はてなキーワード: 自発的とは
日本中で3日間だけ、自発的に同時に自粛するのはどうでしょうか。
そうすれば感染拡大が止められるのではないですか
つまり、たった三日間日本中同時にみんなで自粛をすれば、感染を気づかずにひろめることをふせげます。たった三日です。土日ともう一日休めばいいんです。
国が何もしない、よくわかりました。でも今のままじゃジリ貧なんです。
インターネットを通じて、広く拡散すれば、何とか同時にできませんか。
今の緊急事態宣言のように、自粛の厳しさが人によって違う状態で、だらだらとやっても意味がないんです。
日程を短く決めて、同時に、みんなで。
そうすれば、有給をとれる人も増えるでしょう。小売で休める人もでてくるでしょう。
そしたらあとは賛同した企業の商品でもなんでも、みんなで買って応援したらいいじゃないですか。そうしたらインセンティブもでてくるでしょう。
臨床心理士っていうのは別にアドバイスとかしてくれる仕事じゃないからね。
アドバイスとは異なり、カウンセラーがクライエントに対して明確な解決策を直ちに提示することは原則的にない。これは、カウンセリングという場においてクライエントが自らに向き合い、その作業を通じて新しい理解や洞察に自発的にたどり着き、最終的にカウンセリングが終結した後には、カウンセリングにおける経験を生かしてクライエントが実生活の問題や悩みに主体的に相対して行けるように導くことが、カウンセリングの目的であると同時にカウンセラーの役目であるためであり、心理カウンセリングの際は大切にされる原則である。
フェミニストを名乗るのはいいんだけど、ツイッターに流れてきたことに対して反射的にコメントしてそれで終わりになっている奴が多すぎる。
他にも右翼でも左翼でもなんでもいいんだけれど、流れてきた情報に反応しているだけの奴が多すぎる。
思想を持つなら多少は勉強してその学問分野に触れたり、社会運動をしろよ。
できる範囲んでいいんだ。少しでもいいんだ。自分にできる範囲でいいんだ。
仕事や子育てや自分の体調次第なところがあるのはわかる。そして活動すると恥をかいたり失敗したりする。それが嫌なのもわかる。
それでも、少しでも自分で自発的にやるべきなんだ。最近図書館で本を探して読んだり、実際に活動している人のシンポジウムやパネル展に足を運んだりしたか?
高校一年生の時、昼休みに弁当食ってたら急に養護教諭に呼ばれて、特別教室の奥の方にある面談室みたいなところに連れてかれた
そのまま初めて見る知らんおばはん(50くらい)に引き渡されて、「一緒にお昼ご飯食べましょう」とか言われる。養護教諭は俺を置いてさっさと帰った。だれやこのおばはん。
人見知りしない俺はのんきに「マジアツイっすね、地球破滅っすかね」みたいなアホ丸出しの受け答えをテキトーにしていた
おばはんが弁当食いながらさりげなく「最近なんか困ったことある?」とか全然さりげなくない質問してきたときに、アホな俺はようやく気が付いたのである。これ、カウンセリングだ!!!
思い出すのはその一週間くらい前に書かされた「ストレスチェックシート」とかいう紙一枚。アホで素直な俺はばか正直に答えてしまったのであった。(思春期の少年少女に悩みが無い方が不健全な気がするのは俺だけか?)
その時悩んでいたといえば担任教師との相性の悪さとかだったと思うが、そんなこと部外者のおばはんに言っても担任が変わるわけないし、なんも解決しないのになんで俺このおばはんと喋ってるんだろうとかずっと考えていた
おばはんは親身になって俺の話を聞く姿勢を見せてくれていたが、「人に悩みを相談する」ことに慣れていない俺はもうどうしたらこの地獄面談室から抜け出せるかしか考えていなかった
人に弱みを見せることを恥ずかしいと思っちゃう時期だったので、自分のしょうもねー悩みなんか人に話したくなかったし、成長した今でもどうせ解決しないのに他人に話しても無駄だろと思っている(本当に重たい悩みをもったことがないからかもしれない)
もちろん悩みを話すことで気が軽くなる人もいるだろうが、カウンセラーってのは相手がどういうタイプか見極めないと仕事になんないんじゃねーのか?とそん時思った
実際その時の俺は担任についての悩みよりカウンセラーおばさんに悩みの吐露を期待される方がよっぽど辛かった。ストレス改善のためになんでストレス増やされなきゃならんのや
あと、身も蓋も無い話なんだけど、「あ、このひと仕事で俺の話聞きに来てるんだな」と思うと途端に話す気が失せる。元々話す気ないのに相手に無償の優しさを求めるとかいうスーパー甘ったれが顔を出してしまった。危ない危ない
カウンセリングってさ、自発的に行く人に対してはいいとおもうんだよ。人に話を聞いてほしい、って思う人が人の話を聞くプロのところに行くわけだから、双方納得の上でしょ
でもさ、逆張りでもなんでもなく俺みたいに他人に相談事するのが苦手なタイプってそこらにいると思うワケ。え?いない?マジか…
まあもしいたら、そういう人を無理矢理カウンセリングに連れ出そうみたいなのは、ちょっと待ってくれよなって話。パチキチとかアル中は引き摺ってでも連れてけ。
社会人になってみれば相当ホワイトホワイトホワイトな企業でもない限りはそうそう組織に心の健康状態を気にされる事もないけど(少なくとも無理やりカウンセリング受けさせられることはない)、今の学生って大人たちの「してやったぜ」のために色々付き合わされてるんだろうなって考えるとなんか息が詰まりそう
カウンセラーの人、お仕事だからしょうがないとはいえ、「あ、こいつ見栄っ張り野郎だな」と感じたら、地球温暖化の話だけしてその子を帰してあげてください
ASBは味気無くなりがちな3Dで漫画的な見た目を再現させており、
当時も今迄のキャラゲーの粗悪なイメージを払拭する仕上がりが話題になっていました。
ゲーム上で表示される全ての演出は、グラフィッカーやプログラマー等職種を問わず
様々な人が協力しなくては完成し得ません。
どういったグラフィック表現が話題となっているのかのリサーチは、
命令されずとも業界人であれば自発的に勉強して当然ですし、単純に面白そうだから、
その対象となるゲームは今回のASBに限らず、業務内で担当するゲームによって変わります。
それが自分の趣味では無いジャンルであったとしても、ジャンルに対する知識が不足していれば購入する事もあります。
足による投票(あしによるとうひょう、英語: vote with their feet)とは、ある活動やグループに自発的に参加することや、そこから撤退したりすることで、自分の好みを行動で表すことを指す。従来の公職を誕生させるために選挙で投票する「手による投票」に対する言葉であり、足で投票する人は「vote with their feet」と呼ばれる。また、住民が、自分にとって好ましい行政サービスを提供してくれる地方公共団体の地域に、住所を置く形で選択することによって、地方公共団体の納税収入等が変動し、地方自治体間の競争メカニズムが発生するという理論でもある。
法学者のイリヤ・ソミン(英語版)は、足で投票することを「政治的自由を高めるための手段、つまり国民が自分の住みたい政治体制を選択する能力」と表現している[1]。 共産主義者のウラジーミル・レーニンは、ツァーリ軍を脱走したロシア兵について「彼らは自分の足で投票した」とコメントしている[2]。 また、この概念は、1956年の論文[3][4]でこれを提唱したチャールズ・タイバウト(英語版)(ただし、彼は「足による投票」という言葉は使っていない)や、アメリカの州間移動を地域の不満足な状況の解決策として提唱したロナルド・レーガンとも関連がある[5][6]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%8A%95%E7%A5%A8
これはid:muchonovによる、id:rag_enさんのエントリ muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理があるよという話と、あとリテラシー - Click Game. への返信です。
まず、rag_enさんがご引用くださっている、自分が増田で書いた文章「子供の権利は制限されているし、性行為に伴うリスクを判断できない」の位置づけなんですが、これはmuchonovが何か新しい提案をしたぞとか、今からそういう社会を作るぞ、という内容ではありません。このスレッドの親増田の「なぜ、子供が性を売ってはいけないのか」という疑問への応答として、今の社会がそういう風になっている理由として、法律的・社会的にこのような背景がありますよ、と説明するものです。言い換えると、これは〈べき論〉ではなく〈である論〉のつもりで書いたものです。このことは、ここから先の話とも繋がってますので、ひとまずスタート地点としてご認識ください。
rag_enさんは以下のように、「『社会的コンセンサスがあるから』という理由でのパターナリズムの肯定」や(判断力が未熟な当事者を保護する)「手段としてのパターナリズム」自体を強く批判されています。
未成年に対しては愚行権を含む自由権に一定の制約を課すべきだという社会的コンセンサスがあるからです。未成年に対しては人権を制約するレベルのパターナリズム(保護者的統制主義、当事者の能力やリソースの不足を社会が保護者として補い、庇護する)をとってもよいし、分野・状況によっては積極的にそうしなければいけない
いやもうこれ、『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね。
そもそも『「判断力」によって峻別すべき』だと仰るならば、「ペーパーテストして免許制にでもすれば?」でほぼほぼ終了する話なわけです。『「判断力」によって峻別すべき』ならば、その「判断力」をテストする、というのはどう見ても最も正道な手段なのですから。“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません。
ここを読んでいて、最初「ん?」と混乱してしまったのですが、もしかしてrag_enさんには、「パターナリズム」という概念について重大な誤認がありませんか。rag_enさんが「“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません」という主張とともに、代案として展開されている「判断力によって(ある問題についての当事者能力や責任能力の有無を)峻別する」、そして、判断力がないとみなした対象の自由権を(当人の保護のために)何らかの形で制限する…という考え方は、まさに『パターナリズム』そのものではないですか?
現行の日本の法律が、年齢によってその人物の判断能力を推認し、それが十分でないとされた年齢に属する児童を保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、別の方法で判断能力を吟味・裁定し(たとえば精神的な障害を持つ人や依存症に苦しむ人や認知症患者などを、家裁の判断によって成年被後見人とすることなど)、彼らを保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、どちらも法学の分野でいう「弱いパターナリズム」だと思います。
憲法学の世界で「パターナリズム」といえば、まず未成年者の人権制約の場面が思い浮かぶ。すなわち、十分な判断能力のない未成年者については、親が子に干渉するようなやり方で、国が未成年者の人権を制約することが認められると考えるアプローチである(1)。たとえば佐藤幸治は、未成年者の人権制約について、未成年者が「成熟した判断を欠く行動の結果、長期的にみて未成年者自身の目的達成諸能力を重大かつ永続的に弱化せしめる見込みのある場合に限って正当化される」とし、これを限定されたパターナリスティックな制約としている(2)。このようなパターナリズムは、個人の判断能力の不十分さを補うために後見的措置を行うことから、弱いパターナリズムと呼ばれる(3)。
そして、未成年や年齢が低い児童の判断能力が不十分とみなされる理由は、法学の世界では、彼らの判断が、それ以上の年齢層による判断に比べ、①知識や情報を得た上での判断・②適切な理解に基づく判断・③強要なき自律的判断・④実質上も自発的な判断ではない可能性が高く、それによって、当事者自身が想定しない結果や不利益をもたらすリスクが懸念されているからです。[^1]
[^1]性的自己決定に関しては、古い調査ですが、10代の人工妊娠中絶についてのアンケート結果(https://www.jaog.or.jp/sep2012/JAPANESE/MEMBERS/TANPA/H15/030217.htm)を読む限り、確かにそのリスクは存在しているといえます。10代の妊娠中絶経験者の68.1%は妊娠して「困った」と回答しており、その多くが①②膣外射精や安全日など誤った避妊方法を選んだり(情報や理解力の不足した判断)、③相手が避妊をしなかったり(強要された判断)、④経済的事情などを踏まえれば出産・育児は不可能なのに妊娠する可能性のある行為をしてしまう(実質的には非自発的な判断)など、当人の判断能力の不足によって、望まない妊娠と人工妊娠中絶に到っています。
この前提において、当事者の自由権を法と社会が一部制約することが正当化されています。これはmuchonovが勝手に言ってることじゃなくて、法学におけるパターナリズムの議論の中で整理されている話です。
「ソフト(弱い)パターナリズム」が自由への介入を正当化できるのは、人の行為が以下の何れかに因って判断された場合です。
1. 実際に情報を知らされないで判断した場合(not factually informed)、
2. 適切に理解していないで判断した場合(not adequately understood)、
4. その他、実質的に自主的にではなく判断した場合(oterwise not substantially voluntary)。
http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~cyberian/personal_responsibility.html
そして、未成年者や特定年齢に満たない児童に対する「弱いパターナリズム」に基づく人権制約は、日本を含め、大半の近代国家の法制度に含まれています。性交同意年齢という概念もそうですし、制限行為能力者という概念もそうですし、ある面では責任無能力者という概念もそれに関わっています。そのような、未成年者や児童の人権を明らかに制約する仕組みが各国の法制度に組み込まれているのは、当然、その国家が議会立法などの民主主義的手続きを経てその法律を定めた結果であり、『社会的コンセンサス』の賜物でしょう。
だから先ほどのrag_enさんの、「『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね」とか、「muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理がある」という指摘は、日本だけでなく、性交同意年齢や制限行為能力などの概念を法制度に組み込んでいる全ての国家や社会に対して「完全に思考が狂ってますよね」「論法に無理がある」と非難していることになりませんか。
現在の日本では、性交同意年齢(13歳)未満の男女と「性交等」をすることは法律で禁じられており、もしそうした場合、それが13歳未満の側の当事者の主体的判断によるものであっても、相手は強制性交等罪(非親告罪)で処罰されます。13歳未満の側の当事者には、必ずしも性交に関して正しく判断する能力が備わっておらず、その能力の不足による誤った判断の不利益から彼らを保護しなければならない、とみなされているからです。これも「完全に思考が狂っている」「無理がある」論法でしょうか。
私はrag_enさんがそういうチャレンジングな主張を展開されるのは別に構わないと思っていますし、繰り返しそう申し上げてもいますが、だったらその主張はmuchonovという個人に向けて言うべきことじゃなくて、そうした法制度を運用している国家やそれを是認している国民に対して言うべきことなんじゃないかな、と思います。だから自分は、再三「rag_enさんのお考えを、広く世間に問えばいいと思います」と申し上げているんですけども。
あと、これはこちらの邪推ですけど、おそらくここでrag_enさんが問うべきだったのは、「性的自己決定権をめぐるパターナリズム的な人権制約の適用対象を決める上で、年齢という指標を用いて一律に決める(現在の法制度に組み込まれている)方法と、ペーパーテストを行って免許を付与するという(rag_enさんが提唱する)方法の、どちらが制度設計として筋がよいか」ということだったのではないでしょうか。そうではなく「パターナリズムという手段ではなく、ペーパーテストと免許制という手段を使えばいい」と主張されている姿勢から、rag_enさんのパターナリズムについての認識は、一般的用法とズレがあるように感じました。もし「そうではない」ということなら、そうおっしゃってください。
※ここでもし自分がrag_enさんを先回りして擁護するとしたら、「rag_enさんの言うペーパーテスト+免許制という提案は、パターナリズム的な観点(判断力が未熟な当事者を保護するため)に基づくものではなく、その行為による他者危害のリスクなどを鑑みて、本来は無許可では行ってはいけない諸行為に対し、当事者の能力・知識・技術を総合的に認証したうえで特別にアクセス権を付与するもの、つまり自動車免許や医師免許に相当するものであるから、パターナリズムにはあたらない」という立場は、かろうじて取りうると思います。未成年や児童が関わる性行為について、当事者の不利益よりも他者危害のリスクを先に考慮しなければいけない状況というのは自分には俄には思いつきませんが、まあそこはよしとしましょう。
しかし、そのような制度---国家が国民の性行為に関わる知識や判断能力をペーパーテストで弁別し、それが当局の定めた水準を満たしているかどうかによって、セックスの権利を与えたり奪ったりする制度---というのは、自分は国家による生-権力的介入・管理のアプローチとしていささか度が過ぎていると思います。というか、「規律化による〈従順な身体〉の構築」というフーコー的テーゼをそのまま戯画的に具現化したような感じすらします。
また、自動車免許の社会実装コストについてのrag_enさんの記述を踏まえると、rag_enさんは、その「セックス免許」の仕組みを社会実装するコストも、免許取得費用として「受験者」から徴収して賄えばいい、とお考えのように見えます。セックスへのアクセス権を求める市民自身から試験料を徴収して、セックス免許センターで受験者にテストを行って、合格者に免許を発行する。もしそういう制度運用をイメージされて仰っているのなら、この構想が現行の法制度にある「年齢によるパターナリズム的保護」の仕組みよりもメリットが多くデメリットが少ない現実的な提案だと感じる方は、あんまりいないんじゃないでしょうか。もちろん、rag_enさんのような考え方の人たちが社会運動などを通してそのアイディアを人々に受け入れさせて、社会的コンセンサスを変えていくことができれば、その状況も変化する可能性はあると思いますが。
大学に入った理由も皆なんとなく行くからだし、学部も法律の道に進みたいという訳ではなく、文系の中で役に立ちそうだからという曖昧な理由で選んだ。
大学受験も中高一貫校で退廃的な生活を送った上で、高3でやっと重い腰を上げて乗り越えた。
それは自分がこれがしたいからここにいくといった自発的なものでは一切ないのである。
大学1年生になった今、高校生の頃の自分と中身は全く変わっていない。非生産的な日々を送る毎日。
中高時代に趣味と言って、月7冊くらい読んでいた本も、今では1〜2冊しか読んでいない。むしろ退化している。
今後の人生の目標もない。大企業に入って高年収を手に入れ幸せな家庭を築きたいなどという欲求はまるっきりない。小学校の頃から毎年ビジネスクラスで海外旅行に行けるほどの家庭で育ったため、苦労もなく、高い給料を手に入れてこれがしたい!などというものも無い。
このまま多分私は大学4年間を無駄に過ごす。そこ可能性が分かってるなら改善しろという話なのだが、その活力すらない。
自分はバカなのである。そこそこの中高一貫校に入り、そこそこの大学に入ってもそんなものは意味をなさない。自分で自分の行先を決めそこに向かって努力できる人こそ頭のいい人では無いのか。そこで多少知識が足りなくても周りを頼れば良いのである。
「嫌々修正したのが伝わってくる」←思い込みが強い意見。いろいろな偏見も強いことが予想される。もしかして、病気でなくても思い込みが強いという実例を示してくれているのかな?
https://b.hatena.ne.jp/entry/4706323226279428962/comment/grdgs
この件、「作者は嫌々のはずだ」という妄想の多さが、「特定の病気による症状ではない」ということの強化になっていて興味深い。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4706335608676335618/comment/grdgs
「批判に耳を傾けて納得しての自発的改変でなく、圧力に屈した改変に違いない」という妄想をお持ちの方がたさくんいる。「妄想は特定の病気による症状ではない」ということの強化になっており興味深い
https://b.hatena.ne.jp/entry/4706328766790021986/comment/grdgs
「作者側から修正したいと申し出」←作者は嫌々で編集が押し切ったと決めつける人も多かったですが思い込みでしたね。病気でなくても思い込みが強い人はいるという実例でした。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4706333114372772418/comment/grdgs
何が嫌って任意なところ
これが強制だったりワクチン打たないと罰金5000億円とか逆にワクチン打ったら5000億円あげるとかだったら打ちに行くほかないんだけど完全任意だからまずなんか届いた封筒の怪文書読み解いて会場までの道のり確認してスケジュール確認して予約してわけわかんねー問診票的なやつ事前に書いてとかそんなもんめんどくせえことは明日やれることは可能な限り後回しにする気質の人間にできるわけねーだろカス電話一本で俺んちまでワクチン打ちに来いよ~いやだ~めんどくさすぎて死ぬ
この複雑怪奇なタスクを処理するのに1年分の気力を使い果たすレベルだしそんなめんどくせえもん自発的に俺みたいなゴミがやるわけねえだろ~