はてなキーワード: 体感とは
8割強が結婚して家を買ったとか、子育てが大変で、という話になっていた。
30代も中盤になると頭髪が薄くなってきているやつや、
大学時代と比べたら腹に肉がついたな、というやつもいたけど
・年収500万円以上
・大卒
・正社員
・清潔感がある
これは俺の見る感じでは恐らくクリアしていると思うが
見る人によっては1割くらいはNG出されるかもしれなし。
・身長170cm以上
たまたまだと思うけどこの時170cmないのは1人しかいなかった。
もちろん大学の友人には170cm未満も普通にいるので体感で言えば6~7割が該当。
・長男以外
駅前にスーパーとコンビニとツタヤとマックとドラッグストアがある、と言えばわりと栄えているような気がするが逆にいうとそれ以外何もない。
帰り道とは反対方向に10分ほどのところには、駅前スーパーよりはほんの少し規模の大きなスーパーがある。数年前にはその少し手前にもまいばすけっとができた。
去年は駅前にラーメン屋もできて、ここにきて意外と発展し出したのか?と思っていた矢先。
とはいえ、今思えば倒産の予兆のようなものは感じていた気がする。
元々、品揃えや生鮮食品の鮮度は隣駅にある大手スーパーには敵わないし、全体的な価格も10分ほど歩いたところにあるスーパーの方がほんの少し安い。駅前という立地にあぐらをかいた殿様商売だなぁなどという印象はずっとあった。
去年か一昨年か、「コンサル会社とか外部の手が入ったのか?」という空気を感じた。
営業時間の変更、惣菜類の変更、時折行われるイベント販売、変わった部位の肉類の増加、自動精算機の導入、若いバイトの女の子が一掃されて年季の入った愛想のないおばちゃんばかりになったり…まぁ色々。
正直、外部の手が入る=経営が良くない、という先入観もあり、これで持ち直して良くなってくれると良いけどな…というのがまず最初の予兆。
そして、大きな転機だと感じたのは4月からのキャッシュレス決済還元の導入をしなかったとき。
元々クレジットカードも使えないし、交通系電子マネーも使えなかった店だが、先般導入された自動精算機にはカードリーダーも付いているようだったし、これを機にキャッシュレス決済対応もされるのだとばかり思っていた。
とはいえ小規模な店だから料率とか負担があって導入されないこともあるんだろう、と納得はしつつ、自分の足は自然とまいばすけっとへと向かうようになった。品揃えは若干物足りないが大きく困らないし、値段も駅前のスーパーとたいして変わらず、しかし鮮度は格段に良い。もちろんキャッシュレス決済もできる。
自分の体感だが、若い子連れ世代や単身者を中心にまいばすけっとが以前より賑わっているようで、一方高齢者は立地や慣れからかほとんどまいばすけっとで見かけることはなかったように思う。
そして去年の後半ごろから、たまに駅前スーパーに寄ると、空いた棚が目立つようになりだし、いよいよ閉店する日も近いのかな、2、3ヶ月前に告知が出て、長年のご愛顧〜みたいなチラシが配られて…という感じの円満な終わりを想像していた。
年末にも普段通り店を開けているのを横目に長めの正月休みで実家に帰省して、久しぶりに駅前を通りかかったのが昨日の夜。
普段は空いている時間なのにシャッターが下りていて、店の前で何人かが写真を撮っている。後ろからのぞいたら「自己破産申請中のため…」
ついに…!しかも自己破産したのか…!こんなに身近で突然潰れる店に出会ったことがなかったから余計に驚いた…!
そして聞くところによると、駅から10分のスーパーも閉店し、隣駅の大手スーパーも改装のため2年ほど休業するらしい。
買い物はコンビニもまいばすけっともあるし、当座は大きく困ることもないが、果たしてこの後駅前の老朽化したテナントに何が入るんだろう。しかも自己破産。しばらくは動きがないのでは…?
ツタヤもマックも便利だけど、最近はアマプラとネトフリしか見ないし、もうマックでダラダラ喋るような友達もいない。
横浜にある会社に就職した時はよかったが、都内のオフィスに移転して2年と少し経ち、一時間と少しの通勤時間の長さが気になるこの頃。しかし現在の薄給だと、いま以上の家賃は出せないし、そうすると今と同じレベルの部屋は見つけられそうにない。
便利な街の狭く不便な家、不便な街の広くて便利な家。どっちがいいんだろう。
ヒロコはそう言って僕の手からNintendo Switchのコントローラーを奪い取った。
「これからのことって?」
僕は少し苛立ちながらも、ことを荒立てるのは得策ではないと思い、返事をする。
以前、オンライン対戦は味方に迷惑がかかるからとゲームを続けたときは
「私よりゲームの味方が大事なの?」と怒らせてしまったことがある。
視界の端でゲーム画面が動いている。
顔も知らない味方たちが、動かなくなった僕を急かすように「カモン!」と連呼する。
「結婚とかさ」
ヒロコは震えていて、そのくせ力強い声でつぶやいた。
まるで何年も掃除していない排水口の汚れのように、耳にこびりつく。
ついにこの時が来たかと、僕は身構えた。
結婚したいという気持ちはあるが、自分の時間がなくならないか、経済的に大丈夫か、そんな不安が消えずにずっと先延ばしにしてきた。
「それって、プロポーズ?」
ヒロコは一瞬なにか言いたげに口をモゴモゴとさせたが、やがて不満そうな顔で「もういい」とだけ言い放って自室に戻っていった。
何か不味いことを言っただろうか。
ヒロコとの会話は、いつも正解がわからない。
僕は急いでコントローラーを拾い上げ、絶望的な戦況のガンガゼ野外音楽堂へと意識を戻す。
前半でカウントを稼いでいたので、ギリギリのところで持ちこたえていた。
僕は謝罪の意味も込めて「ナイス!」と味方に声をかけヤグラを止めに走る。
試合時間延長を告げるブザーが鳴り響き、ステージに緊張感が走る。
やがて味方と息を合わせて敵を全員倒し、「ナイス!」と連呼しながらヤグラを奪った。
即席の一体感に快感を覚えながら、噛み続けて味のなくなったガムのような薄い勝利を噛みしめる。
(結婚か……どうしようかな……)
今のままの関係も心地いいじゃないか、同棲してるし結婚しても何も変わらないんじゃないか、頭の中で言い訳がこだまする。
僕は答えを出せないまま、出すつもりもないまま、何度も押してきた「つづける」のボタンを押す。
電動アシスト自転車の価格は、昔は10万円以上はしたけど、今は安いので7万円くらいからある。しかし維持費が結構馬鹿にならないのを体感してる。
新しいバッテリーを購入すると3~4万円はかかる。バッテリーの寿命は5年なので、約5年ごとに4万円の出費となる。
バッテリーの寿命が終われば充電することも不可能になるので、古いバッテリーをごまかしごまかし使うこともできない。
自分が使ってる10年くらい前のタイプだと、フロントライトの電源もバッテリーから取ってるので、バッテリーが死んだらただの自転車としても走行不可能となる。
以前買い替えたリチウムイオンバッテリーは約週1の充電でも5年と数ヶ月できっちり壊れた。メーカー想定通りだ。で4万円の出費となった。
もし電動自転車の価格破壊が起きて4万円以下の製品が出てきたら、バッテリー交換するよりも、買い替えたほうが安くなるという、かつてプリンター業界で起きたみたいな逆転現象が起きてしまう。
自分は子どものころからスーパーめぐりが趣味、20年近くスーパーを見てきてることになる。
今自分は東京に住んでるんだけど、「子育て世代の父だけが家庭用に買いものをしている(おそらく日常的に)」って感じの買い物を見かけることがほぼない。
体感でいえば数人増えたような感じはする。
それに人の買い物かごそんなにじっくり見てるわけじゃないしね。
そういうとき、世代的には子どもがいてもおかしくないおっさん客でも家族のための買い物してない。
半額弁当をいくつも缶チューハイと一緒にかごに放り込んでるとか、
10年ぐらい前から「日常的に家族に食わせるための食事を一人で買いに来てるおっさん」を探すようになったがいまだレア。
休日に父と子だけで買い物に来てるってことがやっぱりごく少数派。逆の母子はやたらとみるのに。
「家族で来てる」ならそこそこいる。というかかなりいる。
でも一番多いのは奥さんにひっついてきてるだけのじいさん。
ただ、近郊の大型スーパーか、市街部の小~中型かでけっこう違う。
近郊の大型スーパーになるとじいさんばあさんが減って、もっと若い世代の、夫婦だけか、夫婦に小さい子がひっついているのが増える。
「子育て世代のおっさんだけ」が家族のために買い物してるってのはいまだごく少数だと思う。
自分さえまともであれば、ファンの民度だとか、はたまたファンが事件起こしただとかを気にすることなくない?
そもそもファンでひとくくりにして「○○ファンの素行がひどい件」とか揶揄する人たち自体が卑しいものなんだけど、そういうゴシップ記事みたいなのと同レベルの精神に汚染されちゃってるせいでコンテンツだけでなくファンにも目が行っちゃってるんじゃない?
まあ、一部のファンのせいで催しに支障をきたすような、実害が自分に降り掛かってくるレベルだと気にせざるを得ないのは分かる。
でもそれにしたって本来は運営が対処すべきマターのはずで、いち参加者が気にすることではないし、ましてそれが高じて迫害まがいの自治とか始めちゃったりのも差し出がましいでしょ。だから努めて気にせず然るべき人々に委ねるのがオトナな感覚のはず。
あとは、もしかしたら、若い子たちの中には、SNSを始めとしたファン同士の一体感をコンテンツの一部と見なす傾向があるせいで、ファン全体それ自体も好きになれないとファンを名乗るのが辛い、のような感情があるのかもしれないね。
でも本来人はみんな違うもんなんだよ。特定カテゴリのネットを見ていると、界隈の人々はみな思考や個性まで画一化されるような印象すら覚えることがあるけれど、それでも断じて個人は異なるものだ。
例えるなら、2ちゃんねるを見ていれば誰もが2ちゃん語を使うわけではないように、同じものを見ていてもみんなで同じふるまいをする必要はないし、同じと見られるべきではない。
そういう心理的境界線をうまく引くのは、一種のネットリテラシーとして共有されるべきだと思うんだよね。それが共有されていないことが、ファンとの付き合いで悩むオタク増田たちが無数にコンスタントに湧いてくる原因だと思うわけさ。
タイトルを見て何の話か察したひとも多いだろう。ちなみに自分はわからなかった。
「友人葬」とは創価学会特有の葬儀の方式のことである。亡くなった親族は配偶者が熱心な信徒であり、本人も一応入会していたらしく、そのこともあって葬儀も友人葬で執り行われた。そして、実際にそれに参加してみたら、創価学会が一定の信者と、一定の反発を呼び起こす理由を体感することができた。
通常の仏教式の葬儀(といっても増田自身まともに知らないのだけれど)と、友人葬の違いはいくつかある。
一つ目。葬儀は創価学会員が全部仕切る。遺族とか親族とかの意見は特に聞くことなく、葬儀の段取りを全部創価学会のメンバーがやる。
二つ目。前の方で読経するひとが複数人いる。勝手なイメージだけど、仏教式の葬儀はお坊さんが一人で前の方に座るものだと思っていた。友人葬では「導師」が2-3人前に座って読経する。
三つ目。参列者の創価学会員が全員一緒に読経する。よくある葬儀では、お坊さんが一人で読経するだけである。しかし、友人葬は参列する創価学会員全員で読経する。もっと言えば、おそらく物故者本人とそれほど交友があるわけでもない人たちがやってきて、読経して帰る。
四つ目。関係者から弔文とかが届く。たとえば、「導師」の言葉の中で、池田大作名誉会長と原田実会長からの言葉が読み上げられる。あとは国会議員・市議会議員とかからも。
参列する前から、よくある仏教式の葬儀だと思ってたんですよ。それがこれ。色々な思いが脳裡を通りすぎていった。
まず、「意外と普通だな」ということ。基本的に仏教だから、読経の内容自体はただのお経である。あと簡単。「南妙法蓮華経」って三回唱える・あるいは何度も繰り返し読み上げる。方式の簡略化。難しい教義とかなしに同じ言葉唱えていればいいんだからそりゃ信徒獲得するわなと。
その次に思ったのは「なんだこいつら」ってことです。物故者はもうボケてて、友人が遊びにきたりすることはまずなかった。だから参列者とか絶対知らない人なんですよ。なのにいきなり葬儀に集団でやってきて何から何まで仕切り始めるの、はっきりとむかつきますよね。お前ら他人だろ、死ねよ、くらいの気持ちです。
でも、その後に思ったのは、「これはこれでありがたい人もいるんだろうなぁ」ということです。まず、遺族にとっては煩わしい葬儀の手続きを全部学会員がやってくれるの、そりゃ楽ですよ。受付に座ったり、葬儀における各種手続きを全部、本当に全部学会員が勝手にやってくれる。この簡便さは、一つのメリットなんだろう。学会員がいきなり押し寄せてくるのも、見方を変えれば「淋しい葬儀にはならない」という利点がある。みんなで読経するのも一緒だ。見ず知らずという意味では普通の仏教式の葬儀でも別に住職さんとかと普段から仲が良かったり会ってたりするわけでもないのに、それをありがたがるのも不思議な話で、そういった特権的存在一人が読経するより「仲間」(物故者の配偶者の言葉を借りた)が一緒にお経を唱えてくれる方が嬉しい、と感じる人がいるんだろう。
現実に希望を抱けないので、フィクションではせめて不快になりたくない。
だからジェンダーやセクシャリティ、人種などの点で差別的な表現があったり、ステレオタイプを刷り込むようなものは好きじゃないしそもそも見ないようにしている。
ここ数年は特にフィクションから遠ざかりがちで、厳選したものだけを見ていた。
パートナーの1人の家に泊まっていて、彼女がテレビをつけっぱなしにしたままお風呂へ行ったから。手持ち無沙汰ななんとなくテレビに目を向けた。
選手一人一人が、さまざまな形の愛をスケートで表現していて、それを支える美しく綺麗な音楽。
「音楽が良かった」という印象だけでDLしてどの曲が何とかも分からなかったけど、とりあえず一番それっぽい「Yuri on Ice」を再生してみる。
え……?
開始2秒で、涙が溢れた。こぼれてこぼれて、最後まで止まらなかった。
争いが嫌い。苦しみが憎い。それらは、熱くて、うるさくて、命の色をしている気がして。
冷たくて、静かで、青白いのが好きだった。
私にとって平和で完璧な世界はそんな場所で、いつもそれを求めている。
それを求め、現実との差に苦しんでいる。
けれどこの世界にもそれが感じられる場所はあって、モロッコのシャウエンや、アブダビのシェイクザイードグランドモスクへ行ったりした。(冷たさや静けさは体感です)
次に行きたいのはボリビアのウユニ塩湖かウズベキスタンのサマルカンドかなと思っていたところ。
ピアノがベースの歌詞のない曲なのに、私の眼前には冷たくて静かで青白い、平和で完璧な世界が一瞬にして広がって。
私がどんなに思い描いても、焦がれても、行けないその場所。
最初から最後まで涙が止まらなくて、ピアノの響きが美しすぎて、前世自分がピアノだったことを思い出したかのような、そんな愛しくて温かく、切ないひらめきがあった。
そうだ。スケートリンクって、冷たくて、静かで、青白い。
こんなに優しい世界があるなんてと毎話泣いてしまうほど、そこには多種多様でたくさんの愛があった。
「エロス」それがカツ丼でもいい。「アガペー」それはおじいちゃんからもらった。
異性愛だけじゃなく、同性同士でも、故郷への愛でも、兄妹愛でも、自分への愛でも。
恋人?友達?なんて愚問だというくらい、全ての愛がそのまま肯定されて美しく描かれていた。
性別でキャラに無駄なラベルを貼ったりしない。それぞれの「国」を背負うのは、みんなステレオタイプな「その国らしい」キャラとは限らない。
同性同士が、なんの名前もつけない「愛」のペアリングをつけても、それが自然な世界。
自分の愛を誇りに思いながら。
もし本当にそんな世界が訪れたら、どんなにいいだろう。
どんな愛でも、それが愛である限り大切な愛なのだと肯定される世界になったら?
ユーリon ICEはそんな世界で、ただただ温かい素敵な物語の一つになると思う。
そんなときが来ますようにと願いながら、私は今日もジェンダーやセクシャリティがさまざまな複数のパートナーたちと生きています。
ユリオがユーリを「豚」と呼んだシーンは体型差別的だと感じる面もあるし、
(ユーリは太っている場合じゃないフィギュアスケート選手であるということを考慮したいとは思う)
私の気がつかなかった部分で、ユーリon ICEを見て嫌な気持ちになった人もいたかもしれないということは念頭に置きながら。
あ、どんな愛でも〜と言うと必ず「小児性愛も?」と聞いてくる人がいるので言っておきたいのは、それは愛ではなく病気であるということ。
小児性愛について知れる本が出てるので読んでみてください。
こんな但し書きをつけなきゃいけない現実つらい。
でも、私も、頑張るよ。
初めてコーヒーやビールを飲んだ時、そのおいしさや、なぜ人はそれを飲むのか理解できただろうか。
セックスも同じで、経験値や身体や心の状態にとても左右される。
味音痴の人がいるのと同様、何回やってもその良さが体感できない人もいるようだ。
ちやほやされたいというより、態度の差を考えずに済む環境に行きたかっただけじゃないの。
高校の頃の体育教師が美人とブスで採点基準変える人でサボりまくりの美人が平均よりやや上の点だった。
私は運動音痴とはいえ真面目にやってたのに赤点スレスレで車椅子の子より点数低かった。友人が何人か抗議に行ってくれたけどはねのけられたよ。
社会に出てもそういう状況はまあまああるので女しかいない職場の方が楽だった。
理不尽な目に遭った上割り切れ受け入れろって考え方はこっちに何も利がない。
あと言うほど女(私自身と友人知人)はイケメンとそれ以外で態度変わらない。
ある程度自分でコントロールできる臭気や汚れ等の身だしなみや言動の方が重視される傾向にある。
上記の体育教師みたいな女もいたけど2人くらいしか浮かばない。体感で男の方が多い。
管理職とか教師とか公平な判断が必要なポジションに男がいる率が高いからそう感じるのかも。
父親も弟は殴らないけど私だけ殴ってたな。そういえば。
リレーの班決めでじゃんけんで負けたチームに入れられるレベル。
ただ授業はきっちり出席してサボらず黙々とやってた。
それを知ってる車椅子の友達が「ただ見学してる私でも出席点として50点もらってるのにこの点はおかしい」って何人か連れて抗議に行ってくれた。
サボリ魔の点数を知ったきっかけは本人がでかい声で「あたし体育◯点だった〜!」と言ってたから。
おまえも見た目で相手を選ぶだろって決めつけについては、あんまりピンとこない。
https://anond.hatelabo.jp/20191217203403
に書いた通り、個人的に顔や体の造形は重視してない。
彼女はちやほやしてほしいわけではなく
ちやほやされることに悩む程度の余裕がほしいんだと思う。
なんに対しての余裕かと言えば、「ある能力において自分は人並み以上で、その面で劣等だと言えない」という自尊心があるかどうか。
もしかすると彼女は異性から好意的なアプローチを受けること自体、体感としてどんなものか理解していないし、理解しようがなかったかもしれない。
僕は元増田を読んで「体の構造から生まれながらに女性として扱われる」という「普通の女性」の人生に憧れているんだと思った。
実体験に乏しい彼女の欲求が誇大妄想のように読み取れたとしても、それをあたかも高慢と言いたげな態度であげつらうのは、それこそ見た目の悪い彼女への蔑みではないだろうか。
悩みも喜びも全てひっくるめて普通の人のように生きてみたいという憧れがあったとして、それを叶えることは特別扱いを要求することになるのだろうか。