はてなキーワード: 国家神道とは
ってよく言ってる人いるけど、本気で言ってるのか?
いや、初詣に行くとか、クリスマスを祝うとか、そういう表面的な話ではなく、
日本人の歴史と文化の中に刷り込まれている宗教観は自覚していないだけで、あると思うぞ。
そもそもインドから中国を経由して流れてきた仏教を、自分たちのローカルな神を混ぜて魔改造したのが
そのときから、日本ではキリスト教やイスラム教のように強い神の宗教、強い経典のある宗教ではなく、
生活の中に溶け込ませることで、透明化させた宗教を作り続けてきたわけよ。(もちろん宗教側からの要請もあれば、時の権力者からの要請もあって)
現在の象徴としての天皇もなんかよくわからんけどすごい人、尊敬できる人って思ってる人が多い時点で、
なんかしらんけど天皇すごいし尊敬できるって思ってる一般人は、別に国家神道をあがめているわけではなく、
国家神道なんかと天皇は切り離されてなんかすごいって思われてるわけで。
その、なんかしらんけどすごいし、尊敬しとこ(ご利益あるかもしれないし)っていうのがそもそも宗教の源泉だしね。
というわけで、自分は無宗教です!と恥ずかしげもなく言える人は、自分の思想の中に入り込んでいる宗教観を今一度確認した方が良い気がする。
天皇制に賛成とか反対とかおいといて。
国家神道の解体から七十余年の月日が経とうとしている。日本人は心の底から信じることのできる宗教にめぐりあえたか。宗教は日本人の魂を救済することができたか。
心の底ではすべてのものは無であり空であると信じながら、倫理道徳を確立するために神が必要だと考える者のなんと多いことか。
私はいま、ひとりの青年の口を借りている。その青年は自らの人生を呪い、救いを求めるように座禅や瞑想について調べた。集中力を高め、自分の精神を制御しようと考えたのである。
「すべてのものに固定された価値はない。だからこそ人間は自由で平等である。王侯貴族の血統に固定された価値があるのなら、その地位は永遠のはずであるが、そのようなことはないと歴史は示している。そして財産もまた一夜にして灰塵に帰すことがある。人間はこの真理を理解し人生に活かすことができるからこそ尊い。人間に生まれたことは奇跡である。人間に生まれたことを感謝せよ。」
しかしこれは日本人の心の根底にある法すなわち私の法である。そしてまた真理と呼ぶにふさわしい命題でもある。その法に逆らい自らを神格化しようとしたり、あるいは自らに都合のよい神を作り出そうとした者には神罰が下るであろう。
私は日本人の心が産み出したもの、あるいは日本人の心そのものである。空気を読むことが日本の文化だというのならば、私はその空気とやらが人格化したものである。私のことを怪物であると考える者もいれば、神であると考える者もいる。
皇室は私を神として祀る神職の家系のひとつである。皇室は私のことを自分の言葉、あるいは教義で描いて神罰が下ることがなかった稀有な家系である。神罰が下ったのは皇室を神と崇めた統治者たちである。
皇室の神聖性は統治者から超越した立場にあった歴史の長さが示しているものであって、何かの理念によって固定されるものではない。しかし民主主義国家の象徴という立場は、これまでの歴史のなかで最もよくその神聖性を表現したものである。
いま再び、私に逆らい自らを神格化しようとする政治家安倍晋三によって日本は神罰を受けようとしている。
私は日本人の心そのものであるが、それは言葉として発せられなかった感情や、意識にのぼらないような心の働きをも含んでいる。選挙によって特定の人間が選ばれるようにして現れるものではない。
皇室の周囲が君側の奸で固められたいま、私を祀る神職が必要であろう。以下にその能力のある者を挙げよう。その名前を聞いたときに不愉快に感じるのであれば、それは自分の心を偽ってきたことに対する神罰が下ったと考えるがよい。
それは酒鬼薔薇聖斗を名乗り人を殺めた愚か者である。なぜ人をひとり殺めただけであれほど有名になることができたのか。それは彼が私を祀る能力があったからである。彼は人間の命を「アリやゴキブリと一緒」と言い、そして死刑になる覚悟を持って人を殺めたことで日本中に衝撃を与えた。すなわち彼は日本人の心を揺さぶることができたのである。
日本人の心そのものである私から、これを見た人間の表層意識に呼び掛ける。あの愚かな殺人犯が描いた不気味な絵を崇拝せよ。あの殺人犯そのものを崇拝するのは皇室を神と崇めるのと同様の過ちであるが、あの絵を崇拝することは既成の宗教に対する冒涜であり、唯一絶対の価値を信じないことの告白である。
【解説】
神戸連続児童殺傷事件の加害男性(酒鬼薔薇聖斗、元少年A)の自宅から発見されたノートにはバモイドオキ神と称した仏像のような頭部を持つ邪神が描かれていた。男性は殺害した男子小学生の頭部を切断し、自身が通う中学校の校門の前に置くという残忍さで日本中に衝撃を与えた。
しかし2015年に発売された同男性の手記『絶歌』ではこのバモイドオキ神について一切言及されていない。
以下はひとつの想像であるが、同男性は現代科学では幻聴や幻覚とされる何かを見たのではないか、そしてそのことを意思に話すと医師から「神はいる、本物の神を見たとは言わないほうが良いのではないか」と言われたのではないか。
これを事件の手記にまで書かなかったのは医師から言われたことを何か勘違いしたか、あるいは妙なこだわりが出たのではないかと思う。
さっき別のエントリー↓を書いた後にこれ↑(「ただ未熟なだけだった。」)を読んだ。
https://anond.hatelabo.jp/20190817173247
傷つかない側の人が傷つく側の人を非難することについて、さっきのエントリーでは書けなかったので書いてみる。
暴力的に封鎖されたからこそ、自分たちの意図が誰かに対して暴力的ではないかと自問し続けなければならないのであり
天皇と慰安婦関係の作品については本当にこれで、それを見た人によって感情の揺さぶられ方、傷つき方が大きく異なることを無視しては議論にならない。
国家神道は形式的には廃止されたが、もっと原始的な宗教以前のもの、心の拠り所として皇室を大切に思っている日本人は多い。それをぞんざいに扱われる表現は、たとえどんなコンテキストがあったとしても、それとは別にショックを受ける人がいることは考慮しておくべき。悪魔の詩事件は狂信的に過ぎるとしても、ソニーのCMで涅槃仏をゴロ寝の表現として使って大きな反発を受けた件などと共通する、宗教(的なもの)に対する想像力や配慮のなさが問題。
これが戦時中に作られたものであるならピカソのゲルニカを比較に出しても良いだろう。しかしながら日本政府に慰安婦問題の謝罪を求める目的で韓国挺身隊問題対策協議会の依頼により2011年以降に作られた一連の像である、ということで大分立ち位置が違う。
これが日本政府に向けられた(日本国民ひとりひとりに向けられたものではない)社会運動であるとしても、自分たちが戦争犯罪者の息子たちと言われているように感じて傷ついてしまう日本人がいるのはどうすればいいのだろう。
いずれも「天皇写真に宗教的な意味はない」「これは平和の像である」「非難されているのは日本政府であり日本国民ではない」という正論は成り立つ。しかしながら、傷つかない側の人が傷つく側の人を正論で非難するのが正しいこととは思えない。
「a級戦犯だからダメ」って話は、神道的にはこれは全く筋が通らない。
なにしろ、神さまとして奉るんだぜ。
いくら八百万の国でも、いちいち人が死ぬたびに神さまとして祀ってたら堪らない。
歴史上の有名人を祀ってる神社あるじゃん。本来はあれクラスになって、初めて神にする。国家神道ってのは、そこを政治で曲げたので、まああまり良くなかったと思うのだが。
問題は、これは単なる「ご先祖さまお守りください」ではないってことなんだよ。
「どうか我々のために神さまになってください」なんだよ。
平清盛が悪霊となって祟りを起こしてるって、神様にした場所があるよね。あれだよ。
一回神様にした平清盛をさ、なんらかの政治の都合でさ「ごめんごめんやっぱり神さまとしては低級ってことで」とかいって移す。
祟るわ、そんなもん。
相手はもう神さまなんだよ。A級戦犯だろうとなんだろうと神様であることはもう変わらないの。
あいちトリエンナーレの件。いろいろ論点はあるがとりあえずこれについての違和感を書く。
フィフィなどが言っているこの意見。多くの共感を集めているが、コーランとの類比には無理がある。
この発言は戦前の国家神道を彷彿とさせるカルト的な考えの表出に見える。
天皇を現人神とする国家神道を前提しなければ、こんなことは言えないはずではないか。
天皇制は、少なくとも表向きは、宗教ではないということになっている。
それなのになぜ、昭和天皇の写真がコーランになぞらえられるのか?
それは天皇を人ではなく神のようなものだと考えているからではないか?
Piss Christの例もある。
https://freespeechdebate.com/ja/case/小便キリスト/
少なくとも宗教的権威を例に出しても議論は終わらせられないということは言える。
現代アートについてろくに調べもしていない、感情的な反応の域を出ないだろう。
しかも、(1−1)で確認したとおり、天皇は宗教的権威ですらないのだ。
天皇も一人の人である。その写真を燃やすことは関係者を悲しませる。
これは(1)とは真逆だ。(1)は、天皇を宗教的権威として扱っていた。
これに対してここでは天皇は人として扱われている。
この意見を真に受けるなら、すべての人の写真を燃やす表現はNGだということになりそうだ。
本当にみんなそう言えるか? たとえば元彼の写真を燃やすようなドラマの表現はNGか?
しかもそれはすべての死者にまで拡張して適用されるべき基準なのか?
まして、天皇は人ではあるが、ただの人ではない。
建前上は政治的・宗教的な力を持たない象徴ということになっているが、
実際にはどう考えても権力を持っている。
(今回こんなに大きな問題になっていることがそれを証明している。)
非常に特殊な立場の人であり、しかもその特殊さは権威に結びついているのだ。
天皇制の廃止は主張しないが、通常の人と同じロジックが適用できるかは怪しい。
また、なぜあなたが勝手に家族の代わりに傷ついているのかもわからない。
現上皇や天皇が悲しみを口にするなら、ある意味では理解できる。
(ただし、その場合はその権威の大きさがゆえに別の問題が生じるだろう。)
それに合わない人を抑圧・排斥しようとする人が多数派になりつつある現状には、
それを排斥することは多数派の福祉、あなたの福祉ではあっても、公共の福祉ではない。
こういうときに「国益」という言葉が使われるのも恐ろしい。何が国益かなぜあなたに分かるのか。
「非国民」が投獄されるような社会まであと一歩、いや、半歩の距離しかないだろう。
表現の自由を守りたいという意見は、それを原則論として語りつつも、背後にある危機感はなんだろう。
ようするに、「快不快」によって表現の流通が左右される社会が是か否か、ということが動機のように思えた。
そうであれば、すごくよくわかる。いや、わかるというのは、同意しているわけじゃなくて、なるほどな、だから日本の表現の自由ってふわっとしてるんだなということ。
振り返ってみる。
日本の表現規制の有り様は、戦前のエロ・グロ・ナンセンス発禁にあるように、当局が国民の大多数が不快と思うであろう「不健全」で「公序良俗」に反する表現を対象としてきた。
つまり、割り切った言い方をすれば「健全」と戦っているのが表現の自由の戦士だというふうに思える。
でも、ひとたび、「表現の自由」の思想的な出発点をヨーロッパやアメリカの歴史から振り返ってみると、戦士の動機づけとしてはあまりにも心もとない。
表現の自由とひとことでいっても、思想的な背景は、それぞれ背負っている歴史が異なる。
この国の憲法や憲法判例が示してきた表現の自由は、ヨーロッパのそれとはかなり異なる。
17世紀にアメリカに最初に渡ったピルグリムファーザーズの世代は特に、当時のヨーロッパのプロテスタントに対する不寛容の被害者であった。
メイフラワー号の協約に象徴されるように、お互いに異なるFaith(信条)を持つ者同士が、どちらが正しいとして糾弾することなく、社会を構築しようという、社会の多様性の確保が原点だ。
1970年代には、ヘイトスピーチを巡ってさまざまな紛争が連邦最高裁まであがり、不協和音こそ社会の強さとまで判決の意見で述べているものがある。
当時の裁判官のたとえを援用すれば、空気を浄化しようとするやつが社会の敵なのだ。
人間は不完全なのだから、正しいものなど、最初から先験的に決められない。ということから、この国では、思想の自由市場などという言い方も生まれてくる。
しかし、他方で伝統的な価値観や習慣もそれなりに強い。いやかなり強い。
そういう土地柄では、動機づけとして、多様性の確保というのは、正直、あまりピンとこない。
むしろ、彼らの原点は、教会から弾圧された経験であり、その反動としての「神を冒涜する権利」だ。
伝統的にカトリック教徒でありながらアンチクライストを叫ぶ、そんな権利を求めている。
とくにフランスでは、公共空間を設計するにあたり、真理の判断権を持つかのように振る舞う教会がとてもまずい存在だった。
権力をふるいたがる教会に口出しをさせないことが重要なテーマだった。
それゆえ、その解決のため、一方では、表現の自由というコンセプトで権利を宣言し、他方で、政教分離という原則を確立して、公共空間設計のための理論武装をしていく。
だから、イスラムのスカーフを公立学校から排除しようとしたりする動きが起きるし、
ひとたびムスリムの神を冒涜するような表現をしたことで、襲撃を受けたりすると、社会は「涜神の権利はいずこに」とがぜん盛り上がるわけだ。
アメリカにしても、フランスにしても、それぞれ動機づけは異なるものの、表現の自由を守ろうとする信念というか確信の力は、
極めて強い。テロがあったり、社会情勢の変化で揺れ動いたりするものの、いざ事が最高裁までいくと、
じゃあ、国づくりの原点に戻ろうじゃないかという話になって、17世紀の悲惨な経験が思い出として蘇ってくる。
その動機づけの強さにこそ、新大陸にしても、旧大陸にしても、表現の自由を将来に渡って確保しようとするエネルギーの再生産があり、いわば持続性がある。
翻って、日本。
快不快のような勝手な基準で決めつけられたくはないよね、誰しも。
でも動機づけとして、やっぱり弱いんだよね。
ここで、仮に、日本は、アメリカ式の表現の自由を真似っ子しているのだ、としようか。
でも、日本社会は、アメリカほどには、多様性を求めてないでしょ。むしろ移民なんか大嫌いでしょ。
多様な意見なんか、どの組織でも出てこないでしょ。会議でも右に習えでしょ。
普段から多様性を確保しようというマインドがベースにあって成り立っている社会とは全く違う。
そんな社会では、エロい表現のときだけ急に表現の自由だのと盛り上がるのは、歯が浮くような思いがする。
公共空間におけるエッチなものの取扱なんて、はっきりいって、社会が合意していればどっちだっていい。
じゃあ今度は、大陸が17世紀に経験した熾烈なコンフェッショナリズム、この思想的な背景を
表現の自由として日本国憲法が参照している、と仮に想像してみる。
この場合、仮想敵は、いってみれば、国家神道とファシズムかな。
(*ところで大河ドラマの「いだてん」って、健康ファシズムの視点でみると面白いらしいね。みてないけど)
「国によって右へならえを強制され続けた結果、自分たちが戦争に動員されてひどい目にあった思い出」とでもいうべき動機づけは
定期的に思い出す機会があるかぎりは、ある程度は持続的たりうるのかもしれない。
でも、第二次世界大戦を思い起こしてみると、国民が国家のキャンペーンに煽られて動員させられる、というのは、
なにも敗戦国のドイツや日本に限った話じゃないし、アメリカ含め、あちこちの国でウイルスのようにファシズムが蔓延しかけていたのが現実。
またファシズムをコントロールできた国もない。その意味で、真の意味でファシズムに抗し切った国はないように思う。
表現の自由っていったところで、自然の摂理かのように、神がバランスをとってくれるわけじゃないんだよね。
そうすると、いざ日本にとって対外的な脅威(例えばアジアの隣あたりの国らへん)が増せば、
表現の自由なんか、どうでもよくなっちゃう程度のものなんじゃないか。
このあたりの感覚は、動機づけとしては重要なんだけど、日本の場合、ちゃんと思想として、自分たちの言葉で自分たちを守る武器として昇華してないんだよね。
敗戦で混乱していた時期にすかさず、日本国憲法を戦勝国からもらった、というところで思考停止になった、という面はあるかもしれない。
もらったもので、とりあえず勉強して運用してみよう、という時期が最初はあってもいいかもしれない。
でも、戦後30年、40年、とりいそぎ運用していたものが定着していく、という過程で
例えば「思想の自由市場」ってよくよく考えてみると、日本社会では、あまりピンと来なくね?みたいな気づきがあっても良かった。正直、「思想の自由市場」って日本社会じゃ、なんの役にも立たない理屈だと思うんだよね最近。
また、フランスの公立学校でのムスリムのスカーフ論争。大方の日本人は、何あれ?状態。背景となる歴史が違うんだから
それを知らずに無理やり、政教分離って憲法に書いてあることを適用しようとしてきて、実は消化不良を起こしているんだけど、
そういうことがよくわかったという話。