はてなキーワード: 法事とは
お前ホントにアホだな。
坊さんに金払わなかったり法事なり何なりきちんとしないと
世間体を保てないことくらい理解してるから払ってるんだろ。。。
で、その上で、そんな状況が嫌だわー、って話だろ。
うん、それにはちゃんと答えよう。
簡単に語ろうとすると齟齬が発生するので、宗教と冠婚葬祭、仏教教義の遷移なんかは一度調べて見てくれ。それはとてもおもしろいから。
・
なぜ恥になるか。
君は坊さんの説教を聞いて少なくない額の金を払うことに疑問があるんだ。
しかし、そうは言っても坊さんは別にお経の押し売りをしてきたわけではない。
マンションや化粧品ではあるまいし、墓や念仏に営業なんかは来ない。
きちんと学を修めた(修行を積んだ)お坊様にお越しいただいて、形式に則って供養する訳だ。
お布施はそのお礼であって、技術料、車代、日当なども含んでいる。もっといえばブランド料だ。
葬儀や法要を執り行う人物が死人に意思はない、と思えば故人の供養は必要ないのだ。
死体も、防疫の観点から火葬し、人間の死体の保存が許されたしかるべき場所に放置すればいい。社会の目を気にしなければ。
ただし、増田がそうでも大抵の人は大切だった人への手向けとして葬儀をしたい。
この時点でも、坊さんを呼ばずに身内だけで坊主もお経もない、そんな式をすることも出来る。
それでも、わざわざ坊さんを呼ぶのは増田の親御さんが坊さんに来て貰いたいからだ。
坊さんは葬儀屋と組んで式を滞りなく進めてくれるし、式も立派になる。
一緒に故人を偲ぶ親族友人に対しても、増田の親御さんは格好が付けられたはずだ。
・
つまり、きちんとした葬儀や法要を自分で行うのは知識面からも物理面からも難しい。
そして、故人の縁者、あるいは自分の知人に対して格好が付かない。
そこにお礼が発生する理由は先述したように技術料等とブランド料だ。ちなみに坊さんの徳が高いと相場も跳ね上がる。
・
だから。
①自分や他の縁者が全員気にしない。
この二つを満たせば、法事をしなければ良いのだ。
・
ところが元増田は、自分たちで呼んで、おそらくきちんと要求を果たしたであろう相手へ金を払うことに対して納得が言っていないのだ。
来て貰って、サービスを受けたならそこでぐちぐち言うのはやはり筋違いなのだ。
・
法事の度に、向こうの実家のしきたりがどうやとかお供えがどうやとかで揉めて、
ほんとうにうっとうしくて死にたくなる。
死にたいっつうか故人を偲ぶとかそんなんが全部ぶっとんで悲しくなるしもう勝手にせいやと思う。
お葬式が終わってから、幾日も経たないうちに私をそんなこと(香典の額の折り合いなど)で何時間も罵倒した夫を
わたしはいっしょうゆるさん。
世間体とか自分が嘗められたくないとか立場とかそんなことばっかで私の気持ちなんか知らんくせによう言うたな
ほんとによう言うたな。
この場合はいくら包むのがいいのか、多すぎても少なすぎても駄目、こんなんで疲弊するのは間違ってる。
もういや!!!
千野栄一『外国語上達法』には、ある言語を習得したいと思った場合には、その情熱が尽きる前に、とにかく1000語覚えること、とある。また文法については、最初の1、2ヶ月のうちに、まとめれば10ページ程になるその言語の基本的文法事項を、突貫工事的にとにかく徹底的に覚えることを勧めている。千野さん曰く、この段階で挫折してしまうと、あとからその言語を再度やろうと思った際には却って障害になるとのことである。一方で、基本語彙1000と基本的文法事項を押さえて、その言語の仕組みがある程度定着するとなかなか忘れないものらしい。これについては橋本陽介さんが『7カ国語をモノにした人の勉強法』で以下のように書いている。
「言語とはひとつの体系です。ネットワークです。そのシステムの全体像がだいたい把握できるところまで一気にやってしまうと、不思議とその段階までは忘れ難くなります。しかし、全体像を把握しないでやめると、もとの位置に逆戻りです。」
教訓:ある言語の習い始めは、多少お金がかかっても学校に通ったほうがいい。
1. モチベーションの維持によい
2については、発音面での恩恵がやはり大きい。自分も含めて受講者の多くは文字を読む際に英語での発音規則にかなり縛られる。独学だと音声教材もあるとはいえ、脳内での文字の発音が我流のものになってしまう危険があるかもしれない。ちなみに、千野さんの本でも発音の重要性は「こればかりは始めが肝心」、「矯正は不可能に近い」と見出しのレベルで説いている。
3が意味不明だと思うので以下、ぐだぐだ述べる。
語学学校のスタイルにもよるのかもしれないが、ちょっとした寸劇みたいなものをやらされる。質問して、それに答えて──役割を変えてもう1回、といったもの。そこでのコミュニケーションは、いわば講師による強制なのだが、とにかく必要性が生じている。そういう状況で自ら発話して、かつ相手の人間がそれに応答してくれると、圧倒的に記憶に定着しやすい。
シュリーマンのエピソードでこんなのがあった。ある言語を学ぼうと思ったのだが、教師が見つからなかった。しょうがないので、その言語自体はまったくできない人を雇って、その人にシュリーマンの朗読を聞いてもらったのだそうである。
寸劇を演じることは、語学のわりと大事な側面なのかもしれない。寸劇を通じて、どうも人は記号接地を行い、なぞの記号列なり音声を外部の状況と結合させ、意味あるものにする。寸劇において大事なのは「すばやさ」であり、これも独学では(瞬間英作文といった方法もあるけれど)身につけづらい。語学のクラスだと応答があんまり遅いと講師や他の受講者からプレッシャーがかかる。
ちょっと長くなりましたが、そんなわけで語学の習い始めには、多少お金がかかっても語学学校に通うのが色んな面で有利だと思います。
お金があるなら中〜上級になってもずっと通うのが良策だと思うけど、すくなくとも、千野さんや橋本さんのいう、その言語の体系がざっと身について、以後忘れることがないレベル(学習時間100-200時間ほどか)までは、語学学校という補助はあったほうがいいかもしれない。
補足ないし余談
・フレンズのDVDで英語を学ぶ、という話はよく見聞きする(橋本さんの本にもある)。やったことはないがいかにもよい方法だと思う。発話と状況が結びついている場面の経験値を上げるのに良さそう。もちろん、自分が実際に役者になって演じるのが一番だと思うけど、次善の策として他の人の芝居をしつこく見る。
・英語以外の言語も。これもやはり橋本さんの受け売りなのだが、英語以外の言語をやると英語が相対化されて視野が広がる。黒田龍之介さんも英語だけやって語学をわかった気になるのが一番悪いという旨のことを書いていた。是非、英語以外の言語も。
普段こういったことを噤んで生活をしていく中で、
誰かに聞いて欲しかったんだろうと思う。
*
今年の冬に死のう、と決めたのはちょうど一年前にあたる昨年の初冬のことです。その日は父の命日でした。
叔父は僕が中学生の頃に飛び降り自殺をし、結果的に未遂に終わり、半身不全になりました。
僕の曽祖父はすい臓がんの痛みに耐え切れず電車に突っ込んで自殺をしました。きっとその遺伝子が僕にも流れているのだと思います。
*
父は僕が高校生の時に突然亡くなりました。
母が話したがらなかったので、正確な死因は聞かされていませんが、脳梗塞かそれに似た病気だったと思います。突然死でした。
僕はその地区では一番の進学校に入学したにも関わらず、勉学への意欲を失っていました。もともと中学ではいじめから逃げるため、まるであてつけか腹いせのように勉強をしていたようなものだったので、環境が変わったことにより勉強する理由を見失ってしまったのでした。学校でも居場所を失い、借りてきた本を読んだり、漫画を読んだり、ラジオを聞いたり、夜はいつもだらだらと過ごしていました。
その日、日付をまたごうかとしていた時刻です。ようやく物理の問題集を開きかけたところ、隣の寝室から母のくぐもった叫び声が聞こえました。母は僕を呼びつけ父を見ているようにと言って、一階へばたばたと階段を駆け下りました。父は目を開けたまま空中を見つめて固まっていました。ぼんやりと口を大きく開け、橙色の明かりが照らしているはずなのに、その瞳が灰色のように見えたのが印象的でした。
僕は、救急車の音を聞きながら、弟の手を握って、多分おとうさんは死ぬから、これからは二人で母をささえていかなくてはいけない、といったことを弟に言いました。こたつぶとんの銀杏の柄を今でも覚えています。(その弟とは数年後に金のいざこざで法事であっても目を合わさないような仲になるのですが。)
どこにでもあるような、ありふれた死です。
中学生の時には友人を何人か自殺で亡くしました。そのうちの一人とはとても仲がよかった。僕は高校受験の合格の知らせとともに、その電話をうけました。成績も優秀で人柄も温厚だった彼の葬式には、たくさんの友人が足を運びました。彼は病気で死んだと聞かされていましたが、数年後あれは自殺だったのだと母から言われました。彼が最後どのような姿だったのかは知るべくもありませんが、僕は彼がきっと暗い森で首を釣ったのだろうな、と画を浮かべました。
どこにでもあるような、ありふれた死です。
僕は彼とそこまで交流があったわけではありませんでした。
どこにでもあるようなありふれた死です。
その後も肉親のありふれた死を沢山通り過ぎましたし、災害や事件が起こるたびに、そしてウェブの手記やブログといったひとの人生が語られるたびに誰かの死を知りました。思えば、中学生のあの自殺を経験した時から「死」というものについて毎日考えるようになっていました。それは而立と呼ばれる年齢を超えた、今でも、毎日です。
人というのは本当にあっけない。人の人生を美しく錯覚させているのもまた人なんだなあ、と僕は祖父の焼かれた骨を拾いながらとても空虚な気持ちになっていました。
*
僕は幼い頃からとても潔癖で、世の中では避けて通れない、多くのひとなら何も感じないような些細な傷にもいちいち血を流すようなとても弱い、誤解を避ける言い方をすれば、感受性の強い人間でした。そうやって振舞っていると当然のように不幸を呼びこむもので、学生時代も就職してからも、ひとに脅されたり漬け込まれたり、悲しみや苦しみを自ら引き寄せたりすることがとても多かったように思います。自分に自信がないせいで、異性を好きになることもできません。
しかし、悲しいことばかりでもなく、大学では友人に恵まれましたので、そういったふるまいがいけないのだということを少しずつ学びました。そして、悲しさやいらだちをすべて筆に載せることで自分を保つようになりました。自分自身を神のように錯覚する、一種の宗教のようなものです。筆を握ることさえできれば、どんなに辛いことがあってもまあなんとかなる、それを糧にしていけば、次の作品の材料にしていけばいい、そして、それでもだめならいざとなれば死ねばいい。そうやって自分をごまかすことができていました。ここ数年は。
*
昨年の初冬から筆が握れなくなりました。その頃は仕事で一日の時間の大半を奪われており、常に締め切りに追われ、朝方に眠り、ぼんやりとしたまま起き、仕事をし、眠っていたから、いつのまにか、なにかを美しいとおもったり、なにか美しいものをつくろうと思う気持ちがすっかりなくなってしまったのでした。ただ人を裏切ることが恐ろしい。人にがっかりされることが恐ろしくて仕方がありませんでした。あのころと一緒です。自ら悲しみや苦しみを引き寄せるようになっていました。
僕はスケジュールをきちんと管理できなかった自分を、仕事がこなせない自身の力不足を糾弾しました。ある日道を歩きながら、パソコンに向かいながら、電車に乗りながらわけもなくぼろぼろと涙が溢れてきて、「これははてなのコメントでよくみんなが言っていた鬱というものだなあ」と思い、病院へ言って安定剤をもらいました。
薬を飲むと涙が流れるのはすこし和らぎましたが、強烈な眠気とだるさに見まわれ美しいと感じる心はますます萎びていきました。何を見てもときめかないし、輝かない。美しい作品を作って、褒められたいという情熱は、作品をつくってそれが美しいものでなかったらどうしようという恐怖に変わっていきました。もうひとりの自分が糾弾します。筆を取れない自分に価値はない。いや、もともと価値などなかった。もっといえば人間に価値などない。人を美しく思わせているものは人なのだから、その気持をうしなってしまったらなにも意味が無い。
僕がこうやって萎びている間も周りの人間はどんどん前へ進んでいきます。そういった輝かしい人々を指さして、僕をもう一人の僕がぺしゃんこに糾弾します。毎日平静を装って仕事をしながら、己を否定する言葉が泉のように湧き出てきてそれが朝から眠るまで続きます。インターネットで見かける言葉がすべて僕を責め立てるように見えてきて、恐ろしくなります。汚い言葉がこちらに向かって刺さってきます。けれどそれをやっているのは自分自身です。それをわかっているから、ますます自分を糾弾します。こんなことで萎びてしまう弱い自分がすべて悪いのです。けれども僕は何食わぬ顔をして普通に仕事をして、ごはんをくちに運び、風呂に入って、眠ることができます。糾弾して、仕事をして、ごはんを口に運んで、風呂に入って、眠ることができます。おそらく死ぬまで。ずっとこれを続けることができます。でもできるのとしたいのは別のことです。
*
思えば物心ついた時から常になにかに怯えていました。人の顔色をうかがい、人の評価にあわせることでしか自身を保つことができませんでした。筆を握ることは、ただ楽しいと思えていたのに、それも虚栄心を満たすだけのものに成り果てました。いまでは作品を作ることすら恐ろしいし、過去の作品を見ると動機が激しくなって、吐き気のようなものがこみ上げます。
毎日暮らしていくことはできます。恋人や伴侶や子供もいないので一人で暮らしていくには給料は十分です。でももう、立ち上がるだけのエネルギーがのこっていない。
いざとなったら死ねばいい、これまでも幾度と無く思ってきたことですが、そのいざとなったらが、今ではないかと思いました。僕は去年の初冬に決めました。あと一年この気持が変わらなかったらビルの20階から飛ぼう。高いところがとても好きで、バンジージャンプの経験はあるし、幼いころの夢は鳥になることでした。首吊りや凍死、薬物やガスも考えましたが、インターネットは便利です。いろいろ調べて、死ねなかったことを考えるとこれが一番いいような気がしています。
今年に入って身の周りのものも処分をはじめました。できるだけ周囲に迷惑をかけないように(それが無理なのはもちろんわかっていますが)、手配したいし、遺書も用意してあります。ここ数カ月間は、仕事関係以外の人間、肉親との接触もできるだけ断つようにしてきました。準備を淡々と進めています。僕は初冬に多分、多分死ぬのだろうと思います。悲しいというよりは空虚な気持ちです。死んでいった彼等もこんな気持だったのでしょうか。
どうすればよかったのか?なんて思うけれどもそんな救済ははじめからなかったような気がします。思えばむかしから弱くて、弱くて、ここ数年がただ運良く、うまくごまかせていた、それだけだったのだと。この世は弱肉強食ですから、弱いものは去らなくてはいけない。もう一度美しいと錯覚できたら、そうしたらまた以前のように自分をごまかすことができるのだろうか。ごまかすことができたら、この先の命を続けていくことができたのだろうか、それはもうわかりません。今の私には、屋上から逆さまに落ちてトマトのようにぐしゃりとなる自分の姿しか思い描けないのです。
その晩、ぼくらはラブホテルにそのまま泊まり朝までセックスした。
一通り撮影が終わると、いつも決まってバックで入れるように言われ、その通り前戯もないまま挿入しセックスした。
一度、「ちゃんとホテルでしようよ。」と提案したことがある。
でも、これが決まりだから、と言われたので、ぼくはそれに従った。
セックスを覚えたたての猿だったので、細かいことなどどうでもよかったのだ。
また廃墟で撮影しバックでハメた後は必ずラブホテルでちゃんとしたセックスをした。
彼女がお酒に酔って聞いてもいないあの儀式について話を始めたのだ。
どうやら僕と知り合う前に分かれた彼氏が廃墟マニアだったらしい。
そして、その彼が変態で、廃墟へ行くと必ずバックから嵌められたという。
もちろん前戯はなし。
そんな行為を繰り返しているうちに、彼女はもうそれなしでは生きられない身体になったそうだ。
僕はそれを聞いてかなり怖くなった。
いや、ドン引きした。
高校生にそんな重い話ししないでくれよ、と心の中で呪った。
その話しを聞いた後で、ぼくはどうしても彼女に付き合えない用事があり、彼女の誘いを断ってしまった。
なんかイヤだな、怖いな、と思っていたので渡りに船とばかり、その別の用事に飛びついたのだ。
いつもは下僕のようにつき従っている僕の反抗を、彼女は許せなかったらしい。
その用事とは、親しくもない、生前付き合いも特になかった親戚の法事だった。
つまらない親戚の話を我慢して耐え、昼食を終えて、ぼくは従兄弟の車で家に送ってもらった。
僕が家の前で降りると、少し遠くに離れて止まっていたキューブから彼女が出てきた。
そして、携帯が鳴った。
メールだ。
僕は家に入り、いつもの服に着替え、自転車でイオンへと向かった。
道中、僕の頭から離れない疑問があった。
彼女はどうしてぼくの家を知っていたのだろう?
普段は必ずイオンへ送ってもらい、僕は自転車か歩きで家まで帰っていた。
一度も彼女に、家の近くまでも送ってもらったことはない。
イオンに到着し、いつも彼女が止める駐車場のゾーンへ行くとキューブの中で彼女が待っていた。
ぼくはドアを開け、助手席にもぐりこんだ。
「じゃあ、廃墟行くわよ。」
僕はすごく不安を覚えた。
しかし彼女は僕の存在を無視し、そのまま車を山の方へと走らせていった。
採石場の近くを通り、ようやくどこへ向かっているのかわかった。
僕はすごく怖かった。
彼女はその廃墟にまつわる話を知っているはずだし、ぼくも話したことがある。
絶対に行きたくない場所、と僕が上げていた廃墟でもあるからだ。
時間はもう4時近く。あと少ししたらあたりは真っ暗になってしまう。
いくら夏が近いとはいえ、さすがに山の中はそこまで陽がささないだろう。
僕はとてつもない不安を覚えた。
彼女にトランクを開けるよう言われその通りにすると、バッテリーライトが入っていた。
ぼくにそれを持つように言い、いつものように彼女はどんどんと突き進んで言った。
まだ少し肌寒い感じがした。こんなときに全裸になるのはどうかと思うのだが、と心配しながら後をついていった。
いつものように準備をし、彼女は背景を決め、その前で全裸になった。
すこし陽がかげってきたので、バッテリーライトをつけるように言われ、
その明かりの元、ぼくらはバックで嵌めた。
勃起していない僕のちんこをフェラで起たせた彼女のテクに、改めて驚かされたのを今でも覚えている。
以前とは違い、射精をコントロールできるようになっていた僕は、
セックスの気持ちよさのまえに恐怖はどこかへ消えてしまったようだった。
後ろから激しく、時にはゆっくり突いているうちに、そろそろいってもいいかな、と思ったその瞬間だ。
「どーん、どーん。」という音がした。
どこかで花火でも鳴ったんだよ、とありえない理由をつけ、僕は再び腰を動かした。
「どーん、どーん、どーん」
聞こえた。間違いない。階下からの音だ。
再び恐怖心が僕を襲った。
「どうしよう。誰かいるよ?」
「気にしないで。」
そういわれたもののぼくにはもう無理だった。
また、「どーん、どーん、どーん」と階下から突き上げるような音が聞こえてきたのだ。
そして、道具を片付け、全裸の彼女を引っ張るようにし、車へと戻っていった。
すぐに車を出すよう、彼女に言ったものの、まだ服を全て着ていなかった彼女はもたもたしていた。
しかし僕にはなす術がない。
その瞬間。
「あっ」
僕は思わず声を出した。
フロントガラスに女が顔を近づけ、僕らを覗き込んでいたのだ。
僕は気を失った。
気を失うってどういうことなんだろう?といつも疑問に思っていたが、僕は気を失ったのだ。その瞬間からラブホへ入るまでのことを一切覚えていない。
と彼女は少し怒って言った。
「あの女は?」
「何?女って?」
ぼくは一生懸命説明した。しかし彼女はあの時起きたことを何一つ覚えていないようだった。
「ほら、どーん、どーんって音がしたじゃん。」
「何言ってるの?突然、○○が私の手を引っ張って車につれてってすぐに寝ちゃったんでしょ?」
彼女は病院廃墟で起きたこと、女がフロントガラスから中をのぞきこんでいたことについて全く記憶がないようだった。
「夢でも見たんでしょ?」
そういって僕の話を取り合ってくれず、いつものように上に乗られて口びるを弄ばれ、洗面台の前でフェラされて、
でもね。
ぼく、そのセックスの後で気づいちゃたんだよね。
車の中を覗き込んでた女、
その彼女だったんだよ。
しかも、彼女のメインの仕事場であるシュレッダーのある位置は冷房が直接当たる。
今日暑かったので、エアコンを28度で付けたらカーディガンを着てしまった。
カーディガンを着てしまったら、ムチムチの二の腕、細すぎない手首、ぽっこりお腹という幼児体型スペシャルセットが見られない。
何より、この仕事で最も重要と言われる上半身と下半身の間のベルトラインが隠れてしまい俺の業務に支障が出る。
最近、仕事中おパンツが見えているのに気付いたのか、ベルトライン付近のガードが固くなっている。
しかし、全く何やってんだ、頭隠して尻隠さず、胸元のガードが疎かになってるぞ。
「黒ブラ確認!よかった!」
法事じゃないんだぞ。
おパンツだけでは飽きられると思って早速ジョーカー使っちゃっうのか?
出すのが早過ぎるぞ。
入社していきなりジョーカー使ってしまなんていう視野の狭さが後々命取りになるんだぞ。
既婚、子無しだがあまりに仕事がキツかったので移動願を出した。
毎日夜十二時近くまで働かされ、ホワイトカラーなんとやらで残業代は六万円程度しか出ない。
一応休みは週休2日で連休もあったけど、いくらなんでも深夜残業が続くのはキツイ。
体調も崩し気味になってきたし、心療内科の人にもぎりぎり危険水域と言われたので人事部に駆け込んで、ホワイトカラーなんとやらがない部署に転勤させてもらった。
表向きは体調不良ということで。
新しく着任したところは残業代も働いた分きちんとつくし、遅くとも夜九時には家につく。
しかし転勤した旨親に報告したら雷が落ちた。
「お前は無能だ」
「左遷されたくせに、喜んでるとはなんてやつだ」
「そんな出世街道から落ちるような社会人になるために大学まで行かせたんじゃない」
体調を崩していて辛かったこともつたえていたのにこんなことを言われた。
自分の中で「ああ、この親は自分を苦しめていた団塊の世代である上司と同じような思考回路なんだな」と理解し、
もう親のことを親と思うことはやめようと思った。
その喧嘩以来実家には帰らなくなったし、誕生日とかにプレゼントのやりとりをするのをやめた。
離れて住むと家族も家族じゃなくなるもんだなぁと思ったこの最近の出来事だ。
一緒に住んでいたら体調とかも見てて理解してくれたんだろうに、離れて住んだらもう別の家族なんだな。
顧客:「お客様向けのシステムが全部止まってるんだけど。なんとかしろ!」
営業:「すみません。原因調査中です。早期復旧を最優先に現在対処中です。」
↓
営業:「はやく、なんとかなんないの?。顧客、怒ってんだけど。」
PM:「すみません。現在、原因調査中、及び復旧優先で動いています。」
↓
PM:「なんか、わかんないだけど、早く復旧して。」
プログラマー:「はい。原因調査中です。(なんか休日だけど・・・)」
プログラマー:「原因分かりました。バグです。こうこうしたら、復旧・・」
PM:「はぁ?お前しかわからないんだから、お前直せよ。で、すぐにリリースな。」
PM:「属人性を排除しないお前が悪いんだろ、ドキュメントもないし。誰も引き継げないだろ。明日までにやっとけよ。」
PM:「お客さん困ってんだよ。やれるだろ?」
旅立つには十分だった。
自分と一緒だ。
大学卒業後実家に帰ったのはタイヤをラジアルとスタッドレスに交換しに帰っただけ。
帰っても親は無反応でいつ来たのかいつ出て行くのか全く興味を示さない。
年に2回、ひっそり帰ってタイヤを替えすぐに帰る。
両親は60越えて完全に家庭内別居。妹2人は大学で忙しくて不在。
祖母だけには自分の所在を伝えている。
父の「来たのか」に対して「おう」とだけ答える。これだけ。
「仕事何やってるんだ? どこに住んでるんだ?」「言わない。教えない。」
年に2回この会話の繰り返し。
ダイヤが乱れる飛び込みや有毒ガスとかの二次災害の可能性がある死に方を選んだのは、故人の遺志なんだと思うよ。
可能な限り他人に迷惑をかけず、自分も痛くない死に方はあるよ。
でもさ、そうすると気づくみたいなんだよね。病人は社会復帰できないって。
生活保護を受けるのも申し訳ない。
だからなるべく迷惑のかからない方法で、そっと死んでいったよ。
身辺整理も、葬儀屋の予約や墓の用意も終わってた。その後の法事もしやすいような日程で死んだ。
ただパソコンの履歴には、死ぬことを決めてから実行するまでの履歴がちゃんと残っていたよ。
誰も死を支援することなんてできないよ。
例のかつをさんの件だが怖い怖いといえど田舎はそんなもんだろう、と思った。
とにかく田舎ってどっかの代でドジを踏むと永遠に子どもは馬鹿にされる。伯父(とはいえ父とは異父兄弟なので父は兄貴とはいわず○○君とよぶ)の父親は南方で死んだんだが、食料兵だったのに死ぬなんてよっぽどの馬鹿だと言われていた。そんで伯父は馬鹿の子だからとあまり食事ももらえなかったようだ(祖母にとっては実子なのだがやはり馬鹿にしていたようだ)。出ていきゃいいのに虐待児の心理なのかずっと村に残って、その後はアル中になり、まだ苦しみながら生きている。伯父の子どもも馬鹿にされてて出来婚したけどそれもひそひそされて麓の方へ逃げてった。調べたらその地方の連隊は玉砕していて、食料兵と言えど前線の方には行くんだから囲まれて補給線途切れたら死ぬだろうとおもうんだが。
祖父は五男坊で結婚もできるかどうか(田舎だと冷や飯食ってそのまま独身で死んでいくコースである)だったが、伯父が死んだので祖母と結婚したが、未亡人をあてがわれたとやっぱり馬鹿にされていた様子だ。やはり食料兵で死ななかったようだが、年齢考えるとギリギリ二十歳で召集されて内地にいたっぽい(戦地の話は聞いたことがない)のに伯父と比較されやたらもちあげられていた(その時だけ)。とはいえじーちゃんはいい人だったのでなんにも言わず、祖母にも頭が上がらず、しょっぱい食事食わされて脳溢血になり、それでもずっと我慢して我慢して死んだ。最後死ぬ前にさすがに介護がひどかったのか、がまんしてもいいことないとポツリと言っていたけど、それだけだった。多分生まれた時から我慢するしかなかったんだろうなっていう感じの人である。しかもド田舎で畑もちでそれほど金には困っていなかったはずなのに(ある程度遺産あったし)、土地を売ってもらえなかったのか死んでみたら借家だった。苦労を偲んでしんみりしてしまった。
父はそういう田舎が嫌いで盆正月もまったく帰らない。法事もいかない。小さい頃ちょっと遊びに行ったりとか、祖父母の葬式くらいしか自分は田舎にいかなかったけど、あそこには住みたくないな。割と出来のいい従兄弟で京大・阪大行ったのがいるけどどっちもメンタル病んで引きこもっているそうだ。どういう処遇を受けたかはだいたい想像できる。さくっと離れちゃえばいいのにしがみつきたくなる心理はニュータウン育ちにはわからない。たぶんこれからもまだまだ同じような事件起こるんだろうな。