はてなキーワード: spssとは
私はExcelおじさんだ。
往々にそうであるように、ちょっとした好意と、悪ノリだったと思う。
個人が勝手に作ったツールなんか、存在しないほうがいいと思う。
しかし、私が作らなくてもだれかが作るんだと思う。
あるいは、誰も作らずにExcel音痴たちが延々と苦しむかで、便利なシステムが導入されることはないと思う。
ChatGPTによってとってかわられるかと言えば、たぶんそうはならない。
Excel音痴たちは、データを整理できないのかわかってないし、そもそもどうしたいかを分かってないからだ。
要件定義ができないんだから、外部に作ってもらうことも、AIに頼ることも無理だ。
糞みたいな仕事
私は、統計解析おじさんでもある。
これも、なんでそうなったのかわからない。
「統計的に有意であった」とか「統計的に有意ではなかった」みたいな錦の御旗がほしいという悩みに答えて、データをこねくり回す。
統計的に有意であったとかそうでかったかなど、帰無仮説の立て方次第だとコミュニケーションを取ろうと努力するが、「結局どうなの?」
と、私の今までの説明を全く理解してない質問が飛んできて、頭を悩ませるのだが、可能な限り、欲しい答えに近い回答が出るように結果を返す。改ざんじゃないし嘘ではないけれど、ペテンだ。
やめたほうがいい。
AIに代わってもらえないかと期待するが、たぶんAIは、本人もなにが言いたいのかなにがしたいのかわからない問題に解答はしてくれないだろう。
弊社、分析機器は機器が吐き出すデータを専用ソフトで解析してレポートをするようなものが多い。
で、メーカーが潰れたり、製品が廃盤になったりして、ソフトが更新されず、x64 では使えないみたいな糞なことがしばしば起きる。
しらない拡張子でも、たいがいは中身はzipで、csvやバイナリーファイルの詰め合わせで、そこから専用ソフトと同じ数字が出るようにアルゴリズムをリバースエンジニアリングする。AIのおかげでコーディングが楽だ。でも、たぶん私以外にできない仕事だ。
しかし、これも、やめたほうがいい。なんで、メーカー非公式のアプリを作って、私個人が契約してるサーバーにデプロイして、みな会社のデータを無断でアップロードして分析するのか。アウトだろう。
メールに添付ファイルでExcelのファイルのアンケートが送りつけられ、そこに書き込んで返信して、それを集計するというアンケートが取られたりする。かなり偉い、役員クラスが一斉メールで数百人にメールして、それを集計したりするから頭が下がる。
だれもが、タイプライターの代わりにしかパソコンを使えない変な会社なので、私みたいな、40代にもなって部下なしの平社員がこんなことをしてる。コンプラ的にも長期的にもよくないし、人事評価という意味でも評価されない。
偉い人はExcelも統計処理もアプリも理解できないので、どれだけ便利なのかもわかってない。
マイナスにもならない。コンプラ的にどう問題なのかも偉い人は理解できない。
Chat GPTがいくら賢かろうと、偉い人たちは、報告書の言葉尻にケチをつけたり、パワポのフォントに口を出したり、Excelのセルを結合したりするのが仕事だと思って邁進し続けるんだろう。
最近、私は無能の烙印が押され、本業が干されているので、こういう糞みたいな雑用が増えてる。
PythonやVBAを操ったところで、それでIT関連に転職できるはずがない。40代未経験で雇ってもらえというのか。
RもPythonも、身内の統計解析をどんだけしたところで、これが職歴として評価される見向きもされないだろう。
医療系ならSASでも使わなきゃ、ビジネス系ならtableauとかSPSSを実務で使わなきゃ話にならない。
簿記や会計の知識が必要であったり、サーバーにデータベースを構築したりしたって、誰が評価してくれるというのだ。
まあ、仕事はやめるんだけど。
規制が参入障壁になってるので、規制要件の解釈こそが仕事になり、生産性というものをガン無視。
「規制当局にどう言われたとか、どの条文に載ってるからとかじゃなく、品質に対する意識を醸成せよ」
とお上が通達を出したので、社員教育を行います。通達を解釈すると、ホニャララ
というコントみたいな感じ。
社員教育といっても、音声入りのパワポが配られて、全問正解する簡単な〇×をつけて、それをもって
正の字は、ちゃんと品質保証部がサインした専用用紙に、消えないインクで自筆する。
クソオブクソ極まれり。
偉い人は、SASとかSPSSを入れたら品質問題がなんとかなると思ってるらしい。
業績はtableauとか入れたらよくなると思ってるらしい。
院生の頃SPSSとか弄って遊んでいたし、それを活かせるデータ解析とかでいい仕事ないかなと探していた。
その手の仕事は大体「プログラミング知識必須」だというが、プログラミングに関する知識は皆無に等しい。
シンクタンクでの長時間労働で疲弊しうつ病からの発達障害発覚で休職中の今、転職するにあたりプログラミングについて学ばなければなと思うようになった。
一応高校時代はパソコン部だった。大学は社会学科だったが、大学院は情報系であった。
パソコン部ではプログラミングをしている人もいた(その後知識を生かし国立大の工学部に進んだらしい)し、大学院でもプログラミングに関する講座が開講されていた。
しかしパソコン部では「ニューメディアが社会に与える影響」について集中的に調べていた。
大学院でも「ニューメディア環境が若者の○○観に与える影響(特定対策で伏せておく)」に関する社会学的研究ばかり行っていた。あとは統計学もかじっていた。
つまり高校の頃も大学院の頃も、プログラミングを学ぶ機会はあったにもかかわらず、結局何も学べていなかったのだ。
独学で学べばいいという意見もあるだろう。独学では限界がある。そもそも高校時代独学でプログラミングについて学ぼうとしたが、意味不明すぎてすぐ挫折した。
また、プログラミングを行うにあたっては数学と英語の知識が必須である。しかし、高校の頃受けた数学の模試は偏差値20~30ぐらいであった。大学も大学院も統計数学以外不要な文系であった。
英語も昔英検準2級を取ったっきりである。センター試験では英語は8割弱だったが、長文問題で点数を稼いでいただけだったので文法とか単語は全く分からない。
数学や英語といった基本的なところで躓いている以上、プログラミングの知識だけをインプットしても暖簾に腕押し糠に釘だろう。
ではプログラミングを学ぶために大学(学部)や専門学校に入りなおすか。大学や専門学校に行けばプログラミングの知識のみならず、英語や数学の知識も習得できるという利点があるだろう。
しかし大学に入学したのが8年前なので、入試問題に関する知識も忘却の彼方である。現役の頃から理数系はおろか現代社会と地理以外は絶望的に無知であった。入試を突破するには並大抵の努力では足りない。
仮に入試を突破したとしても資金面の問題や、卒業するころには三十路になっているという問題もある。三十路の自称新卒学生を雇ってくれる企業などないだろう。
独学でも学校に行ってもだめなら一体どうすればいいのか。プログラミングをあきらめ事務方の仕事でも探すか。
そのほうが意外と現実的かもしれない。
この質問、恐らくネット上では数兆回繰り返されててまたかって感じだとは思うんだが
聞きたい。
今やりたいと思ってることと、自分のスペックを可能な限り羅列するので何をどう始めればいいか教えてくれ。やる。
やりたいこと
卒論で扱うであろう統計分析なんかを、SPSSとかでなく自前で作ったモノで出力したい
ブラウザやPCゲー,Webサービスのための軽い拡張機能(やMOD)を書きたい
上のことをそれなりに応用力をもってイケてるやり方でスラスラできるパワーを持った人間になりたい(ここ糞抽象的)
PCスキル: ブログのテンプレート弄りとubuntuのインストール程度まで(誰でもできる)
住所: 田舎
金: あまりない。
宜しく頼んだ。
スペックの欄に書いた通りうつ病を患っている。そのため仕事ができない。
原子力関係のシンクタンクで働いていたところ、ある日ストレスの多さから突然自殺未遂をし、以降休職している。
しかし先日、精神障害があるのでこれ以上雇えませんという宣告を勤務先から受けた。
ハローワークに行って障害者枠で仕事を探そうとしたが、「主治医から『仕事ができる』と言われないと仕事探しは出来ない」と門前払いされた。
大学の非常勤講師にでもなるかと思ってJrec-INを見てみても、能力的な面や専攻的な面、そもそも業績を上げていない(零細学会で一回発表しただけ)より、自分が出来そうな講師職はなかった。
理系の研究職ならまだあるだろうが、文系で「若者の『地元意識』を数理統計的アプローチから明らかにする」という謎研究を修士課程でしていた身としては、研究を生かせる職があるとは思えない。
SPSS(重回帰分析・二項ロジスティック解析)とかEXCEL太閤、KH CODERなら何とか使えるが、それらが使えても何の足しにもならない。
プログラミングや数学(高校時代文系クラスだったため数ⅢCは受けていない)、英語が出来ないため、プログラマーとして働くこともできない。
実家に帰って仕事を探すにしても、実家は熊本の山奥である。一件だけ工場のライン工があったが、体力がないので長続きはしないだろう。土木作業員や警備員も同様の理由から候補から外れる。
普通免許も持っていないため、できる仕事も限られてくる。外回りの営業職はまず無理だろう。
そもそもコミュニケーション能力が皆無だと医者から言われたため、高度なコミュニケーションや感情労働を要する仕事(コンビニやファミレス、居酒屋の店員、営業職)も向かないだろう。
結果できる仕事もほとんどないことになる。フリーターすら無理である。バイトすらできないなら詰みである。
しかし家賃(6万7000円)を払うのもやっとで、生活できるとは思えない。
親に金を無心するにしても、実家もお金がほとんどないとのことなので、お金を無心することは出来ない。
社会保障の緊縮化が叫ばれる中、生活保護を受給するのも難しいだろう。
貯金も尽きそうになる中、お金がないのは致命的である。東京の自宅を引き払って実家に戻るにした場合、恐らく二度と東京には戻れず、実家に軟禁され続けることだろう。
その場合仕事もないし一生ニートになるしかないが、その場合貧乏な実家にさらに迷惑をかけてしまうことになる。
宝くじ一等当たれば話は別だが、そうでないなら人生詰みである。
コミュニケーション能力がないためコンビニバイトすら務まらないということは先述したが、コミュニケーション能力の欠如は友達がいないという形でも顕在化する。
友達がいなければ自身が抱える孤独とかを吐き出せる相手もいないということになる。また、友達がいないことは社会から孤立していることを表している。
社会から孤立している人が人的資源を使って今の窮状から脱することは出来ない。詰みである。
大学時代、オタクコンテンツの消費者のインサイトを探るための参与観察の一環として漫画研究会に所属していた。そこで友人関係を築いておけばよかったと後悔することしきりである。
うつ病をり患しているという事情も勘案せねばならないが、それを差し引いても日々の生活の楽しみがまるでない。
戦隊モノや仮面ライダー、ウルトラマン、一部の深夜アニメ(日常系)が好きだったのだが、最近そういうのを見ても面白さとかを感じることはなくなった。ゲームも同様である。
成城石井に行くために秋葉原に行くことが結構あるのだが、そこでアニメや漫画、ラノベ、ゲームを楽しんでいる人を見ると嫉妬で頭がおかしくなりそうになる。
そのほかに楽しみがあればいいのだが、それもない。大学学部生の頃までは鉄道模型とかトンネル巡りとかしていたのだが、お金がないせいでそういった趣味にももはや手を出せない。
楽しみがなく生ける屍になっている。楽しみがなければ生きる希望もない。生きる希望がないことは人生詰みである。
自殺すれば楽になるとは思っている。他人に迷惑をかけ続けている以上、けじめとして自殺しなければならない思っている。しかし自殺すらできない状況である。
先日も神奈川県のダムで自殺未遂をして警察に保護され、父親が迎えに来たが、熊本から神奈川まで往復数万円かかった。そういった経済的支出が出来るほどの余裕は実家にはない。
今度自殺未遂したら一生実家に軟禁するぞと両親から言われた。実家に軟禁されれば仕事することも、金を稼ぐことも、鉄道模型やトンネル巡りもできなくなる。
実家の通信回線は貧弱なので、アニメや特撮をインターネットで見ることもできない。
つまり、今度自殺未遂をしたら仕事もお金も友達も楽しみもすべて親により永遠に奪われることになる。それだけは何としても避けたい。
今年末にスピリタスを一気飲みして自殺しようかと考えていたが、それもかなわぬ夢となりそうだ。
家族や周辺の人々に不幸をまき散らしている自分がいてよい道理などない。詰んでいる人生から離脱することすらできない。これを地獄と言わずに何と言おうか。
実家に戻ったら二度と東京には戻れないし、働けるような職もない。つまり一生ニートでいることが確定である。何としてもそれは避けたい。
だからと言って東京にい続けるにしてもランニングコストがかかりすぎて、お金を費消することになる。お金が無くなれば生活できなくなり詰みである。
次自殺するような真似をすれば実家に一生軟禁確定である。だからと言って無駄に生をむさぼっていても詰んだ状況から脱出する術は一向に見いだせない。
結局自分の人生は詰んでしまったのだ。自殺できないので、来世に期待すらできない。
クソみたいな人生なので皆さん嗤ってください。
正確には、「未知のエラーによりプロセッサとの通信が終了しました。SPSS Statisticsプロセッサは使用できません。」なるもの。
上記メッセージでググってみても該当する情報がなかったので、少しメモっておく。
SPSSは大学から配布されているもので、学内構成員であれば無料で使用することができる。
「同時ユーザーライセンス」で、「ライセンスマネージャー名」を入力することでライセンス認証が行われる仕組み。
使用していたバージョンは、21・22であった(2018年6月時点)。
ソフトウェアの起動はするのだが、何かしらの検定を実行すると、上記エラーが出てしまい、処理が行われない。または、固まって動きがおかしくなる。
同時使用者数の制限にかかっているわけでもなさそうだったので、基本に立ち返って、バージョンを最新版(ver25、修正パッチ含む)にしてみた。
すると、どうやら解決した模様。
詳細な原因は不明なのだが、もしかするとライセンス認証などに係る部分で、バージョンの違いによる問題が起きていたのかもしれない。根拠は霊感。
https://twitter.com/roi3331/statuses/331787122451288064
乗り遅れてるけどこれの話。
これって「文字通りの解釈」と「伯父さんの意図を深読み」の2通りが考えられるんだけどどうよ?ってことが言いたい。
ちなみに俺自身はまさに人文系なんだけどRとかSPSSとか振り回して喜んでる感じの院生。
この場合は「金にならないことにコスト費やしてんじゃねーよ」っていう話だから、「人間の活動は必ずしも全てが利益を生ずるためになされる訳じゃないでしょ?」って方向でいいんだと思う。というか俺はそうやって考えてるし、この考え方だったら人文科学以外の世間からみて何やってるかわからない分野一般に適用できるんじゃないだろうか。
同じような文脈で、人文科学に限るなら「自然科学じゃないんだから金になるとか世の中に立つとかそもそも考えてない」って言っていいのかなーというのが悩みどころ。俺は全ての研究(学問的探求)は世の中に還元されると思ってるんだけど、即時的だとは思ってないのね。だから「今やってる研究が何の役に立つのか」って言われたら、「いつかなにかの役に立つ」としか答えられない。その意味では伯父さんの発言に対して、「今すぐ金にならなかったり世の中の役に立たなかったとしても将来のことはわかんねーだろ」って言えるといいなー?とか考えてるんだけどどうかな。
いずれにしても説得する必要は無いので、「面白いからやりたい!」っていうのを前面に出してもいい気がするけどね。
俺が深読みしたのは「お前の同期(の多く)は社会にでて働いて金を稼いでるのに、お前は大学院に進むことでさらに学費をかけるのか。自然科学ならいざ知らず、人文科学なんて同期より多く費やした学費分のメリットねーぞ」という話(B4を想定しているので社会人院生は置いておいて欲しい)。まあひねくれてるだろうことは置いといて。あとどっちかっていうと親(資金源)が言いそうな内容だよね。つまりこちらはある程度納得させる必要がある。
こうしたときに考えられる返答は、
3)今の俺にとっては学費<進学のメリットなんだよ!
ぐらいしか思いつかないんだけど、どれも伯父さん納得させられそうにないよね。
や、成績優秀とか院試の時点で業績いっぱい!とかだったら1)や2)の説得力あるかもしれないけど、まあ一般的なB4を想定して欲しい。
とすると3)を掘り下げることになる。まあ少なくとも、学費をかけた分の英語力とコミュ力と論理的思考力とoffice系ソフトの能力はつくんじゃないかと思うけど、それだけで伯父さんは納得するだろうか。
「一度しかない人生だから後悔したくないんだ!」→「入った後すごく苦労して後悔」っていう状況を考えてないよね。某掲示板の中退スレみてこいって話になる。
「結婚相手を捜しにいくんだ」→あ、これわりとありかも。まあ解答には書けないけど。
ということで、この問題は質問者が伯父さんだから成立するのであって、親からの質問であれば論理的に納得させることは無理だと思うんだけど。現実場面だったら感情的に押すしかないだろうし。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
細々と投稿していた、当時フォロー&フォロワー1桁だった自分が
どうして一夜にして200以上のリツイートをもらったのか、
未だに解せなくて、自分の記憶とWeb上の記録を整理してみる。
(幸運なことに、自分は投稿数・フォロワーともに極端に少ないので、
せっかくなので、誰もがアクセスできるWeb上の記録などを参照して、伝播過程を分析してみる。)
早い時期のRTに気づいたのは、投稿した翌日の午後。
確かまだRTは20前後で、サブカル系とくに東方関係の人たち中心だったと記憶している。
(残念ながら、最初に誰がRTしてくれたのか覚えていない。
公式の「リツイートされたあなたのツイート」欄に表示されるのは「最新の15人」だけなので、
伝播過程を正確にたどれず、あやふやな自分の記憶に頼らざるをえない。)
その後、同日(投稿翌日)の18時過ぎから、爆発的にRTが増えるんだけど、この辺は、http://twimpact.jp/の記録と一致する。
どうも伝播経路が二つあって、一方はサブカル系へpixiv利用者や腐女子のネットワークを中心に伝播し、
もう一方はデザイナーの竹内光司さん(@adesignerjp)やtwicca開発者のAoyama,Tetsuyaさん(@r246)が
恐らく18時半~19時頃にRTしてくれて、クリエイター系にも拡散した模様。
(この二人が目にした伝播経路にもすごく興味があるんだけど、調べようがないんだなあ。)
RTの増加時期は、自分の記憶では、投稿翌日の夕方18時台にひとつと、22時台にもうひとつの大波があった。
前者ではとくに、10代から20代のサブカル系が趣味の生徒&学生っぽい人たちが目立ったので、
「こりゃ、帰宅時にtwitter始めた人たちがRTしてくれてんのかな」と、
突然に増えていくRTに目を見張りながら、ボンヤリ考えたのを覚えている。
ちなみに、当該つぶやきをRTするには、そもそも「四時」が自動ポストされることを知っていることが前提だから、
その利用者周辺を中心に拡散するのは道理。
そういうわけで、比較的若年層のサブカル系とクリエイター系に拡散したんじゃないかと、自分は納得している。
ところで、http://twimpact.jp/のチャート図(「ReTweetレーダー」)は、
自分のアイコンから直接矢印が引かれているもの以外は、ほとんどアテにならない。
アイコンに併記される数字はこれまでRTされた当人の投稿数を示すように、
既存のトータルな影響の流れを図式化したものであって、当該つぶやきのRTとは無関係だからだ。
(そもそも、チャート図に表示されている勝間女史と「四時」の親和性は極めて低いだろうし。
念のためと、勝間女史の投稿を「もっと見る」でひたすら遡って確認してみたけど、
それゆえ、今まで一度もRTされていない人や非公開の人は、データとして表示されていないし、
恐らくはtwitterの「リツイート」ボタンを押して拡散した場合(公式RT)しか対象としていないようだ。
(twitterのリストには、非公式RT=RT@ID名と記入した場合でも、カウントに入れて表示してくれるっぽい。)
だから、RTが87としか表示されていないのだろう。
(twitterのリストでは、投稿翌日の午後から翌々日の午後までに、227RTあった。
その後、RT解除または非公式RT投稿を削除されたりしたようで、現在は222で定着した模様。)
もうひとつ、http://retweeter.unicco.in/というサイトでも、伝播過程の分析がある程度可能。
こちらでは、「48 retweets 」があって、「total : 14,637 views」と表示された。
このRTが48という基準がよく分からないけれど、こちらのサイトでは、RTされた時間をたどることができるのがメリット。
それと、フォロワーの数を組み合わせて、当該つぶやきを閲覧したであろう人数を概算してくれるのも面白い。
(実際のRTは、このサイトの予測の5倍弱なので、総閲覧数も変わりそうだけれど、
でもまあ目安として、数万人規模の閲覧があったというのは、すごく興味深い。)
他方で、デメリットとしては、上述のRTのデータ数が不明なのに加えて、
当該IDの全てのRTがずっと記録されているわけではなく、
「一定期間以上ログを残すのは、100以上のRTに限る」といった制限がされている印象。
(というのも、当該つぶやき以降に、別の自分のつぶやき投稿をRTしてくれたフォロワーがいて、
RT直後にはこのサイトに、自分のIDでは2つのRTに関するログが残っていたのに、
数日を経て今日見たら、ログは当該つぶやきだけ=1つだけに減っていたから。)
他にも、伝播過程の分析としては、
「お気に入り」登録してくれた人をたどるというのも一案だけれど、
こちらは公式にデータがオープンにされていないだけあって、もっと難しい。
例えば「ふぁぼったー」は、そもそも登録者しかデータとして表示されないっぽいので、ほとんど使えない。
(登録してない人は、自分がお気に入りされたかどうか検索することはできても、
お気に入りした人としてカウントされる=データソースとして反映されることはないっぽい。)
実際に、当該つぶやきをRTしてくれた人で、なおかつ「お気に入り」登録してくれた人を
twitter上で自分は何人か見つけたけど、「ふぁぼったー」には全く反映されていなかった。
ちなみに、SPSSも今年6月に日本語twitter解析ソフトを出している。
http://www.spss.co.jp/campaign/tw.html
ソフトが手元に無いので上記サイトの記事だけで予測するに、ハッシュタグ付き投稿の感性分析メインみたいだし、
とんでもなく高額(学割でも17万円以上!)で、さらさら購入する気になれず。
分析事例を見ると、とくに続編では時系列の変化が内容ごとに分かって、確かに面白そうなんだけどさ。