はてなキーワード: 卒業とは
それまでタオルを重ねて頭を置いてたんだが、中古屋で適当に安っすい低反発? まくらに変えてみたら睡眠が全然違って驚いた。
弁当のサブスクと定食オンリーにした。冷蔵庫も捨てた。食べ物を選ぶ、食事のタイミングを心配する、という脳内常駐タスクを外部化して注意力のメモリを解放した。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
好きな理由を書いたら長くなっちゃったけど、別に誰も興味がないと思うので全部消した。とにかく、今まで推してきた全てのアイドルの中で一番、加賀楓さんが好きだ。私もああいう性格の女性になりたい。
昨日、今出演しているミュージカルを最後に芸能活動を終えると発表されて、身体がぐにゃぐにゃになってる。なんとなく、覚悟はしてたけどね。
モーニング卒業後はインスタを更新しなくなったし、卒業後に開設したTwitterは告知にしか使ってない。彼女はそういう人だから、きっと舞台から降りたらSNSなんか更新しないし、そのまま表に出てこなくなっちゃうんだろうな。さみしいけど、そういうサッパリしたところが好きなんだよな。でも、さみしいな。
サクラ革命はゲーム側の展開でVtuberのCV担当やキャラ化なんて話が当初無連絡で破談になるなどそもそも問題がありすぎてアニメは関係ない次元。ゲームの運営開発に良くも悪くも影響していない。
あかねさす少女も自身で言及の通りこのリストにあるべきでない。
艦これアニメの評価に円盤の売上を持ってきて擁護をしているが初動オリコンで相応のランク入りや数字を叩き出したかに見えるが
1期は円盤販売数3万を越えた巻は僅少で制作費の他リアルイベントにバラマキを行っており「そこそこ」と言っていいのか
2期に至っては初動2000を越えたものがあるか?という次元だが財務的にいえばサーキットへの広告出稿などもはやアニメの成否一つでIPが傾くような次元は卒業済みである
親戚の食品会社(従業員100人くらいの零細企業)の人事として入社させてもらった
暇つぶしに従業員のプロフ(前略ではない)を開いてみてみると、製造技術の30歳くらいの男が地方国立大学卒業してるのに年収380万円くらいしか無くてドン引きした
他の人と同じサービスで自分は高い料金払って納得できる人なんてあなたのパパくらいだよ
フェミはパパを求めてるって散々言われてるけど少女漫画の世界から卒業した方が良いよ(横)
税金と公共サービスがーなんて反論があるかもしれないけど高額納税者もブーブー言ってる人ばかりでしょ
払わなくていいなら払わないよ
今回の殺人犯が車バイクを売ったという経歴を持ってるところで車バイク好きから擁護されていることは沢山の人が知っているであろう。しかしなぜ叩かれる勢いがないのか。ここで自分語り。自分は元々車が好きだった。しかし当時免許が無かった。だが車好きのコミュニティからインターネットを知っていったほど執着があった。しかしもう今はほとんど車好きをSNSでフォローしていない。それも、車好きに多い田舎の封建的なおっさん特有の保守的な理論自己責任論が酷かった。例えば、ミニカー界隈では転売屋を叩くとそれに対して努力して買えと高確率で言われる。それは自己責任論で自分は気に食わなかった。他にも腐る程ある。それについて自分は繊細な感性を持つタイプのアスペルガーと車好きの男らしさを持ち合わせる雰囲気のギアが合わず病んだ。本当に鬱病になった。さらに、自分の好きなインターネットであった5chなんJ嫌儲ではネトウヨが叩かれる傾向が強いが、そこと車好きの感性も合わなかった。車好きはぶっちゃけネトウヨだが誰もそれを突っ込まずいつまでもネトウヨは弱者男性ということにされている。これおかしいだろ!!!!!!!!!!!!!!!!
本当に気が狂いそうだ。なぜ既得権益の塊である車界隈が...と思ったところで冷静になる。車は田舎で根強く人気があり社会の発展に今でも寄与している。そこについても考えた上で、「田舎の弱者とは言えないけど保守的な感覚を持った男性」を叩くムーブが来てほしい。もう自分は車の免許を取ったが運転も楽しくないし車好きは卒業したと言っていい。本当に社会の悪とは何なのか昔車について無性に調べてた自分がここまでネットに沈んでいくとは思わなかった。
実際、俺は今酷く酩酊しながらこれを書いているし、支離滅裂になっても構わないと思ってこれを書いている。
俺はまどろみが好きだった。
起きた時に未だとろんとしている情緒が、夢と現実の境目に居るかのようなまどろみが好きだった。
今の情報化社会には感謝しているのかもしれない。だがそのせいでもあった。
彼女が今、何処で何をしているのかを知ることが出来たのだから。
俺には幼馴染が居た。
小、中、高と一緒で、中学の時には一時距離を隔てたこともあったが、それ以降は以前のように仲が良かった。
俺は彼女のことが好きだった。しかし”関係を壊したくない”なんていうありきたりな理由でその気持ちを伝えることはなかった。
要はビビっていたのだ。
やりたいことがあったんだ。それがなにかはここでは書かない。身バレを怖れるという恐怖心は俺の中に未だまどろいんでいる。
俺はそのまま県外で就職し、彼女との連絡は続けていたものの次第に疎遠となり、連絡し合うのは正月ぐらいになっていた。
信じたくはなかった。それでも確かめないわけにもいかなかった。
それは地元駅から数駅離れた駅の近く。その駅からは歩いていける場所にあった。
商店街の隅、こじんまりとした階段が顔を覗かせ、ビルのテナントが表記されている。
俺はエレベーターを使わず、ゆっくりと階段を上った。足取りは重い。彼女の顔が幾栄にも脳裏をよぎった。
ただの噂だ。嘘だってこともある。俺は足を止めると顔を上げた。重々しい扉の前に立った。ひっそりと鼻で深呼吸をした。
扉に手伸ばし、中に入ると受付がまず目に入った。
先払いでお金を支払うと奥に案内され、顔写真が飾ってあり、俺はゆっくりと視線を漂わせた。
ある一点で止まるとそこで活動を休止させたように、俺の目には他に何も入らなくなった。
ソファに座って待つ間。俺は自分の手ばかりを見ていた。動悸は激しくなり、何も考えられない。
彼女が迎えに目の前に現れた時、彼女は目を見開いた。それから見たことのない商業スマイルを見せ「こちらへどうぞ」と俺を案内する。
個室に入るまでには一切口を利かなかった。
靴を脱ぎ、部屋に上がる。彼女はベッドに座り、俺は彼女の前に立った。
お互いに何も言わなかった。
どうして?と俺は言いたかった。久しぶりだね、と彼女が口を開いた。
俺は俯いたまま、床ばかりを見つめながら彼女の名前を口にした。
昔、ずっと好きだったことを告げた。
静かだった。物音一つしない。鼻をすする音が聞こえ、顔を上げると彼女が泣いていた。
その言葉、もっと早くに聞きたかったなぁ、と彼女が言った。俺は
彼女がそう口にするのを、俺ははっきりと聞いた。
俺は彼女の隣に座った。ごめん、と言った気がする。
彼女は俯いて静かに泣きながら俺に両手を伸ばし、俺の左手をその手で包み込んだ。
ごめん、と彼女も俺に言った。俺は泣いた。
それからのことは思い出したくない。俺は彼女に脱いでほしくなかった。手を握り続けてくれればそれでよかった。それでも離したくなかった手を俺は離してしまったのだ。
俺にはどうすることもできない。
俺は店を出て階段を降り、ゆっくりと振り返った。それから帰った。もう帰る場所はないように思えた。
戻ってきても仕事に熱が入らず今日もこうして俺は酒を飲んでいる。
まどろみたいのだ。
今でも幼馴染は、彼女は俺の夢に出てくる。
それでも今の俺にできることはこうして酒を飲むことだけなのかもしれない。