はてなキーワード: 野草とは
「草」とは、植物の一種で、地面に低く生える柔らかい茎を持つ植物を指します。一般的に背丈が低く、樹木や低木と区別されます。芝生や野草のように、人々の生活環境の中でよく見られるものが多いです。また、「草」という言葉はネットスラングとしても使われ、笑いを表現するものとしても使われます(「笑」を「www」に変えて、それが草に見えることから)。
繁殖力について、現代でも草は繁殖力が強い植物として知られています。多くの草は種子によって広く繁殖するだけでなく、地下茎などを通じて横に広がることができ、環境に適応しやすいです。特に雑草の一部は非常に強い繁殖力を持ち、他の植物よりも優位に立つことがありますが、これは植物界全体の中で特異というわけではなく、草の特性の一つです。
もし「異常」と感じるような現象があれば、気候変動や都市化、農薬や肥料の使用などが草の成長に影響を与えている可能性があります。最近の気象条件や人間の活動が植物の成長サイクルに影響を与え、ある種の草が急激に増加することもあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC#%E7%89%B9%E5%BE%B4
日本在来馬は体質強健で、よく粗飼に耐える。消化器官が発達しており、そのため、野草のみでも育成できると言われる。体は丈夫で、寒冷地でも年間放牧が可能であるとされる。
平均的に骨や蹄が堅く、骨折などの事故はあまり起きない。この「蹄が堅い」という在来馬の特長から、日本では雪国で馬にはかせる藁沓(わらぐつ)を除いて、蹄鉄が発達しなかった。
この歩様は上下動が少ないため駄載に適し、特に険しい山道での運搬には向いている。体格のわりに力強く、特に後ろ脚が発達していることもあり、日本在来馬は傾斜地の歩行をあまり苦としない。
比較的温和な性格のため、ハミをかませる必要もなく、容易に扱うことができたとされる。このことが原因の1つとなって、日本では明治に至るまで、去勢術が定着しなかった。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
トーシロのAPEXパーティ動画20分、誰が見るんだよ。いやもう泣いちゃったよ。
編集は頑張ってる。まあそうだよね。字幕を付けて。人ごとに色分けして。音量の大小で字幕のサイズも変えて。wを振るわせてにぎやかにして。
でもそれだけだよね。素人が素人同士で雑談してわちゃわちゃしてるだけの内輪コンテンツをさ、見るわけないじゃん。
いやね、あなた方の腕前がプロフェッショナルクラスとか、そういう既に何かコンテンツ力を持ってるならいいよ。
何もない素人が何の紹介も何のアピールもなく終始雑談APEXしてるだけじゃん。
その辺の野草を焼いて調理しました、って感じでさ、どこが旨味なのか分からんのよ。
人をさ、人を意識しなよ。誰を幸せにするのか、誰を楽しませたいのか。商売って、そういうことじゃん。
楽しく遊びました、編集頑張りました、じゃないんだよ。そこじゃないんだよ。頑張るのは。
気づいてほしいよ。その努力は報われない。
慣れない郊外の街で車を走らせていたせいか、すっかり道に迷ってしまった。行き止まりに車を停めて同乗者と運転を代わる。砂埃の舞う頭上を見上げると、夕闇を背景にハイウェイの高架がいくつも交差している。迷ったとはいえ、この場所を特定する手がかりがないわけではない。まずは世田谷区内であること。それから京王線と新幹線と高速道路が交差する場所であること。地図を調べればすぐに分かりそうだ。
一服しようと同乗者に煙草をもらって休んでいると、突然後ろから走ってきたトラックに追突され、車体はそのまま目の前の柵を突き破ってしまう。さらに数十メートルほど押し出され、鉱山の掘削地らしき場所に入ってようやく止まった。工事車両や運搬車両が無数に行き交い砂埃を舞いあげている。このままでは邪魔になってしまう。仕方なく一周して敷地の外に出ようとすると、同乗者が「こういうときは一言謝りに行くんだよ」と言って車を降りていってしまった。追突されたのはこちらの方なのだから謝りに行くもなにもないだろうと思いつつ、帰りを待っていると、どこからともなく職員らしき制服の男か現れ、一枚のパンフレットを手渡してきた。そこには「人工温泉掘削事業出資者公募要項」という文字とともに、未来的なユートピア都市の想像図が描かれている。どうやらここは空想都市建設の企業で、この場所はそのための実験施設かなにかであるらしい。
同乗者はいつまでも帰ってこない。かといってずっとこの場所に留まるわけにもいかない。仕方なく一人で引き返して出口を探す。辺りは駅の構内のような人混みで、とても車で走り回れる様子ではない。辛うじて改札口の片隅に「車両専用」と書かれた小さなエレベーターを見つけた。先ほどのトラックもここを通ってやって来たのだろうか。とにかくそのエレベーターに車を押し込んで一階のボタンを押す。一階のラベルには「カフェ野草」という店名が記されている。おそらく先に出た同乗者は隣にある人間用のエレベーターで降りていってしまったのだ。ここは三階、駆け下りれば追いつけるかもしれない。エレベーターのボタンから手を離すと同時に階段を探して走る。だがどこにも階段は見当たらない。ようやく見つけた玩具のようなプラスチックの階段は身ひとつがやっと通るだけの狭さで、しかも二階までしか通じていない。二階はショッピングモール。やはりどこにも階段がない。ここでも散々探し回ってようやく従業員用のバックヤードに下りの階段を見つけた。そこを駆け下りてゆくと例のカフェとやらの厨房らしき場所に辿り着いた。裏口のガラス戸をこじ開けてようやく外に出る。
打って変わって周囲には静かな田園の風景が広がっている。あれほど人波でごった返していたというのに、この閑散とした様子は何だろう。エレベーターの出口はどこだろうか。しばらく歩き回ってようやく納屋のような場所の奥に錆びた鉄扉を見つけた。同乗者は干し草の山に埋もれて待ちくたびれていた。車は取り出していないという。ということはまだエレベーターの中にあるはずだ。煤に汚れたボタンを押す。出てきたのはもう何年も放置していたかのような埃の積もった古びた車体だった。
俺はそこまでそういうの好きなわけじゃないんだけど
3.特定外来種駆除、環境保全というプロジェクト自体の面白さがある(非常に難しい)
5.乱獲しても言い訳ができる、むしろ褒められる(普通は食べもしないのに乱獲したら炎上する)
6.ゲテモノ食い、サバイバル的な要素もある→Youtuber的なリアクションも楽しめる
7.自然と他Youtuberとコラボしたり、地域とのコラボができる
8.色んな方面に強みを持ってる人が居て面白い、大体変人、大体仲良さそう、博識(こんな友達1人くらい居るよな、投網とか好きなやつ)
10.料理要素、飯テロ(だいたい美味い!っていう、他はヴォエ!)
11.なぜか皆若くて元気で楽しそう
よくできてる
黄金伝説とか、池の水全部抜くとか、鉄腕ダッシュとか好きな人はいけそう
入り口はホモサピでいいと思う、コラボ相手たどっていけば大体網羅される
マーシーやスイチャンネルみたいなのは徐々に改善していく経過も面白い、年単位で活動してるから真似できない
彼は狩猟とサバイバルなので毛色が違うけど、最近YouTubeにいるよね
___
Youtubeくん〜それじゃないんだよな〜っていう
カエルとセミとヌートリアとアライグマとバラムツちょっと食べてみたい
一応彼らは「生物系Youtuber」とか「生物採取系Youtuber」とか言ってる
闇鍋は正解率高すぎて笑う
お雑煮なんかによく入っているのだけど、噛むとうま味というかコクみたいなものを感じる
歯ごたえとしては見た目のごわごわ感どおり、少し繊維質で、そのせいでよく噛むからよりうま味が出てくる
実家ではお雑煮くらいで出てこなかったので、お雑煮用の野菜だと思っていたのだけど、お浸しを最近始めて食べて美味しかった
他の野菜に比べて水分量が多くないからお浸しにあっている気がした
水っぽくないから味の染み具合もよく、元が繊維質で少し硬い野菜だからこそ、ふにゃっとならずしっかりとした食感が気持ちよい
昔、熊本に住んでいた際は一文字という野菜を食っていたことを思い出した
白根が普通の小葱よりも少しふくらんだ野菜で、さっとゆでて水で冷やしたあとで、白根に青ネギの部分を巻き付けて結び、それを酢味噌に付けて食う
料理名が一文字ぐるぐるといい、なんともまあ城下町っぽい手の込み具合だなと思ったことを覚えている
田舎者としてはこれって野草ののびるとなんか違うのか?とも思っていたけど、熊本市民の前では言えなかった
他に水前寺菜とかいう熊本っぽい名前の野菜も一度、八百屋で見かけて買った覚えがある
葉の表が緑、裏が紫の青菜でゆでるとぬるっとした食感になるがアクを感じたのかあまりおいしく感じず、二度と買わなかった
これならクセが無くやわらかいモロヘイヤでいいなと思った気がする
郷土野菜って知らんだけで、色々あるんだろうなと思う
春になった
腹が減った
現在国内に出回っている牛肉のうちで、国産牛肉はおよそ4割です。すなわち外国からの輸入牛肉が6割と、約3分の1を占めています。
肉牛1頭(体重700キロ)をつくるためには、トウモロコシや大麦などの穀類(濃厚飼料)を約5~6トン(あか牛は4~5トン)必要とします。しかしそのほとんどは、アメリカなどから輸入されたものです。国産のエサといえば、イナワラや牧草などの粗飼料ですが、これも最近では外国産のものが増えています。国産牛肉といってもその原料はほとんど外国産なのです。
世界中には何億という人が食料難で飢餓状態にあります。そういう人にとってトウモロコシや大麦などの穀類は貴重な食料なのです。日本では1kgの牛肉をつくるために20倍近い量の濃厚飼料を与えています。
牛は本来、人間の食料にならない牧草や飼料作物を食べて、立派に牛肉や牛乳に変えてくれる動物なのです。濃厚飼料一辺倒の日本の牛肉生産体系を、生産者も消費者も真剣に考え直す必要があるようです。
牛一頭、屠殺されるまで育てる為にライ麦と小麦を飼料とした場合、この飼料でいくつパンが作れますか?
牛一頭、屠殺されるまで育てる為にライ麦と小麦を飼料とした場合、この飼料でいくつパンが作れますか?畜産。
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ID非公開 さん
質問日:2018/03/06
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ベストアンサーに選ばれた回答
食肉と穀物のバランスが悪いというスタンスで、10倍の穀物が必要だと訴える主張を散見します。 先の回答者様も同様にカロリーベース等から算出されたこの数字に則っておられるようですが、現実とは大きな乖離があります。
端的に申し上げるならば、肉牛の飼育現場では穀物飼料の年間見積はザックリ言って120キロ以下です。 出荷の目安は20~36か月程度ですから、最大でも消費される穀類飼料は360キロ以下です。
飼育現場では藁、生草、サイレージ、乾草、穀類や糠等をミックスして飼育するのですが、これを穀類のみで飼育したと試算すると「10倍」だと指摘しているのです。
更に申し上げると、穀類の多くは挽いて食しますし、全粒粉等の特別な形式を除くと小麦の場合ですと歩留まりは70%程度になっています。
更に更に申し上げると日本はサシが入った肉質を好むので飼育期間が長いのですが、アメリカ等の食肉が盛んな地域での飼育期間は概ね28か月程度になっています。
これらを考慮して偏った考えをするならば、必要穀類が253キロ、小麦精製すると190キロ、パン一斤200gですから950斤のパンが焼けると見る事も出来るのです。
このように物事というのは、多面的に見なければならないと思います。
口が達者なおっさんさん
回答日:2018/03/06
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その他の回答
4件
世界的にみてそもそも牧畜は人間が食べない野草や低木などを餌としているのが主体で、それら粗飼料と共に穀物を与えるのは米国と日本だけです。
アメリカは余剰作物を牛に与えて畜肉生産性を向上させているに過ぎませんし、日本は大豆粕や麩など人間が白締油や小麦粉を食用にした残り物を餌にしているのが殆どですので、畜産をもしやめるとそれらの穀物粕が余剰となり環境汚染に繋がります
ライ麦と小麦で牛を飼う事は現実にありませんので机上の空論を試算したとしても意味はありません。
おやじだまさん
回答日:2018/03/07
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牛の重さは700kg程度です。
http://kumamoto.lin.gr.jp/shokuniku/kisochisiki/kachiku_seisan/hikaku.html
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463774944
よって700kg(体重)×10kg(穀物飼料)÷0.3kg(パンに必要な小麦粉)≒23,000斤
gat********さん
回答日:2018/03/06
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パン1斤は0.2kgですので16500斤の食パンが作れますね
回答添付画像
( =^ω^=)さん
回答日:2018/03/06
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10個のパンより一切れの牛肉を喰いたい人が多いと言うことでしょう。
回答日:2018/03/06
春の樹木やら冬の樹木やらでいろんなサイトの植物図鑑見ただけやで
ちなみに春の野草やったわ
https://www.tokyo-park.or.jp/tama/understand/creature/plant/spring02.html
野草をはっぱ代わりにする本あったような。