はてなキーワード: 怠惰とは
ここでいうプログラマーとは、趣味仕事問わず『プログラミングを利用した作業の経験がある者』を指す。
この作業を自動化できればいいのに、と考えた時に『プログラミング』という手段が思い浮かぶ。
そこで頑張ってプログラミングについて調べるのだが、ズラっと並ぶ専門用語が自分の理解を妨げる。
頭の中に、疑問符がどんどん増えていく。
分かり易さを謳った数多くのプログラミング入門サイトは、しかし哀れな浅学菲才に手を差し伸べてはくれやしない。
「こうすればこうなります」
なりません。
「ここで混乱する人も多いようですが」
そしてどう見ても初歩の初歩の所でいつまでも解決に至らず足踏みをしている内に、"彼等"の声や姿が浮かび上がってくるのである。
そう、この作業を難なく行える者。
「そんな簡単なこともできないのか」
彼等は蔑む様に、或いは哀れむかの様に、俺を見て呟くのだ。
これは完全なる被害妄想ではあるが、この手の人物が多く実在するのは恐らく自明だろう。
「どうしてプログラミングを学ばないんだろう?」
才能を持つ、愚かな人間がこう言ってたのを俺は見た事がある。
学ばないんじゃない。高度すぎて俺にはできないんだよ。
とはいえ自身を"特別な人間"だと認識していないクソみてえな有能共にはわからないだろうがな。
彼等にとっては何か一つの知識を学び技術を身に付ける行為は『人間としてできて当たり前の行為』なのだろう。
努力を怠っているのは事実だが、努力をすることもまた才能の一つだとは何故思い至らないだろうか。
ああ腹が立つ。むかむかする。
どうせこの日記を見てる人もこいつは馬鹿だなあとか思ってるんだろう。
どいつもこいつも俺を見下しやがって……クソ……。
順調に真綿で首が締まってきた、ってだけの話で同情の余地は全くない。
課題は先送りにするほど重い足枷になり、後の自分を苦しめるなんて事は小学生時分に夏休みの宿題で気付く。
バカでも8月中旬になれば少しずつ焦り出して、後半には渋々着手してなんとか終えるだろう。
でも怠惰なキモカネは自分に言い訳して誤魔化し、やらなかった。焦燥感は人並みに持ってたくせに。
色々なものを積み重ねるべき青年期を無為に過ごしたツケを、四十路になってからヒィヒィ言いながら払ってるだけだ。
氷河期、女尊男卑、新卒至上主義・・・言い訳だけは一丁前。なら同級生は全員同じところまで落ちてるか?
社畜なんぞになってたまるか、と開き直って自営業でもして生きる勇気も知恵も無ければ
同じ境遇同士で団結して現状打破に動いたり、相互扶助を目指すような協調性も無いからタチが悪い。
そのうえ非協力的・他罰的・内向的・悲観的とくれば、誰も救いの手なんか差し伸べてくれるかっつうの。
「キモくて」をつけておくと、絶対貧困の話と、相対貧困の話と、生きづらさの話を、その都度、自分の都合のようにミックスして、誰かを刺すために色々捗るんじゃないかと思ってる。
「キモくて金のないオバハンもいるのに」と女が言えば、「キモイ男は体を売ることもできない」とまるで自分が明日には住むところも無くなりそうかのように女をdisれるし
「貧困を軽減するために団結せよ」とレフトが言えば、「手に入る金がちょっと増えようが、キモい男は女に相手にされない生きづらさは解消されない」と生きづらさを主張して現状から動かない怠惰への言い訳ができるし
「もっと働けよクズ」とネオリベが言えば、「これだけ頑張ってるけど元からキモい俺には勝てる方法がないのに」と相対貧困にあえぐ弱者男性の立場を取り続けることができるし。
他人の功績を横取りとは何を指しているのか知りませんが、例えばカルロス・ゴーンが10億取るのは適正ですよね。
傾いた日産をあそこまで立て直して利益も大幅に改善して、給料や賞与も増やしたのですから。
真面目にコツコツというのが何を指しているのかも知りませんが、工夫もせずに言われた事しかしない人は努力をしているの範囲に入りません。
あと、タックスヘイブンに出せる資金は課税済のものだけですが、金融の知識が無いのに雰囲気でものを言ってますよね。
その姿勢こそが、あなたが感じる不公平の元凶です。要するに無知で怠惰なのですよ。
昔なら相手にされなかったレベルですが、時代が良くなって努力できない人にも発言権が出来てしまったので言えるだけです。
幸か不幸か知りませんけど、すごい時代ですね。
その頻度から、うつは新旧や程度の軽重に関係なく、生活保護の理由として制度的に認められても、社会正義的に認められないと断言してしまっていいと思います。
アベ政権はナチスに習っているそうなので、今の政権のうちにうつの生活保護受給者に対する絶滅政策を作りましょう。
・日本国籍じゃない
言うに及ばず。こいつらは国元に送り返せばいいので殺す必要はないでしょう。
・軽度の知的障害者
知的障害者や身体障害者は受け入れ体制を作る余力のない中小企業での就労が難しいです。
大企業の障害者枠や参加のグループ企業が通勤圏内にないと労働は難しいでしょう。
後、見た目に分かりやすいってのも要因でしょう。
重度のうつでかばんに自殺用のロープを入れてる人間より、義手をつけてる人の方が「かわいそう」に見えます。
あ、余談ですが、企業の障害者枠ですが、2ちゃんソースですが採用率は
だそうです。
身体は施設さえ完備していれば、健常者と同じに働くことができます。
知的は単純な繰り返し作業に強く、工場等で需要があるそうです。
精神は出社が安定せず、細かなケアが必要になることから嫌われるとか。
最後は、適切な治療とカウンセリングを受ければ社会復帰の可能性があると言う点でこちらに分類します。
・重度の知的障害
そんなあなた、重度の知的or精神障害者と思われる人を見たことあります?
私は、100m先からも聞こえるような奇声を上げながら、駅構内のゴミ箱を開けて中身を放り投げる男性を見たことがあります。体重は恐らく100kgを超える巨漢です。
それを必死で止めるのは、恐らく父親でしょう。見るからに疲れ果て服も身体もよれよれ。
そんな男性が羽交い締めにして止めようとしますが、知的障害者と思われる男性は軽々と父親らしき人物を突き飛ばし、ゴミを放り投げ続けます。
人通りの多い時間でしたが、誰も声をかけないし、助けようともしない。私もしませんでした。
自身に余力がなかったと言うのもありますが、それ以上、その光景がにあまりに壮絶すぎて、直視すらできませんでした。
恐らくあの男性を何らかの労務につかせようと思ったら、屈強な男性が3~4人体制で監視しなければならないでしょう。
自分の仕事を減らないし、査定にもプラスにならないのに、そんな予測不能な行動を取る人間の監視まで仕事に加えられることを想定してみてください。
となるでしょう。
統合失調症や躁鬱等の重いものは他者に攻撃的な行動を取る場合があると言われます。これも常人には予測不可能で、それ故に表に出てくるよりは引っ込んでいてくれとなるのもしかたないでしょう。
それをひどいことだとも避けるべき考えだとも思いません。これはいわば「税金で自分の安全を買う」だけの話です。
年額20万の支払いで、予測不能な行動に出てくる障害者を家や施設に押し込めて安全を買えるなら安いもんじゃないでしょうか。
■繰り返しとなりますが
アベ政権とその支持者はうつと言う詐病患者を絶滅させる政策を今すぐ取るべきです。
国民の大半は支持するでしょう。何故なら彼らはうつでなく、労働が可能なのですから。
うつのナマポ寄生虫野郎として望むのはただ殺すまでの期間を短く、楽に死ねる方法でお願いしますと言うことだけです。
1984は分かるけどさ
銃夢のザレムはディストピアだけど、ザレムって屑鉄街とセットだよね
屑鉄街の犯罪発生率なんて、その辺歩いてれば首切断されるレベルだけど、
そういう下層階層があってザレムがある、リング状のカッターの付いた輸送チューブとか
どう考えても厳密には1984とはずれてる
だから、現在の日本でさえ、アメリカであれ、フィンランドであれ、
ディストピア的要素は転がっているし、
そりゃあそうだ。
SFのディストピアというのは(というかSFというもの自体が)
現在の現実の人間社会や技術と繋がってる。何を当たり前のこと言ってんだ。
それがどんどん肥大化していけば、悪い意味で極端に偏った社会が形成されると思うし、
それだけのことだと思うんだが
それだけのことだよ?
たとえばザレムはディストピアで合っている。
屑鉄町はザレムと一体で捉えるならディストピアの一部だけれども
屑鉄町を単体でとるならディストピアとは違う。
ディストピアは単に治安が悪くて不潔でグロい都市や色んなことが目に見えて失敗してる都市のことは指さないから。
俺は定義まで説明できるが俺の説明が嘘だったらどうすんだよ?w
たとえばお前みたいに怠惰な知的劣等を断種していって数世代後に頭良い人だらけになって社会の効率を上げてみんなハッピーですね
自分で学ぶ気が無いならそれまで。
先日会社のイベントがあり、東京タワーの離れにある5階のラウンジでジンギスカンを焼いて食べた。わたしの席の周りには常務をはじめ、ずらりと偉いおじさんが並んでいた。19時をまわり辺りが暗くなると東京タワーに灯りがついた。
「おや、灯りがついた」
「日が暮れるのがすっかり遅くなったなぁ」
「わたしらが働いているこんな近くの、東京タワーで、こんな宴が夜な夜な繰り広げられていたなんて。夢にも思わなんだ」
横一列に並んだ偉いおじさんたちが、いかにも感慨深げに抑揚たっぷりに言うのがおもしろかった。みな一様に、間近の東京タワーを首が痛くなりそうなくらいに見上げていた。ト書きを読んでいるような台詞回しや視線が交じらないことが、どこか小津安二郎の映画を思わせた。
のりの効いたシャツを恰幅よく着こなす一番偉いおじさんが訥々と話し始めた。
「わたしはね、料理作る人になりたかったんだよ。だから18ん時にね、親父に『おれは料理人になる』って言ったの。そしたら親父なんて言ったと思う?」
「『作るより食うほうがいいだろ』って言ったんだよ。それで今ウチの会社にいるんだよなぁ」
そう言って一番偉いおじさんは口いっぱいにラムを頬張った。わたしは笑った。なんだかよくわからないが、いい話だなと思った。そして笑って、とても偉い人の幸せそうなエビス顔を見ていた時、ふと、ああ、わたしの人生はこうしている間に過ぎ去っていくんだなと思った。あっという間なんだろうなと思った。目の前にいる一番偉いおじさんは、料理人になるかならないか決断をして、作るより食べることを選んだ。そうして偉い人になった。でもわたしは道を選ばず、毎日をやり過ごしている。なんとなくお金を稼ぎなんとなく暮らし、たまに会社のイベントでジンギスカンを食べたりする。そうこうしているうちにもう25歳だなと思った。そうして30歳になるだろう。40歳になるだろう。50歳、60歳、70歳、80歳、どこまで長生きできるかわからないが、やがて死ぬので人生は終わるだろう。
***
会社の別の人の話である。その人はわたしとそれほど歳が変わらないように見えるがそろそろ不惑だと言う。若さの秘訣を尋ねると、戸惑いがちにこう言った。
「朝起きるじゃないですか。息を吸って吐く。顔を洗ったら朝ごはんを食べて、歯を磨いて会社に行く。会社から帰ってきたら晩ごはんを食べて、お風呂にはいって寝る。その繰り返しをしていたら、今の年ですね」
ぞっとした。悲しかった。恐ろしかったが、でもきっとそういうことなのだろうな、と思った。その人は、だから若く見えるのだ。
***
わたしはなんとなく、まだ人生の助走期間にいるような気がしていた。どこかで人生の本番がはじまるので、そうしたら全力ダッシュすればいいんだろうなと思っていた。毎日が生きがいに満ちた本番の人生。いつか始まるはずの輝かしい本番。
だがいつまでも本番は来ない。そうして気付いた。ダラダラ走っているこの毎日が、人生の本番なのだ。助走期間なんてなかった。ずっと本番だった。
もし充実している人生をしか本番の人生と呼ばないのだとしたら、何も選ばない怠惰な人間にはいつまでも人生の本番は来ない。
ここから先はすごく言いたくないことだ。でも言う。わたしは、本当は、文章で食っていく人になりたかったのだった。どこかでそれを選んだと思っていたのだが全く選んでいなかった。苦労をしてはいった大学は、わたしと同じような人だらけだった。皆、文章で何かできると思って、でも何かできているのは一握りだった。大した努力もせず、ダラダラ道草を食っていた。
そうして大学を卒業した今のわたしは、就職活動に失敗し、明らかに向いていない職業についた。今もなお、本当は待ち望んでなどいない本番を期待し、怠惰にダラダラ走っている。
***
昨日は酷かった。湿気がひどいと理由をつけ、なんにもしたくなかったので家事もせずベッドに寝転んで、無料でダウンロードしたオセロのゲームをしていた。無料なのですぐ勝てる。カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、win! カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、win! カチ、カチ、カチ、カチ、win! そうしている間にわたしの人生の本番は過ぎ去っていった。なんて無駄で贅沢な時間の使い方であったことか。
でも考えてみれば人生なんてそんな重きを置くものでもないのかなと思う。昔は毒キノコを食べて死んだり崖から落ちたり辻斬りにあったり、とかく簡単に人が死んだんだろう。彼らに意味付けなんてなかったはずだ。
先日家の近くで子猫が生まれた。とにかくかわいかったのだがいなくなってしまった。あの子らももしかしたら、飢えたり車に轢かれたりすぐ死んでしまうのかなと思う。子猫たちの本番はもうない。しかし親猫はまた次の春には発情して、すぐに新しい子猫が生まれるだろう。人間の生も所詮そんなものなのかもしれない。本気になる必要なんてないのかもしれない。
でもどうせならわたしは、本番の全力ダッシュをしてみたい。わたしにとってわたしの本番はわたしだけに与えられたわたしだけの一回こっきりのものである。わたしにとっては世界に等しいものだ。その気持ちを捨てきれない。
私は、昔から他人と話すことが苦手で、自身の意思・意見を話すことがうまくできない。
特に、1対1ともなると、何を話すべきなのかわからず言葉が出ない。
他人に関しての興味が薄く、他人の感情をなんとなく察する、所謂「空気を読む」ことがほぼできないと言って良い。
私は、仕事上のとあることがきっかけで、仕事を辞めた。端的にいえば、人間関係に疲れてしまったので、辞めた形だ。
とある案件で、仕様作りで折り合いがつかず、客と受注側リーダーとの間で板挟みになってしまった。仕様書の作成もうまくできず、自身の無能さに絶望した。
日を重ねる毎に、その絶望感は酷くなった。ストレスで深く眠れなくなった。残業と長い通勤で帰宅は遅く、毎日深夜1時頃に布団に入るが、5時前には目が覚めた。遅刻が恐くて、睡眠は毎日浅かった。
いいようのないモヤモヤが、毎日溜まっていった。通勤が憂鬱になっていった。
以前まで楽しいと思っていたことすら、退屈、ときに苦痛を感じるほどだ。以前は好きだったゲームですら、全く楽しめなくなってしまった。
自分は何のために生きているのか、わからなくなってしまった。何を目標にして生きていけば良いのか、わからなくなってしまった。
できるなら、もうこのまま消えてしまいたい。
主観は事実であり、主観と整合した客観は事実であり、主観とはグローバルなスコープを持った文脈であるという形態の人だった。だから緑色のりんごが緑色であることに問題はなかった。明日は防災頭巾を持っていかなければいけないことにも問題はなかった。しかし緑色のりんごが緑すぎるかどうかは一意に定まっていた。それは緑過ぎるか緑すぎはしないかのどちらかであって、主観の小部分では濃いが別の小部分では薄いということはあり得なかった。主観は一貫しているのだ。
歯磨きという単元があったとしよう。歯が健康だと自己に良いという価値観があり、従って歯を磨くという手段が説かれる。そして歯磨きにより自己は高められたという評価がまず外から固められ、いずれ内的なものとなる。……そうではない。歯は磨かれねばならない。貴様はなぜ歯を磨かなかったのか。磨いたとすればなぜ正しく磨かないという選択をしたのか。それは自由意思による怠惰でもやまれぬ特段の事情でもなければ一体どのような合理的理由によるものか答え、そして反省を始めろ。これも一言にいえば歯磨きの指導である。
指示であれば可能な限り従おう。
自己責任論には慣れている。どんな責任でも誰からでも指弾は甘んじて受けよう。今日の東京は暑かったがそれは増田の至らなさゆえだ。誠に申し訳ない。それで読者の気が晴れるならばそれは素晴らしいことだろう。読者諸氏はここに書かれたいっさいに何ら責任を負わない。それで構わない。リンクを踏んだだけの諸氏に対して増田が何を求められよう? 苦しみは自らのものだ。増田は苦しみを内包する。それだけだ。ただ、そういう関係性があったこと、事実があったこと、そういった状況が発生することそれ自体が認識となれば、それは大変に心強いだろう。
23年生きてきて、自分なりに「趣味」を定義すると、以下の通りである。
①人間は、「趣味」というものを持ち、仕事のしない休日に私費と時間を投じて、それをやるらしい。
②「それについての事柄が好きだ」と初対面の人の前で言ったときに、ネガティヴなイメージを持たれないものでなければ、「趣味」とは認められない。
③「趣味」を持つ人間は、「趣味」を持たない人間より高尚な人間とされ、仕事がうまくいったり、友達ができたり、恋人ができたりしやすいらしい。
ぼくの趣味について、ぼくが好きなことと言えば、「昼寝すること」と「風俗に行くこと」であるが、当然、それは②にあてはまらず、「趣味」とは言えない。
昼寝が趣味だと初対面の人の前で言えば、怠惰な人だと思われるだろうし、まして風俗に行くことが趣味だと初対面の人の前で言えば、誰も近づかなくなるだろう。
かといってぼくは、「昼寝すること」と「風俗に行くこと」以外に休日にしていることはほとんどない。
しかし、「趣味がない」といえば低俗な人間だと扱われることは確実だろう。
現に、趣味の話になったときに、てきとうに他の話題を持ち出しその場を凌いできたぼくは、仕事もうまくいっているとは言えないし、当然友達も恋人もいない。
ぼくは中高生時代、吹奏楽部で楽器を演奏し、大学でも管弦楽のサークルで楽器を演奏していた。
もちろん入部したからには、懸命に練習したが、その理由は、楽器が「好き」だからではなく、合奏でミスをして「恥をかきたくない」からであった。
中学時代に吹奏楽部に入部した動機も、「先輩の演奏する姿が格好いいから」とかではなく、母の勧めがあったから、という、「好き」とは程遠い理由であった。
部活の同期が、どの作曲家が好きだとか、どの曲が好きだとか、そういう話で盛り上がることはよくあったが、ぼくはそういう話にまったく興味が持てなかった。
次の合奏でミスをしないこと以上に、音楽に対しても興味をもてなかったからである。
最近、社会人サークルで楽器を演奏しているが、楽器を演奏することは「好き」ではないことに、改めて気づいてしまった。
大好きな昼寝と風俗の時間と私費を割いてまで、それをするほどの価値があるとは、とうてい思えない。
「好き」ではない仕事を平日にやった上に、「好き」ではないことに休日の大半を費やす生活は、苦痛以外の何物でもない。
「正規雇用で働き、趣味を持ち、恋人(配偶者)がいる」という、世間が有象無象の圧力をかけて推奨する、20代前半の生き方を真似しようと試みてきたが、最初から無理だったのだ。
平日の仕事で疲れ切ってしまい、休日を体力と寂しさを回復させるためだけに使う人間など、プライベートで誰も話そうとも思わないのだ。