2020-07-16

シャニマス】ノクチルとオトナ帝国アイドルマスター

 「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」という映画をご存知でしょうか。20年以上続くシリーズの中でも傑作と名高い作品です。20世紀も終わり2001年、「20世紀博」というテーマパークにはまる大人達。ある日しんのすけ子どもを置き去りに失踪してしまう。残されたしんのすけ達は大人を救うため20世紀博へ向かう…という映画です。

 

~ジャングルジム~

 若干ネタバレですが大人達は結社イエスタディ・ワンスモア(敵)が発明した"なつかしいニオイ"に影響され幼児退行し文字通り「子ども」に戻っていきます

 立ち位置的にイエスタディ・ワンスモア=P、「大人」=ノクチルに近いのでは無いかと思います。(あくま立ち位置的な話)

 Pは透の中に過去の思い出を回想し、「輝き」としてノクチルの大人として見た時決して褒められた物ではない行為拍手し、またノクチルもPの中に昔の憧れ(ジャングルジム?)を見た透とその後ろ姿から懐かしさを求め、挙げ句子どもじみた反抗をする姿に近しさを感じます

 オトナ帝国では敵とされた「過去に立ち戻らせようとする大人」が主役となっている訳です。

 要するにノクチルの「青春」というのはPという大人の望むその掌の上の出来事で、反抗的なある種幼稚な行動もPの期待する所な訳です。そしてPは彼女達を罰を与えず始末書を書かせる程度で済ませてしまます。敢えて大人として振舞わない事で子ども自身の願望の自己投影手段とする作中のP引いてはライターエゴを強く感じました。

~夕日町~

 イエスタディ・ワンスモアのボスであるケン台詞夕焼けは人を振り返らせる。だからここはいつも夕方だ。」

 子どもとして大人への反抗を遂げたノクチルを夕焼けが照らし出します。遠い過去子ども時代への回帰象徴としての輝きなのでしょう。日暮れへの感傷は万人共通のものなのだと思います

~21世紀を手に入れろ~

 最後は野原一家イエスタディ・ワンスモアの戦いになります過去に拘泥し時間を巻き戻し過去という殻に閉じ籠ろうとする敵と未来に向かってひたすら走り続け未来を手に入れようとする一家の戦いです。

 先程も述べましたがノクチルに対するPは大人の責務を放棄し、彼女たちの良く言えば純粋な、悪く言えば子ども染みた行為を称賛します。

 こういった構図は特に青春モノなどではありふれたものとも言えます。ただ私が気になったのはそれが「大人主観」でありそれを美化し正当化するような筋書きであることです。

 系統として古典で言えば「ぼくらの7日間戦争」のような純粋で爽やかな青春大人への反逆を描こうとしたのだと思います。ですがPという大人恣意が前提にあることで純粋さは薄れ「俺たちの7日間戦争」とでも言うべきものになってしまっています一言で言えば"理想的なクソガキ"でしょうか。青春の1ページという描写陳腐な物に成り下がります

 今の所のノクチルにおけるPというのは彼女達の成長を阻む存在であり、必ずそこと向き合うべきであると思います

 そこに向き合えない限り"売り物"と"売る者"のエゴ、ノクチルというアイドルがPの自己満足と大人としての子どもへの傲慢の上に成り立つ存在しかいからです。

 

~最後の~

 割と悪く書いてる気がしますがまだ1ページ目、最初コミュまでの感想しかありません。またそう言った関係性や意識の変化も描かれていくものと思います

 個人的に驚いたのは天塵のコミュ徹頭徹尾称賛する人が割りといた事でしょうか。オレの人生はつまらなくなんかない!(ryと言えるような大人は意外と少ないのかもしれません。

 現状の彼女達というのはPに泳がされているだけの存在であると思います。そこに自身から向き合い、殻を破り、誰の定義でも無い私へと変化していく方が健全だとは思いますね。 

 

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