はてなキーワード: 反抗的とは
私は中学生の頃からショタの靴下モグモグとか言ってるキモイオタクだった。
別に現実のショタには指一本触れたことはなかったし、靴下を食べたこともないし、そもそも自分だってロリと呼ばれて差し支えない年齢だし、二次元のショタとクラスの男子は完全に別物だし、そういうこと言っちゃダメっていう意識がほぼなかった。
実際インターネットには女子中学生のスカートの中の空気を吸いたいとか言ってる人がいくらでもいたが、女子中学生の私はインターネットにそういう輩がいることに関して何とも思ってなかった。
だって現実の女子中学生なんて二次元に比べたらうるさいわ反抗的だわ彼氏はいるわちっとも可愛くないことを身をもって知ってたので。勿論現世でスカートの中を嗅がれたことなんかなかったし、当然のごとくかつて中学生だったロリコンのみなさんも知ってると思ってた。
ロリコンを自称する男友達もいたが、そついも現実の女子中学生と二次元のロリは分けて考えてた。終始妹萌えって言ってたけどそれは二次元の話であって誰かの妹になんか見向きもしない。
セックスのやり方も知らないでエロ同人の何を楽しんでたのか今となってはよく分からないが、多分推しのエロい顔とかを見たかったんだろうな。
中学生じゃなくなって趣味が変わったのでショタ趣味は卒業したが、その後も美青年に惚れたりおっさんに落ちたりしながら相変わらず凌辱レイプものなどあまり褒められたものではないシチュエーションが大好きなオタクをやっている。
しかしまあ、そういう中学生だった私が表現規制したいみなさんの話ぐらいは聞いてやっていいかなぐらいに歩み寄る気になったのは、大人になって自分が実際に性被害に遭ったからだ。
あ、まじで現実の人間にそういうことやるやついるんだ。まあ世界のどこかにいるのは知ってたが、お前がそうだったとは知らなかったよ。
被害に遭って初めて、万引きよりもレイプの方がハードルの低い人種の存在を意識した。
まあだからって今も二次元と現実は別物なので妄想なら何してもオッケーっていう考えを変える気はさらさらないが。
私にとってレイプされることよりレイプもののエロ同人の方がずっと長いこと身近な存在であったように、二次元のヤバい性癖博物館なエロ同人より、現実の性犯罪の方が身近な存在である人がいるんだよなって思った。
いるんだなって思っただけで絶対に相容れないけどね。
相容れないけど、まあ、言いたいことは分かったわ。相容れないけど。
なんか嫌がる人多いとか言うけど普通になると思うんだよ
めちゃくちゃ読みにくい文章ってあるじゃん、そんなんにお世辞でも言えねーもん
まあ「読みやすかったです!」とだけ言われたらそれは別に嬉しくないってのは分かるけど
書き方悪かったな、ここで想定してるのは主に小説書き。それもプロとかでなくて趣味で同人やってるような。
で、上にも書いたけど、感想が単に読みやすかった、だけなら嫌がられるのは分かる。他にないんかーい!ってなるから。(それでも褒めてる事に変わりはないとも思うけど)
でも内容にも触れられておきながら「読みやすいなんて感想!!!キー!!!」はなんやねん。褒めてるやん。読みにくかったですよりええやん。
たぶんそもそもお前の文章が読みにくいんだよ、ってことで書き直し()して遊んでる人がいるんだと思うけど、
人に読ませる文章って前提で書いてないからね。自分が書いたのは読まれても構わないただの日記
他人が読みやすい文章を書けるかどうかということを評価するつもりもない
これだけ突っ込んどきたいんだけど、反抗的とは?
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」という映画をご存知でしょうか。20年以上続くシリーズの中でも傑作と名高い作品です。20世紀も終わり2001年、「20世紀博」というテーマパークにはまる大人達。ある日しんのすけ達子どもを置き去りに失踪してしまう。残されたしんのすけ達は大人を救うため20世紀博へ向かう…という映画です。
若干ネタバレですが大人達は結社イエスタディ・ワンスモア(敵)が発明した"なつかしいニオイ"に影響され幼児退行し文字通り「子ども」に戻っていきます。
立ち位置的にイエスタディ・ワンスモア=P、「大人」=ノクチルに近いのでは無いかと思います。(あくまで立ち位置的な話)
Pは透の中に過去の思い出を回想し、「輝き」としてノクチルの大人として見た時決して褒められた物ではない行為に拍手し、またノクチルもPの中に昔の憧れ(ジャングルジム?)を見た透とその後ろ姿から懐かしさを求め、挙げ句子どもじみた反抗をする姿に近しさを感じます。
オトナ帝国では敵とされた「過去に立ち戻らせようとする大人」が主役となっている訳です。
要するにノクチルの「青春」というのはPという大人の望むその掌の上の出来事で、反抗的なある種幼稚な行動もPの期待する所な訳です。そしてPは彼女達を罰を与えず始末書を書かせる程度で済ませてしまいます。敢えて大人として振舞わない事で子どもを自身の願望の自己投影の手段とする作中のP引いてはライターのエゴを強く感じました。
イエスタディ・ワンスモアのボスであるケンの台詞「夕焼けは人を振り返らせる。だからここはいつも夕方だ。」
子どもとして大人への反抗を遂げたノクチルを夕焼けが照らし出します。遠い過去や子ども時代への回帰の象徴としての輝きなのでしょう。日暮れへの感傷は万人共通のものなのだと思います。
最後は野原一家対イエスタディ・ワンスモアの戦いになります。過去に拘泥し時間を巻き戻し過去という殻に閉じ籠ろうとする敵と未来に向かってひたすら走り続け未来を手に入れようとする一家の戦いです。
先程も述べましたがノクチルに対するPは大人の責務を放棄し、彼女たちの良く言えば純粋な、悪く言えば子ども染みた行為を称賛します。
こういった構図は特に青春モノなどではありふれたものとも言えます。ただ私が気になったのはそれが「大人の主観」でありそれを美化し正当化するような筋書きであることです。
系統として古典で言えば「ぼくらの7日間戦争」のような純粋で爽やかな青春と大人への反逆を描こうとしたのだと思います。ですがPという大人の恣意が前提にあることで純粋さは薄れ「俺たちの7日間戦争」とでも言うべきものになってしまっています。一言で言えば"理想的なクソガキ"でしょうか。青春の1ページという描写も陳腐な物に成り下がります。
今の所のノクチルにおけるPというのは彼女達の成長を阻む存在であり、必ずそこと向き合うべきであると思います。
そこに向き合えない限り"売り物"と"売る者"のエゴ、ノクチルというアイドルがPの自己満足と大人としての子どもへの傲慢の上に成り立つ存在でしか無いからです。
割と悪く書いてる気がしますがまだ1ページ目、最初のコミュまでの感想でしかありません。またそう言った関係性や意識の変化も描かれていくものと思います。
個人的に驚いたのは天塵のコミュを徹頭徹尾称賛する人が割りといた事でしょうか。オレの人生はつまらなくなんかない!(ryと言えるような大人は意外と少ないのかもしれません。
現状の彼女達というのはPに泳がされているだけの存在であると思います。そこに自身から向き合い、殻を破り、誰の定義でも無い私へと変化していく方が健全だとは思いますね。
ランドセルについてのTogetterを見て、自分のランドセルに関する記憶が蘇ったので書く。
小学校に入学してから数ヶ月の間、従姉妹のお下がりのランドセルを使っていた。
入学前に母親が貰ってきて「○○ちゃんのお下がりだけど綺麗でしょう?」と言って見せてきたが、傷もあるしなんだかヘタっていて、ボロボロだった。
嫌だなぁ、と内心思ったかもしれないが、「よそはよそ、うちはうち。うちは貧乏」の精神を幼少時より叩き込まれていたから「まぁ、うちはそうなんだな」と思い黙って使っていた。
ランドセルの値段なんて知らないから、恐ろしく高いものなんだろうと思っていた。
(実家の細かい経済事情なんざ今も知らないが、成長してみて思うのは、少なくとも貧乏というほどではない。別に金持ちでもないが、中流という感じ)
当然、周りの子供たちのランドセルはピカピカで、お下がりを使っている子は居なかった。
「どうして入学したばかりなのにそんなにボロボロなの?」「一年生なのにもうそんなに汚しちゃったの?」と同級生に訊かれて恥ずかしい思いをした。
私が乱暴に扱って傷つけたわけじゃないのに、周りからはそう見える。
何と答えたかは覚えていない。何も言えなかったかもしれないし、お下がりだから、と答えたかもしれない。
別にその子たちは意地悪で言ったわけではないと思う。単純に疑問だったのだろう。仮に自分のランドセルがピカピカで他の子のがボロボロだった場合、自分でもそう尋ねていたかもしれない。
入学から数ヶ月経ったある日(ちょうど今くらいの時期かな)、突然母親から新品のランドセルを与えられた。
母親が誰かから言われたのか、自ら何か考えを変えたのかはわからない。
とにかくそこからは新品のランドセルを背負い、卒業までそれを使い続けた。
元々使っていたお下がりは何処へいったのかわからない。捨ててしまったのかもしれない。
私には歳の離れた妹がいるが、彼女の小学校入学時には初めから新しいランドセルが用意されていた。
私よりも内気な妹が、私と同じ思いをすることにならなくて良かったと思った。
私が子供の頃には、今のようにランドセルに多様性などはなく、価格のピンキリはあっただろうが色は黒か赤しかなかった。
性自認に揺らぎのありそうだった子がポツリと、「本当は黒いランドセルが良かったけど、ダメだって言われた」と言ったことを今でも覚えている。
親の意向もあるだろうが、今は色の選択肢がたくさんあるみたいでそれはいいことだと思う。
ちなみに、ランドセルを買ってもらえなかったことで親を恨んでいるとかそんなことは別にない。普段は余裕で忘れて生きている。ランドセルの話題を目にしてたまたま思い出した。
でも、母には他にもなんだかそういうところがあるなぁ、と思った。
本当に貧しくてランドセルが買えないのなら仕方ないが、そういうわけでもないのにお下がりで済ませようとし、子供が新しい環境でどう感じるか、周りがどう思うか、そういう部分への想像力があまり無い。
おそらく「自分なら気にしない」と思っている。
そういう「私ならこうする、私なら平気」という感覚を、数十年ギャップのある子供にも適用でき得ると思っている節がある。
そういう価値観が、私の折々の進学や就職の時にも挟まれることがあったが、成長するにつれある程度聞き流すようになっていったので、いわゆる「毒親に支配される」的な状況にはならなかった。
私が適度に反抗的で、母親はそこまで束縛の強いタイプではなかったからかもしれない。
母親とは話も合うし、尊敬している面もあるが、長い時間一緒にいると喧嘩になることがあるので、今は離れて暮らしている。
たまに会うと楽しくお喋り出来る。
(ここまで父の話題が1度も出てきていないが、子供の頃父親は私が起きる前に出社して寝た後に帰宅するような生活だったのであまり生活面での関わりがなかった。モーレツ社員ってやつですかね、ああいう働かせ方は良くないと思う)
でも、自分が子供の頃に感じていた、一つ一つは大きくないけれど細かく点在するしこりのような感情のことを思い起こすと、子供を持つのは怖いなぁと思ってしまうので今のところ子をもつ予定はない。
増田です。かなりの数のブクマが付いててびっくりしました、みなさまコメントありがとうございます。
妻とは昨日無事に仲直りしました。(丸一日self-isolationした結果、状況は改善)
実はこの記事はイギリスから書いております。これを書くと欧州の特殊な状況と捉えられて共感を得られないのではないかと思い、あえて書きませんでした。ただコメントを見る限り普遍的な問題になってきていると感じますし、外出禁止令から3週間が経過した後に起きたということも踏まえて、これから日本でも私と同じような状況が出てくるのではないかと考え、ここに追記します。
・トップブコメの人が書いている通り、そもそも指輪と時計を着けないというのが正解だったのだと思います。つまり初手から間違っていた、と。30分程度の買い物に指輪も時計も必要ないはずなのに普段通りの行動をしてしまったというのは迂闊でした。
・コロナのせいにしてはいけないというコメントをコロナがしていましたが、それもその通りですね。夫婦生活はコロナと同じくらい不条理の連続、ワクチンも特効薬もない、悪化したら隔離して経過観察あるのみ。
・「話し合え」とか「価値観の食い違いを擦り合わせろ」というコメントもありましたが、それは結婚生活の本質を知らないんじゃないかと推測します。妻帯者の男性の方は理解してくれると思いますが、そもそも夫婦間で何かを議論するということは底なし沼に足を突っ込むようなものだと思ってます、もちろん夫の側が足の役目を負うわけですが。(これについては別の機会に書きたいと思う)
【追記ここまで】
題名の通りなのだが、新型コロナウイルスのせいで夫婦の危機に陥っている。
妻はこの騒動が起きてから、絶対にウイルスに感染しないよう予防を徹底している。
それは大変結構なことなのだが、先日アパートの正面ドアから出入りすることを禁じられた。
妻曰く、アパートの共有部分である正面ドアで咳をしている人を見たそうだ。
(その人が感染しているかどうかはもちろん分からないが、激しくせき込んでいたそうだ)
この話を聞いたとき、正直神経質過ぎるなと思わなくもなかったがこの時は素直に従った。
我が家はアパートの1階部分に住んでいて、裏庭側から外に出ることはさほどおっくうではなかったからだ。
次に、外出するときは手すりや金具の部分、信号のボタンに触るなという指示が出た。
万が一触ってしまったら、絶対に顔や髪を触れてはいけず帰宅直後にすぐに手を洗え、とも。
確かに誰が触れたか分からない部分を触ってしまったら、そしてそれで目や鼻を触ってしまったら感染のリスクは高まる。
この時も私は素直に従った。(ただ限度はある、手で顔を触るのはほとんど無意識にやってしまうことはあった)
そして昨日、事件は起こった。
夫婦で食料の買い出しに行った帰り、家に着いた私は指輪と時計を外して手洗い、そして居間に帰ってくると妻はなぜか不機嫌だった。
なぜ?と聞くと手洗いの順番がおかしいのだそうだ。妻曰く、帰宅したら指輪や時計も着けたまま手を洗い、そのあと外せとのこと。
この時私は初めて妻に反駁した。いや、嘘です、「おっしゃる通りですね」みたいなことを言った。ただ態度は顔に出ていたと思う。
私ははっきりとやり過ぎだと思った。除菌のため何度も手洗いをすることは重要だと理解するが、指輪や時計も外出から戻ってきたら毎回石鹸で洗わないといけないのか?うんざりした、正直そこまでやらないといけないなら感染して免疫を持った方が手っ取り早いとさえ思った。
題名の通りなのだが、新型コロナウイルスのせいで夫婦の危機に陥っている。
妻はこの騒動が起きてから、絶対にウイルスに感染しないよう予防を徹底している。
それは大変結構なことなのだが、先日アパートの正面ドアから出入りすることを禁じられた。
妻曰く、アパートの共有部分である正面ドアで咳をしている人を見たそうだ。
(その人が感染しているかどうかはもちろん分からないが、激しくせき込んでいたそうだ)
この話を聞いたとき、正直神経質過ぎるなと思わなくもなかったがこの時は素直に従った。
我が家はアパートの1階部分に住んでいて、裏庭側から外に出ることはさほどおっくうではなかったからだ。
次に、外出するときは手すりや金具の部分、信号のボタンに触るなという指示が出た。
万が一触ってしまったら、絶対に顔や髪を触れてはいけず帰宅直後にすぐに手を洗え、とも。
確かに誰が触れたか分からない部分を触ってしまったら、そしてそれで目や鼻を触ってしまったら感染のリスクは高まる。
この時も私は素直に従った。(ただ限度はある、手で顔を触るのはほとんど無意識にやってしまうことはあった)
そして昨日、事件は起こった。
夫婦で食料の買い出しに行った帰り、家に着いた私は指輪と時計を外して手洗い、そして居間に帰ってくると妻はなぜか不機嫌だった。
なぜ?と聞くと手洗いの順番がおかしいのだそうだ。妻曰く、帰宅したら指輪や時計も着けたまま手を洗い、そのあと外せとのこと。
この時私は初めて妻に反駁した。いや、嘘です、「おっしゃる通りですね」みたいなことを言った。ただ態度は顔に出ていたと思う。
私ははっきりとやり過ぎだと思った。除菌のため何度も手洗いをすることは重要だと理解するが、指輪や時計も外出から戻ってきたら毎回石鹸で洗わないといけないのか?うんざりした、正直そこまでやらないといけないなら感染して免疫を持った方が手っ取り早いとさえ思った。
お前達は経済優先を正しいものと信じて絶對服從をして、誠心誠意活動して來たのであろうが、
既に安倍総理の緊急事態宣言によってお前達は皆自宅で自粛せよと仰せられたのである。
此上お前達が飽くまでも外出したならば、それは要請に反抗することとなり逆賊とならなければならない。
正しいことをしてゐると信じてゐたのに、それが間違って居ったと知ったならば、
徒らに今迄の行がゝりや、義理上からいつまでも反抗的態度をとって、総理大臣にそむき奉り、
今からでも決して遲くはないから直ちに外出をやめて自宅にとどまる樣にせよ。
そうしたら今迄の罪も許されるのである。
して、誠心誠意活動して來たのであろうが、
お前達は自宅待機せよと仰せられたのである。
此上お前達が飽くまでも抵抗したならば、それは
敕命に反抗することとなり逆賊とならなければなら
ない。
居ったと知ったならば、徒らに今迄の行がゝりや、義理
晋三陛下にそむき奉り、
今からでも決して遲くはないから直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。
そうしたら今迄の罪も許されるのである。
コロナ関係のまとめで色々批評されてるのを見て患者がちょっとしたパニックになるのは一般的なことなんじゃないかなって。いや自分は全然専門家でもないから何とも言えんのだけど。ちょっと古い本だけど『四訂 臨床医学入門』にこんな記述がありまして。
医療施設は医療専門職の援助を必要とする人々の集まる所であって,これらの人々は心理的にも不安定な状態であることが多い.医師や看護婦(原文ママ)の場合はその患者の状態を身体的,心理的,社会的に観察し,理解し,必要なケアを与えることが重要な任務となっているが,(中略)
患者にしばしば認められる一般的心理的特徴としては,自身の病状についての心配や,医療行為たとえば注射,電極の装着,手術などに対する不安,恐怖からノイローゼ傾向に陥ったり,自己中心的になって過度に他人の同情を求め,一方,無力感から自発性を失って依存的となり,周囲の人々の言動に対しては疑い深くなったり,怒りやすくなったりすることが多いといわれている.病院にはあらゆる性格の人が来るわけであるし,しかも病気ということでその基本的性格が不安定となれば,過剰な反応や病的反応が観察されても,ある程度は当然といってよい.(中略)
患者にとって白衣やユニフォームを着用した医療従事者は,どの人も自分を守ってくれる人,支えてくれる人であるはずであり,そのひと言その応対のしぐさにいたわりや慰めを期待したとしても,それを一概に依存的とか甘えとかいうことはできない.患者のその期待が無残にも打ち砕かれ,猜疑心,不信感,無力感から怒り,反抗的行動と進んだ場合にも,その原因となった当の医療従事者は束の間のすれ違いにも似て,まったくそのことを知らないこともある.(後略)
もちろん限度はある、限度は。またこれを見て医療従事者に甘えていいんだなどと思うことは勘違い甚だしい。医療従事者も大変である。ただ、一方で患者らがどうしても冷静でいられないというのはそこまで非難・嘲笑できることでもないんじゃないかとも思う。まあ小並感程度の話だけど。
子供の中で不満や反抗心が渦巻いても、親に発散しないようにしなければならんと思うよ。
反抗を受け入れた同級生の親が不幸になった例は沢山知っている。
息子も娘も嫁に暴力を振るい始めた事があったから、2度と嫁に手を出せないようにキツイお仕置きをしておいた。
子の体格が親の体格を抜いた時に反抗期到来という感じだった。
子供同士の集まりがあった直後に反抗的になったから、おそらく集団で親をバカにしたり軽視する話をしたんだろうと思う。
実際にそういう会話になったという事も息子からは聞いたし。
躾は必要だよ。
対外的には偉そうな事言ってるくせに、子に対して気の弱い親は本当に多い。
俺は幼い頃から自己主張が下手くそで、他人に歯向かうことができない内向的な性格だった。
まあ、そういう性格だったからか、案の定イジメの標的にされて、同級生からよく馬鹿にされていた。
俺が何も言い返さんから、コイツにだったら何を言っても大丈夫と思われていたんだろうな。
小学生の高学年の頃だったか、なぜか知らんけど、同級生からイタズラをされた拍子に面白いリアクションを取ってみようと思い立った。
どうしてだろうなー。イジメの標的にされているという構図を変えたかったのかもしれない。
その間に消しカス(というかほとんど消しゴムだなw)を鼻にいっぱい詰め込んで後ろを振り返ってみたら、まーそれが大層ウケた。
それから「面白い奴」と認識されるようになって、クラスの人気者グループの輪の中にも入れてもらえるようになった。
そのときの俺は、面白いことをやると、クラスのDQNたちが腹を抱えて笑ってくれたり、時には俺の言うことにも素直に従ってくれるようになったのが嬉しくてたまらなかった。
関西地方だったから、「面白い奴が偉い」という風潮もどこかにあって、俺は「面白い奴」をどんどん演じるようになっていった。
俺は私立の中高一貫の学校に進学したんだけど、そこでも面白い奴を演じていると「調子に乗ってる奴」「変な奴」と認識されるようになって、ここでもイジメられるようになった。
別に面白い奴でも何でもなくて、中身はただの陰キャだからね。そういうところも透けて見えたんだろうな。
「リアクションが面白いからちょっと弄ってやろう」とかじゃない。「こいつムカつくからイジメてやろう」だった。
年頃の中坊がやることだからイジメも結構激しくて、あいつら、通学カバンや制服をビリビリに破いたり、首を思い切り締めて落としてきたりしやがる。
財布から金を抜き取られることなんて日常茶飯事だったし、心臓を抉るような暴言や罵倒なんて毎日のように浴びた。
それでも、何か面白いリアクションを取らなきゃと思っていたんだからもう病気だよね。演技性パーソナリティ障害とかいうやつかな。
この頃、唯一仲良くしていた友人も決して対等関係なんかじゃなくて、俺がピエロを演じていたからこそ維持できていたような関係性の奴だった。
そんなことをずーっと続けているうちに、俺の精神状態はズタボロになっていたらしく、大学1回生の頃にうつ病と診断された。
そのとき、俺を担当してくださっていたお医者さんがかなり勘の鋭い人で、「ピエロを演じるのはやめなさい」と初めて言ってくれた。
情けない話だけど、そのときやっと俺は自分が無理をしていたということに気が付くことができた。
それから約10年間、俺はうつ病の治療をしながら、ありのままの自分を認めようと努力を続けた。
ピエロを演じなくても済むように。自分に嘘をつかなくても済むように。自分を傷つけなくても済むように。
その甲斐もあってか、今となってはピエロを演じることはなくなったし、うつ病もほぼ克服した。
今から振り返ると、他人のご機嫌を取るために自分を犠牲にするなんて、本当に馬鹿なことをやっていたなと思う。
やっと人間らしさを取り戻すことができたというべきか。
ただ、その一方で、人間関係に途方もない虚しさを感じるようになった。
あの頃の友人の中には、30を過ぎても未だに子どものような精神年齢の奴もいて、
久しぶりに会ったときに、そいつから度を超えた悪ふざけをされたので、
自分でも驚くほど感情的な態度で対応したことが、ここ最近2回ほどあった。
友人間でも最低限の礼儀は必要だという当たり前のことを態度で示しただけだ。
だけど、そいつから突き付けられた答えは「友人関係を切る」だった。
そいつからしたら、俺が反抗的な態度をとったことが心底気に入らなかったんだろう。
そんなこと知ったこっちゃないし、それで友人関係が終わるんだったら仕方ない。
俺もそいつとの関係性を修復したいとも思わんし、何の後腐れもない。
ただ、その一方で、「人間なんて、多かれ少なかれ、こいつとそれほど大差ない」という虚しさを覚えるようになった。
思えば、俺に近づいてきた奴は、「こいつだったらイジメられる」と思ってたような奴ばっかりで、
俺がピエロを演じていたから付き合っていただけで、素の自分を出した途端に離れていくようなクソ野郎だろ?という目でしか見れない。