた。世のため人のために自らを犠牲にするという教条は、そもそもは儒教であり、言い方を換えれば軍国教育のようなものだ。要は、階級差別と、全体のために個を犠牲にするという全体主義である

かように日本かいものは未だに政教一致国家なのだけれども、そのことに自ら気づかなかったり、気づかないようにしむけられていることは危険だし、だからこそ、社会の既成構造優越させて変革を避け、創造性や生産性が低く、そして、自死率は高い。

2017-03-23

母を幸福にしてくれない宗教が嫌いだ。母を幸福にできない自分も嫌い

私は某宗教三世だが、某宗教死ぬほど嫌いだ。

親戚の手前、はっきりと口に出せずにいるが、信者との接触のたびに腹わたが煮えくり返り、その日、一日中気分が悪い。

うちは祖母が熱心な信者で、他宗教には排他的他者にも信教を強制しようとする、ネットで語られる新興宗教信者体現したような存在だった。独善的独裁的で他者反論を許さな祖母が私は大嫌いだった。

娘の母は二世で、家庭環境から価値観としての信仰はあるものの、他者布教はしない消極的な(熱烈信者からはよく思われないタイプの)信者だった。祖母とは真逆のやさしい人で、私は母が好きだった。

私自身は記憶もないうちに入信させられた三世で、新年に謎の会館で数珠で遊んでいたり、自宅で行われる謎のイベントに参加した記憶はあるものの、物心つくと次第にその慣習が疎ましくなっていた。

思春期を過ぎた頃には、内心では完全にアンチと化しており、会合の誘いはのらくらと断り続けたし、選挙活動もその場は適当に応じながら、絶対に票は投じなかった。

近所で信者挨拶されるたびに苦笑いと胃のムカムカが止まらず、挙句の果ては、当てつけのようにこれまた新興宗教の某証人の話に耳を傾ける始末だった。

この憎しみにも近い激しい感情がどこから来ているのか、ずっとわからなかった。

私は「母を幸せにしてくれない」から宗教が嫌いだった。

そして、私は「母を幸せにできない」自分も嫌いだった。

母は数十年、うつ病に苦しんできた。

うつで寝込んでいる母を、祖母信心が足りないとなじり、私に母のために信心するよう強制した。

祖母への反発が強かった私は、祖母の前では頷きながらも、絶対に祈らなかった。

私が祈らないから、母は治らないのかもしれない。

母のために祈れない私は冷たい人間なのかもしれない。

私が母を不幸にしているのかもしれない。

私は「母を幸せにしてくれない」宗教を憎むことにした。

「母を不幸にしている」自分を憎む代わりに。

私は「宗教」というフィルターを通して、「自分」を憎んでいた。

宗教を憎めば憎むほど苦しくなるのは当たり前だった。

自分罵声を浴びせ続けるようなものだったからだ。

私が某宗教を嫌いながら、表面上それを表に出せなかったのは、私の行動の責任が母にまで及ぶことを恐れていたからだ。

私が脱会することで母が信者内で悪く言われるかと思うと絶対脱会できなかった。

玄関先に挨拶に来た議員候補を追い返したかったができなかった。

宗教を捨てることは、母を捨てることだった。

幼い子供は親が怒っていたり悲しんでいたりすると、自分のせいだと思い込む性質がある。

両親が不機嫌だったり、落ち込んでいたりする家庭で育った子供自己肯定感が低くなるのはそのせいらしい。

親を幸せにできなかった挫折感は、「自分は人を不幸にしている」という呪いになる。

殆どの人は、その呪いに気づけないまま、一生、謎の生きづらさを抱え込む。

私は母の幸福を諦めることにした。

引っ越したら脱会届を書くつもりでいる。

結局、私は母を捨てたのかもしれない。

2017-03-18

京アニ信者たまこまーけっとを見直す

俺は京アニ信者だった。ハルヒから深夜アニメを見始め、らきすたで笑い、CLANNADで泣いた。あのエンドレスエイトですら前回との違いを見つけたりいつ終わるのか分からないループ感をキャラクターシンクロして楽しんでいた。

京アニが関わっているというだけで信奉する。典型的信者だった。

2012年けいおんスタッフが再集結したオリジナルアニメたまこまーけっと」の制作が発表された。

俺は震えた。これは絶対面白くなると周りに布教した。中二病でも恋がしたいを見ながら、放送を今か今かと待った。

そして全12話見終わった。感想としては「つまらない」だった。

たまこは好感を持てるタイプキャラだったし、デラは浮いているけどそういうギャグキャラだと思えば納得は出来た。ストーリー突っ込み所があるとかではない。

だがそれまでの京アニ作品ほどはまれなかった。過度に期待しすぎていたのかもしれない。

Free!に関してはそもそも相手にされてないと思ったが一応見た。水や泳ぎの作画は良かったが最終回の展開に呆れた。

境界の彼方に関してはパクリの寄せ集めという感想。途中で見るのを止めた京アニ作品はこれが初めてだった。

すっかり京アニ熱も冷めた自分が、ニコ生の一挙放送たまこまーけっとを見直す。

ストーリーキャラ殆ど忘れてるし、なぜ当時はつまらないと思ったのかすら覚えてない。

今なら冷静な評価を下せると思う。これは俺とたまこまーけっととの勝負だ。

2017-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20170310162325

強要したいとか排除したいとかいう話ではありません。

ただ、相互理解尊重がすすみゲームに対してポジティブに語れる空気ができたらいいなってレベルの話です。

例としても上と下の極端なとこだけを抜き出して中間層無視していると思います

ファンなれば作り手にも関心を持つの自然なことですし、無邪気でも心無い発言に傷ついたりするというのが

ジャンルにくらべて軽視されすぎてるんじゃないかという話です。

そういう立場からすると消費者的な価値観押し付け強要されてるようにすら感じてしまう、というのがたぶんまずいところなのでしょう。

最近は重度のゲーマーでも消費者ゆえの無邪気だからなにいってもいい、と開き直り攻撃につながってるという印象もあったのですが

当人純粋一般人消費者だと考えてるから温度差があるのかもしれません

ネットの普及で一般消費者の声が目立つのは当たり前のことでもあるのでしょうしそのあたり気づけたのは収穫でした。

結局、お互いが攻撃とか排除とか強要とかに敏感すぎてどっちが先みたいな話に終始してしまってるんでしょうね。

それを乗り越えるにはどうしたらいいかってことなのでしょうか

個人的な話をすればパトロンレベルで巨額を使い込めるほどの人間じゃないですが、

気に入ったゲームは数人に布教して一緒に遊んだりとか、ゲーム環境整えるのに投資したりとか趣味範囲お金を惜しまないという程度です。

それでもまだまだゲームコスパが高い、他の趣味と比べても安く長時間遊べすぎると感じているので申し訳なさみたいなのはあるのですが。

2017-03-03

「第九」歓喜意味

ベトヴェンの「第九」日本人にやたらと人気があり欧米かぶれの一種信仰みたいになっています

何に歓喜しているかって、ようやく解放されたこと。つまり中世封建社会から解放という意味です。そういうと大概の人は思い違いをして、単に一般庶民農奴身分から解放されたことであるかのように思うでしょうね。

誰が何から解放されたのか? それは、賢い人が、既成社会体制に利用されるという「権力の犬」の身分から解放されたということ。

中世では、社会体制を疑う能力のあるような人は、普通に暮らしていてはならなかったわけです。社会体制を変える素養のある人が居てはならなかった。普通に定住して大手を振って暮らすことは許されなかった。

例えば、クラシック音楽というのは、教会音楽です。カトリック教会布教教化に用いられる技術で、つまり社会統治体制を保つための技術です。ですから、その技術のタネを知っている音楽家というのは、世間普通に暮らしていては困るわけですよ。

例えば建築家もそうです。教会カテドラルの建て方を知っているような技術者が、その辺に居てネタバラシをしたら困るわけです。

こういう技術者達は、旅芸人の一座みたいに各地を転々とし、当地権力者に利用されることで食っていたんです。これを「フリーメイソン」といいます

それが、社会体制が変わり誰もが政治に携わる社会になって、社会体制を疑うことがタブーではなく、むしろ疑い批判することが必要時代になりました。技術特定身分の人しかもってはならないものではなく、ネタバラシをすることもタブーではなくなりました。

賢い人は、世を忍んで一生を終えた時代から普通に暮らしていい時代になり、ようやく日を浴びて大手を振って歩ける時代になったわけです。

中世は、知恵のある人は権力構造に組み込まれなければ生きていることを許されなかった。迫害の世の中でした。ヘイトされまくり権力者は、都合の悪い人間を干して、地元庶民をそそのかして嫌悪させていました。未だに、ユダヤ人嫌悪されているのも、フリーメイソン理解されないのも、もとはそういう経緯です。

賢い人がうっかり権力に都合の悪いことをしてしまうと、世の中から消されます。生きていることすら許されず、人間として扱われなくなりました。例えばマルティン・ルターもそうやって社会から消されて、カトリック教会支配を嫌うとある領主にかくまってもらって何とか生き延びました。

ユダヤ人であれ、ピューリタンであれ、既成の社会体制に都合の悪い人々はヘイトされ、その中からアメリカ大陸に渡って生き延びようとした人も出てきたわけです。USAというのはもともとそういう国です。

それに比べて、日本人は、革命を知りません。デモクラシーリベラリズムを知りません。

それどころかそもそも未だに、賢い人間社会体制に組み込まねばならず、「踏み絵」に応じないような人は叩き潰されます。利用価値のある人間でなければならないわけです。

例えば起業家であれ、既存社会体制に逆らってはならず、革命を起こしてはならないわけです。

芸能人なんか、社会体制に利用されることで食っていく職業です。うっかり真実を語ってしまってはならないわけです。山本太郎にしても、どこぞの資本家に拾ってもらって生き延びて、「民主主義」の時代からうまく国会議員にはなりましたが、だからって結局はおそらく日本社会を変えられずに終わるんじゃないかという気がします。

会社従業員にせよ、会社の存続と体制維持のためには、おかしなこともさせられますね。放送局権力にシッポを振り、人気を利用し流行捏造して売上を出し、生き延びるのに必死です。近年の安倍体制のもとでは、放送局も、そこの従業員も、平気でおかしなことをし、せねばなりません。そうして「美人女子アナ」でさえも平気でえげつないことを言ったりしますよね。

さて例えば、亀渕というニッポン放送社長にまでなった元アナウンサーがいますが、村上世彰と戦わされたとき社長です。株主総会でも社長として矢面に立ち、フジサンケイの日枝体制を維持するためにメチャクチャな総会運営をしてまで逃げ切っていました。そのときの彼の姿を私は忘れられません。かわいそうでしたね。会社従業員正社員管理職生え抜きによる支配体制を保つために、修羅にでもならなくちゃいけない。社長を退任してただの一介の批評家みたいな立場になってからは嬉々として活き活きしているようにみえます

そして、社会革命分子であったところの村上世彰にせよ堀江貴文にせよ、叩き潰されましたね。堀江貴文に関しては、ムショを出てからは、中途半端しか目立たないところに居て、社会体制に逆らわずしろ組み込まれるような感じで活動するようになってしまいましたね。

日本社会というのは未だにそういうところです。

愚かな人は自分の才能の無さを憂うのでしょう。けれど、実際に才能をもって賢く生まれたらもう、正しく生きていくことは不可能です。

悲惨な国です。そして、社会体制に組み込まれる人々と、ホイホイ釣られる愚民構成される日本人というものは、実に卑しいですね。

2017-02-22

http://anond.hatelabo.jp/20170222095005

別に切実でなくとも名作扱い受けてる作品はあると思うけど。

文学界隈を引き合いに出すと切実な人間心理が大体むき出しになるので別の界隈から考えたら。

そうすりゃいか一方的意見かわかると思うけど。

あと聖書をやたら引き合いに出したり、遠藤称揚したり、別段宗教がかっていない辻仁成のことさら宗教がかった本を紹介したり、お前の布教活動邪魔なんだけど。

増田に何人もキリスト教徒がいるとは思えんしな。

2017-02-19

しかった母親新興宗教に入信したら

容赦無くハエたたきで私の尻を叩く鬼に変貌した。

サタンだね!!」

という訳分からん理由説教がはじまる。チンピラのインネンでもそこまでじゃないぞ、と思うくらいに理論破綻具合がすごい。

アニメを見た。

ギャグ下品マンガを読んだ。

友達と寄り道して遊んだ

世の中で流行っている歌を歌った。

そんな理由で。

これらは全部「サタン」らしい。

「歯ァくいしばんな!」

というヤンキープロレスラーしか言わないようなセリフ小学生の時から散々聞いた。我が家ガチンコファイトクラブか?

尻を叩いたという報告は母の教育係のようなおばさんに逐一なされていたようだ。

後日「なんでお母さん怒ったか分かる?

あなたサタンのよくない影響を受けないために怒ったのよ。」

フォローが入るからだ。

いやいや、知らんがな。

私の友達はじゃあみんサタンなんですか?日本国民サタンなんですか?やべーっすね!

何より、ケツをはたくなら、自分の手だろ。心はもちろん、自らの手を痛めるほうがはたくほうの愛だろ。

それをなんと、まぁ、ハエたたきで。私のプリティヒップハエじゃねーぞ!!!

なんて反論できるわけもなく、幼い頃の私はただ怯えて泣いていた。

怒られないように、と今でも気づけば石橋叩いてクラッシャーになっている。この頃の負の遺産じゃな…。

毎週夜だの昼だの2時間以上ある集会に参加を強いられ、寝たり話を聞いてなかったり、ノートソフトクリームうんことか落書きをしていたりすると会場備え付けの尻叩きグッズで尻をスパーン。

休みの日は学校友達も住んでるような地域布教活動をさせられ。

「なにしてんの?」と聞かれた日には「お、お散歩…かな…」と苦し紛れに答えていた。

校歌国家は歌えないので先生に「信仰自由」を告白し、騎馬戦はできず、クリスマス七夕も祝えない。友達からもらった年賀状も返せない。さぞかし冷たいやつだと思われてただろうな。

人に救いを説く小学生女児の心、一番救われるべきだったのはそこではなかっただろうか…。

小学生ながらストレスで重度の脱毛症を患ったこと、明るかった性格がみるみる暗くなり、不登校になってしまったことなど、親から見ると宗教に入ってからの私の変化は喜ばしくなかったことだろう。

そんな日が何年も続いて、中学生になったある日。夜の集会に出席するため、いつものごとく会場へ向かうはずの母の車は、全くの別方向へ。

着いたのはショッピングモール

そこにあるゲームセンターで好きなだけ遊ばせてもらった。母も、いつもはやらないクレーンゲームで大きなぬいぐるみを取ってくれたりした。

いつもはさせてもらえない「サタンの」遊びに私は戸惑いつつもいたく喜んだ。

普通ってこんなに楽しいんだ…!

もう私はサタンでも構わない…!!

たっぷり遊んだショッピングモールの外に出て、月の綺麗な夜、私は子供らしく上機嫌に走り回っていた。

なんで今日集会をサボったのか。

その理由はあえて聞かずにいた。

だって来週も集会になんか行きたくない。ずっとこんな風に普通を楽しめればいい。

宗教ことなかいっそもう忘れちゃえばいい!

そう思ってふと母親を見ると、静かに母親は泣いていた。

その日から熱心だった母はゆっくり宗教を離れて「元信者」になった。

宗教で娘は不幸になり、自分幸せも結局見つからずじまいだった。

今でもあの宗教の話は、親子の間ではしない。したくもない。

宗教はやめればそこで終わりなわけではない。信じていた頃の記憶強迫観念信仰は根強く残り続ける。

母も私もしばらくはその苦しみと闘っていた。かなり時間はかかったが、元の心を取り戻しつつある。

しかしこれからも、心のどこかでしこりのように宗教後遺症が残るのだろう。

母にはただただ、何かに縋ることなくとも、これからも静かに幸せであってほしい、そう願うのみだ。

2017-02-14

モルモン教のおにいさん

いつも近所でよく見かける留学生のおにいさんが、今日突然私の家に来た。

どうやら彼はモルモン教信仰していて、今日布教活動のお手伝いをしているようだ。

普段、道で出会った人に気さくに挨拶をしているので見上げた人だなぁと思っていたらこれか。

頭を聖書で殴られた気分になった。

2017-02-13

清水富美加の月給五万円って悪くないんじゃね?

衣食住、交通費通信費、レッスン代等々、全部会社持ちで小遣い5万円ってことでしょ?

で「憧れの芸能界」でお仕事して、テレビしか見れなかった憧れのあの人とすれ違うかもしんないし。

高校生だったら、つまら学校生活おくるより、そっちの方が楽しそうってなるわ。

ま、なんちゅうか、若者の「あこがれ」や「やりがい」でもって人を搾取する「奴隷労働」っぽいのは確かなんだけど。



でも、あれだよね。

絶対幸福の科学映画だの布教用のビデオだのに酷使しまくって、で、それは「真理への奉仕」みたいなこといって、適切な報酬なんざ支払わないよね。

労働によるお布施っていうかさ。

信仰心搾取って究極のブラックかも。

あと「水着仕事が嫌だ!」ってごねてたらしくって、気持ちわからんでもないけど、あの手のオーディション受けるってことは、そもそも自分からそういう商品になりにいくってことだからなあ。。。

原子力戦争抑止力

原発関連について思うこと。思考整理のために。

何かと取り上げられる原発関連問題についてですが、「エネルギー資源の点から原発再開・高速炉建設は現状止むを得ない選択肢である」というのが今の私の考え方です。


石油はもって40年」と自分子供の頃からそう言われていて、いまいち危機感が持てなくなっているけれど、少なくとも自分子供のころはレギュラー90円切るようなのが当たり前だったと思うし、確かに昨今の不景気が影響で価格が高騰しているということもあると思いますが、客観的事実として、天井のある資源を使い続ければいずれ枯渇することは当たり前だと思います

エネルギー資源の枯渇が引き起こすのは奪い合いであるといったことは、歴史的に見ればある程度自明だと思います

今の時代簡単資源を巡ってすぐさまに戦争が引き起こされる、といったことは想像しにくいですが、少なくとも産業経済制限がかけられることと思います

そのような情勢において「原子力」というエネルギー源の選択は、再利用技術確立が為されればかなり明るいと思います。(しか3.11のような経済的コストや、使用済み燃料やそれに付随して出る汚染物質の処理のような将来的課題もまだまだあります。)

これらを踏まえ私が感じているのは「戦争への抑止力は、資源生産・確保であり、原子力はその点で抑止力と成り得る」ということです。

漫画の1コマに「戦争は始めるものじゃない。出来る限りの外交手段を尽くした上で結果的に起こるものだ」とありますが、この「出来る限りの外交手段」を選択肢として存在させることが重要であり、エネルギー資源はそこに深く関わっていると思うのです。


一方で原子力の利用は、今の日本の風潮ではかなりシビアものだという感覚をみんな持っていると思います。私は原子力関連においても最もネックなのはその感覚自体と、“安全”を砦に原子力危険ものとただただ批判する人間がいることだと思います

将来のエネルギー安定性と現在安全エネルギー供給を秤にかけることは、個人個人で優先すべき事柄が異なるのでどちらが重きとなるかは一概には言えません。ですが、私は原子力というものに“危険もの”という偏見(バイアス)がかかっているために、秤にかけるまでもなく忌避しているような点があるのではないかと思うのです。そしてそのようなバイアス布教助長している各メディアなどのコメンテーター評論家を見ると、嫌気がさします。「原子力=原子爆弾」という偏見さえも未だに存在するような気もします。


一般に「多少原油輸入にお金はかかっても現在日本の電力は間に合っているんだからいいじゃないか」という意見もありますが、私はこれが対外的には一種侵略(エネルギー侵略)のようなものではないかと感じています

話は変わりますが、2000年代に大きく話題になった「地球温暖化問題」というのがあります温室効果ガスである二酸化炭素が増えることで、地球の保温効果が高まり、平均気温が上昇するという話のものです。(反対論として、地球の平均気温は常に上下を繰り返しており、その周期がいま暖かくなっているだけだとの説はありますが、自分は少なくともCO2の影響で温室効果があるのなら、地球の周期があるにせよ、減らす努力はするべきだと考えていますすみません関係ありません。)

この地球温暖化問題に関して、一部ですが「日本温暖化問題を加速させている」という説があったように記憶しています日本という国は自国には森林がたくさんあるにも関わらず、安価であるという経済性の理由から他国木材を多く輸入しており、その木材アマゾンなどで森林伐採して得られているため、日本温暖化を加速させている原因になっているのではないかというお話です。つまりエネルギー資源においても、自国生産しない代わりに他国から輸入しますがそれは他国資源侵略していることに等しいのではないか、と感じるのです。(確かに資源を輸出するのもその国の自由ですし、対価を払っているのですから問題は無いというのもありますが、自分はあまりこのような動向が良いとは感じません。)

自分はこの地球温暖化問題の点と、化石燃料を輸入してでも国内の電力供給を支えている現在日本の状況に、類似点を感じます

原発を停止し化石燃料を輸入することで国内需要を満たすことは、地球全体の資源をより早く消化してしまうことになっていると考えます。この点で、確かにこれも輸入された燃料ではありますが、再利用することが可能である原子燃料を利用することは、これからの将来を考えて資源的に選択することは仕方が無い、むしろ必要なのではないかと考えています

1国がこの広い世界での資源枯渇を心配する必要があるのかと思われますが、その広い世界資源が枯渇した場合に行われるのは、「その資源を持つものが高い対価で取引要求すること」か、「他国が略奪を行う」か、「新技術によって新たな資源生産する」か、のどれかだと思います

少なくともこの中で一番良いのは「3つ目の資源生産」で、いわゆる「核融合技術が現状あてはまると思いますしかし、現段階で研究ベース技術が商用化され、多くの人に利用されるようになるのはいつ頃かもわからない状態で、「いずれ新技術ができるから化石燃料を使い果たして問題ない」というのは楽観的すぎると思います


再三になります原発関連に関して思うことは、原子力という技術や将来性について議論することをせず、消費者被害者意識だけで言葉を揃えて「安全じゃないものは使えない」「間に合っている」と言うのが、個人的にはあまりきじゃありません。

そして原子力技術者として関わっている多くの人々や、また原子力を使うことを決めた政治家や多くの人々を責め立てることも好きじゃありません。

福島第一事故は確かに人の作り出したものが災いしたものですが、想定されていなかった規模(過去数百年の津波高さの統計による)の津波という自然災害によって起きたという部分が色濃いと思います事故結果論しか語ることはできませんが、これまで原子力を扱ってきた人々が事故を防ぐべく尽力していたこと、またこれから努力なさるだろうことも忘れるべきではないと思います


最後になりますが私は、何か意見をもって議論することが大切だと、EU離脱の時のイギリスを見ていて思いました。その点で思うのは、自分意見を言うことでレッテルを張られる、もしくは感情論批判されるような風潮・雰囲気を壊していくことがいまの日本には大切なんじゃないかなと思います

2017-02-07

ここの牧師は何がしたいんだろう。

キリスト教っていう、あり得ない奇跡をありがたがるカルトを広めたい感じなのかな。

もっと創価学会やメイソンと一緒で、モルモン以外は古来から社会ステータス一種になんだろうが。

それならそれでいいと思うんだよ。うちのは宗教の形を借りたサロンですと。

元々あった宗教を食いつぶして国家を塗り替えますよと。

え、違うの?じゃあ本気で布教してんの?マジで?受けるんだけど。

2017-02-06

舞台「孤島の鬼」2017版を観劇して

※私の答えが見つかったので、現在最終解答を書いています

ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。

※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ

http://anond.hatelabo.jp/20170209222825

http://anond.hatelabo.jp/20170212024356

夜明けて昨日の話。

推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。

とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。

http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636

こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。

ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから観劇予定のある方は読まないでくださいね

まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。

こーゆー考察甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。

そこでまず強烈に思い浮かぶのが主人公であるはずの『私』。

『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在である共感し難い。

そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦感情移入できない。

ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)

これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……

それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、

そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。

でも、それっておかしくね?って思って。

ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。

自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、

いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、

どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。

目線だって絶対許せない地雷カップリングというもの実在する。

から「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。

でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?

これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。

この感情原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈押し付けなのか?

という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ

http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636

Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードから勝手妄想して、

江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。

諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。

観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。

田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩ブロマンス結晶として大正解

対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。

女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。

『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。

(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)

メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害物語カタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。

(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠片想いとして殺す……って、個人的めっちゃ萌える。)

作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷箕浦永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。

しかしそれが本当に『箕浦』のすべてだったのか?

舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。

私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。

でも、配役を知ったとき

美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、

佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年石田隼さんが20代箕浦過去の『私』」を

演じることが疑問だった。

いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。

「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはい観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在公表されてることは少なそうだけども。)

しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。

舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、

諸戸と出会い親交を深めた学生時代箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、

諸戸と別離大人になり恋人の初代との出会いから箕浦石田さん)は登場する。

石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。

 

「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦であるため、『私』の歪さから箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、

事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。

(皆さんは自分の体が深層心理拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれ意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)

箕浦』は諸戸の性愛を受け入れることはできなかった。

しか性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?

必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか

そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。

物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!

より妥当なところの分裂理由として「箕浦二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い

作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。

うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈ハッピーだよね。

(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)

(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性テーマ舞台大好物なんです。)

延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出表現もとても良かった。

諸戸の父親最期に対して、主人公である箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想セリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。

父親の変貌は、絶対他人箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。

父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親経験たからわかる。

河合さんの怪演は本当に感じるものが多くあった。

舞台というもの面白いもので、同じ現実を同じ密室複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものから

書籍映像物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。

たとえ自分複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。

演出による印象操作完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)

から舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい

そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観しかなく、原作者スタッフキャストが込めた意図真相はわかんないんですけどね。

舞台「孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―」、とてもよい観劇でした。

2017-02-05

http://anond.hatelabo.jp/20170205031925

こちらこそありがとう

布教できて嬉しい。

ついでに書くと、街角花だよりも200円になってました。

こちらの方が万人向けかもしれないです。

[] #14-5「生活教」

荷席にあったのは、大量の飲料水だった。

それらは見覚えのある市販のモノで、未開封であり何の変哲もない

予想外の代物に弟たちは肩透かしを食らうが、数秒の沈黙のあとにミミセンが閃く。

「聖水か? この水は? 聖水として売っているんじゃないか?」

事態を上手く飲み込めない教祖は、弟たちにコロコロ目線を向けながら、坦々と説明を始めた。

「いえ、単純に私個人が使うものです。ちょっと前に水ブームがあったでしょ? ここに来る途中、在庫を持て余した店が安く売っているのを見つけて、衝動買いしたんです。効能はよく知りませんが、飲料水として普通に使えるので」

随分と面白みのない返答に、むしろ弟たちは疑念を強める。

教祖は状況を飲みこめないまま、車を人質にされて問答を迫られることになった。

政界進出とかするの?」

「……何だか、随分と知識が偏っていますね。そんな目的はありませんよ。信仰している人は他にいても、組織ではないですし」

「なんだよそれ、じゃあ何のために布教してんだよ」

「何って……教えを説いて、広めることに決まっているじゃありませんか」

「いや……だって、その“教え”ってのが……」

「分かりきっている? 当たり前?」

それは確かに弟たちの言おうとしていた言葉だったが、教祖自身から出てきたということに驚きを隠せなかった。

「それを分かっていて、何で」

「当たり前のことが、実は当たり前のことじゃないのです」

その言葉に弟たちは一斉に首をかしげる。


「人は時に『今さら』だとかと腐すけれど、それは誰にとっても今さらなことではないのです。掛け算の順序を逆にしても答えは同じことを子供が自ずと発見したとして、それを『今さら』だと腐す大人がいるでしょうか?」

もっともらしくも聞こえたが、弟たちは怯まない。

なにせ相手宗教なので、油断ができないのである

「いや……でも、やっぱり今さらだよ」

「仮に今更だとしても、その知識を自ら完全にモノにして、始めて知識は本当の意味を持つんじゃないでしょうか。ならば全ての人間がそうなるまで、今さらだと思われていることを反復して、提唱することは意義のあることだと私は信じています

「なぜ、それを宗教に絡めて?」

「一つの体系に限界を感じたからです。科学的な、現実に沿った教えは尊重されるべきですが、それでも取りこぼしはある。だから私は宗教を通じて生活をより良くする教えを、別の側面から広めようと思ったのです」

「あえて、非科学的なことを言っているってこと?」

本質的意味目的が同じであれば、私は一つの体系にこだわらなくてもいいと考えています。むしろ拘ることこそ、視野を狭くする要因になるとも思っています

教えに対して、予想外の理念に弟たちは顔を見合わせた。

教祖の言うことは詭弁な気もするし、おためごかし可能性も捨て切れなかった。

或いは他に見落としている何かがあるかもしれない。

だが、弟たちには何の論拠もなしにどうしても食い下がるような理由特にないのである

「難しい話だとは思いますが、世の中には“科学から信じる人”もいれば、“宗教から信じる人”もいるのですよ」


教祖の乗った車が走っていくのを見ながら、弟たちは自分たちの頭に残るモヤを何とかしようとしていた。

「どうなんだろう……宗教からといって頭ごなしに否定するなってのは、何となく分かるんだけれども」

「うーん……要はあの宗教が良いのか悪いのかで考えることになるんだけど……何を信仰していようが、それでヘイトを広めたりだとかもせず、むしろ善良な人を育てようとするなら、少なくとも悪いことではないのかも」

それで納得しかけた矢先、ミミセンが一つの疑問を投げかけた。

不安があるとすれば……信者たちは本当に、そういった理念を把握した上で信仰しているかってことだろうね」

「どういうこと?」

「同じ宗派からといって、同じ考えとは限らないって事だよ」

(#14-6へ続く)

2017-02-04

カルト2世もやもや。。。

カルト宗教2世漫画Twitter話題になっていたので。。。

私も母親が熱心な某学会信者だ。

父親母親が熱心に布教活動をすることに対して

かなり放任主義だ。

 

私やほかの兄弟

まれた時から入信させられている。

正月新年勤行会に連れていかれた。

七五三も近所の会館に連れていかれた。

キレイな服を着せてもらえるのが嬉しかったし、

さいこからそれが当たり前だと思っていた。

 

 

中学生になったある日、インターネットが気軽にできる環境になった。

何気なしに某学会のことを検索するといろいろなことが。。。

そこで母親おかしいことに気付いてしまった。

でも、それを受け入れていた自分おかしかったということに気付いて

かなりショックを受けた。

学会に入っているというだけで避ける人もいるんだと。

 

そのころから、近所の集まりにも参加しなくなり、

部活が忙しいことを言い訳にして)

まり家庭訪問がうっとうしいので

突然一人暮らしを始めてみたりもしたのに

母親が某学会に私の居場所勝手に伝えてしまった。

見知らぬ人がしょっちゅう部屋のベルを鳴らす。

その恐怖を母親理解してくれなかった。

 

毎年年末年始帰省すると

今でも新年勤行会に連れていかれる。

それに行かなければ母親のご機嫌はとれない。

今年も行かない家族がいて

そのことに母親は機嫌を損ねてしまい、

なだめるのが大変だった。

 

私は今年結婚するので

来年からは行かないようにしたいのだが・・・

あと、義理家族勧誘をしないでほしいのだが・・・

言葉にはしてみたものの、やらない保証はなさそう。

 

自分母親のことを否定したくはない、嫌いではないけど

この点に関してはどうしても無理だ。

他人自分信仰押し付けるな! 

 

京都ヨーロッパが好きで、神社もお寺も教会も見に行くのが大好きだ。

初詣にも勝手に行くし、おみくじも引く。

他人はもちろん、カルト2世だって信仰自由はあるはずだ。

同じDNAを半分持っていたって、信じるものが違ったっていいじゃないか

そういうことを母親には理解してもらいたいけど

どうしたらうまくできるのだろう?

2017-02-02

[] #14-2「生活教」

その日の昼頃、某所の街頭では「生活教」教祖による布教活動が繰り広げられていた。

教祖様トイレときは小のときでも座ってするべきですか」

基本的排泄物は不浄なものが宿る。これを浄化するためには座ることが効率がよいのです。当然、それを浄化する水には精霊が宿るので、人が見ている状態で流してはいけない。蓋をしてから流しなさい」

教祖様、体にいいものって野菜とかですか」

野菜もいいが、色んな野菜を食べなさい。根も、葉も、茎もあらゆるものを。これは野菜に宿る神が兄弟からです。かといって神は核家族ではないので、野菜ばかりでもダメだ。他のものバランスよく食べなさい」

周りから「おー」という声が響き渡る。


弟のマスダとその仲間たちは、その様子を離れたところから訝しげに眺めていた。

「既知な事柄宗教に絡めて、一体なにがしたいんだろうか」

「キチ?」

「分かりきっている概念ってことだよ」

「既知! 概念! 既知概念!」

「私、理解できないんだけど、あれであんなに人が集まるのは何で?」

「なんというか、上手く言えないけれど不気味だなあ」

「うーん……」

弟たちのボキャブラリーでは、「生活教」についての違和感を語ることは困難を極めた。

そんな弟たちにとって、理解できないものはただただ否定するしかなかったのである


「そういうのは“胡散臭い”というんだ」

唸っている弟たちの前に現れたのはウサクだった。

友人との待ち合わせ場所がここだったらしく、待っている間の暇つぶし目的で弟たちの会話に入ってきたようだ。

胡散臭い……」

「信用できないってことだ。何か裏があるんじゃないかと疑うのだ」

「“裏”って?」

過去の事例から考えるなら、政界進出とかだな。あの教祖か、或いは近しい信者政治家になるってことだ」

「今やっている活動関係ないじゃん」

関係のある無しは関係ない。信者をそのまま支持者に代えるための活動からな」

「もし、あの宗教関係者政界進出したらどうなるの?」

当初、得意げに話していたウサクが、マスダの問いに固まる。

どうやら、その答えは用意していなかったようだ。

「……分からん。現状、あの宗教から大した思想がまるで読み取れないからな」

「じゃ、じゃあ他の事例でいいから言ってみてよ」

そう言う事ならと、ウサクは調子を取り戻して話を続ける。

(#14-3へ続く)

2017-01-27

http://anond.hatelabo.jp/20170127184056

オウム以前に怖い宗教といえば、筆頭が創価学会

輸血禁止でたびたびニュースになったのは、エホバの証人

街で布教活動をみかけるのは、ものみの塔

昭和後期のうちの両親の話だけど、これらの団体所属してる人は町内ではキチガイ扱いされてる感じだったよ。

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