主観は事実であり、主観と整合した客観は事実であり、主観とはグローバルなスコープを持った文脈であるという形態の人だった。だから緑色のりんごが緑色であることに問題はなかった。明日は防災頭巾を持っていかなければいけないことにも問題はなかった。しかし緑色のりんごが緑すぎるかどうかは一意に定まっていた。それは緑過ぎるか緑すぎはしないかのどちらかであって、主観の小部分では濃いが別の小部分では薄いということはあり得なかった。主観は一貫しているのだ。
歯磨きという単元があったとしよう。歯が健康だと自己に良いという価値観があり、従って歯を磨くという手段が説かれる。そして歯磨きにより自己は高められたという評価がまず外から固められ、いずれ内的なものとなる。……そうではない。歯は磨かれねばならない。貴様はなぜ歯を磨かなかったのか。磨いたとすればなぜ正しく磨かないという選択をしたのか。それは自由意思による怠惰でもやまれぬ特段の事情でもなければ一体どのような合理的理由によるものか答え、そして反省を始めろ。これも一言にいえば歯磨きの指導である。
指示であれば可能な限り従おう。
自己責任論には慣れている。どんな責任でも誰からでも指弾は甘んじて受けよう。今日の東京は暑かったがそれは増田の至らなさゆえだ。誠に申し訳ない。それで読者の気が晴れるならばそれは素晴らしいことだろう。読者諸氏はここに書かれたいっさいに何ら責任を負わない。それで構わない。リンクを踏んだだけの諸氏に対して増田が何を求められよう? 苦しみは自らのものだ。増田は苦しみを内包する。それだけだ。ただ、そういう関係性があったこと、事実があったこと、そういった状況が発生することそれ自体が認識となれば、それは大変に心強いだろう。