はてなキーワード: マイノリティとは
「みけぽ」
という言葉を知らない人がこの言葉を見て、どんな意味か想像がつくだろうか?
「みちょぱ」みたいなニックネーム的な奴?それとも場所の名前?
しかし、「ぽっちゃり」や「むちむち」で形容できない、いわゆる「明らかにデブ」な体型を「みけぽ」という言葉に置き換えることにより良く見せようとする女性の狡猾さには恐れ入る。
多少のぽっちゃりとはわけが違う。腕も足もブヨブヨ、腹は三段を超え、加工しても隠しきれない顔から醸し出てくる明らかに常人とはかけ離れた大きさの顔、
確かに体型に対して差別的なのは昨今の情勢では相容れないだろう。
私も病気や特異な体質で太ってしまうのは仕方ないと思う。そうなる必然はあるのだから。
しかし、そういった事情もなしに三桁台の体重は明らかに自堕落や不摂生の結果だ。
運動すれば痩せる、身体に悪いが食べなければ痩せるということができない、自分を律せないのが自堕落な三桁体重という超巨漢を生み出すメカニズムだ。
自分ではどうにもできない(自分でどうにかするとは言ってない)ぽっちゃりともむちむちともかけ離れた体型を
どうにかして「デブ」という言葉を避けてブランディングするかと苦悩した結果が「みけぽ」だろう。
ぽっちゃりな体型が魅力的なこともあるし、逆に摂食障害を患っていそうなくらいガリガリな女性もどうにかしてほしいがそれはまぁ置いておこう。
だが、100kgを超えているのは明らかに異質だ。何をどうしたらその状態で生活を続けようと思えるのか全く分からない。
しかも「みけぽ」という言葉を逃げ道にしたり棚に上げたりして脱却する様子もない。あまつさえ「みけぽ」という言葉で自分を可愛く見せているのである。
他人から見えているのは明らかな体積を誇った女と飯と酒の画像ばかりだ。
最後に、俺が言いたいのは
ということだ。
さっさと痩せて健康になれ。
ダブスタ指摘とは、「お前に他者を批判する資格があるのか?」という意味合いを持っていると思う。
分かりやすい例がブーメラン政党と批判されている立憲民主党(旧民主党)だよね。
人権、マイノリティ、自由主義、民主主義などの理念を守ると言う姿勢自体はいい。
しかしサヨクやリベラルやフェミニストたちの実態がいかなるものだったのか、2015年9月に明らかになった。
平和や人権などの一見高潔な主義主張を掲げているのに、その本性は平和を叫びながら警察に逮捕されるような暴力行為に及んだり、ヘイトスピーチ規制を叫びながら自分の思想にそぐわない者には差別や口汚い暴言を吐くような連中。
俺はずっとマイノリティな自信がある
もうこの時点で超ありきたりな普通の人なので、子無しとか考えずに普通に子供育てて生きた方がいいと思う。
子供ができないか遺伝などの問題があるなら養子でもいいと思う。審査は厳しいかもしれないけどそのために生活を真っ当に整えるのをやった方がいいと思う。
後ろに長々と書いてあることについては、アメリカのアーミッシュみたいな小規模集団いっぱいいるから彼らがどうなってるか見れば終わる話だと思う。
いや、うちは子供いないのでマイノリティ側なんだわ。俺も若い頃はお前みたいに「社会は少数派へも配慮するべき」みたいな考えだったけど、それなりに生きてれば自然と理解できてくることだと思うが、社会の多数派からすればそういうのは(少なくとも本音では)自分たちの人生には全く関係ないと思ってるかそもそも多数派と異なる価値観が存在すること自体認識してないかのどちらかで、ただでさえ自分達の(標準的な)人生について考えることが無数にあるのに、考えたところで自分達へのメリットが1ミリもない無駄なバリエーションを増やすな面倒くせえとしか思ってないよ。
だってお前だって子供のいない夫婦については思い悩んだりするけど、ダウン症児を抱えてる家について考えたりはしないし「障害がある子供を社会は受け入れるべきか」とか「障害があることが分かったら堕ろす、あるいはあえて堕ろさないことの是非」とかそういう議論に配慮せよとか言われても困るだけでしょ。自分に関係ないことまで考えたくないでしょ。子供関係だから障害についてはもしかしたら考えてるかもしれないけど、じゃあ環境問題に関連して原発を再開するべきか否かとか、水産資源が枯渇するまで獲り続けている漁業に対してどういう態度でいるべきかとか、そんなことまでいちいち考えてられないでしょ。
社会の多数派にとっては「結婚しても子供を持たない夫婦」のケースはそのレベルの話なんだよ。自分達が当然と思っていてそれ以外のことは「専門家に任せたい」くらいのレアケースでいちいち考えてられないということ。
同紙によれば、元国務相当局者で現在はニューヨーク大経営社会学のポスナー教授が「中国が新疆でやっていることはおろか、香港の問題(民主化運動の弾圧)だけでも、これが世界の他の国で起きていれば、多くの企業は手を引くだろう」と指摘。実例としてミャンマーやエチオピア、アパルトヘイト(人種隔離)で海外から猛批判された南アフリカなどを挙げた。
さらに同教授は「中国は例外だ。市場も製造力も規模が大きすぎる。だから、企業はあえて(中国)政府が狙いを定める相手になるほどの余裕を持てず、口を閉ざし続けている」と評した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fcf492aabb2691084227eab9f785c2f313ca9e6e
人権侵害すると国際的な立場が不利になるのは弱小国だからで、中国のような強国はどんなにマイノリティを弾圧しても不利にならないし、何なら日本も欧米の市場を諦めて中国側に付けば人権侵害しまくっても何も困ることはない。SDGsとかフェアトレードとか言ってる世界的企業も結局は金目。人権なんかまともに守る方が馬鹿を見る世界。
リベラルにとって、ウイグル香港の迫害や韓国の慰安婦合意破棄を理由にできないぐらい、中韓のことが大切。
韓国を全面擁護しても何ら恥じることもなく、他のマイノリティ権利とのバッティングもない。
しかし、トランスジェンダーやダウン症の人については、全面擁護すればするほど女性の権利とのバッティングが増える。
これはどこかで譲歩するしかない。
https://note.com/mshin0621/n/n7330a7f9f398
”悪しき文化から脱却しようと主張しているが、その悪しき文化とは何なのかについての説明が明瞭でない。
題目は「女性差別的な文化を脱するために」(OL)だが、本文では女性差別だけでなくマイノリティ差別全般も問題にされており、その差別にしても単体でなく繰り返し「中傷と差別的発言」「中傷や差別的言動」(OL)というように中傷と並列され、最後は「女性差別的な文化」でなくより広い「中傷や差別的言動を生み出す文化」(OL)から脱しようという一文で締め括られている。
また、中傷と差別が並列されているのだから両者は別個のもののようだが、しかし中傷は差別の一部であるかのような「中傷を含む性差別的な発言」(OL)という表現もあって、やはりよく分からない。
先日来、OLが何を言って何を言わなかったのかについて、ああでもないこうでもないと意見が飛び交わされている。
そういう混乱が生じている原因は、読んだ人たちの読解力以前に、公表された文章にあったと考えるべきだろう。”
もちろん、私も今年4月の記事「呉座界隈問題と私のTwitter夜逃げ(その2)」で書いたように、女性蔑視は深刻な問題だ。
女性は全人口の半数を占めているが、「日本のアカデミア」(OL)では今なおマイノリティであることが多い、などについても異論はない。
だが呉座たちは、有名大学教授や政治家、資産家などのことも、自分たちの気に食わなければ男性だろうと手当たり次第に、「フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」の中で」「「お決まりの遊び」として仲間うちで」(OL)誹謗中傷揶揄罵倒していた。
呉座はOLが出る前にystk氏と北守氏に謝罪しており、男性被害者が複数いることは明らかだった。
OLはわざわざ「このような呼びかけに対しては、発言の萎縮を招き言論の自由を脅かすものであるいう懸念を持つ方もいるかもしれません」(OL、「あるいう」ママ)と言及してそのような懸念の払拭に努めたのだから、男性被害者の存在にも言及するとか、マイノリティ差別だけが問題でないと表明するとかのことはあってよかっただろう。
率直に言って、私がこのOLを読んだ時、「私のような男性被害者のことはどうでもいいんですか」という疑問が浮かばなかったと言えば嘘になる。”
”以上の2つは、文章に少し言葉足らずなところがあったというだけのことで、あまりとやかく言うべきではないのかも知れない。”
”私がOLを実にクソだと思う理由は、何よりもその的外れな再発防止策にある。”
”日文研が今年10月15日付で公表した「国際日本文化研究センター研究教育職員に対する懲戒処分等について」にしてもそうだ。
全教職員に教育プログラムを受講させ、本センターの所信を周知徹底させると言っているだけで、日文研はあれだけの大事件があったのに未だ教職員の鍵垢利用について規制を設けておらず、通報窓口すら見当たらないままだ。
仮に今も呉座のような有力研究者から鍵垢で誹謗中傷揶揄罵倒され、悩み苦しんでいる学生がいたら、一体どう声を掛けるつもりなのだろうか。
もしかして、「多くの人が何らかの形で「距離を取る」ことを表明し実践するようになると、いつかこういうこともなくなるよね」だろうか。
鍵垢で不適切なTWを繰り返すような教員はどこの大学、どこの研究機関にいてもおかしくない。”
”このままではいつか第2、第3の呉座界隈問題が起こるだろうと思っている。
その時、もし誰かが「どうしてあのOLを出したのに同じような問題が繰り返されてしまうんだ」と嘆いたら、私は「どうしてって、そりゃああのOLを出すくらいしかしなかったからでしょ」と思うだろう。”
自分の場合は物心ついた時には同性の方が好きだったけど、異性と付き合うことを想像して別に違和感はないな〜と高校生の終わりぐらいで気づいた
ちなみに異性には性的には興奮しない。
(参照:「優生学について知りたいのに、誰にも聞けない」https://anond.hatelabo.jp/20220120142843)
つまり最近進撃の巨人でジークが主張してるエルディア人安楽死計画(エルディア人の断種)なんかは反出生主義というかもろ優生思想な訳ね
https://anond.hatelabo.jp/20220121151104
行為者(ジーク)が「対象(エルディア人)が苦しんでいるのは生まれてきたからで、生まれてこなければ苦しまない。対象の苦しみを失くしてあげよう」と思っているならそれはその対象について「反出生主義」(対象がそれを望んでいるという意味ではない)。
断種の対象を疾病または災禍ととらえて「対象者が今後生殖をおこなわなければ(対象者以外の)人類がより良いものになる」というのが「優生思想」。これは断種「されない側の視点」の話で実行者の真意がどこにあるかとはまた別の話。
まあどんなに理想的に聞こえる理屈をこねまわしても断種対象者以外のホンネは個人的な妬み恨み復讐メシウマ優越感または自分がその対象になりたくないという恐怖だったりするわけだ。そしてその行為の対象がマイノリティーの場合「対象者自身はどう考えているか」はあまり考慮されない。というか相手の立場になって考えられれば初めからそういう発想は出てこねーんだ、そもそも。
いや違うな。
それが対象にとってどういうことか分かってるから自分は嬉しいし自分にはされたくないし、でもそいつらにはそうしてもいいという理屈を小賢しくひねくり回すわけだ。「社会のタメですー(笑)」とか言って。
人間の中からケモノが顔を出せば理屈は喜んでシッポを振ってついてくる。
無意識にしろ意識的にしろホンネをゴマ化す(ヘ)理屈を自分で唱えてりゃまだいい方で人口のうち多数を占める愚民は「これは社会(国家・世界・人類)にとって良いことなんです。あなたに損はないですよ」と言われりゃさも自分は正しいことをしてやってるんだというドヤ顔で他人を踏みつけ自分の動物的な感情を充足させ、勘定は政府やら世間やら他人に回す。自分には何の才能もなく何の努力もしなくてもたまたま多数側に生まれただけで他人より優れていると思い込めるんだからそもそも文句はないが、ひょっとしたら何割かは「社会が良くなる」というお題目を本気で信じているかもしれない(それは自らの優越感を意識していないという意味ではない。社会のためはオレのため、二方三両得ってだけの話だ)。
「ミンシュシュギ」のオダイモクも愚民が唱えりゃただの多数決の独裁になる。「自由で平等」なのは多数派の間だけでそのうえ独裁者は「多数」だからそのうちの誰一人として自ら責任は取らない。「衆愚に生まれて安心安全」システムだ。
本当の「民主主義」は「多数決」とイコールではない。民主の「民」は多数派だけでなくすべての少数者ーー病人かタワキ違いハク痴外人アイの子こども年寄り男女女男童貞オタク売タその他ーーも含めて全員自由で平等でなければいけないし、民一人一人は全員が自分自身のそして社会の「主(あるじ)」として全てのことに責任を負わなければならない。代議士はあくまで民の「代表」でありその責任は最終的に民全員に帰する(だから代議士は民意に従う責任がある)し、少数者(マイノリティー)だけにババを引かせるやり方は民主主義ではない。
自分に都合がいいことを聞いた瞬間に思考を停止する低級な動物が多用したがるキメ文句のひとつににベンサム(1748 - 1832。イギリスの哲学者・経済学者・法学者。功利主義の創始者)による「最大多数の最大幸福」という言葉があるが、これは「個々人の幸福の総和を最大にするのが正しい行為・政策である」という意味で(愚民がそうであってほしいと願うような)「多数を幸福にするためなら少数を不幸にしてもいい(そうすれば幸福な人数が最大になる)」という意味ではもちろんないし「少数の不幸は多数のメシウマ」を肯定するものではない(当たり前だ。普通にサイテーである)。個々人の幸福の総和を最大にするにあたってベンサム自身は「個々人が幸福を追求できるように法律で私的不可侵領域を定める必要がある」としている。ようするに「たとえ多数派がそうすることで幸福を感じるとしても他人の私的なことに手出し口出ししてその人を不幸にしちゃいけませんよ」ということだ。たとえば自分が幸福になるために自分が結婚したりしなかったり子供を産んだり産まなかったりするのは正しいが、自分が幸福になる(感情的にも経済的にも社会制度的にも)ために他人に結婚させるさせない・子供を産ませる産ませない権利は誰にもありませんよ、ということである。
この「他人」がマイノリティーであっても当然全く同じことでたとえ「同性カップルは結婚しても子供が生まれない。税収が減る年金が高くなる国が(:読み:「オレが」)損する」と思っても自分が結婚したい時に結婚して制度上の優遇を受けられるなら他人に同じことを禁止する正当性はない。「結婚はするが子供は作らない」のは同性カップルに限った話ではないし、それでも制度上の優遇が不当だと思ったら結婚に付随する優遇措置は一律に廃止すればいいのである。少子化が問題であるなら公的な扶助、優遇措置は既婚未婚ジェンダー性指向等いかなる属性にも関係なく実際の出産または養育の実態に対して行うべきだ。
生殖というのもまた自らの生存に次ぐ(どちらかと言うと結婚制度よりもなお)私的な不可侵領域であるがこれを本人ではなく誰か他の人が「おまえは生殖してもいい。おまえはダメ。社会のタメだから(笑)」とやるのが優生思想である。特定の人たちを(未来の)社会から「居なくすれば」社会はもっといいものになるらしい。しかし居てもいい人間いけない人間を本人の都合以外で選ぶ社会はすでに民主的な社会ではない。
社会のメンバー全てに平等の権利を認めた結果として社会に何らかの不利益が生じた場合、民主的な社会ではその不利益は全てのメンバーに平等に配布されなければならない。利益は多数派だけに分配し不利益はマイノリティーだけに分配(またはその逆)してはいけない。個人の幸福の総和は全ての人の幸福を高め全ての人の不利益を削減することで得られなくてはならず、不利益を一部少数者に集約した上で「[その少数者の属性]なんてこの社会には存在していない」ことにして残りの幸福だけを勘定してはいけないのである。それが「民の一人一人全員が社会の『主(あるじ)』として責任を負う」ということである。
もちろん「民主主義」というのは人間の価値観のひとつであり宇宙の絶対法則ではないので他者に由来する不利益に対して責任を負うことを一切拒否するのも個人の自由であるが、その場合民主主義社会によってもたらされる幸福の方も全て自ら辞退するのがフェアな態度であろうと思う。民主主義社会において多数派に属することの恩恵は(本人が自覚しているいないにかかわらず)計り知れず、本来数的にもその影響力も取るに足らない少数者・社会的弱者にイジワルするためだけにその恩恵を手放すというのも到底得策とは思えないが、けだし度し難きは小人なり。生まれつき享受している恩恵というのは本人には認識できないものなのかもしれない。
アファーマティブ・アクションというのは、マイノリティである女性に対して適用するものでしょ。
高校の件は、なぜかそれを男子受験生に対して適用していたのが大問題になったわけよ。
仮に母親がいない子供がかわいそうだからという理由で、母の日のイベントが中止になったとしよう
そうすると
「なんでそんな母親がいない子供のために私たち完璧な家族が割を食わなきゃいけないんだ!!」
っていうのが完璧で理想的な家族を運営してる奴らの本音だから。
だから自分たちがマイノリティのために制限を受けるようなことは何に対してもそう思ってるってわけだよ。
ときどき、オタクとかがジョジョとかの漫画の画像引っ張り出して「復讐は何も産まないとかウソ!」とかいうやつがバズったり、それに便乗してイキリトや自分語りが横行するけど。
ごく単純にいえば、他人の頭上で起きてることは面白くて、自分が対象になると途端に逃げだすんだよな。
というかそう言う連中の「復讐」に対する同情とか共感って、自分がマイノリティだと思い込んでるマジョリティのそれだよな。
自分とか近親者とか日本が「復讐」の対象になった時には、絶対にその復讐を「逆恨み」とか言うんだろ。
自分が思ってもいない所で人の恨みを買って、しかも復讐されるようなことになっても、「喜んで殺してください!それを美談にしてください!」と言える奴だけ肯定しろよ。
バックラッシュ(フェミニズムへの反動)じゃない。そこにあるのは苛立ちです。
実は人文学には序列があります。既存の人文学のトップは歴史です。理系で言えば物理学に当たる。
人文で一番偉いのは哲学だと思ってる人がいるかもしれませんが哲学は一種不思議ちゃん。理系では数学。そういうあたりから考えていくと、根幹にあるのは既存の人文(の大学教員枠)が学問モドキに食い荒らされてる、という苛立ちだとわかります。
学問モドキって何か?
実はいま文学者とか歴史学者と見せかけても、既存の人文学のどっかに取りついてマイノリティーの視点を差し込むことで論文を量産するカルチュラルスタディーズ(略してカルスタ)だって例は多いんです。これは既存の人文学とは全然違うものです。カルスタは要は既存の人文学から見ればハメ技の学問モドキなんですよ。それが、大学院重点化と独法化と競争的資金化の流れにマッチして大流行したのがこの20年です。
このなりたちを捉えてないと完全に見誤る。
そのときに使われる「マイノリティーの視点」の最たるものがジェンダーだってのはわかりますよね。アメリカだと人種も大きいですが、日本だとジェンダーばかり出てきます。アイデンティティーが焚き付けやすいからですね。
自滅してる人文学者がそういう既存人文学だってことに注目しましょう。
歴史学者は「社会学(これは厳密にはカルスタです)みたいな賑やかしのチンドン屋・猿回しは失せろ」と思ってるのに、どういうわけかそのチンドン屋がのさばりでかい顔をしつづける。イラつきますよね。
歴史学者はでも、イラついても言えない。言ってしまうとあまりにも特権意識があからさますぎてしまう。それでも不満は消えないから、ジェンダーなんて本当の人文学じゃない、という意識から余計なことを書いてしまう。それで、みんなただのジェンダー問題、バックラッシュだと思ってしまうんだけど、実は全然違う。