はてなキーワード: スケープゴートとは
いや、「痴漢犯が他の人に間違えさせるようなやり方をする」というのもあるんだよ。人を跨いで痴漢したりな。
痴漢が本当に起きた。で、この人痴漢です!と女が言った。その挙げられた人が本当に痴漢をしてないということもあるんだよ。
他にスケープゴートがいれば真の痴漢犯は痴漢した上で確実に逃げおおせられるからな。
それから、痴漢冤罪であれば痴漢だと言ってしまえば事実上抗弁できないから、恐喝の一手段として使われたりな。
最近、セクハラを告発する「#metoo」なるハッシュタグがあり、ネット界隈で結構有名な「はあちゅう」という女性が、元電通の岸勇希からひどいセクハラを受けていた事を告発した。
この行動自体は称賛に値することだと思うし、岸という人間はなんらかの刑事罰を食らってほしいぐらいだが、それとは別にはあちゅうという人間があまりにゴミだったのでまとめておく。あと、「ヨッピー」というこちらもネット界隈では有名なライターがいるが、こいつもクズなので記録のために書いておく。
■結論
はあちゅうもヨッピーも「自分はいいけど他人はダメ」という考えがあるから問題がある
■経緯など(はあちゅう編)
↓
「お前だってクソじゃん」「お前も童貞をバカにしてたじゃん。それはセクハラじゃないの?」という反論が来る
↓
はあちゅう反論「童貞という言葉に持つイメージは世代によって違うのでは?」
↓
叩かれる
■経緯など(ヨッピー編)
↓
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ヨッピーが「電通が悪い、で済ませていい問題ではない」「他業界でもこんな話はあちこちに転がっている」などと発言
↓
ヨッピー叩かれる
↓
ヨッピー反論「今回のはあちゅうの話を公にしようって言ったのは俺だっつーの」「ITも金融もそんな話のタレコミ来とるわ」
↓
今回の騒動で、岸が「あれ(はあちゅうに対しての数々のセクハラ)は愛のあるイジりだと思っていた」等と弁解しているが、これとまったく同様の事を自分がしている癖に無自覚なところ。
(逆に自覚した上で「私はいいの!」と思っているならある意味大物である。)
セクハラ・パワハラ案件では「自分は軽いスキンシップだと思っていた」「悪気はなかった」「イジって笑いを取ってあげていただけ」等の言い訳が見られることがままある。そしてこれらの言い訳が全くの詭弁であるということは皆も周知のことと思う。
確かに、「童貞」という言葉に対してのイメージは個々人によって異なるのだろう。そして、はあちゅうは「童貞」という言葉にポジティブなイメージを持っているのであろう。
ならば「私は『童貞』というワードにネガティブなイメージを持っていないから他人に投げかけてもセーフ」となるのか?私はならないと思う。
この「自分ルール」を他人に押し付ける構造こそが、各種ハラスメントの根底にあることを理解していない。
「今回の岸の件と、はあちゅうの過去発言については分けて考えるべき」という意見には私も賛同する。
当たり前だ。「罪を犯したことが無い者のみが手斧を投げなさい」と言っていいのはキリストだけだ。まぁキリストはそんな事は言っていないと思うが。
だからこそ、はあちゅうは過去の自身の発言に対して真摯になって頂きたい。謝罪の一つもなく、「セクハラを告発したら叩かれた」等と被害者ぶっている現在の行動は唾棄すべきものである。今回の件ではあちゅうを批判してる人間の大半は、その場の雰囲気ではあちゅうを批判している訳ではない。それなのに批判意見には「見当違い」とNOを突きつけ、賛同意見のみ称揚する。そんな人間を信用する人はいない。
・「いっちょかみ」で色々なところに首を突っ込んでは叩かれるクセに、反省も改善もしないところ
「日本語」と言うか、言葉・言語の出発点は「意思の疎通」であるはずだ。自身の感情・思想・思考を、なるべく齟齬がない状態で対象に届ける事ができるのが肝要であり、ライターともなればそういった事に気を配るのは当然であろう。捻くれた比喩や冗長な表現は小説にでも任せておけばよろしい。
だがヨッピーは度々「ヘンな日本語」を使う。それを一種の「ライターとしての自身の持ち味」だとでも思っているのだろうか、改善するそぶりも見せない。
今回の件では「スケープゴート」という単語が引っ掛かった。以下引用する。
ttps://twitter.com/yoppymodel/status/942268335701368832
電通のコメントなんかは残念極まりないし猛省して今後の対応をすべきだけど、電通とか広告業界関係なしにこういう話ってあちこちにゴロゴロ転がっているので、「これだから電通は~」みたいに電通をスケープゴートにして叩くのは少し違うんじゃないかなーと思った
案の定返信でつっ込まれまくっているが、本人はどこ吹く風である。だいたい、「自身の想定していた意図と異なって伝わってそうだなー」と思ったら説明のひとつもすればいいのに、それもしない。
過去の類例で「ボードゲームを紹介する記事につっ込みが入った際に、謝罪もそこそこに以降のやり取りをシャットアウトした」という前科がヨッピーにはある。これでライター業を名乗っているのだから気楽なものである。
そのくせ、自身が理解できない事柄に対しては容赦なく攻撃する。少し前にバズった「蹴鞠おじさん」の件などが該当するだろうか。
ttp://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2016/11/10/111014
はあちゅうもヨッピーも、いわゆる「信者」を大量に抱えているので、自身が気に食わない事柄があれば信者をけしかけ、相手が折れるまでボコボコに叩く。そこに正義はない。あるのはただ「俺が理解できない事を言うな」という、スターリンも真っ青の思考である。謝罪など断じてしない。これとは別件だが、「ギガが減る」という文言で長々とバトっていた時も、ヨッピーは自身の過ちは認めず、ひたすら信者達をけしかけていた。
そもそも、なんではあちゅうの告発でヨッピーが「『公にするべきだと思います』って言ったの俺だっつーの」などと言っているのか。上から目線にも程がある。自身の正義を疑っていない、辞書的に正しいほうの「確信犯」めいた狂気がある。
こういった「自身の誤ちを認めない・気が付かない・分かっていない」人間こそが、他者へのハラスメントを生み出している。ヨッピーなどは「いやぁ、俺飲み会で「あなたヤリマンですよね?」って聞いてたわー、俺結構聞いてわー、悪気はないけど」等とtwitterに書き込んでいる始末である。ここまでくると、もはや害悪である。言葉を投げかけれられた人間だけではなく、この書き込みを見た第三者の気分すら害している。
>ブログやTwitterなんぞで自己承認を求めてるような母親はたいてい自己中で自分中心だ。
>育児をスケープゴートにしているが自分を認めて欲しい、ただのかまってちゃんがほとんど。
>家族のことより、子どものことより、自分のこと、自分のブログのこと、自分の人生のことが最優先。
>えらそうに育児について書いているが、結局自己アピールの一環で書いてるだけ。
50年も生きてきてこんなことしか言えないのか。あんたのほうがよっぽどアレだよ。
例の方は親権捨てたクズだけど、DV夫から逃げてシングルで子供の学費、塾代出すためにブログ書いて頑張ってる人が身近にいるから、こういう事を書かれると本当に頭に来る。
「くらえ、チョウナ・ブーメラン!」
「おい、シロクロ! やめろよ。投げるな」
「なんでだ。人に向けて投げてない」
「人に向けて投げなくても危ないだろ!」
「え? なんで?」
「投げること自体が危ないって言ってるんだ!」
「じゃあ、何を投げればOKなんだ」
「何も投げるな!」
「随分な話だな。そこまでの権限はさすがにないだろ」
「うわ、急に正気に戻らないでよ」
「こうして問題は意外な形で終結し、今でも『ヴァリオリ』の登場人物たちはこれまでと変わらない武器を持っているってわけさ」
「なんだか、腑に落ちないなあ」
父の話に、俺は疑問を投げかけた。
それは別の表現をスケープゴートにして、問題をウヤムヤにしただけだ。
父にそう返され、そりゃあ……とまで言ったところで、ふと口をつぐんだ。
そもそも何をどうすれば、どこまでやれば解決して、そしてそれが本当に正しいことなのか、或いは間違っているのか。
それらを的確に判断できるような、普遍的な物差しが俺にはなかったからだ。
いや、恐らくほとんどの人間はないのかもしれない、って言いたいのか。
「息子よ、覚えておくといい。問題ってのはな、それ自体は問題ではないんだ」
父の言葉に、俺は首を傾げる。
「この界隈の『検閲するかどうか』っていう最終的な判断は、世論などの総意によって決まっていると思われがちだ」
「だから各々が議論をして模索していこう、ってことになるんじゃないの?」
「それは観念的だし、プロセスの話でしかない。俺たち作り手にとっては何も言っていないのと同じだ。答えを迫られたときにどうするか。多くは個々人が決めるしかないことだったりする」
「それで表現を変えたくないって答えを出した場合、どうすればいいのさ。ゾーニングとかレーティングとか?」
「それは妥協案に過ぎないし、結局は表現の統制だろう。それらの基準だって漠然としている所が多いし」
じゃあ、どうすればいいんだろうか。
「つまりな、こういう番組は案外“上手くやっている”ってことさ」
含みのある言い方に、俺はその意図を読み取ろうとする。
「……もしかして」
そして、ふと思い至る。
確証はなかったが、俺は恐る恐る尋ねた。
「その入浴シーンに意識を向かせてウヤムヤにしたのは、武器だとかよりもっと問題のある表現を隠すため?」
俺がそう言うと、父は淀みなく笑った。
「はは、そんなわけじゃないか」
俺の指摘がなんであろうと、そう答えるつもりだったんだろう。
もしかしたら俺たちが気づいていないだけで、あのアニメには“問題にならない問題”が他にもあったりするのだろうか。
その答えに迫られたとき、俺はどう言えば“問題ない”のだろうか。
俺は父にもうひとつ尋ねた。
「結局、父さんはどう思っているのさ。彼らのクレームはくだらないと思っているのか、汲み取るべきところもあると考えているのか」
「息子よ、物事は0か1かじゃない。YESかNOだけではないんだよ。善良な意見に耳を傾け、頷きながら、暴力的で性的で低俗な表現をし続ける。本当の意味での“自由”はそういうことなんじゃないかな」
それって、つまり突っぱねているのと同じなんじゃないだろうか。
俺が言い表せないモヤモヤとしたものを抱えていると、弟の声がテレビのある方向から聴こえる。
どうやら『ヴァリオリ』を観ているようだ。
主題歌を口ずさんで楽しそうだった。
なんだか腑に落ちないところはあるが、弟が以前のように楽しんで観られるのなら、まあ良いかってことにしよう。
http://dailynewsonline.jp/article/1359354/
吉崎さんが言い出した説のやつ
これ可能性としてゼロではないんだけど、あまりにも確率が低すぎると思う
まずはたつき監督が元々吉崎さんファンで相当慕っていたということ
もし吉崎さん発なら、Twitterの文面が変わってくる
そして、たつき監督を外した場合どのような反応になるか吉崎さんは知っているはず
・5話で少しダメ出しした時、相当ファンから反論を貰って萎縮した件
・一挙放送でコメントに乗っかってボスを「無能」と称した際も、一部のファンが苦言を呈して萎縮した件
(個人的には原案者なんだからもっと大きく構えていていいと思うが)
あれらで大体どうなるかは予測できるはずで、そのファンの声を封じ込めてまで「ぼくの作品だ」って方ではないということ
5話で一旦「ちょっと違うな」となったが、終わってみたらすごく良かったと評していること
それに合わせ、吉崎さんもアニメ風の絵を何度か描いて歩み寄っていること(アニメ文脈のときに使い分ける)
アニメ1話1話終わるたび、良かった点悪かった点をたつき監督にメールしていること
そもそもコンセプトとして「動物が主役なんだから、色んなけものフレンズがあっていい」と言っていること
吉崎さん1人がNGだしたとして、プロジェクトの要であるたつき監督を「はい分かりました」と外すわけがないこと
こんくらいかな
限りなくゼロに近い
もちろん人間なので、それら全部をひっくり返すような心境の変化があった可能性は否定しないけどな
例えもし本人の口からそんな言葉が出ても「言わされたんじゃないか?」と疑うレベル
って感じです
(なんだけど、バカがこの件を吹聴して、公式で否定してもらったほうが俺も安心する。
給食を完食しない事は、せっかく子どもたちの為に給食を作ってくれている給食のおばさんを悲しませる行為だと、小学校教師に教えられた。
給食のおばさんに感謝しているかどうかは関係ない、給食を完食しない事は、給食を作ってくれることに対する感謝の心を実は持っていない証拠であり、人格が歪んでいる証拠だと教えられた。心では給食を作ってくれる事に感謝しているし、国語は得意科目だったから、「給食を作ってくれてありがとう」というタイトルで、作文用紙何枚でも感謝の言葉を述べられる自信があった。それでも、言葉で何を述べるかは関係ない、給食が20分で完食できなければ、心の底では給食のおばさんに感謝しておらず、自分が口先だけ上手い嘘つきに生まれた証拠だと教えられた。自分の言葉は全部ウソであると教えられた。
給食を完食する事はただただ苦痛だった。小2まで、給食を20分では食べられなかった。小2まで、小学校で楽しかった記憶があまりない。
小3の春ごろ、牛乳を飲まずに最後まで取っておき、残り5分で残っている食材をすべて流し込む技術を開発した。漬物も焼き魚もご飯も何でも牛乳で流し込んだ。
パンの日は幸せだった。牛乳と合う。ご飯の日は地獄。牛乳と合わない。小3から、ようやく小学校生活が楽しいと思えるようになった。
小学校高学年になると、知恵がついてきた。給食のおばさんは、給食を完食する苦しみを小学生に与えて喜ぶ人達だと思うようになった。であれば、人間にとって、最も苦しい「死」を自分が経験すれば、給食のおばさんは最高に喜ぶに違いない、と思うようになった。つまり、自分が給食室で自殺すれば、給食のおばさんは「ありがとう!ありがとう!ありがとう!」と言って喜ぶのだと信じていた。
あれから何十年、ようやく理屈が分かってきた。要するに、小学校教師が完食指導する際、生徒の怒りの矛先が自分たちに向かないように、給食のおばさんをスケープゴートにしたのだろう。教員とはかくも卑怯なものなのか。
これから、給食のおばさんになる人は、子供に恨まれる職業だという事を理解して欲しい。小学校教師が、あなた達をスケープゴートにして、生徒があなた達を恨むように指導している可能性がある。そういう可能性も考えて、給食のおばさん、になって欲しい。すべての小学校教師が善人なわけじゃない。小学校教師を疑ってかかって欲しい。あなた達に対して見せる子どもたちの笑顔、それ、きっと、全部、「笑顔を見せないやつは、人格が歪んでいる」と小学校教師が指導した結果ですよ。本当は生徒に恨まれてますよ。
このニュースを見た。まだこんなことやっているのか。一体何の意味があるというんだ?
完食指導をした、この女性教師に伝えたい。あなたはヒトデナシだ。あなたは人間として異常だし、仕事を通じて子供を苦しめた罪人だ。地獄に落ちて罪を償って欲しい。
「人は口では何とでも言える。相手を判断したいときはその人の行動を観察しなさい」と。
この人はブログではなんだかんだ書いているけど、
行動だけを抜き出せば
・住宅ローンがあるらしいがその家を旦那に渡して(押しつけて?)家を出ている
という点。
小学生の子どもの母親を辞める結果になっていることは間違いない。
行動だけを追っかけてみても、いかにこの人が自分中心、自分本位で行動しているかがよくわかる。
小学生の子どもをヒモ呼ばわりした旦那に押しつけてローンの残る家を押しつけている(ローン残債だけは憶測か)。
これがこの人のとった行動。
それだけ。
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以下はこれまでの50年近い人生で実感したことで、単なる主観論になるが
ブログやTwitterなんぞで自己承認を求めてるような母親はたいてい自己中で自分中心だ。
育児をスケープゴートにしているが自分を認めて欲しい、ただのかまってちゃんがほとんど。
家族のことより、子どものことより、自分のこと、自分のブログのこと、自分の人生のことが最優先。
えらそうに育児について書いているが、結局自己アピールの一環で書いてるだけ。
金儲けのため仕方なく、と言い訳するかもしれないが、
あなたの都合で金儲けのために子どもたちを巻き込んでるだけでしょ?
子どもを愛してると言ってるらしいが、子どもより自分を愛しているから親権も放棄するし、
万が一のリスクも考えずブログで自己正当化&旦那こき下ろしをして自己防衛に走る。
万が一に、この人が病気や家庭の事情で子どもたちを手放すことになったのだとしても、
それをブログに書く意味は?子どもたちや周囲の保護者にでも読ませるつもりかな?
控えめに言って人間のクズですね。
お疲れ様でした。