はてなキーワード: 意匠とは
2ヶ月まえにこんな興味深いこと書いてるひとがいた🤔
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THE“ローコスト”ナナハンキラー……「カワサキ・ニンジャe-1」はサーキットでこそ輝く
POST:2023.11.02
「航続距離72kmとは、エンジン車に比べれば正直寂しい数字だ。スポーツバイクでも街乗りが中心となってしまう。しかし見方を変えれば、これほど便利なスポーツEVバイクはないだろう。
「ニンジャe-1」が輝く場所を考えると、ズバリ「サーキット」である。これから本格的にサーキットデビューを考えているユーザーにとっては、この上ないローコストでサーキットを走れるかもしれないのだ。
72kmではサーキットまで行けないと思うかもしれないが、愛好家のほとんどは、マシンを「ハイエース」などのバンに積んでサーキットに行っている。「ニンジャe-1」もそれに倣えばよい。車重は140kgなので、クルマへの積み下ろしもラクに行なえるだろう。
サーキットのスポーツ走行枠は30分程だろうか。72km分のエネルギーがあれば十分に走ることができるだろう。「それでは足りない」と思うなら、交換式バッテリーを余分に買って持っていけば良いのだ。
極限状態で車両を走らせるなら、エンジンでもモーターでも故障リスクは避けられない。しかしモーターであれば構造が単純なので、エンジンほどのリスクを負わずに済むのではないか。何より悪燃費かつ高額の給油がないのはもちろん、エンジンオイルの交換やオーバーホールもいらないので、かかるコストは、例え余分のバッテリーを買ったとしても段違いの差が出てくるだろう。エンジンの状態やお金を気にせず走りに打ち込めるとは、これ以上の幸せはないような気がする。
もちろん走りも面白いだろう。詳しい諸元値は第1報を確認して欲しいが[詳細はこちら<click>]、カワサキのアンダー400ccの中で最高のトルクを備えているため、強烈に加速するのは間違いない。ボトムエンドに限っては250cc4気筒のスーパースポーツ「ニンジャZX-25RR」よりも速い可能性さえある。さらに短時間の出力向上ができる「e-boost」機能を立ち上げれば、低中速のコースならば上のクラスを追い回す“ナナハンキラー”となるかもしれない。
想像で書いてみたが、「72kmでは実用性が足りない」とは、カワサキ自身がよく理解しているはずだ。だからこそ、サーキット走行を想定し「ニンジャ」の意匠と冠を与えたのだと考えたい。」
件のがどっち指すのかわからんけど、どっちもさほど戦闘に重きが置かれてる作りじゃないから、一定以上強くするのはマジで趣味の域だよ。
物語と世界探索が主軸だから、そこで度肝を抜いてもらえるよう一番お金と工数かけて作られてる。スマホゲーどころか大半のコンシューマーRPGより凝ってると思う。
戦闘システムそれ自体もかなり練り込まれてて研究しがいがあるけど。
原神の場合は一生ハウジングしてる人もいれば、サブコンテンツのデジタルカードゲームして世界大会目指す人、バエ写真・動画とってSNSに上げる人、料理再現する人、衣服や建築の意匠から考察をする人、いろいろいる。まあこのへんはネトゲあるある。
イベントでも、戦闘系コンテンツは数ある遊びのうちの一つで、毎回違うミニゲームをやることになる(スマホゲーでは異例)から、戦闘一辺倒ではなくて、なんというか文化的。
他のスマホゲームでは性能で釣って過剰な課金に至る人が多いのかもしれんけど、ここの場合は「与えすぎてくれる運営開発に報いる」気分でちょっと万札を気持ちよく投じてしまえる側面が大きい。
ネタバレにならん範囲で本気度が伝わる部分は音楽くらいだろうから、ちょっとこのへん覗いてくれればユーザー心理が分かるかもしれん。
https://www.youtube.com/watch?v=kRd1cW0_VMA
ちなみにオンラインコンサートとかいってアーティスト動員した有料レベルの映像を毎年公開してて、これは原神スターレイル崩壊3rdいずれでも最近やってる。
https://www.youtube.com/watch?v=Q126ms-sC90
だいたいネタバレになるけど公式にあがってる各所で流れるムービーやキャラPVなんかも映像表現の凝り方が異様なほどで、そのペースも矢継ぎ早で、ちょっとよそが真似できる感じじゃない。
それだけお金かけてユーザーに還元してるってことが、たまのアピールではなく日々ひしひしと伝わってくるから良い循環を産むんだろう。
アイドル系リズムゲーなんかをやっていたときも、性能要求はシビアでないから推しへの愛を示すお布施課金みたいな風潮を感じていて、これはこれで一種の理想形だと思って課金してたけど
より普遍的で王道な形で熱意と開発力のスケールが違うもんを見せられるともう感謝を表明するマシーンになるしかない、べつに何も強いられてないんだけどな
一応「越後の龍」がいるが……
上杉謙信が崇拝していたのは毘沙門天であって龍ではない(本当に?要調査)
龍造寺氏だって龍を信仰しているわけではない(本当に?要調査)
幼名が「龍王丸」の武将もいるけれど、別に成人後に龍アッピールしてるわけでもない
一方で、龍も風雨を操るとされるから「龍が風を起こした」と書かれた文献がひとつくらいあってもいいだろうに
元寇で吹いた強風が龍の仕業ではなく神風とされたのは何故なのか
いや、書いておいてなんだがなんとなく想像はつくがね……
龍は中国……特に中国皇帝のシンボルなので、日本側が龍に助けられたとすると都合が悪かったのだろう
ここらへんの話は「神国思想」について調べるのがよさそうか
だいたい昔の日本において龍は寺院……つまり仏教と紐づくものなんだ
龍の字を冠する寺院が何と多い事か
(前述の龍造寺氏は龍造寺村という地名由来でそう名乗っただけらしい)
仏教には「龍王」がいるから、これを守護神とした僧兵とかいたのかな
じゃあ「僧兵 龍」でぐぐってみよう
……
《龍鐘の僧兵/Dragon Bell Monk》というMTGのカードがひっかかって調べるのが大変そうなので今日はここで終わり
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蛇/龍信仰では人の姿を取らない相手を信仰の対象としていたが、時代が下るにつれて龍の属性を持った仏を信仰の対象とするようにした……といったところか
「わんだふるぷりきゅあ」
尻尾や動物の耳さらには骨や肉球の意匠が含まれているのでわんだふるのわんは犬の鳴き声のワンから来たのだと思われる
(魔法使いプリキュアのOPの歌詞「犬喋ればワンダフルでしょ」はこの布石である事は言うまでもない)
そしてみなさんお気づきかと思うが、初めてプリキュアではなくぷりきゅあになったのだ
ひらがなにするだけでとてもかわいらしく幼い感じの印象も受ける
来年のプリキュアにはダンスとプリキュアの両立で無理しすぎて病院に運ばれたり原因不明の病気のために人生のほとんどを病院のベッドで過ごしたプリキュアが出てくることは無いのだろう
I Just Say 「エトワール」な雰囲気のプリキュアになるのだろうか(キュアエトワールは怪我で落ち込んでたフィギュアスケーターだったが)
なんにしても楽しみである
ここからは「今日知った言葉」の趣旨から外れた、超個人的な余談になるため別記事で書く。
餃子靴という言葉を知ってから、記事を書くために調べていったんだが、この靴は現代だと「おっさんが昔に履いていたダサい靴」という扱いをされていた。というか餃子靴という通称自体、そういった揶揄的な意味合いも込められているようだ。
おっさん靴といえば、厚底のボリューミーなスニーカーが“ダッドスニーカー”といわれることもあるが、これは今でも一定の需要と供給があり、若者が履いていることも珍しくない。
対して餃子靴は、現代だとまずみない。おっさん靴で、どうしてここまで差がついたのか。考察ごっこを楽しんでみたい。
まず考えられる理由ひとつめ、「餃子靴がビジネスシーンに適さないことが認知された」から。
そもそもスリッポンタイプの革靴はカジュアル寄りのアイテムだ。さらに餃子靴はシワも悪目立ちする。アイロンでシャツのシワを伸ばしていても、足元がシワだらけの革靴では格好がつかない。
だが昭和の時代はネットなどの情報を得る手段に乏しく、スーツ店の営業も試行錯誤の段階だった。サラリーマンのビジネススタイルも今より馴染んでいない。
模範的なビジネススタイルや、ドレスコードを知る人が少なく、知る手段も限られている。「スーツにネクタイしめて、革靴履けばいい」となるのも無理はない。革靴であれば何でもいいのなら、あとは機能性重視で着脱簡単・履き心地そこそこの餃子靴が選ばれるのも自然の流れである。
しかし模範解答が出揃った現代で、あえてこの“不正解靴”を履く新卒はいないし、需要の減ったものを大量生産するメーカーもいない。
ふたつめの理由は、「ビジネス・カジュアルシーン(ビジカジ)ならスニーカーを履く」からだ。
現代は働き方も見直され、コロナ禍などにより環境も変化、それらに合わせてビジネススタイルも多様化した。ボトムスをジーンズやチノパンにした所謂“ジャケパン”スタイルは随分前から定番化しているし、近年では在宅向けのパジャマスーツなんてものも流行った。
そんな現代において餃子靴の付け入る隙はあるのだろうか。大手の靴メーカーがビジカジ向けのスニーカーを提案してから随分と経った。当時のサラリーマンに使い勝手の良さから親しまれていた餃子靴が、現代のスニーカーと肩を並べられるだろうか。
みっつめの理由。「餃子靴がダサい(と思われている)」。ある意味で、最も深刻な理由かもしれない。
ひとつめの理由でも触れたが、そもそも“変なシワの入った革靴”はコーデに馴染みにくい。その上、革靴としては不出来に見えやすい。
カジュアルシーンで使う革靴は履き込むことで味わいがでて、その人の足に馴染んでいくことを楽しむ。履き心地は二の次のカテゴリだ。
そんな中で、履き心地のために施された餃子の皮のようなギャザーは“不自然なシワ”と捉えられる。この意匠は“機能美”ではなく、“見栄えを犠牲にした”ものというのが大方の見解だ。
「昭和世代、靴に無頓着だったサラリーマンが履きまくっていた」というイメージも根強く残っている。それでも現代で履くなら、よほど強いこだわりがないと難しいだろう。
餃子靴が再び流行る可能性があるかといわれれば、正直ビミョーだと思う。
革靴の潮流は、他の靴カテゴリと違って緩やかで鈍い。昔からあるディティールのものが順繰りに流行り、せいぜい素材使いや靴底が変わったりするくらい。
餃子靴以外の“おっさん靴”としてはダッドスニーカーが有名だが、スニーカーの流行とアップデートは勢いがあるから若者など大衆にも親しまれている。餃子靴にはそれがないから廃れたのだと思われる。
それでもワンチャンあるとすれば、餃子靴特有のあのシワを“そういうデザイン”としてプロデュースすれば、もしかしたら……ってところ。
例えばスニーカーやブーツなどに餃子靴をイメージしたデザインを取り入れて、パリコレとかミラコレとかで披露する。「ギョーザライン」みたいな名前つけてさ。
それを他のブランドも真似して、インフルエンサーとかが盛り上げていけば、ゆくゆくはルーツたる餃子靴も再評価されるかもしれない。
就職先がジャパンモビリティショー(旧東京モーターショー)のチケットをタダで配っていた。強制ではないが「勉強してこい」ってことなんだろうなあと思い行ってみることに。
自動車メーカーや部品メーカー(サプライヤー)が新型車やコンセプトカーの展示や新しい技術の紹介を行う催しである。コロナ前は東京モーターショーという名前だった。場所は東京ビッグサイト。
「モビリティショー」に名前が変わった理由は、車以外の次世代モビリティも展示するよ!というコンセプトを打ち出しているから。車だけではなく、車でもバイクでもない新しい乗り物を発表する場というコンセプトが、今回開催されたジャパンモビリティショーだ。
トヨタは新発表のコンセプトカー数台と新型クラウン、ランクル、SUVセンチュリー、そしてモトコンポのような小型バイク(っぽい三輪車)を展示していた。
詳しい説明やプレゼンなどは特にないが電飾などによる装飾は豪華で、イメージ重視な展示だったように感じた。
EVだと見られるコンセプトカー、特にオレンジ色のスポーツカーに注目が集まっていたが、感想としてはかっこいいなあと思うだけ。具体的なメカニズムや開発者の熱い想いが分からないと、正直面白くない。
また、新型クラウンなどもディーラー行けばじっくり眺められる訳で、人混みに揉まれながら見るもんでも無いと思った。
しかしとても良いと感じたのが、「ネオステア」と名付けられた新型のステアリングハンドル。アクセルとブレーキもハンドルで操作できるため、車椅子の人でも車を運転できる。調べてみるとパラアスリートが開発に関わっているらしい。
ネオステアでグランツーリスモをプレイできる体験ブースがあり実際に体験してみたが、これが面白かった。ただ単に足を使わずに運転できる、という話ではなく、だれもが運転の楽しさを味わえるという点でとても良い技術だと感じた。是非市販化してほしい。
唯我独尊、「人馬一体」のわが道を突き進むマツダ。ブースには「だれもが、しあわせになる」というキャッチフレーズを掲げるパネルの前に初代ロードスターが展示されていた。
マツダブースの目玉は、世界初発表のコンセプトカーである「アイコニックSP」。とんでもない人だかりができていて全く近づけず、自分の目で見るのは諦めた。
また、マツダは福祉車両仕様の現行ロードスターを展示。アクセルとブレーキはハンドル左側に設けられたレバーで行い、シフトダウン・アップは右手だけで操作できるよう改造されている。
存在自体は知っていたものの、実際に現物を見たり運転席に座るのは初めて。車椅子のドライバーでも、スポーツカーで運転を楽しんでほしい、というマツダの想いが強く伝わってきた。トヨタのネオステアと並んでとても良い展示だった。
やはり、マツダはエモーショナルな価値観を伝えるのが巧い。「だれもが、幸せになる」初代ロードスターや福祉車両仕様のNDロードスター、そして往年のマツダ車と写る家族写真を何枚も載せたパネルからは、マツダが訴える運転の楽しさや車の素晴らしさがひしひしと伝わってくるし、こちらも感動して目が潤んでしまう。就職先が作る車ではないが、ロードスターだけは新車で絶対に手に入れようと決意した。
スバルはアウトトレック、ソルテラのようなイチオシ現行モデルに加え、新型車であるレイバックを展示。コンセプトカーはEVスポーツカーの一台のみ。
そして、何よりも一番の目玉が「空飛ぶクルマ」であるスバルエアモビリティコンセプト。特大ファンを6つ搭載するドローン型の航空機だ。驚くべきことに、実証実験では実際に飛んでいるらしい。実証実験を含め、世界で公開されたのはこれが初。
一般的にはあまり知られていないが、スバルの前身は中島飛行機という航空機メーカーで、現在も航空機用部品の開発を行っている。「航空機メーカーとしての歴史を元に、陸空で運転の愉しさを提供します」という発表には説得力があった。
また、展示してそれっきりのトヨタ、マツダと違い、女性のコンパニオンが積極的にプレゼンテーションを行い、展示車両を丁寧に紹介していた。スバルの安全と楽しさの取り組みを熱心に紹介していたのが印象的だった。
車以外のモビリティの展示は一切なし。SクラスとCクラスのAMG(セダンにスーパーカーのエンジンをぶちこんだ超高級車)やEVなど、よくも悪くも現実的で普通のモーターショーな展示だった。
注目を集めていたのが、GクラスのEVバージョンであるEQG。Gクラスのデザインをネオクラシックなデザインにまとめており、普通にカッコよかった。
現行モデルを、値段付きで数台展示するのみ。あまり人だかりはできていなかった。
もっとやる気出せ、と言いたくなるものの、出展していただけるだけでも有り難い。
ハイエースなど、トヨタ車の一部の開発を請け負うトヨタ車体。ハイエースのBEVコンセプトカー(グローバルハイエースBEVコンセプト)や、新型ヴェルファイアの4席超高級仕様である、スペーシャスラウンジ コンセプトなどを展示。
ハイエースのコンセプトカーはボンネットが長く荷室もそれほど高さがなかったため、そのままのパッケージングでは日本ユーザーは満足しないだろうと感じた。あくまでもグローバル向け、ということなのだろうか。
日産は現行モデルのほか、R35GT-Rnismo、フェアレディZnismo、スカイライン400Rを展示。そして目玉は、パキッパキデザインのBEVコンセプトカー数台だ。
コンセプトカーは相当未来を先取りしていて正直何を伝えたいのか正直良く分からない。ただ、今後は曲線ではなく面とエッジを多用したデザインを推していきたいんだろうな、ということは感じた。最近のトヨタ(レクサス)やスバルもそんな感じのデザインだし、トレンドなのかもしれない。
日産ホームページを見てみるとFORTNITE とコラボしているらしく、ペルソナとなるキャラクターの説明などもあるが、やっぱり良く分からない。FORTNITEをプレイできれば楽しいのかもしれないが...。
コンセプトカーの中でもひときわめだつのがハイパーフォースコンセプトの名を称したスポーツカー。日産としては「GT-Rかもしれないね、ふふふ...」といった雰囲気を出したいのだろうが、来場者はGT-Rとしか見ていない。
車体側面にゴールド描かれた「4ORCE」の文字は6代目スカイラインRS-TURBOが由来なので全部が全部GT-Rのコンセプトカーではない。日産のハイパフォーマンスカーの歴史と、それを踏まえた未来へのイメージを表したコンセプトカーであるはずだが、ほとんどの来場客がGT-Rとしか見てなかった(であろう)状況は日産がちょっと可哀想だった。
欧州メーカーでおそらく最も気合いが入っていたのがBMW。といっても、欧州メーカーはベンツ、BMW、ルノーくらいしか出展していなかったが。
基本的に発売後、ないし発売間近のBEVモデルが発表の主体。コンセプトカーがどうこうというより、新型車の感触を確かめる来場客が多かった印象。しかしBEVのくせに豚鼻キドニーグリルを採用するのは何とかならんのかと。
BMWもその辺は考えているらしく、次世代BEVモデルと思われるコンセプトカーの「ビジョン ノイエ クラッセ」で、豚鼻から脱却したデザインを披露。ノイエクラッセはBMWが70年代に生産していた大衆セダンで、往年の名車をここで復活させてくるあたりは流石。
直線的なデザインであるものの、写真で見るよりもコロッとしたデザインだったのが印象的だった。フロントグリルは上から見ると大きく湾曲しており、豚鼻キドニーとは違い暖かみがあるデザインだ。4ドアセダンだが、ハッチバックやSUVなど、様々なタイプにも発展していきそうな可能性を感じさせられる。今後に期待したい。
中国からの黒船BYD。ネットである程度情報は仕入れていたが、実物を見るのはこれが初めてだ。
エアコンの吹き出し口やドアレバーなどの意匠は写真で見たことがあるものの、実際に触ってみるとそのアバンギャルドさに改めて驚かされた。atto3の側面のパネルにはウェーブのプレスラインが入っているなど、写真ではわからないような細かい所にも独特な意匠が施されている。リアの「BUILD YOUR DREAMS」のバッジもアバンギャルドだ。はっきり言ってダサい。
(モデルにもよるが)全体的に曲線主体のデザインで、最新を売りにするブランドにしてはデザインの古くささが否めない。私はデザインに関しては素人だが、ダイソンが20年前から続けているデザインと同じ系統ではないだろうか。
アーバンSUVやセダンに加え、レンジローバーを意識したようなラグジュアリーSUV「U8」や、ミニバン「D9」を展示。ゴリッゴリのコンセプトカーは用意せず、現行モデルなどの現実的な車両の展示が主体だった。これは「フルナインナップ戦略で日経メーカーを犯すぞ」のサインだと思った。来年就職の私としては、背筋が伸びるような展示だった。
そんなBYDの真向かいに大きな風呂敷を広げるのがスズキ。展示内容は、四輪・二輪新型モデルに加え、小型船外機や空飛ぶクルマ、小型モビリティなど、まさに様々なモビリティを展示していた。
舞台ではたくさんのダンサーが踊る演出や、MCバトルを模したような内容が含まれるなど、良くも悪くもスズキらしくポップでコッテコテな内容なので共感性羞恥がヤバかった。実用性をめちゃめちゃプッシュするのもスズキらしかった。
四輪のモーターショーと変わらないような展示をする出展企業がいる中、後述するヤマハ発動機やホンダと並び、ちゃんと「モビリティショー」らしい展示内容で非常に好感が持てた。個人的には最も良い展示だったと思う。
特に小型モビリティのブースは素晴らしく、四脚に小型のタイヤを装備し階段も上り降りできる「MOQBA」や、高校生から高齢者まで、荷物を積んで安全かつ楽しく移動できる「SUZU-RIDE」など、いかんとも形容しがたい小型モビリティを多数発表してきた。
形容しがたい、ということは、今までにない形やコンセプトの乗り物で、例えに持ち出せる前例が無いということである。新しい価値をいくつも提案するスズキのコンセプトモデルは素晴らしい仕事だと震えたし、良質な刺激を得ることができたと感じた。
スズキの地元、浜松のお隣磐田市に城を構えるヤマハ発動機も、「モビリティショー」らしい展示で面白かった。
3輪フルオープンEVのTRICERAは3輪操舵のシステムで、自動運転に向かう時代だからこそ運転する楽しさを提案。トリシティのような3輪オートバイのTMWは(おそらく)TW225の改造車で、DIYで作ったような荒削りな車体は、かなりワクワクした。
また、ヤマハ(株)の協力のもと楽器関連の展示もあり、もはやモビリティは関係無いじゃないかと突っ込みたくなってしまうが、何でもかんでも事業化してしまうヤマハ発動機らしい所でもあった。
二輪車は125ccの新型車三台と、かつての伝説レーサーYZR500をモチーフにしたXSR900GPを公開。125ccの三台には列が出来ており、来場者がまたがってサイズ感を試していた。
長いスカートの女性がネオクラシックモデルのXSR125に試乗していたのが印象的だった。コロナで好調だった二輪業界としては、この波に乗って若い女性ライダーを増やしていきたいはず。かわいいデザインでユーザーフレンドリーな車格のXSR125は、ヤマハ発動機がプッシュしたい製品であるだろう。
ホンダも「モビリティショー」な展示が多く楽しめた。浜松にゆかりのある企業がモビリティショーな展示を行っているのは、実に興味深い。
ホンダジェットのコクピットに座れる展示は45分待ち。流石に断念した。
目玉は何と言っても新型プレリュードのコンセプト。新型もデートにぴったりなスペシャリティカーとしてきれいにまとまっており、GR86/BRZのようにゴリゴリなスポーツカーではない。今の時代にこの価値観がウケるか微妙だが、セリカやシルビア亡き今、ライバルが居ない立場であることも事実。今後の動きに目が話せない車だ。
SUSTAINA-C Concept / Pocket Conceptはシティ/モトコンポを意識したようなコンセプトカー。テールライトはフルLEDスクリーンで、テールライトのデザインを変えたり、後続車に「Thank You!」などのメッセージを伝えられる。サンキューハザードは誤解を生むこともあるので、是非製品化してほしいアイデアだ。
ホンダらしいと感じたのは、無塗装リサイクルのアクリル外装パネル。素材の発色が良ければ塗装しなくていいじゃん!というアイデアは思いきりが良い。
BEVのコンセプトカーは良く分からん。が、ゴリゴリのバギーであるROVコンセプトと、アーバンSUVのRZをヘビーデューティーにカスタムしたRZアウトドアコンセプトには少し驚かされた。レクサスとゴリゴリのアウトドアはあまり似合わないような気もするが、泥遊びもレクサスでラグジュアリーに楽しんで欲しいというコンセプトなのだろう。
地味に人だかりを集めていたのが、ギガキャストで作られたボディとバッテリーの見本。新型車が置いてあるスペースの裏側で目立たない所だったが、十数人の来場者がまじまじと観察していた。
特にギガキャストのボディは興味深く、スポット溶接が一切無いその様子は異様。さらに、適宜リブを配置されるなど、今までの作り方では不可能な設計も見られた。「柔と剛が調和する」と銘打たれているが、剛性の最適化のためには、自動車づくりのノウハウが強く要求されそうだ。
ダイハツは着せ替え可能な自動車ミーモや、小型オープンカーのオサンポ、市販がささやかれるビジョンコペンなどを展示。展示車両は全体的にかわいらしいデザインで、女性来場者がかわいいと口にする声が頻繁に耳に入った。
近所を散歩するように楽しく移動できるというコンセプトのオサンポは、風を感じられるオープンカー。車高も高めなので、ちょっとした未舗装なら走れそう。買い物の帰りに、知らない道に突撃したくなるようなコンセプトカーだ。
車格は軽自動車サイズなので、オートバイに比べればお散歩の気楽さは無いだろうと感じてしまったが、あくまでも気楽に乗り出せる「クルマ」がコンセプトなのでそういうツッコミは野暮だろう。誰もがオートバイや小型モビリティを望んでいるわけではない。
ビジョンコペンはかなり話題だが、軽規格を飛び出し1.3L、FR、オープンカー、となるとロードスターと個性がだいぶ被ってしまう。超個人的な意見だが、ロードスターとタイマンするのはかなりしんどいんじゃないだろうか。値段次第な所もあるが私ならロードスター買う。
カワサキは二輪メインの展示。目玉はネオレトロのオートバイ、メグロ復活。最近はネオレトロが本当に流行っているが、あらゆるメーカーがプッシュする様子を見ると、ぼちぼち流行のピークなのでは?とも感じてしまう。
また、BEVとハイブリッドのニンジャを展示。カワサキはターボやったりスーパーチャージャやったり、攻めた製品がやっぱり多い。ハイブリッドのバイクは車体重量を押さえられるのだろうか。
バスを待っているとまったくちがうところに行列ができていた。そこが乗車口らしかった。そんな指示はどこにもなかったがとにかく行列の最後尾に並び直した。人数は多く座席に座れるか微妙なところだった。しばらくするとバスが来たので乗り込んだ。右側最前列、運転席の後ろに座ることができた。右前輪の上にあるため2段ほどステップを踏んだ上の座席で見晴らしはよかった。バスが出発する直前に駆け込んできた客が私のそばに立った。新幹線で隣の席だった子だ。奇遇なのか意図があるのかまったくわからなかった。なぜ私なんかのすぐそばに立つのかもわからなかった。さすがに乗り合いバスの中で意匠設計はできないので本を読みはじめた。彼女は途中の停留所で降りていった。
ジュエリーの知識も興味もないし匿名宝飾店のこともよく知らない人に女なんかどうせジュエリーの価値なんてわかってなくて情報食ってるだけだから名前変えたらあっさり釣られてるみたいなこと言われてて悲しい。
「高級そうな雰囲気の店に4℃の商品を100万円で置いたらいつも4℃をdisってるブランド大好き婚活おばさんに大人気」とかを想像して溜飲を下げてるんだろうけど、そういう人はそもそもあんまり来てないか来ても買わずに帰ったと思うよ。
そもそも匿名宝飾店が大人気だったというのがブクマカの妄想じゃん。インスタの#匿名宝飾店は864件しかないし、tiktokの#匿名宝飾店も25個しか動画なくて動画のコメントもあんまりついてない。twitterの種明かしまでのツイートは数えてないけど10分あれば全部読めるくらい(ネタばらし後は爆発的にツイートが増えた)。
匿名宝飾店は単なるジュエリー販売店ではなくテーマパーク。有名なブランドということだけ入口で明かされてた。入場無料でディズニープリンセスやサンリオみたいなメルヘンなジオラマにジュエリーを組み合わせたものを見学できて、指輪のサイズを確かめてもらえるサービス、ドリンクとネイルオイルのプレゼント、商品の試着、パーソナルカラーや顔タイプごとのオススメジュエリー紹介、SNSにクチコミを投稿するとジュエリーとか入浴剤みたいなものがもらえるガチャガチャがあって、最後にアンケートに答えるとマカロンがもらえてブランド名も明かされる仕組み。アクセサリーはその後買える。
店内写真の撮影は大歓迎でインフルエンサーにも宣伝させてたから、店内の様子を把握してから行った人が多かったはず。
https://twitter.com/BOHE_BABE/status/1705098800300535897
匿名宝飾店、100坪以上ありそうなポップアップストア出して11日間で4000人来場ねぇ。1日360人、営業9時間だから、時間40人か。滞在15分だと寂しい感じだし、1時間ならまあまあなので、実際のコンテンツ次第。(後略)
こんな意見があったけど、この内容だと1時間じゃ足りないかもしれないね。
来場者コメントの傾向はインスタとtiktokとtwitterで全部同じだったのがちょっと意外。
https://twitter.com/search?q=匿名宝飾店 until%3A2023-9-20&src=typed_query&f=live
読んでもらえれば「匿名宝飾店のジュエリーは4℃を毛嫌いしてた女たちに大人気になった」なんて雰囲気じゃないのはわかると思うんだけどみんな読まないだろうから要約するね。
ジオラマの写真とガチャガチャの景品の写真が一番多くて、その他のコーナーの写真や試着した姿を上げてる人も多かった。購入した品の写真は確か一つもなかった(昔使ってた4℃をせっかくだからと磨いて久しぶりに付けてきた、という人はいた)。とにかく「楽しかった」「かわいかった」みたいな感想が多くて、展示も接客も良い優れた企画だったんだろうと思ったよ。指輪のサイズチェックのサービスはとても評判がよかった。「先入観をもたせずにジュエリーを楽しむなんてすごく新鮮」と書いてる人が多かった。3割くらいいた。
ブランド名が明かされたときの気持ちを書いてる人は意外と少なくて、5%くらいしかいなかった。多くは驚いてたけど、驚いた理由は書いてなくてよくわからなかった。
4℃だと見抜いたらしき人はちらほらいたけどみんな親切でネタバレしてなかった。そりゃ「あの有名ブランドがなんと匿名で!」なんて煽りにしたから特定したくなったというのもあるだろうけど、それ以前に4℃みたいな大手ブランドの品をそのまま出したらわかる人多いに決まってる。ただオープンハートは展示されてなかったからそこで気づかない人はわりといたかも。
ジュエリーそのものについてかわいいとか欲しいとか感想言ってる人は少なくて、1%くらいしかいなかった。買ったとか買うとか言ってる人は5人もいなかった。
ともかくこれからもジュエリーを着けたりもらったりする層の4℃へのイメージはあんまり変わらないと思う。
人気が上がって中古価格が上がるってことも…ないと思うなあ、もし上がったら謝る。
②4℃は誤解されたり風評被害を受けてたわけじゃなくて実情に沿った評価がされてる
(姉妹ブランドでなく本家の)4℃が学生など若い人向けだったり、値段が安かったり、そこまで近しくない関係の人に贈られることが多かったり、キャバ嬢によく贈られたりするのは本当のことなのにそのイメージを払拭なんてできるわけないよ。
ドンキがヤンキーの店と思われてるのもapple信者がカッコつけだと思われてるのもアクシーズがデブ女ヲタ御用達だと思われてるのも風評被害じゃなくて本当のことでしょ。
実態と異なるっていうのは「量が多くて値段がそれ相応、味より座れることが重視されてる、庶民向け」と特徴がそっくりなのに全然イメージが違うコメダとスタバみたいなことだよ。
仮に4℃がひっそりバレずに改名したり廃業して他のブランドが同じ地位を占めたりしてもやっぱり同じことになる。どうしてもイメージをつけたくないなら定期的に潰してやりなおすくらいしかないんじゃない?
③匿名宝飾店は4℃のイメージをさらに濃厚にしたような店構えなので4℃が嫌いな人は買いに来ない
4℃が嫌いな人はざっくり二つに分けられるけど多分どちらも匿名宝飾店には買いに来ないと思う。
・匿名宝飾店はハリーウィンストンとかヴァンクリみたいな高級ブランドショップに全然似てないので高級ブランド大好きおばさんは買いに来ない。
・「もう歳をとったから4℃のオープンハートみたいなのは可愛すぎて着けられない」と言うおばさんは甘々メルヘンに飾り付けられたジュエリーは買いに来ない。
結局買いに行ったのはもともと4℃のようなジュエリーが好きな人ばかり(人気ブランドなんだからもちろん大勢いる)で、4℃が嫌いな人が来てうっかり惚れ込んじゃうようなことはほとんどなかったと思う。
純粋にテーマパークとして来た人、指輪サイズ調べサービスやネイルオイル目当てに来た人もいただろうけど商品はあんまり買わなそうだ。
仮に「天一がステキな店構えで匿名出店したら若い女性にヘルシーだと大人気に!(実はあっさりしかメニューにない)」とかがあったら、「天一のイメージが変わった!」よりも「イメージが変わったんじゃなくて商品が変わったのでは…?」と思われるでしょう。
4℃でよく売れてる代表的商品はオープンハートなど甘い系統のだから、それを置かないのは天一でこってりを置かないみたいなもの。
とはいえ匿名宝飾店に置かれたものもやはり4℃なのでそこそこ繊細で複雑な意匠で、若い人に好まれるタイプ。歳をとってシワやしみが増えると繊細なジュエリーは負けてしまうので自然と大ぶりなものを好む人が増える。4℃はこれからも主に若年女性に好かれておばさんはそこまで着けないブランドであり続けると思う。
あるブランドが名前を隠して人気が出たからといって、「そのブランドを普段嫌ってる層に人気が出たんだろう」と根拠もなく思い込むのは愚かしい。
それなのに4℃は本質を見抜けないバカ女が手のひらを返して大人気になったという風潮だけがもう一人歩きしてるんだなあと思うと空しい。
ついでに未来の話を聞きたい。よろしければ。
クレヨンとかでコンセプト画を描く。
下っ端が実図面に起こす。
ザハ・ハディドなんかはトンカチ一つ持ったことがないから、下っ端に完全おんぶにだっこ。
日本人は、そういうセンセイの立場になるまでに下積みなしということはまずないので、
これはもちろん例えで、
コンセプト・構造・意匠を統合して立体構築する頭脳労働=プログラ厶の設計
ということになろうかと思うが、
建築の場合やっぱり下から全部やった人がクレヨン握らないといいものができない。
ザハ・ハディドなんかはどっかの独裁国に馬鹿げた「作品」作っただけで先進国ではついに通用しなかった。
プログラミングはどうなのかな。
神社は割と人通りの多い小道に面しているため、静謐、といった雰囲気はないが、左右に砂利が敷かれた短い参道を抜けて、背の高い木々に囲まれた昼でも暗い拝殿の前に来ると、「ほぼ現世、少しだけ異界」ぐらいの空気はある。
境内に一本、御神木なのか、ひときわ大きい樹が立っている。木には人の胸ぐらいの高さに縄が巻かれていて、汚れ一つない純白の紙がそこから垂れている。
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夏になると、境内の地中から蝉が出てきて、この木に登る。羽化するために現れて木を登っていく。
蝉、しめ縄をよじ登って越えていくか、反対に縄の下であきらめて羽化すればいいのに、わざわざ縄に下げられた白い紙を羽化のポイントに定めるやつが何匹かいる。真っ白な紙の上に点々と、透明で茶色い抜け殻が残る。
しめ縄というのは、どっしりとした円柱の大木に風雪で少しささくれた縄が巻かれ、そこから新しくぱりっとした純白の紙が垂れている、そういう宗教的かつ美的な意匠なんだと思うが、まあ蝉には関係ないもんな、と思う。蝉にとっては、ちょうどいい高さにあるちょうどいい場所でしかない。
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神社を出て100mほど、道なりにいって曲がると、今度はだいぶ由緒あるらしい寺が建っている。高名な僧が数百年前に開いた名刹らしい。
俺が住んでいるのはある有名な地方都市で、住民も多いし、観光客も大勢行き来している。しかし、この寺のお堂へと向かう広葉樹と苔だけの道を1分ほど歩いて境内に入ると、まったく何の音も気配もしなくなる。聴こえるのは、それこそ蝉の声ぐらいだ。
俺はときどき、お堂の廊下に座って、物を考えないで風景を見る。廊下は南側と北側があって、南だと境内に植えられた木、北だと目の前にそびえる岩壁を清水が伝うのが見えて、両方飽きない。
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この前、南側に座っていたときのこと、でかい羽音を立てて蜂が一匹飛んできた。
虫が好きな人間の固有スキルの一つに、蜂が刺すやつか刺さないやつか瞬時に判断できる、というものがある。そのときも、クマバチ=刺さない、とすぐにわかったので、むしろ観察するぐらいのつもりで様子を見ていた。
蜂はぶんぶん言いながら、お堂の庇に近づいていった。
お堂の庇は木を組んだ複雑なアミアミになっている。蜂は庇のどこかの一点が気になるらしく、決まった範囲をホバリングしていたが、急にふっといなくなってしまった。
「?」と思ったが、少し観察を続けてみて、さらに驚いた。
庇に直径1cm強ぐらいの穴が空いている。ある種の蜂は木に穴を開けてそこに住むが、どうも、クマバチが巣を作るためにお堂に穴を開けてしまったらしいのである。
美しい建築も、あるいは宗教的に洗練された意匠も、生き物としてあるがままにやっている存在には太刀打ちできない。物体であることの限界というか、この場合、お堂<蜂、もしくはご神木<蝉、そういう力関係と言える。
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風情的には少しあれかもしれないが、寺社建築をよく見ると火災報知器がついていることがある。安全面もそうだが、文化的にも重要なものだから、火には注意しているのだろう(法律的に必須なのかは知らない)。
同じことが蜂に穴を開けられた場合にも言えるはずで、歴史ある建物としては損なわれない方がいいに決まっている。
俺は寺務所に言いに行こうかと思ったが、少し考えてよした。
主な理由は「お堂に蜂が穴を開けてますよ」というところから会話を始めるのが我ながら気色悪く、億劫だったからだが、もう一つ挙げると、そもそも仏教的に、「かたちあるものが虫によって損なわれようとそれがなんだろうか」というノリなのでは、とも思ったためである。
皮相な理解だが、一切皆空の世界だし、悉有仏性の世界である(と聞く。宗派的に色々あるのかもしれないけど)。
人がつくったお堂に蜂が穴を開けようが、それでお堂が朽ちようが、お堂につくった巣で蜂が栄え、その蜂もいつか滅びようが、すべてが等価というか、はじめからそういう、かたちを結んで消えていくのを織り込んでいる世界観が仏教なんだっけ、と思った。
それで考えると、神道もいわゆる「八百万」の世界観であって、序列はあるのかもしれないが、蝉にも蝉の神…というか、「土中で数年暮らしたあと地上に出てきて飛んだり鳴いたり(オスだけ)したあとあっけなく死ぬ」神性? みたいなものがあるのかもしれない。
どういう神性だよ、という気もするが、ヨモツヒラサカに生えた桃の木とか岩とかを神と見なすのだから、蝉の神がいてもおかしくはない(おかしくはないのだけど、実際のところ、虫の神を日本神話で見た覚えはなくて気になっている。アゲハの幼虫を信仰していた宗教が大昔にあったみたいだけど)。
そういう意味では、自然界の営みによってシンボルが物質的に損なわれたり、上手く機能しなくなったりしても、一部の宗教はシステムとしてあらかじめ、そういう破壊や変質をうまく組み入れているのかもしれない。これは生命よりも宗教の法理の方が、包括的という意味で上位ということで、生命<法理であると言える。
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で、最後にどこに着地するかというと、信仰もただの理念や言葉、ロジックだけでは生き延びたり広がったりしていくのは相当難しい、やっぱりモノ・カタチにする必要がありますな、というところに着地する。
心を寄せるためのシンボルや、目で見て手で触れられるオブジェクトがあった方がいいし、大衆の政として考えても、建築やでっけえ像とかがあった方が広めやすい。
仏像でもピラミッドでも教会でも、最低限、紙の聖典でも、とにかく、教えとして生き残り広まっていくためにはブツが必要だ。水を汲んで運むのに器がいるように、信仰にはどうしても、ブツが要る。その点では信仰<モノである。
ただ、モノはいずれ、壊れるか変形するかするわけで、俺なんかはもう、「物質を伴わなければ存立・拡大できない宗教は、戦略として物質化を伴うがゆえに、滅んだり変化することも許容し、あきらめることをどこかに織り込まないと理屈が破綻してしまう宿命でもあり、拡大と必滅の板挟み」なのでは? とさえ思う。まあ考えすぎかもしれない。
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いずれにしても、これでお堂<蜂<信仰<お堂の三すくみが完成した。ありがたいことである。
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正しいかは知らない。
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何年か前に泊まった旅館は山寺のふもとにあって、せっかくだから登っていったら、と宿の人に言われ、お遍路でつくような杖をわたされた。
要らねえけどなあ、と思って登り始めたら、山道というレベルを超えて文字通りのマジ崖であり、むしろ杖あっても登れねえよ、と思ったが、どうも引っ込みがつかなくなり、気合いで登り続けた。
道がどんどん狭くなって、「落ちたら普通に死ぬなこれ」と思っていると、やがて、ほとんど空中にかかったような、ひと回りするのに10秒かからないほど小さいお堂にたどりついた。
当たり前だが、誰もいなかった。辺りは静寂に支配されていて、青い空が近くて、山の中が一望できた。
厳密に言うと誰もいなかったわけではなく、小さめのスイカぐらいあるスズメバチの巣が完全に完成してお堂の庇からぶら下がっており、スズメバチが「竣工式でーす」と言って飛び回っていた。
俺はふもとに降りてから、「蜂です」と宿の人に言った。さすがにスズメバチは言う。
ただ、蜂には当然、あれがお堂かどうかは関係のない話である。また、お堂サイドも、まあ仏教の法理に人格のようなものがあるとして、「こういう世界だからしょーがねえな」と言って苦笑する感じというか、空の近くにある静かな山中のちんまりした古刹で蜂が生命を躍動させているのに、なんかすげえ調和としか言いようのないものを感じたのを覚えているので、書いておく。🦑
スペイン・バルセロナの老舗食料品店が、商品を購入しないまま店内で記念撮影に興じる観光客に業を煮やし、入店料を徴収することを決めた。
アシャンプラ地区にある「カビウラス・ムリア」は1898年創業の食料品店で、キャビア、高級ワイン、燻製肉、少量生産のチーズなどの高級食品を扱っている。
店には、カタルーニャのアールヌーボーとして知られる芸術様式、モデルニスモの建築意匠を目当てに多くの観光客が訪れるが、その財布を開くことはほとんどない。古風な字体で店名が記された木造の外観や、外壁を飾る色ガラス製のレトロな商品広告、マホガニーの棚に所狭しと商品が並ぶ店内に、感嘆の声を上げ、写真を撮るだけだ。
店の経営者は、外観や内装の美しさがもたらした名声を誇らしく思っている。だが、カメラに向かってポーズをとるばかりで何も買わない「客」が増えすぎ、手に負えなくなってきた。
そして、このほど店の入り口に、観光スポット気分でやって来る観光客を思いとどまらせる看板が登場した。「店内見学のみの場合、1人5ユーロ(約790円)いただきます」と書かれている。
店長のトニ・メリノによると、入店料を徴収された人はまだいないが、買い物をする気がないのに店に入ってくる観光客の数は大幅に減ったという。
建築家の「風景学」みたいな論ってぜんぶこけおどしのハッタリやねん。ただのクソポエム。
香山リカの「社会を対象とした心理学」みたいなエセ学問やな。学問的な体系も方法論もなにもない。
建築意匠屋さんはそんな都市とか歴史、政治みたいな大きなものを相手にした勉強しとらん。建物一個の見栄えをオシャレにするプロでしかない。そしてもっと広範囲、街全体任せてくれたらもっと混じりっ気なくオシャレになるのにと素朴に思ってるだけ。
(内藤先生が手掛けた鳥羽の海の博物館でも見に行ってみればいい。と〜ってもオシャレで何もない誰もいない、THE田舎のハコモノ)
そういう人が素人ならではの大風呂敷を広げて「いくじなしの光景」みたいなスカスカのコピーをいろいろ考え、ド素人が口真似するわけや。
離島とか山陰あたりの漁村とか行くと風景が根本から違うよな。誰かが賢しらにデザインしたのではない、生活上の要請から出来上がった建築様式。カッコつけた言い方だと「ヴァナキュラーな意匠」とか言ったりする。
基本的に第一次産業しかなく、つまりみんな同じ暮し方で、同じ材料と技術で作られることによる統一感。美しい。
そういう辺境に残るヴァナキュラは、ほんの少し前までは日本中にあった。
それがメーカーハウスやロードサイドの吉牛やブッコフの看板の「ファスト風土」に塗りつぶされてしまった。けしからん。残念だ。……みたいなことをいう「専門家」がいて、その浅薄な論をさらに単純化した俗論に行政や一部一般ピープルが踊る昨今だ。
土地ごとの伝統や個性を大事にしようとかいって京都ではローソンのカラーをシブくしたり倉敷では公共建築をやたらなまこ壁柄にしたりする。そんなの単なるハリボテだよね。
「生活上の要請による様式」を、生活が変わったのに形だけ保存することには意味がない。
ベッドタウンやロードサイドの光景だってリアルな人々の暮らしの反映であって、見方によれば美しいとすら言える。
さらに言えばベッドタウンや団地自体がいまや高度成長時代の歴史遺産になりつつある。
消えつつあるものだ。
風景は人の都合でどんどん移ろうものだし、どのように変わってもそれは基本的に「いいもの」だ。人間の暮らしがそこにある限りは。鳥の巣やアリの巣がどっかおもしろいように人の巣はおもしろいし、正しい風景とか間違った風景なんかないんだよ。
6年前、初めて前作に当たるBotWをプレイしたときの思い出は、40年あまりの人生の中でも最も輝かしく、美しい経験として胸に刻まれています。
ゲームを終えるのが惜しくて、クリアしてからもハイラルのすみずみまで見て回り、コログを収集し、何度も同じ敵と戦い、実況プレイ動画を見続けました。
その結果、ほんの少しマンネリを感じるようになりました。記憶を消してもう一度最初から楽しみたいと願っても、出来るはずもありません。
続編の制作が発表されたときは、天にも上る心持ちでした。それからの4年間は、本当に長かった。
一緒にハイラルを駆け回ったとき小学生だった息子は、高校生になりました。
果てしなく期待のハードルが上がる反面、あまりにも任天堂から発表される情報が少なく、飢餓状態は疑心暗鬼を産み、不安が高まってきました。
開発が難航しているのか?飽きるほど遊び尽くした同じハイラルで、同じ主人公、同じ敵、同じゲーム機での同じ遊びではマンネリを感じるのでは?期待と不安が入り交じる中、ついに発売日を迎えました。
5/12午前0時、夜更かしの息子が見守る中、ドキドキしながら起動します。
前作から見事に接続されたストーリーデモのあと、リンクがスカイダイブしながらタイトルロゴが表示されたとき、思わず涙ぐんでしまいました。
降り立った空島での感動は前作での始まりの台地に匹敵するものでした。
息子に早く寝て明日自分の手でプレイするよう告げたあと、私は朝までプレイし続けました。
刷新されたゲームプレイメカニズムの見事さ、それを理解させるチュートリアルの自然さへの称賛は他のレビューに譲るとして、特に目を見張ったのは生きた世界を構築するために貫かれた美意識の高さです。
よく知られるようにスイッチの性能は時代遅れと言ってよく、精細さや滑らかさでは最新のゲームに大きく劣ります。
しかし、限られた性能で何を表現するか、その取捨選択自体に美学が感じられ、見せたいものが散漫にならず明確になっています。
自然の中で朽ちていった壮大な古代遺跡の様式が動植物の生きた風景のなかに垣間見えるさまは、未知の世界を冒険するワクワクに満ちています。
「底抜けの洞窟」に入ったときのワクワクは前作における最上のワクワクと同類のものです。祠内部の意匠と質感は上質な工芸品のようです。
一方で正直に告白すると、空島を飛び出して見慣れたハイラルの大地に降り立ち、あまり変わり映えのしない風景のなかでボコブリンと戦ったとき、既視感と多少の退屈を感じ上述の不安を思い出しました。
一旦ここでプロコンを置いて休もうかと思った矢先、前作にはなかった洞窟を見つけました。
1時間後、私は真暗な深い穴の中で見たこともない奇妙な植物に囲まれていました。
数時間後、私はこの代わり映えのしないハイラルの景色が、今すぐにでも再訪問したい、気になるスポットだけで満たされていることを確信していました。
そこからは、BotWで何度も味わった「行きたいところが次々と見つかり続けて辞め時がわからない」状態のループになります。
生活に破綻をきたし、妻の機嫌が悪化していきますが、この上なく自由で幸福な時間です。
発売前に私を不安にさせたのも、いったん既視感と退屈さを感じさせたのも、全てはこここからの感動の前フリでしかなかった。
何より嬉しいのは、この状態があと数十時間は続くことが保証されていることです。
限られた人生の時間を消費するに値する、無駄と感じないゲーム体験には、中年を過ぎると滅多に出会えなくなります。
そんな身勝手な私の高過ぎる期待のハードルを軽々とクリアし、想像もしていなかった驚きを次々と体験させてくる制作チームの偉業にはいくら賛辞の言葉を並べても足りません。
こんにち世界中で途方もない費用と時間と人材を費やして作られているAAAゲームでさえ、このようなワクワクと達成感と感動(人生において最も大切なもの)を与えてくれることは極めて稀であることを考えると、このチームがクリエイティブの魔法を維持し続けていることは奇跡としか思えません。
再び息子とハイラルでの出来事や発見を語り合える日が訪れたことが嬉しくてたまりません。
ファミリーマートに入った時になるメロディはファミマ特製のものではなくて、パナソニック/ナショナルが1982年から作っている赤外線入店センサー、メロディサインシリーズ。
EC5117/EC5227/EC5347型。一番安いのは4000円。
東京などJR東日本の駅には緑の文字盤の時計が吊るされていて、JR東のコーポレートカラーの緑の特注品に見える。
しかしこれはSEIKOの親子時計(駅や工場など時間狂いが許されない箇所に使われるシステムで、正確な親時計が30秒or1分毎に指令を出して子時計が運針する)のうち、バックライトがなくても視認できる蛍光塗料を使った商品で特注ではない。つまりは目覚まし時計が緑なのと同じ。
無印の横長で四角い「駅の時計」は国鉄ものと誤認されがち。だが国鉄は秒が刻まれた時計を採用していたので間違い。
目盛りが分刻みのあのデザインを使っていたのは地下鉄の交通営団。天井の低い銀座線、丸の内線で使っていた。
名古屋でもういろうは売られていたが、ういろうの名産地と言ったら小田原だった。
だが東海道新幹線が開業すると、ういろう販売店の内、名古屋の青柳総本店だけが車内販売権を獲得。当社は電車が名古屋を出ると「名古屋名物ういろう」と売りまくったためにういろう=名古屋と利用者に刷り込まれた。
漢の時代の中国で四季に合わせて漢詩を詠む事が教養となり、それを日本も倣った。漢詩→和歌→俳句→散文と受け継がれ、風流と教養から手紙の頭などに必ず季節を入れるのが常識となった。
この為に日本の特徴的な季節である梅雨などは無視されるか夏に入れられている。
梅雨前線が停滞することで起きるので青森~台湾~中国沿岸部しか梅雨にならず、中国沿岸部の梅雨は軽度でしかなかったため。
商店街が銀座を名乗るのは賑やか、高級のイメージと思われているが、最初に銀座を名乗った戸越銀座がそう名乗ったのは本物の銀座で使われていた煉瓦を舗装に使ったため。
関東大震災の復旧で銀座の舗装をやり直す事になり、それまで使われていた煉瓦の敷石が戸越に譲渡された。戸越は煉瓦舗装で雨の日でも泥まみれにならなくなったので「戸越銀座」を名乗った。つまり銀座の根拠は煉瓦舗装。
ペリーの黒船は蒸気機関車と混同されて鉄製+石炭蒸気船のイメージがあるが、木造の帆船。
木に腐食防止のコールタールを塗っていたので黒く、普段は帆走していて港での移動にのみ蒸気機関による外輪を補助的に使っていた。
昔のヨコハマタイヤが看板広告に使っていた、タイヤの中に濃い顔があるデザインは頭おかしい系怖いデザインとして有名だが、実はヨコハマタイヤの意匠ではない。
アメリカのBFグッドリッチ社がディーラーサイン(取扱店)として配布していたもの。(The Smileage!)。だからヨコハマタイヤのも取扱店の目印で、大村崑のオロナミンCホーロー看板と同じ。
BFグッドリッチが使っていたのは戦前~戦後初期と古く、また白黒イラストに赤文字だったのだが、戦後下ってから何故かヨコハマタイヤが色付けして復刻。その姿で多くの幼子を泣かせた。
錆びると紫外線遮蔽力が弱い白目部分と赤い唇の塗料が先行して剥げ易く、目と口から赤い錆汁を垂らすようになる。サイレントヒル。
尚ヨコハマタイヤは古河財閥とBFグッドリッチの合弁。戦争で関係が切れていたが戦後に関係が復活したのでキャンペーンデザイン統一した意味があったのかもしれない。
BFグッドリッチ社はオーチスエレベータ等も擁するユナイテッド・テクノロジーズ社に吸収されて消滅。タイヤのBFグッドリッチブランドはミシュランが持っている。
google:image:BF GOODRICH TIRES SMILEAGE
新幹線は固有名詞になっているが、元は単に幹線鉄道に平行する新しい幹線、って意味。
元は瀟湘八景で、中国湖南省の水郷地帯を季節を違えて八か所描いた山水画。
「四季」と同じくこれが日本で教養化されたもの。元が侘び寂び的であるので日本で更に洗練された。
山水画だけでなく連句を詠む/選ぶ、散文に登場させる、浮世絵、写真、単に選ぶなどのスタイルで流行した。
晴嵐、晩鐘、夜雨、夕照、帰帆、秋月、落雁、暮雪のテーマをなるべく入れる事が求められ、何も入っておらず単に綺麗な景色8選だと無教養と評される。
金沢八景は全八テーマが網羅された景色であり、多くの漢詩や俳句や浮世絵が作られた。
当地は沈降海岸(リアス海岸)で入り江と小さい島が多く松島のような絶景で富士山詣での返りにわざわざ訪れたりするほどの景勝地だった。
後に埋め立て等で景色は全て失われて八景の由来も判らなくなったが、「眺めが素晴らしい金沢」みたいな駅名である。
だがその駅により周囲の埋め立てが進んで八景が無くなったのだから皮肉である。
数年前の鬼怒川決壊氾濫で、過去にも「鬼が怒った」ような暴れ川だったと考える人が居るが、単に鬼怒川の源流付近を昔「けぬ」と言っていたからである。
前橋から奥日光、群馬から栃木西側に掛けてけぬ(毛野)と呼ばれていた。後に上野国(こうづけのくに)下野国(しもつけのくに)となるが、読みの「こうづけ」の「け」は「けぬ」の「け」であって、漢字の方で脱落してしまったもの。
ビショーネという。google:image:biscione
故安倍晋三前総理も若い時に乗っていたというアルファロメオのエンブレムには十字架とビショーネが描かれているが、これはアルファの象徴という訳ではなく、都市国家ミラノを支配していたヴィスコンティ家の紋章である。
ミラノの商人や貴族はビスコンティ家より紋章が描かれた皿を下賜され、忠誠の証しとして家に飾っていた。
余談だが安倍総理が乗っていたアルファは年代的にアルフェッタという車種と思われる。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/1978_Alfa_Romeo_Alfetta_GTV_%287254572400%29.jpg
実はこの年代のアルファはソ連製鋼板の品質に由来する品質問題を抱えていて評判を低下させた時期である。自動車用鉄板は防錆の為に亜鉛メッキされているのだが共産国ソ連の生産管理のダメさによって亜鉛メッキがちゃんとされておらず錆だらけになってしまう。
なぜソ連製鉄板など使っていたかというとデタントでソ連との交易を増やそうというイタリア国策である。だがこれはイタリアが東寄りだったいう訳ではなく旧枢軸国の独裁国でフランスなどに経済制裁されていたスペインにも工場進出しており単に節操がない。
当時日本の鉄鋼が米国を打ち負かす程の伸長をしており、日本製鋼板を使っていればこんな事にならなかった。アルファに乗っていた安倍氏は卒業後に日本の鉄鋼会社に勤めていたというのが皮肉である。
あと一つ入らないから続く→https://anond.hatelabo.jp/20230613182714
日本人の文化論について聞く話で、一見もっともな言論に見えるがよく考えると色々疑問点があるものがある。
ネットで見かけるような
「日本人は海外の文化を取り入れることが出来る」「日本人は海外の文化を取り入れる能力が高い」
というのは疑問に思っており
そう思った理由だが
一つは文化融合はどこの国でもある程度見られているのではないか?という気がする。
例えば寿司でいうカリフォルニアロール。
もう一つ
海外の文化を取り入れることが出来るならば日本が欧米化するんじゃなくて
海外の食べ物が日本で手を加えられ全て和食化したら説得力もあるのだが、現実には日本国内で和食の消費量が減っていることが食育上の問題になっている。
日本人は海外の文化を取り入れる能力が高くないか、そもそもそのやる気があまりないのではないだろうか。
文化とは言えないがカタカナ語もそうで、翻訳を行わない時点で英語を日本語に吸収することをしていない。
このような主張をされる方はどのような方なのか疑問に思う。
文化を完全に理解しろというのならば文化の良さを理解する人も、楽しめる人も減るし、新たな種類も生まれない。
「面白そうだから」「興味を持ったから」「とりあえず雰囲気だけでも楽しみたい」「子どもにも見せてあげたいので残したいね」そういう楽しみ方や保存もたくさんあるべきだ。
アニメや漫画界で昔風にいう「ニワカファン」を排除したら作品が広まらないと思う。
これは極論ではないだろうか?
新しい日本料理を生み出すために他の国の食べ物を食べる必要はあると思う。
ただ、和食の消費量が減っていくのは別問題で、そこまでする必要はないはずだ。
というより今ある文化が消えていく、衰退していく事を許容してしまうなら今新しい文化を生み出す必要はなんなのだろうか。
今新しく作った文化は将来は消えても構わないって言っているようなものではないだろうか。
本末転倒だと思う。
ただ無くなるとか壊れることではなくて、新しい種類の登場として変化に関しては賛成である。
アニメキャラが描かれた痛絵馬など素晴らしいではないか。どんどん新しいことに挑戦したい。
なぜ自然に残ることが正しいのだろうか。
ゲームでもなんでも作品自体は良いのに売れなかったり続編が登場しなかったものは普通にある。
「良い」と「残る」は別だ。