はてなキーワード: 芸大とは
それは違うだろ。
お金がない、奨学金の返済がある、就職しないと、親類への体面がある、そのためには作家は諦めないといけない
みたいな立派な言い訳が沢山あっていいですね。
作品作る人は借金がいくらあろうが金がなかろうが生活がめちゃくちゃでも作品作ってるよ
作品さえ作れてたらそれでOKな人たちが作家になるんだよ
奨学金とか何それ払わないといけないの?って感じでしょ
教務の人が言ってたけど芸大なんて半分近く返済開始してないっぽいぞ
よく観察すればなんにも羨ましくないはずだ。
余裕があってもしょうもない作品しか作れない そんなの作家としては地獄だろ
そしてあなたも「自分や身の周りの経済状況からいって、作家になれない」じゃなくて
そんなこと本当は自分でもわかってるから気持ちのやり場が無いんだよ
にもかかわらず親類に金をたかったりせず内定とってきたんだから偉いと思う。
親の金にたかって才能もないのにグダグダ作家続けてる連中が一番クソだよ。
そういう奴は作品に覚悟のなさと発想の甘さがにじみ出てきて本当に糞だよ。
見ればわかるでしょそういうの。
https://www.youtube.com/watch?v=M6rb6kknj3A
芸大生が作った「就活狂想曲」というのがネットで話題になっている
黒色のリクルートスーツを着て同じような就活している若者をよく見かけます。 葬式じゃないんだから、やめてくれといいたい。それからそんな誰が作った価値観かわからんようなものに従わないでほしい。若者であるならば。 このような均一化、奴隷化しようとするわけのわからん価値観を強要して 従属させようとしている一部のつまらない日本の会社がホント腹立たしい。
疑問に思うよね・・・いまどきの若い子が、皆揃って黒髪、薄化粧、黒スーツ。 本当の自分隠して就活して、それで入った会社でやっていけるんだろうか? 就活終わり、入社式前の現在、私が抱える大きな悩みです。 おかしいと思うのに、どうしようもできなかった。
気付いたら友人はいわゆる就活カットになって、女の子のネイルなども見かけなくなった
(ちなみに僕は、その友人は今のほうがかっこいいしと思うし今のほうが好きだ。)
恐らく世間(僕や就活生も含めて)が感じている違和感というより不快感?は
突然の均一化を強要されてること
ということだと思う。
でもほんとにそれは違和感や不快感を感じるほど変なことなのか??
突然の均一化の強要は今までよくわからなかっただけでたくさんあった気がする
まず義務教育
この時ほどひどい均一化の強要はないと思う
それに気づいてはいなかっただけで
そして大学生になったら、身なりは突然変わるし遊び方も変わる。
就活生を見れば一目でわかるように、大学生以降の若者は一目でわかる。
みなりが高校生っぽければ、ダサいやおたくなどと言われ、結局みな同じような身なりに落ち着いている。
遊び方についても同じようなことがいえる。
義務教育や就活とレベルは違うとはいえ、「大学生はこうあるべきだ」という強要が少なからずあったと僕は思うし、
それによってかなり均一化されてると思う。
あと、超どうでもいい事だけど、「アートジゴロ」じゃなくて「アートゴロ」ね。アートジゴロカッコ良すぎだから(笑)。
全くその通りで『芸術業界』って本当にヒドくてどうしようもないんだぜ。
今頃奴らは、芸術関連の役所仕事がバラ巻かれる東京五輪特需をいかにして身内で分配するかとワクワクしてるよ。
同窓業界人同士互助会みたいにして、お互いに推薦しあって奨学金貰って留学したり、税金使う仕事融通したり、専門学校(学校自体は厳しいしいい学校なんだけど)レベルでもこんななんだから、芸大とかどんだけ大掛かりにやってんだろう?と思うと、怒りを通り越して笑っちゃうね。
昔、技術が低いって意味じゃなくて内容が幼稚で有名になった動画の作者とかも、奨学金で留学してるらしいよ。もう年寄りなんだから、若い子に行かせりゃいいじゃん。『芸術業界』ってこんな話ばっかりよ。
美大・芸大の世界に、一般大のようなランクを当てはめようとするのは無理がある。
まず、芸術の才能は、偏差値の様に数値で測れるものではないから、
なので、予備校の先生の感覚で、○○大学はレベルが高いとか、○○大学はレベルが低いとか、判断される。
予備校の先生が、大学を評価する感覚に、受験生の将来が左右されるといっていい。
だけど、そんなこと言うと、予備校の先生だって、美大芸大の実力について、
偏差値の様に、分かりやすい尺度がある中で判断できるものじゃないので荷が重い。
大学のレベルを測るには、実績を出している卒業生がいるか?とかで判断するしかない。
そうすると、仕事の多い関東が就職率に置いて有利になるだろうけど・・・。
大学のレベルというよりは、その土地の経済状況に活躍は左右される処もある。
あと、みんながみんな、レベルの高い大学を目指しているとも限らない。
あの件に関しては作者が無知すぎたことより、出版社がアホすぎたのが原因
どう考えても、芸大出の絵描きがあんなに他種類の虫の交尾の資料を自前で用意できるはずがない
とすると必然、図鑑なりネット写真なり、絶対に他人の著作物を使ってる
これはほぼ確実
世間知らずの芸大生ならともかく出版社がこれに思い至らんハズはない
有耶無耶にできると思ったのかばれないと思ったのか、ともかく浅慮で出版社側はこれをスルーした
権利関係やらの著者がやらない仕事を代理するエージェントだから高くない金を持ってくのに
先日の写真模写騒動、著者のダメージものすごいだろうなーと。まだ学生らしいし。
なんか描けないから丸写ししたとか、金儲けのためにパクったとか色々言われてたけど、たぶん実際にあるものを見て絵を描くのと変わらない感覚で絵を描いてた人なんじゃないかと思うんだよなあ。
いや、自分がそうなだけなんだが。自分にとって絵を描くってことは、平面でも立体でも見たものを見たままに描き写すことだったんで。
写真を参考にしつつ頭の中に描きたいものを構築して自分で構図や角度を考えて描くってのは、あれは見たものを見たままに描くのとはまた別の技能だよなあとか。
模写やトレスだからよくないって風潮もある気がするんだけど、そういう問題ではないよな。
他人の著作物を許可なしに使っているから問題なわけで。元が分かるくらい写実的にやってしまうとアウトだ。自分が撮った写真とか許可撮った写真なら問題ないし。
あんまり関係ないけど、写真から絵を描くことそのものについても否定的な人がたまにいる気がする。
昆虫とか生物とかに詳しいあたりの人々からは知識の浅さについても結構言われてたけど、
生き物の絵を描くのが好きって人と、生き物そのものが好きで観察したり生態を調べたりする人と、方向性というか重要視するポイントが違うと思うんだよなあ。
ってこれも自分がどっちかというと生き物の「絵」を描くのが好きだったからそう思うだけなんだが。
重要なのは絵のほうで、生き物の細部はそこまで気にしてはいなかったと思う。
例の絵は、どう考えても図鑑と名付けて出版することを想定して描かれたものではなかっただろうに。
ちゃんとした図鑑とかのイラストは普通の模写じゃないはず、たぶん。ああいうのはある程度の知識のある人でないとやれない。監修も必要だし。
芸大とか未知の世界過ぎて分からんのだけど、著作権について全然意識してないってことはなかろう。
絵を模写することとか、写真をそのまま使用することについては意識してても、写真を模写することについてはあんまり意識してなかったのかなー。
ちなみに自分は意識してなかった。数年前までは全然意識してなかった。
写真からの模写がどの程度でアウトなのかとか、意識する機会がなかったら気付かないんじゃないかなあと。
これもまた自分だったら裁判の例とか見てなかったら多分気付かなかっただろうなあと思うだけなんだけど。
写真の著作権は軽く見られがちだと常々感じているし、許可を得ず他人の写真を模写することはやっぱりよくない。
でも目の前にある実物を描くのと、写真を描くのと、同じ感覚でやってるとなかなかそこに気が回らないというか。自分の話だけど。
写真もなんとなく気軽に撮ってるとあんまり意識しないけど、色々狙って撮るとなると知識やら経験やら技術やら機材やら運が必要なんだよなあ。自分の足で撮りに行かなきゃならんわけだし、時間も体力も忍耐も必要だ。
自分はこのへん、いろんな写真を模写しても今まで気にしてこなかったので…。他人の著作物を使っている感覚がなかった。
自分で資料用に写真撮ったりとか、それではじめて実感したみたいなところがある。
今みたいなソーシャルサービス全盛の時代だったら模写公開しまくりだったろうなあ…
少なくとも趣味でなく商業でやるなら、色々学ぶ機会が絶対必要。
あの出版社は言ってることがどう考えてもおかしい(素人目に見ても昆虫に個体差は結構あるし、あんなに細部まで一致することはほぼありえない)けど、誰かあの著者をフォローしてくれる人はいるんだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20131106204933
これを読んで思い出したことがある。
高校の時、進学ガイダンスか何かの一環で、先生の個人的な話を聞くみたいな時間があった。
好きな先生を選んで話を聞くことが出来たのだけれど、わたしは学校で一二を争う変人っぽい技術の先生のところに行った。
わたしの行っていた学校は三人に一人くらいが東大に行くような進学校で、同校出身者の教師もやたらいたのだけれど、この先生は進学校出身なのに芸大に行って、フラフラした挙句に母校の技術教師で糊口をしのいでいる人だった。
先生は「俺の話なんて役に立たないよ、お前らアホか」みたいな感じで、一時間ずっと、学校をサボって動物園で遊んでいた話をした。
話が終わらないうちにチャイムが鳴って、「ほら、こんな話で終わったじゃねえか、お前らほんと人を選べ」みたいな感じだった。
実際、その話は直接には役に立たなかったけれど、今でもよく覚えている。
その後わたしは、大学こそ結構なところに入ったものの、卒業しても就職せずフラフラして、食うや食わずの暮らしをしながら好き放題やっていた。
こんな暮らしをしていたら死ぬんじゃないか、と思ったこともあるけれど、まだ生きてる。
なんだかんだで、今はテキトーな商売をしているけど人並み程度の収入も得られるようになった。
吹けば飛ぶような商売なので明日にはホームレスかもしれないけれど、生きてて毎日楽しい。
当時はそもそも古典派以降の、要するにクラシック音楽というカテゴリーで主流になっている曲を全然知らなかったし興味もなかったし、そこでやたら沢山音符を弾かされる、管弦楽というジャンル自体が自分の手に余るものだった。
クラシック音楽の凄さが分かってきたのは、しばらくオケを離れて、就職して数年後に社会人オケに入ってからだったかな。
そこでやっと必死に作曲家のことやスコアを勉強して、とてつもない世界があることに気づいたという・・・。
つまり、自分は楽器を手にした年齢だけはとても早かったけど、あとは色々遅い。笑っちゃうくらい遅い。
それでも好きになったクラシックを、出来る所を見つけて続けているだけなのだ。
だから4歳から始めているとか、出来れば訊かれても答えたくないわけで。
メンコンやチゴイネルワイゼンはやっていて当たり前、ラロもクライスラーもスプリングソナタも四季も楽にこなせるレベルまで、かなり短期間で叩き上げてきたメンタリティってそういうもんなのだと思う。
強烈な自負と自意識がなければ無理というか。
妙に迫力も出ちゃうし、何より自信溢れる態度で、モテても全く不思議はないし。
それでも4歳からやっている人相手ならそれなりに敬意を示すんだろうけど、逆にそれくらい早くから始めていてメンコンも弾けないどころか、バッハのコンチェルトやヘンデルのソナタを勢いでやっつける程度では、軽く見る理由にしかならないと。
何しろあっちは指板のどこでも快適にフィンガリング出来て、かつ上級のボウイングと音造りが出来るのに対し、こっちはそこそこハイポジションで弾けて、初歩の重音とヴィブラートがせいぜいだったわけで。
今だから分かるけど、とんでもない差だと思う。
そしてあの頃からかなりの年月が経ち、ようやく古典派やロマン派の歌い方が分かってきた今だからこそ、メンコンというドイツ前期ロマン派の名曲を完璧に、かつ最高に楽しく弾いてやり返したいのだ。
このままやられっぱなしで、中途半端で終わらせてたまるか!と、やっと奮起できた感じ。
それに、そこまで弾けたらもっともっと楽しい領域が待っていると思うから。
”痛車”を作って”彼女と一緒に”コミケに通ってる知人は一早く結婚を決めた。
リア充とオタクの対立とか、オタクであればリア充ではないとかいう認識は現実とずれるのではないだろうか。
オタク趣味と比べると、サブカルだったりスポーツや芸術を趣味としている人は、結構コンプレックスとの葛藤が多い。
(ちょっと古いけどロキノン、下北系、芸大系アーティストを思い浮かべればよい)
スポーツも芸術も、「自分が主人公(登場人物)になる」という重大な特徴があり、
アイドル趣味は、趣味としてフィクションを題材にするオタクと比べると、
実在の人物に幻想をかぶせる分、結構ディープな世界になるし、アイドルのファンには、
雑談中もずっと話題にしているような”濃い”人が居る。
大学に(院も含めて)4+2+3.5年通った人間です。身近に大学の先生もたくさんいる(というか、零細事業やってるけど半分はアカデミアが相手)ので、大学のことは人並には理解しているつもり。
ちなみに、結論は、「営業から工員に至るまで大卒しか取らない糞社会が全て悪い」だけど、それをいってもしょうがないんだよね。
この話を聞いていて学業って何かな?とおもった。
とりあえず、運とはいえGoogle+ 日本一。というのは、何の才能もなければ取れないわけだ。
少なくとも平均点以上の才能といえる。 また、学力も入学試験を通る程度にはあるわけだ。
では、この才能を伸ばすのが、いわゆる、理国数理社の学業という枠でいいのか?
自由入試(AO入試のこと?)はここ数年で否定されてる。存在することは存在するけど、その後の追跡調査で脱落組が多いことがわかっている。大学でやるべきことをこなすための必要最低限の力が備わってなければ無駄。
大学でやるべきこと、というのは、先人の成果を踏まえた結果を身に付けて世の中の運営に参加することができる人間になること。そもそも先人の成果が無関係なら、大学なんか意味ないからさっさと起業するなり、タレント事務所探すなりしたほうがいい。
というのは、日本からGoogleやFacebook Appleが生まれていないというのは、ひとつの学業の定義が狭すぎる。部品となる人間しか作っていない。
つまり、彼女の活動は日本では認知されないだけで、立派な学業である。
あのー、GoogleもFacebookもAppleも「まともな」学問が支えてるんですが。Jobsが大学をリタイヤしたのは、天才なので参考にならない(とはいえ、彼は潜っていたカリグラフィーの授業がAppleのUIのこだわりの基礎だと言っている)。Facebookのザッカーバーグの着想は学業とは関係ないかもしれないけど(← 単に知らない)、それを実現可能にしたのは「まともな」学問の下支えあってこそ(グラフ理論、分散コンピューティング、ユーザーインターフェイス、他)。さらに、GoogleはLarry Pageの博士研究(グラフのリンク関係から重要なノードを算出する方法)から出てるって話、知らない奴多すぎ。
そういうことをちゃんと理解しないで、皮相的な理解で「ひとつの学業の定義が狭すぎる」とか言ってオレ定義を振り回して、思考がどんどん浅く浅くなってくんだよね。馬鹿が馬鹿を見て評論している、としか言えない。ちゃんちゃらおかしい。
一応アメリカの大学にも多少(2年ぐらい)遊びにいったことああるけど、はっきりいって足りないのは「学問へのこだわりの深さ」、これにつきる。PageにしろJobsにしろ、深いこだわりがあってはじめて横展開の「自由発想」が活きてくる。例えば、あっちではそういう「自由な発想」ってのは複数の学位(普通は修士だけど)を同時に取れるぐらいのものを意味する。例えばコンピュータサイエンスと芸術の同時取得とか、凄いやつは同時に満たす何かを作り出す。
もちろん、件の学生が今までの常識(先人達の蓄積)を覆すような天才である、という可能性はあるけど、それなら放っておいても何かしら出てくるだろう。タモリを赤塚不二夫が見出したように、天才には天才がわかるはずだ。
ねーよ。
こういう人達が大学を出る必要なんかないんだよ。というか、「彼女の活動」はフツーの大学で扱った瞬間に死ぬ。もし本当に飛び抜けた活動ができる、というのであれば、芸大あたりでやればいい。
もっと凄い人間が山程いる中でどれぐらいやっていけるのか疑わしいけどな。
単に大衆に迎合する、大衆が心地良いものを生み出す能力、これを「芸人」と言います。
芸人は別に高卒でも中卒でも関係ない。「就職するために大学を出ないと」なんてほうがおかしい。それこそ、企業が「自由採用」してくれればいいだけ。
「早稲田追い出されたけどわたしはこれだけのことができます。雇ってくれませんか?」って言うほうがよほど筋が通る。
でも一歩引いて考えると、今回の問題は「大学とは何か?」という問題に答を出さないままなぁなぁに「就活」との共犯関係を深めてきた、オトナが一番悪いんだけどね。
妹が引きこもって10年になるが、未だに外へ出ようとは思わないらしい。
引きこもりのせいか、色白で痩身、髪は伸び放題だけど癖毛のせいか軽くパーマがかかっているように見え、正直美人だと思っている。
もともと妹は、病弱ではあったけど活発で外向的な性格の持ち主だった。
友人も私なんかより遙かに多く、病気のせいで5年も芸大に通っていたので、人付き合いの幅も広かった。
そんな彼女が引きこもりになった原因は、些細な職場でのもめ事だった。
当時彼女は、派遣社員でシステム開発会社のアシスタントをしていたが、
デザインを専攻していたこともあり、その会社のホームページを空いている時間に作成・修正していた。
ただし、当初は空いている時間に修正すれば良かったハズが、だんだんと依頼が増えてきて、
ついにWEBデザインが主業務となったらしいい。
「普通の仕事ができないいから仕方なく頼んでるのに、いい気になるなじゃないよ」
といびられていたらしい。
それから、会社に行くのが嫌になり、欠勤が続くようになり、部屋から出てくることも少なくなった。
(それでも、たまに極親しい友人に誘われると飲みにでかけるのだが)
http://anond.hatelabo.jp/20120103131444
http://anond.hatelabo.jp/20120103132230
しかも、博士課程+学振+育英会/JASSOの話題まで触れてもらえたのでうれしいです。
イヤミ抜きで、
音大・芸大に行って、高い楽器や衣装を用意して、師弟制度の中で頑張っても、将来が約束されない芸術家の卵や、
10代・20代で師弟制度に揉まれながら、借金を背負いながらも独立してる土木業や飲食業の人や、
不条理な文句に社内からも社外からもた叩かれて逃げ場のない企業人や、
そんな方々に比べて、
いろいろ借金を背負っているとはいえ、広義のサラリーマン職への就職を狙えるし、
今私は、鬱状態で仕事を休んでいる。フリーランスのアーティストとして10年ほど。その半分以上を海外でくらし、今もヨーロッパの片隅にいる。
カオスラウンジというグループ、全く知らなかったが、なるほど、人々の怒りがよく分かる経緯だった。
面白いので、コラにはコラに対抗ということで、代表藤城嘘の作品や彼の写真をphotoshopで10分ほどやっつけでコラした絵をPixivに投稿。説明なしのアカウント削除→IPアドレス指定拒否→串刺しIPでの再UP→瞬殺アカウント死亡 などを繰り返して遊んだ。
http://www.rupan.net/uploader/download/1311933348.jpg
で、私の意見。
これ、日本の芸術にたいするマーケットのあり方や、芸大における教育とか、そういうことが根本にある。
まずマーケット。
これは日本だけでないけど、マーケットって、ようはお商売の世界。売れればいいの。芸術家も、批評家も、生活あるから、お金にしなくちゃいけない。
で、やっぱり、売れたものはみんな金魚のふんみたいについていくの。それは仕方ないこと、どこでも。
そのために役にたつのが権威(power)。カオスラウンジは村上隆と美術手帖がそのicon。
私は両方とも死ねと思っている。(殺害予告ではありません… 念のため) 正直。
村上隆は売れた。それはいい。オメデト。尊敬。でももともとサブ・カルなのに、権威的にふるまう?どうして?
本流に対してのalternativeなありかたとして出した、その経験の意味は?
美術手帖。いつも売れ線をおっかけ。責任おわない。コンテクストが脆弱(消極的な取材が透けて見える)。しょうがないけど。お商売だし。でももうちょっと、光を見せてよ、せっかく日本のマーケットで権威もっちゃったんだから。
僕は90年代に青春をすごしたから、今の日本の若い人とちょっと感覚ずれてるかもわからないけど、その時の感覚からすれば、分かる。
日本の人って、権威に弱い。テレビとか、どっかの大学の先生とか、批評家とか、マーケットとか、あとは身近な友人や家族なんかの意見にも。
もちろんどこでもそうだけど、日本はちょっと過剰だなーっておもう。
今自分が見てるもの、聴いているもの、食べているもの、感じているものを、どうやって、「いい」か「悪いか」判断できるだろう?
日本の人は、まず周りをみる。周りの様子にノル人、ソル人…
僕が暮らしいるところの人たちは、まず自分のフィーリングを聴く。で、それから周りの人も見る。それから、どうするかと考える。
yap, subjectは結局おなじなんだけど、順番が違うんだよね。僕がくらしている人たちは、まず自分の意見が先にくるんだよ。
例えば、スーパーマーケットにいって、入り口に物ごいがいる。ああ、かわいそうだなって思ったら、こっちの人はお金渡す。
日本の人は、まず、お金わたす自分の姿が周りからみてカッコワルイ、アタマヲカシイ?、ってかんがえて、無視する。
全員がそうでないけど、そういう傾向が、ある。
この順番が、カオスラウンジの人たちの行動にもよく見える。
http://d.hatena.ne.jp/lie_fujishiro/20110625
端的にいうと、ダサい。カッコワルイ。
同じ芸術家として、引用とかサンプリングについての立場はちょっと分かるよ。ちょっと。
でもさ、想像力って彼らは持っているんだろうか?
例えば満員電車の中で私が突然うんこしたら、みんな嫌がるだろーなーって、なんか創造できる、だから私はうんこしない。
やべぇ、うんこもれそう、もうしぬぅーーーーってなっても、みんな嫌がるだろーなーっておもうから、我慢して、次の駅までまって、でダッシュ。
ま、動機はカッコワルくなりたいってのもあるだろうけど、まぁおんなじように。
で、カオスラウンジの人たちは「ウンコしたい」で、すぐウンコしちゃってる。ブリブリ。
ネットのオタク文化いけてる、売れそう、俺好きやし、カッコええやん、よっしゃ、これで俺の作品つくったろ。
一方的。想像してない。それで誰が傷付くか。
みんな同じようなネタをずーっと話してたり、コラしてたり…。純粋だなーって思うのと、あと普通だなーって思う。
世の中の多くの人たちが、文化については保守的。日本をみたら、なんで演歌や歌謡曲が未だに紅白で重要な立ち位置を持っているかということ。
そういう人たち(=普通の人たち)の気持ちに思いを巡らすのが、やっぱり普通の人であるところの、普通の芸術家でないの?
少なくとも、私は自分自身芸術家としてそういうスタンスを譲らない。
あるいは、もし自覚的にそうした『普通』に対する反抗であるなら、最後までヤリきらないと。
炎上したから?ビジネス・パートナーが予定していた商品をキャンセルしたから?周りのエラい批評家にお説教されたから?
本当に反抗したいなら、まず梅沢ナントカという友達の作品を正当化して、ウルセェ、テメエラなんもわかっちゃいねぇんだよっていって、もっともっと同じ手法で作品を創らなくちゃ。で、その路線で別のパートナーをみつける、そこまでいかないと。
この謝罪、カッコワルイよ。
たぶん村上隆が翻ったのも、この日和見的なところ(態度)で、ア、コイツラ、シロウト。ってみやぶったんだと思う。
で、彼らがここまでやってこれたのが、日本の芸大etc.における芸術教育の影響だろうなぁと。
「売れる」ことを考えすぎ。たぶん、日本におけるfine artの伝統の不在が起因なんだろうけど。
自分が、一人の人間が、今思い、考え、感じていること、そしてそれによって目の前にある作品や起きている事象にたいする疑問を素直に「どうして?なぜ?」と問いかけること。こういう当たり前の姿勢がどうして求められないんだろう?
タマタマ自分がやっていることが売れ線だと。で、エラい批評かなり、curatorなりが、ヨイヨイ、といって、金だして、仕事なりコンタクトわたしたりして、ま、同業者として分かるっちゃ分かるけど、それで、自分がやっていることは全肯定できるのだろうか?
酔いが回ってきたので、またそのうち続きを書こう。