はてなキーワード: ニューメディアとは
最近、と言ってもここ半年の間、暇空茜が快刀乱麻を断つように活躍するのを見ていたが、年始以来少々度が過ぎるようなツイートが多くなってきたように見受けられる。私個人としての立ち位置は、仁藤無能を筆頭に自分の好悪と社会的な善悪を取り違えたような社会経験もまるでないまるで自分が世界一悲惨な目に遭ったとでも妄想するような小娘(勿論それに味方する社会に揉まれたことのない議員、言論者も含む)が喚くのを苦々しく思っていたのもあり、暇空茜に喝采を送る側にいる。その前提に立った上での杞憂だ。
”底辺”だの”クズ”だの、そう言う品格を落とす単語を言うのは、控えていただきたい。これは私の好悪もあるが、余計なところでボロを出しては困るからだ。実際暇空茜の対峙する相手は屁理屈を捏ねるにかけては日本一のこじ付け屋だ。それこそ今までの温泉むすめやらに影響してしまえるくらいに余計な弁の立つ連中だ。そんな彼らに付け入る隙を与えかねない状況を作るのは、要らない裁判を起こされる可能性を残すのは宜しくない。
確かにTwitterの中では、あくまでも中立を選ぶ私から見ても(バイアスは考えられるが)暇空茜に軍配が上がる。が、それ以外ではまだまだ暇空茜の知名度は低いだろう。それこそ、本気でナニカグループに相対するのなら、殺されないようにある種の監視装置として市井を用いるのならば、渋谷でどんちゃん騒ぎをする連中の耳目でさえも集める必要があろうと思う。今のままだと、暇空茜に対して侮蔑の意は全然ないが青識胡乱と同じ穴の貉と言わざるを得ない。けだしTwitterと言うクローズドのメディア内で人気を獲得する意味に於いて。何故なら、真実性ではなく確実性を求める連中は必ず一定層いるからだ。裁判がいい例で、判決内容に目を通す人間はいても詳細を知ろうとするものは前者より確実に少ない。オールドメディアの影響が減じた今と言っても、それはニューメディア、言い換えればネット内でのコミュニティでの報道が増大したとは言えないからだ。単に社会情勢への関心を持つ層が薄くなった、それだけの話で勿論仁藤に対しても同じことが言える。残念なことに声のデカいだけの連中が騒ぎ立てて、興味のないものは口を噤むわけだから余計目立つ。
その延長線で、マジョリティ(便宜上、社会情勢に興味のない層)が本件に触れた際に、村木厚子と言うなんだかよく解らないが偉そうな人間に対してアニメアイコンで余り宜しくない言葉遣いをするが誤謬を指摘する人間、どちらを信用するかに尽きる。正味マジョリティは子細に調べることはしないだろう。ただメディアの文言に踊らされてしまうだけだ。それで何となく村木とか言う偉そうな人間を信用してしまうことさえあり得る。
とは言え、性格はさておき能力にかけては暇空茜は一定以上のものを持っているように見受けられるので、もしかしたら上の心配はそれこそ杞憂であるかも知れない。対抗策は既に用意されているのであればまさに杞憂そのものだ。
院生の頃SPSSとか弄って遊んでいたし、それを活かせるデータ解析とかでいい仕事ないかなと探していた。
その手の仕事は大体「プログラミング知識必須」だというが、プログラミングに関する知識は皆無に等しい。
シンクタンクでの長時間労働で疲弊しうつ病からの発達障害発覚で休職中の今、転職するにあたりプログラミングについて学ばなければなと思うようになった。
一応高校時代はパソコン部だった。大学は社会学科だったが、大学院は情報系であった。
パソコン部ではプログラミングをしている人もいた(その後知識を生かし国立大の工学部に進んだらしい)し、大学院でもプログラミングに関する講座が開講されていた。
しかしパソコン部では「ニューメディアが社会に与える影響」について集中的に調べていた。
大学院でも「ニューメディア環境が若者の○○観に与える影響(特定対策で伏せておく)」に関する社会学的研究ばかり行っていた。あとは統計学もかじっていた。
つまり高校の頃も大学院の頃も、プログラミングを学ぶ機会はあったにもかかわらず、結局何も学べていなかったのだ。
独学で学べばいいという意見もあるだろう。独学では限界がある。そもそも高校時代独学でプログラミングについて学ぼうとしたが、意味不明すぎてすぐ挫折した。
また、プログラミングを行うにあたっては数学と英語の知識が必須である。しかし、高校の頃受けた数学の模試は偏差値20~30ぐらいであった。大学も大学院も統計数学以外不要な文系であった。
英語も昔英検準2級を取ったっきりである。センター試験では英語は8割弱だったが、長文問題で点数を稼いでいただけだったので文法とか単語は全く分からない。
数学や英語といった基本的なところで躓いている以上、プログラミングの知識だけをインプットしても暖簾に腕押し糠に釘だろう。
ではプログラミングを学ぶために大学(学部)や専門学校に入りなおすか。大学や専門学校に行けばプログラミングの知識のみならず、英語や数学の知識も習得できるという利点があるだろう。
しかし大学に入学したのが8年前なので、入試問題に関する知識も忘却の彼方である。現役の頃から理数系はおろか現代社会と地理以外は絶望的に無知であった。入試を突破するには並大抵の努力では足りない。
仮に入試を突破したとしても資金面の問題や、卒業するころには三十路になっているという問題もある。三十路の自称新卒学生を雇ってくれる企業などないだろう。
独学でも学校に行ってもだめなら一体どうすればいいのか。プログラミングをあきらめ事務方の仕事でも探すか。
そのほうが意外と現実的かもしれない。
21歳。大学生。
俺は平成生まれインターネット育ち 面白そうな情報はだいたいインターネット経由。
そんな世代だ。
人によっては違うだろうが、ニュースに興味を持つようになったのは2chまとめサイト経由だった。
様々な問題が指摘されているが、なぜこのようなキュレーションメディアが生まれ、流行してしまったのかという点はあまり指摘されていないように思われる。
思うに、そもそもの問題は、情報に対価を払おうとしないことではないだろうか。
キュレーションメディアを受信する側は、できるだけ情報に金を払いたくない。
知りたい情報はググって、無料で見れるところを探す。その信ぴょう性についてはあまり、意識するところはない。
とにかく、タダでかつ簡易に情報を手に入れられるという点に重きを置いているような印象がある。
発信する側も、情報の価値を認識していない。(あるいは収益性の面から敢えて無視している)
できるだけ金をかけたくないあまりに、できるだけ情報をローコストに抑え、時にはタダで情報をコピペする(意識としては借りているつもりではあるが、盗用ということになるだろう)。
双方とも根っこの部分には情報に対価を払いたくないという考え方があるのではないか。
無論、広告を見せられるという点で、対価を払っているという見方もできるかもしれないが受信する側としてはただのノイズでしかない。
実際、金は払っていない。
(たまに気になる広告があり、クリックすることはあるかもしれないが)
例えば、post-truthという言葉。イギリスかどっかで流行っているとか。
情報そのものには価値がなく、「自分が信じたい、あるいは自分の主義・考え方にとって心地よい」情報に価値を見出している人も少なくないのではないだろうか。
公平性・真実性の欠けている情報の価値は非常に危ういと私は思うのだが、どうも世間はそういった感じではなくなってきている。
キュレーションメディアのようなネット、ニューメディアに対するのはオールドメディアということになると思う。
テレビや新聞。どちらも元気がなく、副業で儲けようとしている印象。
NHKは受信料を払えとうるさいが、払いたがらない人が多数である。
新聞は、日本は購読者が多い国だといわれているが、しかしそれでも部数は減り続けている。
ネットにも手をだしているようだが、有料だと誰も入りたがらない。
(ただ、無料では割と利用する人はいると思う。Twitterを見ている限りでは。しかし、気になる情報しか見ない)
私たちの世代(私の属している範囲がアレだというのもあるかもしれないが)では、新聞を読んでいるというだけで、「意識が高い」とみなされる。
こういったオールドメディアを信用できないという意見も理解できる。実際、偏っていたり、間違ったことを報道することもある。
しかし、私にとってはネットのニューメディアよりは、まだマシかなという印象があるので新聞もとっているし、テレビの報道番組もみている。NHKにもお金を払っている。
ある種の意地とかひねくれかもしれない。あまりにもネットで叩かれているので。
ネットはこういったオールドメディアに冷たすぎるきらいがあるように思われる。
有料でも情報に金を払うという文化が残っているように見えるのは、専門性の高い分野だろうか。
しかし、人数が少ないのでメディア側としてはあまり儲からなさそうだ。
流行語大賞をひとつも知らないとか紅白の歌手を知らないというように、みんな同じものに興味を持つという時代は終わってきて、各自が別の特定の分野にしか目を向けないようになったという点も大きな影響を与えているのかな。
それ自体は悪いとは思わないけれど。
昔を知らないので、情報への対し方というのが昔からこうだったのかは残念ながら私にはわからない。
しかし、今のこの状況は大変まずいのではないのだろうか?そんな気がしている。
映画「シャーロックホームズ」で左上に表示されるテロップに苦情殺到 #ntv #シャーロックホームズ - NAVER まとめ
↑の件について思う所がるので書きます。
個人的には、こんなテロップが出る映画放送は嫌なので観ません。
でも、高齢化が進む中で、広く開かれたメディアが、知的な能力が減退したお年寄りにも観てもらえるように作られるのは、不可避だと思います。これは反知性主義とはちょっと違う。いわば「福祉化」です。
行間を読むことや解釈をすることといった「知的な楽しみ」がなければ文化は成立しません。が、その一方で、知的な能力によって文化から排除されてしまう人が存在することや、ましてそういった層が増えていってしまうことは好ましいとは言えないでしょう。
かつて大宅壮一はテレビの登場で「一億総白痴化」なんて言って、これは典型的なニューメディア悪玉論ですが、今後「一千万認知症時代」がやってくるのは、間違いありません。大きなメディアは、より分かりやすくせざるを得ないでしう。
かつてインテリ貴族だけが独占していた「文化」なるものは、社会の変化とともに大衆化し、これから先は高齢化・福祉化していくのでしょう。私たちが望むと望まざるとに拘わらず、川は流れます。
もちろん、高齢化で、社会の構成員全部の知的な能力が減退するわけではなく、若者や、元気なお年寄りだってこの先もいっぱいいるはず。
大事なのは、選択肢が存在し多様性が確保されているということです。
ただ「選択」ということを考えると、無料で広く流れるメディアはやはり福祉化して、能力的な問題で選択肢が制限されがちな「録画もデータ放送もよく分からない認知症気味の独り暮らし」に向けた工夫をするのは妥当かもしれません。
地上波のようなメディアが、映画を(著作権者が許可する限りにおいて)分かりやすい編集で放送する一方、BSやDVDでオリジナルのものを「選べる」なら、まあいいんじゃないかと私は思います。
それに「『ちゃんとした作品』を楽しむためにはお金が必要」というのは決して間違いとは思えません。
また、この多様性の中で、作り手(著作権者)が「この作品は、分からない人には分からなくていい」として、福祉化を拒否するのも、もちろんあり。それはそれで作り手の「選択」ですね。
懸念があるとすれば、地上波のような無料のメディアがお年寄り基準で福祉化していく一方で、経済的にひっ迫している若者が有料のメディアからも疎外される傾向が出てきてしまうことかな、と。ただこれは、メディアじゃなくて政治の問題でしょう。
日本では憲法でも最低限度の「文化的な」生活が保障されているわけで、老若男女問わず、適切に文化に触れことができる状況を用意する責任が国にはあると思うんですけどねー。