はてなキーワード: 作用点とは
河野太郎が、「年末調整を廃止して全納税者が確定申告する税制にする」とXで宣言して炎上や賛同やらされている問題。これはずっと以前から理想的な税制として語られてきたもので、別に太郎が急に閃いた事ではない。
https://x.com/konotarogomame/status/1830737429361504665/photo/1
https://nordot.app/1203999108206085074
元々はGHQが戦前の日本の旧弊で反民主的な税制を是正せんとした税制改造(シャウプ勧告)に端を発する。つまりは民主的税制案である。
戦前の日本では納税単位がイエ単位であったり、戦時増税として物品税が多く設定されている為に市場じゃなくて個人売買した方がお得とか、税務署自体もやたら威張っているなどの問題があった。イエ単位の納税は個人がイエに縛られている事を前提とするので反自由、反民主的であり、会社員世帯が税額の面で不利になる。戦前は資本主義が未発達で会社員は限られたエリート的な身分だったが、これが大衆化して給与も下がったら不公平は看過しえないものになる。また地方自治体の税収源が少なすぎる為にを国家中央が握る地方交付金に依存しすぎているのがファシズムの浸透の原因にもなった。
こういう判断でアメリカ型の税制の更に理想的な形を日本で施行して、根幹から民主的資本主義国家の骨格を持たせようとした。
それで導入されたのが、法人税、青色申告と複式簿記、固定資産税などだ。戦前では土地の税金は地租、家屋の税金は家屋税で、共に国税であった。これを廃止して地方税の固定資産税として納税先は自治体となった。
で、問題の源泉徴収、年末調整だが、これも廃止して個人の確定申告にする事がシャウプ勧告に入っていた。だが困難という事で見送りされてしまったのである。
それはまず取りっぱぐれの問題。税務署も会社を押さえておけば効率的に所得税は見逃しなく徴税出来るが、社員個人の確定申告のみとしたらバックれる奴が出てくるに決まってるし確認作業も大変だ。
もう一つは社員が確定申告に来るのが大変だという問題。確定申告の為には一日休まなきゃならない。そして税務署で延々並んで…というのをやらないといけない。当時産業が殆ど吹っ飛んでしまって生きるのも大変な時期に金を払う為に一日休めるか、会社も社員がごっそり来ないという状態を是認できるか。
こういう反対意見に押し切られて天引きの源泉徴収と年末調整のままになってしまった。
シャウプ勧告には有ったのに見送られてしまった総確定申告制だが、その後も理想的税制として導入を訴える声はあった。
それはまず、太郎も言っているが税の仕組みが判るようになり、使われ方にも分解能が上がるだろうという事。
ブクマページなどでは「この機会に簡素化して控除も無くそう」みたいな事言ってる人がいるが、逆だよ逆。どういう行動の支出に控除があるのか、自分はどの控除が掛かっているのかという事を知る事が出来る。「控除も無くそう」というのは天引き以外の納税を知らない意見だ。「所得税」の欄の数字が所得額から単純に出てると思ってる。だがこの数字は会社が控除額を計算して算出しているのだ。
控除がどこに掛かるかを知れば、現在の国が不公平を是正する為に会社員のどこの負担を認めて差っ引いているかが判るようになる。
もう一つは利害の誘導。国がどのような行動をして欲しいか、というのが控除に現れる。マイホームを買ってローンを組んで欲しいか(見かけ上通貨流通量の増加→インフレ)、子供を産み育てて欲しいかなどだ。これは法人税や青色申告だともっと鮮明に意図が見える。
今までは確定申告の為に一日休んで税務署に行くというのが負担だった。年度内で転職したのに確定申告に行かない(行けば取り過ぎ分還付されるのに)人も多かった。
でも電子納税なら夜でも出来るし時間も掛からない。税務署で並ぶ必要もない。負担にならないのだ。テック万歳である。
という事は増田は太郎の意見に賛同していると思うじゃん?残念だが反対なのだ。
としている。だが「所得情報を迅速に把握」と「ピンポイントでプッシュ型支援」は繋がるのだろうか?
この二つは別の問題じゃないのか?
更に現在でも源泉徴収の為に社員のマイナンバーは必須となっている。総確定申告化で何か変化があるのか?何もない。
因みに自治体によっては低所得者向けに交通チケットや給付金、買い物券などの支援をやっている。現在でも納税額を見てプッシュ型でそれら申込書を送ったりしている。「ピンポイントでプッシュ型支援」されているのだ。
但し地方自治体が所得額を把握するには、国税が所得税確定→それを基に自治体が住民税確定と段階を踏むので、時期は6月辺りになる。太郎はそれを前提に「所得情報を迅速に把握」としたのだろうが、白色申告時期の3月から3か月程度でしかない。この文章を読んで「たった3か月じゃん」と思えないのはダメである。
だが問題は何故こういう力点と作用点が違う事象を言っているのに通ってしまうかという事である。
日本でのネオリベ流行には特徴があり、支持者に経済音痴が大変多い。商取引での慣行や法制度、更には経済事件は非破廉恥罪で社会の善悪感情と異なるという常識すらない者が多い。
また「メンバーシップ型会社から自由な」個人を謳っているくせに経済事象を給与所得者の延長で考える事が多い。多いというか専らだ。つまりはB層の問題だ。
賛同する政策というのは何かを壊す(入力)というものが多く、その結果は任意の好ましいものになる(出力)という根拠がないものだ。
例えば郵便局を株式会社化して上場させるという入力に、サービス向上という出力が発生すると素朴に考える。だが普通に考えれば配当が欲しい株主が離島や過疎地でのユニバーサルサービス継続に賛成する筈がないよなぁ。
また、賃貸の家賃を安くする(出力)為に土地建物の相続を廃止(入力)して不動産会社が取得すべきという意見も見られた。これは既得権益者の地主などにも諭されていたが、物件取得費を家賃で回収する必要があるから安い物件なんて無くなるわなぁ。
太郎が今言ってる解雇自由化(入力)で雇用流動性という出力が得られる論も同じで、入力と出力が結びついていない。それを結びつけるのにはどうするか?という設問が出ない言論空間をアテにしているのだな。
こういうややこしい社会制度を解体したら望ましく自分が得する結果になる筈!というのは90年代まではリベラルがやっていた。自分が抑圧されているのは社会のせいだ、と。また海外出羽守も同じことを言っていた。
2000年以後になるとリベラルは退潮し、代わりにネオリベが流行した。これは市場を喰われたって事である。
だが実際に導入されてみるとこんな考えだったB層達は解放されず、勝者はノウハウを集積出来る法人であった。
また単に市場をシュリンクさせ余剰を無くして全体の賃金を縮小させデフレを進行させただけだった。日本からはGAFAMは現れず、Ankerも現れず、3Dプリンタなどの新しい技術を売る会社に日本企業の名はない。成長してLGサムソンになる会社もいなかった。
これらが出来なくなる基盤だけを提供したのである。日本のネオリベと米韓のそれは性質が違うのだ。
ところがそんな入力と出力の間を繋げる努力も無しに任意の入力すれば任意の出力が得られると言って憚らない連中は残存している。彼らが持つ社会へのルサンチマンが入力と出力の必然性を彼等の中で担保しているのである。
今回の太郎の表明に「複雑な税制が無くなって控除が廃止される事」を望んでいる意見が寄せられているのがその証拠である。天引きサラリーマンから見たら控除の必要性なんて判らない。それでそれを敷延して判り易い世界が来る事を期待してしまうのだ。もうこういう支持のされ方をする政治家は落とした方がいいだろう。
太郎はかなり面白い来歴の人物だ。Wikipediaにもあるがアメリカの大学で政治学を学んでいるしその途中でポーランドに留学している。その間に後に初代ポーランド大統領になったワレサ「連帯」議長を訪ねている。当時はまだゴルバチョフのペレストロイアの前で、連帯は反体制運動と見做されていて太郎も公安警察にしょっ引かれている。
連帯は自由主義寄りだったユーゴスラビアの自主労組のような組織で、共産党独裁が前提のソ連勢力圏では「修正主義」と見なされて弾圧されていた。だが後の東欧の自由化の先陣を切った運動であった。
その連帯のワレサ議長に、ゴルバチョフ以前に会いに行くというのはすごい行動力だ。筋金入りのリベラルといっていい。
だがこういうリベラルが保守側に転向した際に最悪となるエピソードというのは多い。一番判り易いのがアメリカのネオコンサバティブで、その中心人物はスターリンに左翼偏向と詰られたトロツキストだった。
『国益』誌でソ連崩壊をアメリカ的民主体制の勝利(歴史の終わり)とする一派を押しのけて軍拡競争の為と総括した連中が911の衝撃に乗じて共和党内の穏健派を追い出し、宗教右派と手を組んで共和党ジャックしてしまった。その結果イラク戦争を起こし、イラク国内を平定出来ずにISISの活動を許し、中東を戦乱の渦に巻き込んでしまった。責任を問われて失脚し、穏健派をパージしていたので今の共和党は宗教右派と陰謀論のトランピアンに乗っ取られた、アメリカの覇権の内なる脅威みたいなもんになっている。
太郎の場合も実効性や結果のフィードバックを取り込んで行動していない。設計→実行→修正の行政組織の行動葎を取り込まずに、設計しっぱなしなのだ。イージス・アショア配備で断念する旨の報道が出たのに「自分は知らないから誤報」と言って後で泣き言言っていたのを覚えているだろうか?防衛省内の報連相サイクルからパージされていたという事だ。
ワクチン担当でも残数ショートで産業医接種を突然停止させ、その余波で通常の大規模接種も長く停止してしまったのに、それは外部の問題だと言って憚らなかった。自分の行動が及ぼす影響を考えず、自分の設計は正しいと言うだけだった。
Xのブロック問題も初めは「変なネトウヨ」(本人談)をブロックしていただけだった。紅の傭兵の息子だから中国のスパイだろお前は、的なものを相手にする必要はない。だが入閣後は自分の行為を評価している人全てブロックになって、マスコミの質問もブロック、となるとただ設計があるだけで、それが適切な出力となって社会に作用するか?という事を問われる環境に居た事が無い。
そうすると源泉徴収年末調整廃止と総確定申告化が如何にシャウプ勧告に基づき、ずっと議論されてきた理がある方策だとしても反対するしかない。
しかもこれが「ピンポイントのプッシュ型支援に繋がる」と、入力とまるで関係がない出力が得られる、と言っていれば猶更だ。これは20年遅れのB層に設計しっぱなしの政治家が語っているというだけの下らん話である。それは騙しがデフォルトのコミュニケーションをしているだけに過ぎないのである。
ルッキズムはよくないという主張はよく耳にするし考え方としては理解する一方、
これは機能美という言葉があるように、優れたパフォーマンスを発揮できる肉体を美しいと感じるのは致し方ないような気もする
一方で力仕事ができる男の体が評価されているかといえばちょっと違う気がする
てこの原理、支点・力点・作用点の関係をイメージすればわかりやすいだろう
よって力作業が必要な仕事では長身男性はそれを補って余りある筋肉がないとまず採用されない
実際に力仕事ができるかどうかという点ではまず筋肉、持久力という点である程度の脂肪、これが大事
でも女性受けという点で、165㎝のマッチョと175㎝ガリがいたら後者がモテる
細マッチョは好き!という人がいるかもしれないが、女性の言う細マッチョは脂肪が無さ過ぎて腹筋が割れて見える(赤ちゃんでも腹筋自体は割れている脂肪で見えないだけで)だけのガリであることが多い。
マッチョな男性が性的に評価される業界はあって、それがゲイポルノ業界
ゲイポルノ業界で人気が出るのはまず何よりも厚い筋肉のある体、180センチを超えるともうゴリマッチョというレベル
いい体してんねぇ!
ではゲイ以外がルッキズムから離れているかといえばそんなことはないだろう
研究者が言うには背が高いとそれだけでリーダーシップがある、説得力があるとポジティブに思われやすいらしい
(運動習慣と所得に相関があるという研究はある。その研究によれば運動による所得増加効果は女性のほうが高いらしい)
きっかけは母親が「空気を読む脳」を買ってきたことだった。以前からこの人の主張はおかしいと思っていて耐えられなくなりこの人の他の本も読み、言動についても調べた
酷い。矛盾だらけ、エビデンスにならない動物実験ソース、人を見た目で判断することは科学的に正しいという主張、本人の言っていることとも矛盾した倫理観。
彼女がいつも言う「日本人はセロトニントランスポーターが少ないから不安に駆られやすい」という理論、まずこれが怪しい。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)について知っている人なら奇妙に感じるだろう。この薬は、セロトニントランスポーターの機能をあえて弱めることでシナプス中のセロトニン濃度を増やし不安を和らげる薬だとされている。つまり、彼女の理論とSSRIの作用機序についての理論は正反対なのだ。モノアミン仮説にもやや怪しい部分はあるが、正反対の解釈というのは流石におかしい。神経科学の専門家はどう思っているのだろうか。
「空気を読む脳」で日本人はサイコパシーの傾向が強い人が「どちらかといえば」少ないから内側前頭前皮質が発達していて倫理や美醜の観念に厳しくそれが変わりやすいのだと書いていた。当たり前だがサイコパスの人の数を正確に見積もるのは難しいのであってそういった数字は単なる誤差か診断基準の違いによるものである可能性の方がずっと高い。仮にサイコパスの人が少なかったとしても内側前頭前皮質が発達している人が多いことを意味するわけではない。サイコパスとは行動や心理をもってそう判断されるものであって実際に内側前頭前皮質の機能が弱いとは限らない。内側前頭前皮質の機能が強い人も弱い人も共に少ないということもあり得る。
ついでに「不倫」では日本人は保守的で変化を好まない民族だとも言っていた。それなのに倫理観が変わりやすいらしい。数年前には問題でなかったことが問題になるのは日本に限ったことではないし「日本人の脳」に原因を求めるのは無理がある。
「戦国武将の精神分析」では汚い手も使って勝った徳川家康が今でも日本人の理想のモデルとして存在しているとも宣っていた。日本人は美しい敗者を好むのではなかったのだろうか。美醜の観念が変わりやすいのではなかったか。
美醜の観念が変わりやすいのに何百年にも渡って義経のような「美しい敗者」が理想化されているらしい。
「不倫」でもこういった飛躍がある。たかだか寝かしつけの習慣があるからといって日本人はオキシトシン受容体が多いのだということにしていた。もちろん実際に日本人の脳を調べたわけではなし。スキンシップの総量が他の国と比べて多いか少ないかわからないのである。オキシトシンの多い人は不倫傾向が弱いとも書いていたが、日本人は不倫が多いという同著での主張とも矛盾する。(よくよく見ると厳密には比較不能な国際調査と国内調査を比較していたが)
更に、セロトニン神経細胞にはオキシトシン受容体が存在し、オキシトシンが増えるとセロトニンが増えるという事実は「日本人はセロトニンが少なく、オキシトシンが多い」というモデルとも上手くかみ合わない。彼女もこの矛盾に気付いているのか、週刊新潮 2020年12月17日号での佐藤優との対談でまだ発見されていない要因があるのかもしれないと言っていた。
更に中国や韓国の「反日」まで「セロトニンが少なく、オキシトシンに頼りがちな遺伝的特質」のせいにしているのには呆れを通り越して笑ってしまった。歴史上何度も革命を起こしている中国人もまた、保守的でリスクを好まない形質の持ち主らしい。
「サイコパス」でフロイトはトンデモだという声もあるほどだなどと書いていたが、リビドーや無意識という概念の代わりにセロトニンやオキシトシンや脳部位が万能の説明法として君臨するようになっただけで間違い方に大して違いはない。
この記事でも指摘されているように、彼女は不要な場合でもひたすら専門用語を使って話す。https://anond.hatelabo.jp/20150908145246そういう言葉を用いれば多くの人間は科学っぽく感じてしまうことをわかっているのだろう。
人間でもそうだという根拠にならない動物実験をたびたび引用して人間の話に繋げる。キツネ、マウス、プレーリーハタネズミ、サバクトビバッタと…
「脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克」(嫌な部分が剥き出しで、是非お勧めしたい本だ!)で人間に何世代も飼いならされたキツネは容姿が変わってくることを挙げて人を見た目で判断するのは科学的に正しいのだという主張に持っていっていた。少し脱線するが「空気を読む脳」でもたかだか0.126の相関で「容姿と知能に関係がないとは言い切れない」などと書いていた。それだけの数値なら関係ないかあったとしてもごくわずかな関係しかないというべきだろう。
「戦国武将の精神分析」でマウスを取り上げて人間でテレゴニーが起こらないと証明されきったわけではないなどと立証責任を押し付けた。確かに人間にもマイクロキメリズムはあるがそれはテレゴニーとは違うものだ。それにしても不倫バッシングを批判する中野がヒト・テレゴニー説に対して好意的なのは面白い。
「不倫」でプレーリーハタネズミのAVPR1a遺伝子を操作すると生殖行動が変わり、AVPR1a遺伝子が人間とボノボで「ほぼ」同じだからといって人間も本来ボノボのように乱婚的だと示唆した。
そのわずかな違いが重要な違いである可能性はあるしAVPR1a遺伝子も実際は空間記憶能力に関わる遺伝子で空気記憶能力の高いプレーリーハタネズミは行動範囲が狭く単婚的になるというのが実際のようである。https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2015-12/aaft-_4120715.php中野はかなり単純化・歪曲して解釈している。
「空気を読む脳」で書いていたサバクトビバッタに至ってはなんとセロトニンが多いバッタが集団志向になるのだそうだ。同著での主張とは真逆だ。
文藝春秋4月特別号の「脳科学者が小室圭を「分析」する 世間の常識はなぜあの母子には通じないのか」でゴールドウォーター・ルールに触れておきながら小池百合子やドナルド・トランプがサイコパスだなどと言っている。精神科医ですらない人間が直接の診察もなしであの人はサイコパスだなんだと言っているのである。
「ペルソナ」でセクハラを告発していたが、「脳・戦争・ナショナリズム」では以前なら当たり前だったことも「セクハラ」「パワハラ」にされてしまうなどと言い、今日かわいいねと言ったら今まではかわいくなかったってことだと思って泣いた子供を批判的に取り上げて世の中が過敏だというニュアンスを込めて論じていた。以前とは考えが変わったという見方もできようが最近でも「昔は乱婚だった、現在の倫理を相対化すべきだ」という主張を繰り返している。当たり前だがある倫理が新しいことはそれを否定する根拠にはならない。私は乱婚社会を悪だとは思わないが。
「ペルソナ」の話に戻ると、親と子の関係に他人が口を挟むなとも書いていた。虐待の温床となる態度である。旧式の価値観に従っていい子でいるくらいなら~などと宣っているが、旧式の価値観にしがみついているのは彼女自身である。
そして最後に「不倫」で書いていた、不倫は遺伝子によって決定されているのだからそれを断罪することは差別や優生学に繋がるという主張について批判しておこう。
別に不倫遺伝子とはあれば絶対に不倫するという因果律を支配する魔法のようなものではない。ある人はない人に比べてその確率が高くなるといった程度のものなのだ。もし殺人やレイプのような重犯罪についてもそのような遺伝子があれば殺人やレイプも断罪してはいけないことになってしまうだろう。不倫バッシングも遺伝子のせいだとすれば不倫バッシングを差別だ優生学だと断罪することもまた差別ということになり自己論駁に陥る。「あなたの脳のしつけ方」では後天的に脳を変えることもできるのだと書いていた。この頃はまだまともな内容を書いていた。
思うに、彼女の本がベストセラーになるのはこういった免罪的側面のせいなのだろう。そういった遺伝決定論に従えば不道徳な行動も遺伝のせいになり免罪される。世の理不尽なことも「脳や遺伝子のせい」とわかった気になれる。
橘玲の本のレビューにも「遺伝によって決まっているのだから学生時代あんなに頑張ることはなかった」とか「子育てするお母さんに読ませたい」というものを見た。遺伝率とは集団規模での決定係数のことであって個人のレベルでは親のIQから予想された数値より高かったり低かったりして当たり前でどのくらい予想された数値と違うかも個人によるのだが。
この記事におかしなところがあったら、具体的な反論をしてほしい。私も流石に脳や遺伝子についてそこまで詳しいわけではない。中野の本を読み、関連する内容を調べた程度なのだ。それでもこれだけ矛盾が見つかる。
追記:2021/5/8
https://next49.hatenadiary.jp/entry/20161220/1482228666
“2000年の論文で「この損害回避とセロトニントランスポーターのプロモーター領域の遺伝子多型との関連を支持する研究と支持しない研究が存在し,今後さらなる検討が必要である」とあり、2009年のメタ分析の論文で少なくともフィンランド人のサンプルにて不安遺伝子を持っているかどうかと損害回避性(harm avoidance)と神経症的傾向を持っているかどうか調べたところ関係があるという証拠はないという結果がでているのだから、セロトニントランスポーター遺伝子が少ないから損害回避的にふるまう傾向があり、そのため、「上位の人間に対して勇気を持って行動できる性質」が日本人にないというのは適切でない主張。”
https://www.ncnp.go.jp/nimh/pdf/kenkyu59.pdf
“さらに、この S/L 多型は、PET により測定される脳内 5-HTT 結合に影響しないこと、前述したように、5-HTTLPR の多型は S 型と L 型の 2 つではなく、14 種類のアリルからなり、それぞれの機能の異なる複雑な多型であることからS 型、L型の2分法での研究自体に疑問が生じているのが現状である ”
https://neurophys11.hatenablog.com/entry/2016/03/01/223747
”ざっとこんな趣旨の記事だが、先に書いたようにそんな気質そのものがたった1つの遺伝子で決まるものでは無いんである。このセロトニントランスポーターが気質を決めるというのは実は結構な前から沢山の論文が発表され、ある程度そう言える部分はありそうなのだが、それでもその決まる程度は極僅かで、決して「日本人気質」を作ってなどいない。
こういった「1つの遺伝子が性格を決めている」系の話は、すべて科学漫談として楽しんでおけばいい。特にセロトニントランスポーターが気質を決めるという話は良く出てくるが、そんなにすごい力コレだけにはないですよ。”
https://www.amed.go.jp/news/release_20160128.html
”SNPの品質管理などから、最終的に1088名について解析を行いました。その結果、BMP2遺伝子近傍のSNPとストレスフルライフイベントの相互作用が、統計学的に有意にうつ状態と関連することを見出しました(図2、図3)。そして、抗うつ薬の作用点であるセロトニントランスポーターなど、古くから知られる候補遺伝子には、有意な関連は認められませんでした。”
どうやらセロトニントランスポーターが「日本人らしさ」を決めているというのがトンデモだというのはまともな研究者ならすぐわかる話のようだ。中野信子はあまりにも本を流行らせ過ぎた。研究者はもっと積極的に反論するべきだろう。
一般名はタンドスピロンクエン酸塩で、1996年に発売された大日本住友製薬の抗不安薬である。
このセディールはggったらわかるのだけれども、びっくりするほど評判が悪い。
私はセディールに丸2年ちかく、1日3回世話になり続けた。
途中何度か油断して断薬したりもしたが、
その度に「やっぱりセディールがないとだめなんだ」と反省して飲み直した。
どれくらい飲んだんだろう。700日間飲んだとしたら2100錠だから、21箱?
私はセディールが好きだ。人生を救ってくれたと思っている。とても感謝している。
できれば1日3回の用法が煩雑なので徐放とか開発してくれないかと思っているのだが、
というわけで、ネットにセディール万歳記事が見当たらないと悔しいので、
どうせこの記事も埋もれるんだろうけど、それでも書きたい。自己満足です。
長くなるけど自己満足っていうことで許してほしい。
セディールの話をしているからには、私は抗不安薬を飲まなくちゃいけないような人間だ。
幼い頃はADHDのクラスメイトとセットで爪弾きにされて、彼女の失禁の面倒ばかりみていた。
その後不登校になって自殺未遂して、……まあ波乱万丈に鬱々と生きてきた。
受験生のときに、駿台模試の数学で偏差値103とったことがあるくらい。
他人にはほぼ無関心を貫いていた私も、さすがに驚いた。
「こんなに簡単な問題を解けない人がいるらしい」という方向に。
別に数学自慢をしたい訳ではなく、抗不安薬の薬効を褒めるに当たって
どういったバックグラウンドの患者であるかを説明したいのだが、
数学ができそうなことを書いてみたが、私は基本的にテストが苦手だ。
知らない場所へ行くのも大嫌いで、場所が変わったらただ硬直するだけの人になる。
たまたま前述の模試は知っている予備校の知っている部屋で開催されただけで、
別の部屋で開催していたら多分偏差値なんて40とかその程度に落ちていたと思う。
たとえば「月末に試験がある」とか、いつもと違う予定になってしまったら
食事も食べられないし、部屋の片隅でずっと猫のように丸まっている。
両親はいつも「私に物事を意識させない」ように気遣ってくれていた。
幸か不幸か、観察眼もないし日付や時間もよくわからない人間だったので
騙し騙し手を引けば、何にも気付かずいつも通りに過ごしていた。
「今日は一緒に出掛けよう」←よくあること
「この席に座って問題を解いてね」←よくあること
で、誤魔化すことが可能だった。
子供だましのようだが、子供だましが看破できないからASDなので仕方がない。
しかし、そんな風に一から十まで他人に面倒を見させる訳にもいかないだろう。
大学受験の段階で、かなりムリがあったと思う。
一般企業で働くのは無理だと気づいて、手に職をつけさせようとしたのだと思う。
という訳で、向不安薬の存在をはじめて意識したのは、大学の教科書の上だった。
そのとき、私はまだ精神科や心療内科の世話になったことはなかったのだが
セディールが、セロトニン5-HT1A自己受容体に部分アゴニストとして作用するとか、
受容体が脱感作してダウンレギュレーションを起こすことは何となく印象に残った。
他の多くの抗不安薬はGABAa受容体のCl-透過性をどうの、という作用点なので
「あー全然違うのが混ざってる、へー」程度だったと思うが。
まあいろいろあって、職場を追い出され、実家でもちょっとトラブルが起き
元々神経過敏であった私は、あっという間に鬱っぽくなった。
あくまで「鬱っぽく」だ。
適応障害と言われたが、私の問題は適応障害云々とは別のところにあった。
そりゃ何もなくても泣き出したりしたりしたけど。
ご存知の方もたくさんいらっしゃると思うが、
物音も人間の気配も何もかもが耐えられなくて、
外出してみたものの、机の下に隠れて出られなくなるような有様だった。
ちなみに、この時点でカウンセリングやテストを受けて、ASDが正式に発覚した。
また、これもよく知られていることだが、
私もその系統で、鬱や適応障害に投与される抗不安薬がほぼ使い物にならなかった。
たとえば、メイラックス(ロフラゼプ酸エチル)という薬がある。
成人なら1回2mgで1日1回服用の、長時間作用型の穏やかな抗不安薬だ。
高齢者などで1mgで投与されることもある。
1mg飲んだところ、2日間に渡って朦朧状態、ほぼ40時間ぶっ通しで爆睡した。
メイラックスは比較的コントロールできるので今も世話になることがあるが
初日に0.5mg(1mg錠を半分に割る)、以降1日おきに0.25mg(1/4に割る)。
この使い方は、自分の体感を頼りに半減期などを考慮して自分で計算して決めたものなので、
他の薬の感受性が高い人が同じ容量で効果を得られることなどを保証するものではない。
飲んだら千鳥足、からの爆睡。半日以上目が覚めない、そればっかりで、
とてもじゃないけれども、外に出ることを前提に使えたものではなかった。
なお、三環系や四環系、SSRI、SNRIなどは未経験である。
かろうじて大学だけは卒業したものの、卒業したところで私は立ち止まった。
そのまま部屋の外に出られなくて引きこもって終わる可能性も覚悟した。
そんな時に処方されたのがセディールだった。
効果は薄いかもしれないけれど、と抑肝散と共に処方されたそれを見て、
そして、こいつに即効性はないはずだ、と引きこもりの頭で考えた。
知らない。知らないけど、俗に作用発現に2週間と言われているということは、
とりあえず長く見積もって1ヶ月、高コンプライアンスを維持しよう。
とかなんとか。
目標は抗不安効果ではなく、セロトニン受容体を殴ることだと割り切り、
効果の体感がほぼない分、服薬忘れに細心の注意を払ったと思う。
で、2ヶ月くらい飲んだ頃、正直、「あんまり効果ないな」と思った。
依然として不調な時は不調だったし、
そこで面倒になった私は、薬のなくなるタイミングで勝手に断薬した。
2週間くらい放ったらかして、何だかイライラする頻度が増した。
落ち着かない感じというのだろうか。
その時にはすっかり忘れていた強迫行動がぶり返した気がした。
ベンゾジアゼピン薬の消費が増えかけたので、
その時即効性を感じた訳ではないが、数日後にぴたりと強迫行動は止まった。
日付感覚がないので、カレンダーにメモする癖がついていたせいだ。
そして、しばらくして十分に安定した頃合いに、
その直後はなんともないのだが、
数日するとまた覚えのある強迫行動がぶり返す。
退薬症状でいきなり強迫行動のような特徴的なものが発現したら、
何度か間をあけて飲んでは止め、を繰り返し、
たまに本気で飲み忘れる日も挟んで
カレンダーに出来上がった記録を見て、思った。
なんていう内容をやっていたので、熱心に信じることにした。
頻度は減り続け、今では月に1度も必要ない。
そのうち周囲の環境が変化してよくなったこともあってか、
こだわりも飛躍的に軽減した。
もちろん、今日も私は時計が読めないし、日付はよくわからない。
試験とか言われると倒れそうにはなる。
数字が大好きで、統計データを眺めてひとりでテンションを上げている。
でも、もしかして……?と思うことがある。
数年前より格段に増えた気がする。
「今は『じゅうしちすなわちごじじゅうにふんという時間』なんだなあ〜」と素直に受け入れて、
気にせずスルーすることができるようになった。
思えば、私はずっと怖かったのかもしれない。
歩く時は地面しか見ていなかった。
気づいたら増えていて、気づいたら減っている変なものによって
だから見なかったし、感心を払わなかった。
何歳になってもずっとポケモンを見ていた。
私はたいへん臆病だったのだ。
ところが、その恐怖心が、なんだかこの数年でスーッと、静かに
砂の山がいつの間にか溶けてなくなっているような感じで、小さくなっていた。
全てセディールのおかげかもしれないとまでは言わない。
私が単純に成長しただけかもしれない。図太くなったのかもしれない。
世の中に怖いものが増える、という感覚はやっぱり戻ってくると思う。
最近の私が服薬を忘れる時というのは、何かに熱中している時だ。
慣れ親しんだ恐怖心が平行するように顔を覗かせるのだ。
楽しい気分の時に忘れた時なんて、完全に意識の外へゆくはずだ。
でもそうじゃない。
ということは薬効は100%気のせいではないのではないか、と思う。
私はASDで、薬物過敏だし、普通の抗不安薬で昏倒する体質なので、
ベンゾジアゼピン薬を飲んでも普通に起きていられる人には、セディールは弱すぎるのかもしれない。
セディールは、私のような誰かにとって救世主になり得る良い薬だ。
読んでくれた人がいる気がしないが、もしここまでスクロールしてくださった方が
いたのだとしたら、ありがとうございます。
大日本住友製薬さん大好きだよ。
英文の私訳をちょこちょこすることがあって、違和感もたれないようにするにはどうすればよいかググって理解した内容を自分のメモとしてまとめてみる。
The heat | 力点 |
killed | 支点 |
many people | 作用点 |
と考えると分かりやすい。
つまり、「kill」という動作が「The heat」から発せられて「many people」が受け取ったということになる。
前は | 生きている状態 |
今は | 死んでいる状態 |
と変わったので、その状態変化を意味する「亡くなる」を遣う。
この後は
という形で文に足していけばよい。
次の例文に違和感を持たれるだろうか。私は覚える。
―――郵便局の窓口にて 局員:いらっしゃいませ 客:すみません、5枚の桜のマークの切手を下さい
数量詞の遊離とはふつう動詞を修飾するべき数量詞が別のところを修飾してしまう現象だ。上の例文だと「桜のマークの切手を5枚下さい」となるのが自然で、その場合は「下さい」を修飾することになる。
「すみません、5枚、桜のマークの切手を下さい」と言うこともできるが、これも同じく「下さい」を修飾している。遊離先の場所が変わっただけだ。
冒頭の例文も郵便局の例文と同じように考えることができる。「たくさんの人が亡くなった」と表現することもできるが、上記の遊離がされていないからどことなく翻訳調になってしまう。「亡くなった」を修飾するようにして、「人がたくさん亡くなった」とすれば自然な文章が出来上がる。
数量詞遊離はロジック面で不自然な文から自然な文に変える働きがある。
それ以上に重要なのがスルに着目するのかナルに着目するのかという考え方の違いだ。無生物主語の文に違和感を強烈に覚えるのもこうした考え方の違いなんだろう。この違いを覚えていると、英語の読み書きが楽になるんじゃないかと思う。
例えば、昼下がりの喫茶店で女の子と二人きり、向かい合って淹れたてのコーヒーを飲むのって、結構幸せなことだったりするんじゃないかと思う。冬の柔らかな陽光が射し込む窓際のテーブル席で他愛もないおしゃべりに時間を費やしたり、静かに読書を楽しんだり。あるいは二人して課題に追われる羽目になっていたのだとしても、それはそれでいいような気がする。
同じ時間、同じ空間で、互いの気配を間近に感じ取ることができるのだ。これ以上、どんな幸福を望めばいいというのだろう。個人的な意見になるけれど、他にどんな幸福が存在するのか、僕にはまったく見当がつかない。
きっとそこでは、鳴り響く軽やかなポップスが暖房によって心地よく温められた空気を一層朗らかなものに変えている。あちこちに配置された観葉植物は、滲み出る緑に彩られて活き活きと輝いて見える。芳しいコーヒーの香りに満たされたその空間は、何故だか分からないけれど、とても理想的で感動的な幸せで満たされているような気がするのだ。
ただ、現実はそうそう甘いものではない。こんな風に、僕が現実逃避のごとく考えてしまう原因は案外すぐ側にあるのかもしれなかった。
例えば今、昼下がりの客もまばらなコーヒーショップで声をかけてきた女の子が美樹ではない他の誰だったとしたら、この何ともいえないやるせなさを感じる必要はなかったように思える。いや間違いなく、絶対にそうだった。もしも、今現在僕と向かい合わせに座っている女の子が、ただ黙々とシャーペンを走らせているだけ美樹じゃなかったのならば、僕は興奮した雄犬のように尾っぽを振りたくって、にこにこ顔で鼻の下を伸ばしていたはずだった。
目を閉じて額に拳を押し当てると、思わずため息が口から溢れてしまう。
――どうして神さまはいつもいつも人間に過酷な試練をお与えになるのだろう。
神仏に対する信心など皆無に等しいのだけれど、どこかでほくそ笑んでいるのであろう大いなる存在とやらのことが異様なほど腹立たしく思えてきてしまった。だって、目の前にいるのが他の女の子だったのなら、僕はすぐにでも時を止めてくださいませと膝を突いて真剣に祈っていたはずだったのだ。あるいは、代償として失うものを提示しながら遜ることも厭わなかった。
……まあ、出せるものは限られているのだけれど。いらなくなったマフラーとか、買い換えなきゃ行けないブラウン管テレビとか、あまり使っていないバイクとか、その他諸々の、あまり必要性を感じない品々ならばいくらでも出せると思う。たぶん。
そんな取りとめのない考えを展開したのは、頭皮に鋭い視線が突き刺さってきているのに気がついたからだった。そっと目を開けて正面を向くと、眉間にしわを寄せた美樹と目が合ってしまった。反射的に、強張った表情の下から乾いた笑いが込み上げてくる。
他にどうすることができよう。ヘビに睨まれたカエルが石のように固まってしまうみたいに、美樹に睨まれた僕は冷や汗を掻きながら嘘っぽく笑うことしかできないのだ。近づいてくる何かから逃れるために。もしくは、これ以上彼女を刺激しないために。
僕と美樹との間に生じている関係性という名のシーソーについて考えてみるとき、いつだって僕は宙高く持ち上げられている。不安に包まれたままどうしようもなく足をぶらつかせる羽目になっているのだ。原因として、そもそもの作用点が美樹のそれと比べて圧倒的に僕に近いことが挙げられるし、彼女がでかでかとアドバンテージと刻まれた分銅を抱えているのも理由にあるのだろうと思う。まったく理不尽だと思う。
意味もなく笑い続ける僕を心底憎んでいるように睨み付けてから鼻を鳴らして、美樹は続けていた作業へ再び意識を戻していった。週末に提出期限が迫ったマクロ経済学のレポートを仕上げなければならないのだそうだ。前年のカリキュラムで、レポートに既存の論文のトレースが見つかったために、手書きでまとめなくてはならなくなったらしい。最近の生徒は何でもかんでもインターネットとコピペで済ませてしまうという教授の嘆きが、そうであるならせめて論文を熟読するぐらいのことはしてくれと、自らの意見でレポートを製作している生徒にとって見れば甚だ厄介な妥協案に落ち着いてしまった結果だった。視界に入る長い髪を邪魔そうに左手で押さえながら、美樹の大きな瞳は熱心に資料とレポート用紙との間を行き来している。
様子を眺めながら、こうやって黙っていてくれるのなら僕の気持ちも明るくなるのになあと、もったいなく思った。美樹はファッション誌で読者モデルをやってるから、それ相応に、結構な美人ではあったのだ。手足はすらりとして長いし、十分な背丈もある。引っ込むところは引っ込んでいるし、物足りない気がしないでもないけれど、欲しいところもちゃんと膨らんでいる。外を歩けば男性諸君の目を集めることはしょっちゅうだったのだ。同性からさえも、時折潤んだ眼差しを受けることがあった。美樹と一緒に歩くことができる僕は、確かに、傍から見れば多少なりとも羨ましく映っていることなのだろう。自覚がないわけではなかった。友達からは率直に、いいなあ、と言われたこともいくらかくらいはあったのだ。
(2/5につづく)