はてなキーワード: 文語体とは
最近サービスインした対戦ゲームがそこそこ気に入ってて、その有志wikiみたいなやつを編集している。マイナーゲーだから企業wikiとかも立ってなくて公式からの情報提供もまちまちなので各人がデータを集めて記載してるんだけど、まだコミュニティとも言えないような規模なのに勝手にルールを制定しまくるヤツ(古代の言葉で自治厨)が発生していて閉口している。
類似作品で喩える(236入力を波動拳と呼ぶみたいなやつ)のはNGだの文章は文語体で統一すべきだの俗称の表記の是非についてどうこうだのくだらないことを議論と称したおしゃべりをしてはルールを作成してwiki中に貼り付けて「経緯について詳しくはこの議論を参照」とか言って議論()のリンクを張ってるんだが、その会話には二人か三人しか参加してないとかザラ。そんなだから普通に他ユーザーから嫌われはじめていて非難のコメントも飛んできておりしばしばレスバを繰り返している。
そのうえ本人はこれ当てたらダメージがいくつみたいな客観データの記載はほとんどやらず、キャラクター評価みたいな一番おいしいところ(そして誰でも思い込みだけで書けるところ)をポエム交じりに書き散らかしている。他人にあれこれ注文を付けるくせに自分が書く部分に「筆者は○○使いだが~」とか入ってるのがキショすぎる。不特定多数が編集できるwikiで筆者とか言われても誰かわかんねえよ。中途半端に匿名性に逃げながら自己顕示欲出してくるんじゃねえよ。内容も普通に低品質だし。こいつランクいくつだ?本当にこのキャラやり込んでるのか?
話がそれた。キショいのはまあいい。というか有志wikiなんてゴミがあってナンボで、むしろそのゴミを排除して自分のお気に入りのゴミで満たそうとする行為が容認できない。草の根活動的にやるwiki編集なんてもともと信憑性も正確性も低いもので、各人が好きに編集してその結果たまたま出来のいいデータベースになったりゴミの山になったりするだけの話だ。完璧なものを作りたいなら個人か企業でやるべきで、不特定多数の力に頼りながら船頭は俺なんて無法は許されるべきではない(管理者でもないみたいだし)。自己顕示欲や支配欲を満たしたいならこんな場末のwikiじゃなくて東京都知事選に出てほしい。心からそう思いながら俺は黙ってデータの追記だけやっている。
5期最終話の時点で原作小説を追い越したとのことなので、あの結末は原作とは異なるオリジナルである可能性がある。
私がまだ話を楽しめていたのは4期5話(第42話)までで、それ以降は登場人物やグループが一気に増えすぎてだんだんついていけなくなった。
話自体も4期6話(第43話)以降はひたすらモヤモヤさせられる展開で先が見えない。
カタルシスがようやく得られるのは5期最終話(第61話)。いくらなんでも話を長々と引っ張りすぎではないか。
それに加えて、話のスケールが無駄に大きいというか風呂敷をあまりに広げすぎてて今後が心配になった。
5期最終回に全てを詰め込みすぎた結果、回収されてない謎や伏線も多数で消化不良感が強い。
今回アマプラで視聴したが、字幕がついてるシーズンとついてないシーズンがあった。
登場人物たちのセリフは古風だったり文語体だったり、あまり日常生活では使わない語彙が多かったり、字幕なしだと登場人物が何を言っているのか分からないことが多く、それがストレスだった。
分からないところは流せばいいんだけど、分からないことを分からないまま放置して次に行くのが気持ち悪い。
ドストエフスキーの最後のセリフもほとんどの視聴者は理解できてないのでは。
1期からあまり面白くないと感じていて、でも5期最終話まで観たら評価が変わるかと期待したけど、残念ながら自分の場合は変わらなかった。
お正月の歌と言えば、これ。
『お正月』
もういくつねると お正月
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月
この歌、子供の頃からずーっと思ってたんだけど、「お正月の数日前」の歌なんだよ。
なんでこんなことになってんだ?バグか?
そう思って少し調べた。
まずこの曲の作曲者は、あの瀧廉太郎!(名前だけはなんか知ってる!)
どうやら、荒城の月や花(春のうららの〜隅田川〜)などの作曲者みたいだ。
なんかすごい。
東くめとその夫、あと瀧廉太郎らが「子供でもわかりやすい歌を」というコンセプトで作ったようだ。
120年以上も前!歴史あるんだなぁ。
今まで文語体だった子供向けの歌を口語体で作ったという、当時としては画期的な歌だったそうだ。
だからお正月と誕生日が同時に来るので、子供はことさら楽しみだったみたいだ。
数え年ではなくなったことも一つの理由だが、大きな理由はこれらしい。
1904年に銀座の明治屋がクリスマスツリーを店頭に飾り、1910年に不二屋がクリスマスケーキを発売。
その後昭和初期に、大正天皇の誕生日である12月25日が休みになった。
(それなら今の12月23日と合わせてクリスマス連休にしてほしいところだ)
つまり、クリスマスを祝う慣習が生まれたので、お正月の歌詞は現実から離れていったようだ。
こう見ていくと、お正月の歌が年末しか歌えないのはバグではなく、時代の流れだということが分かる。
瀧廉太郎は無実だった。誰も悪くなかった。
もういくつ寝ると お正月
お正月には餅食って 腹を壊して死んじゃった
不謹慎すぎてひく。ここに書くのもためらったが、当時のオリジナリティを尊重して載せた。
これも今じゃ子供も歌わないだろうな。
大半のおじさんが我関せずという顔をしているのがどうしても許せない。
お前ら個人ホームページがネット上にもう残ってないからって、当時9割が今で言うおじさん構文で文章書いていたのを忘れたとは言わせないからな。
プロバイダーにサーバースペースもらって、手書きhtmlでしこしこ日記書いてたろ!
今まで文章なんて授業で作文か小論文くらいしか書いたことなかったから、「徒然書きます」とか言いながら脳内垂れ流しで書いてたろ!
そこから2chいってmixiいって、一部は水面下に潜ってもう絶滅するかと思われたら食べログとか価格.comのレビューに戻ってきて今でも書いてるだろ!
今でも気を抜くとそういう文章書きそうになって慌てて消してるんだろ?
なのになんで知らん顔して一緒になって叩いてるんだ!?
ブコメ100文字制限でいらぬカッコ書きやセルフツッコミできなくなったくらいで、おじさん構文卒業したつもりになってるのは勘違いですよ。
文字制限のゆるい自分のSMSとかブログコメントとか見直して反省しなさい。
それと今現在口語文で書いている若者たち、20年後にはその文体がおじさん構文と呼ばれるだけなので人のこと笑ってる暇があるなら今から文語体の練習をしなさいね。
人のこととやかく言えるような喋り方をネットの連中、リアルのジジババ、おばちゃん、アラサー、クソガキ、誰ひとりやってねえってことだよな。
ババァ共はいまだに太宰の文法真似ときゃ格好良くなると信じてるし、
アラサー共はバラエティとネットのキメラ見たいな喋り方だよな、
そんでガキ共は淫夢語録だったりVtuberの真似をしやがる。
お前らのその喋り方も十分気持ち悪いっての。
昔の日本の書物がなんでもかんでも文語体の日記だったり、漢文至上主義見てーのだったり、宮廷で流行りの和歌っぽいのを取り入れ匂わせだったり、そういうのが歴史的な観点外してみるとその時代ごとの流行りが丸出しで「無駄に特徴的すぎる文章ばっか」だってのは何も変わらんだろ?
ソレに対して「お前の文章wwwお前の世代滲み出すぎてるだろ(核爆)」とか言うのはなんか違うよな。
「黒人って唇分厚すぎるだろwwwwだからジャズで管楽器吹かせると上手いんだなwwwww」ってのとどう違うんだ?
いいか。
まあ時代によっちゃあ「兎にも角にも差別された奴の負け」ってルールの時代もあったな。
まあそれってつまりは生まれたままの知能、詰まるところは幼稚園児レベルの感性から変化してねえってことだけどな。
おっと俺もまた「子供のほうが知能が低い」っていう差別をしてしまったな。
これは年功序列が激しかった時代は単なる区別だってことになっていたんだが、今の時代は怪しいものよな。
どうだ?
その限界集落は、スマホゲージャンルである。大昔にサービス終了の憂き目にあったゲームである。紆余曲折あって、最近プロジェクトにまた動きがあり、少しだけ盛り上がってきている。
前作からゲームをやっている人は、ゲームの再始動に歓喜した。途中で終わってしまったあのストーリーの続きが読めると思っていた。
前作とはキャラクターの設定が大きく変わっているところがある。それは話の構造上仕方ないところもあったが、キャラ崩壊が著しく見るに耐えない。
そしてやけに文語体で書くので違和感がある。文章が音読する用に書けていない。
ストーリーも、10ウン章までやっておいてまだ話を引き延ばすつもりらしい。話の盛り上がりとしてはまだ起承転結の起にしかたどり着いてなくて、なんの解決もしていないのに。
特徴的な言葉の多用もあるし(ファンの間では一時期それを揶揄した言葉も飛び交った)全体的に、読み進めるのが辛いストーリーになってしまった。
お世辞にも褒められない出来だと思う。少なくとも、もうお金は落としたくないと思ってしまった。
だがもっとクソなのは、そのストーリーでも公式を褒め上げていく信者オタク達だった。
気持ちはわかる。一度終わったと思ったプロジェクト、また再開したなら、いつかいいものが読めるだろうと期待してしまう。
続いて欲しいからこそ、クソストーリーでも褒める。続いてくれないと好きなキャラクターのたどり着く終着点がみられない。
でもそれ、ほんとにそこまで褒められるもの?いくらなんでも限度があるでしょう。ほんとにまともにその話、面白いと思ってる?国語の授業やってきた?マジでこのストーリー、クソだよ。
この信者オタク達は押しが強く、人が適当に呟いた考察にも噛み付いてくる。好きなカップリングには秒で反応する。他のジャンルに比べても、閉塞感が異様で気味が悪く、私はTwitterなどでそのゲームの感想を呟くのをやめた。
あんなクソストーリーを生み出したライターと、ゴーサインを出してる制作側が諸悪の根源だが
ゲーム全体は嫌いになりきれないが、しばらく離れていようと思う。ライトユーザーが離れて、またサービス終了になりませんように。
「これってRFCでは」みたいに条件反射でレスがつくけども、いい歳してジョークRFCネタを外に出してくるのが苦手。俺の場合、 ジョークRFC は中学生の創作ノート見てるみたいで恥ずかしくなってくる。大した事言ってないのに変に入り組んだ文語体にしたりとかが特にぞわぞわする。
「あー何か活字が読みたい!でも増田を読むも満たされない!」というと、「君は活字を読んでいない、活字とは印刷された文字だ」「漫画ならあるが」と言われる。材質は紙だがそれじゃない感半端ない。紙である必要が全くないだろう予感も半端ない。「あー文章が読みたい!でも増田じゃ満たされない」といい直してみるが、相手にされなくなったため適当なネットの中を読み漁る。
ちがう
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火ともしびうつる三階の
これだ!
「正しくは、あー文語が読みたい!だったわ」「それは増田じゃ満たされない。」「だな。」
文語読みたい!でしっくりきたけど、ぶっちゃけ内容はどうでも良くて、文語体のリズムを脳が欲しがってる感もある。これって俺だけ?この欲求って音楽聴いても解消されるのかな?いやでも、目で読んで頭で文字が音を奏でるってすごくない?音楽出来る人はは楽譜見ると音流れるっていうけど、「あーなんでもいいから楽譜読みたい!」とかあるのかな。みんながどうなのか知りたいわ。あとこんな時に最適な文語も教えて欲しいわ。たけくらべの冒頭じゃものたりないわー
アイドルグループ「BiSH」所属のモモコグミカンパニー著の『目を合わせるということ』を読了した。以下簡潔に感想を。
文章レベルは「素人にしてはよく書けている」程度。だからこそ逆に驚いた。この文章はゴーストライターの手によるものじゃない。文章の特徴を箇条書きにしてみると、以下のようになる。
・時折入るら抜き言葉
・文末の表現が全体的にこなれていない(「ことだ」の繰り返しは避けたほうがいい)
著者は読書家を自称しているらしいが、そうとは思えない。しかし、編集と校正の手が入ってるとはいえ、読んでいて詰まる部分はない。読み進める内に文体がこなれていくのは流石だ。作者の知性の高さを感じさせる。この本は著者がアイドルデビューしてからの3年間を綴ったエッセイだが、本人の性格が文章内に如実に現れていて、とても面白く読めた。
自分が恵まれた環境で育ったことに自覚がない。同じような境遇に育った人間の間では自己をごまかしながら生きていくことができるが、近くにいればいるほど嫌われるタイプ。特に卑しい身分に生まれ育った人には蛇蝎のごとく嫌われる。著者に対して「お前のことは嫌いだった」とハッキリ言うメンバー氏は凄い。
本人にも自分の性格の欠点について自覚がある。人を遠ざけたり、自己嫌悪に陥ったりする。著者の母君も著者の将来に危惧を持つ。このタイプは嫌われる人には徹底的に嫌われるので、本人の高い能力は社会で(特に会社員として)活かすことはできないだろう。
だからこそオーディションで見出された。メンバー唯一のずぶの素人としてひな壇に立つことができた。
著者のパーソナリティは「アイドルらしさ」とはかけ離れている。著者の存在はBiSHというグループに刺激を与え続けている。本人に自覚はないかもしれないが、BiSHの飛躍の一因は著者にあるのは間違いないだろう。
最近気づいた事だが、頭の中から文語体を生成する機能が無くなった。
硬い表現を分かりやすく伝えようとすると、必ず同じような文体(口語体)で生成してしまう。
かつては表現した内容と表現の形式が一致しているということに敏感だった。
表現の形式、つまり文体、が持つ機能は理解を立ち止まらせることで、読書という受動的行為を思索に転じさせる抵抗の役割であった。
近年出ている本やネットの文章でこの抵抗を感じるのは、主張が自分と相容れないか、エキセントリックな内容か、である。いずれにしても、分かりにくいから頭を使うのではなく、分かりたくないから、頭の中で粗を探してしまう。
そういう事を繰り返したからなのか、自分の中で、内容を構造に落とし込む、という思考形態が取れなくなった。
現在の生活の中で、湯水のように文章が溢れているが、それを読む行為は以前より知的な行為でなくなった。ある文を読む事は知識を積むことであり、内容以上にはモノの見方を変えない行為になっていないか。以前には、ある文を読むとモノの見方が変わったものであったはずなのだ。
だが、今の自分はどうだ。内容を伝えようとした途端に説得させ相手に理解させようとしてしまう。相手の思考を待てないのである。
古くから残っている本の内容をわかりやすくしてしまえば、誰でも簡単に理解できるのである。しかし、古くから残っている本の著者の思考形態は原著によってしか手に入れることが出来ない。
長くなったので、一行で結論。相手を認めて、決して近づかない関わらない言及しない、敬遠するのが「正しい」振る舞い。
元増田が、うっかりツイッターやはてダとかで書かなかったことを幸運に思うよ。危うく吊るしあげられるところだったよ。増田ならもし炎上してもダメージは少ないし。
ネットには、言葉を「正字正かな」で記す「正字正かなクラスタ」と呼ばれる人たちがいるのです。あのクラスタ歴20年近い重鎮のnozakitakehideなんかはたしか40歳くらいだし、むしろ戦後世代ほど多いんじゃないかな。あと、彼らに言わせると、あれは「正字正かな」であって、戦前に使われていた「旧字旧仮名」と同じではないらしいよ。旧字旧仮名は規則性がなかったり、正しさには欠けるみたいなので。うっかり「旧字」「旧かな」「文語体」なんて表現したら、彼らは罵倒されたと思うみたい。
「旧仮名遣いは読みにくい」→「これは正字正かなといって〜むしろ現代かなのほうが〜(だいぶ中略)(だいぶ後略)」→「返事がないただの屍のようだ」→やりとりを自サイトに残して永遠に死体蹴り、までが一般人と正字正かなクラスタの会話のテンプレ。まあ、最後の方は一般人は死んでるので、会話といえるかどうかわからんが。この流れは20世紀末のテキストサイト界隈(懐)にはすでにあった。最近では、全部twitterとtogetterで完結してて、確認・糾弾からの死体蹴りまでが正字正かなクラスタ総出で24時間体制で行われるので、より進化してる。正字正かなクラスタには地雷ワードだらけなのに、知らずに踏みに行くバカが悪いんだが。正字正かなでググると、正統性を認めない連中とのバトルの記録がたくさん見れるよ。
正字正かなへのこだわりに考えられる理由は、「正字正かな」の「正」すなわち正当か正統とか正しさを追求してるからだと思う。メガテンのロウみたいな。そんでもって、「世の中の無知蒙昧な愚民どもはそんなことも知らずに、漫然と現代かなを使っている中で、俺は日本語として正統な歴史のある、正しい仮名遣いをしてるんだ!」なんて、想像するだけでも脳汁ドバドバ出てきそうじゃん。大乗仏教や上座部仏教みたいなもので、自分たちが「正」ってのは、とても気分がいいことだしね。
他には、世の中が間違っていて、俺は正しい真実に気づいている!みたいな側面もあるかもね。何かしら「自分」の置かれている立場に不満・不安があって、その原因を「現実」とか「社会」にあると考えて、それらを否定することで自分の価値を見出してるんじゃないのかな。そこでは、正字正かなはあくまでツールなんだけど、正しいものが世に認められてないことは、そういう人にとって強くこだわる理由になるよね。
ところで、正字正かな使って書いているのがアニメ評論だったりして、現代文化の象徴なアニメをあえて正字正かなで記述したり、ブコメや日常のつぶやきを正字正かなで書くという、なんともいえないマリアージュには、そこはかとない前衛的な芸術性を感じるよね。土佐日記の逆バージョン的な。まあ、仮名遣いなんて趣味や芸術の問題なので、理解ができないならスルーするのがいいと思うよ。正字正かなを見たら、彼らは凡人のわたくしどもには理解の及ばぬ高みにいる方々なんですね、という判断基準にすればいい。
『女大学』七去に従えば夫理由の不妊でも女は離縁できないじゃん。あり得ないっしょ。つーか儒教を金科玉条に振りかざしてるテメーに言われたくねーよカスw
諭吉センセの『新女大学』も引用しなくちゃフェアじゃないなァ。君みたいな学のないインポ男は文語体だと読めないかな?
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/43064_24679.html
…流し読みだけど真面目な話、別居進めてたりしてなかなかに先進的。
Twitterなんかまったく面白くないしバカ発見器だしろくなもんじゃないと思ってた。
しかし、なんだか流行っているし情報も早いし有名人の発言も見れる。
昔ちょと興味がわいて調べて、始めて飽きて忘れた。
しかし、最近になってふらっと再開してつぶやいて、50人位フォローしてたら20人位にフォローされた。
僕の事をフォローしても得なんてありませんよ。
TLが汚れるだけですよ。とか思ってる。
けどそんな事を小心者の自分は言えないわけで、そのうちりムーブするだろうとか思っていたら20人位になってた。
Botとツール使っているのもいるけど。
普通の人(すごい失礼な表現かもしれん)のつぶやきを時々リプライ(1日1回位)してTwitterらしい行為(?)をダラダラと続けているうちに面白さというか続けていこうという目的が見えてきた。
以下見つけた順
1.情報収集
2.文章力の向上
3.ユーモアのセンスを磨く
4.他人の色々な使い方を発見して感心する
1は説明不要だろうニュースよりも早く地震の情報や政治の考察が見れる。
あっていると思うかは視聴者次第なのが難だけど。
2は韻を踏んだり小難しい文語体を使って作文するんじゃなくて、丁寧で分かりやすく正しい表記で文章を書くということ。
140字で文を完成させようと思うと簡潔な文章になってしまうけど、その中でいかに分かりやすく書き丁寧に見せるかというのはやりがいに似たものを感じるし短くて負担も少ない。1200字で作文しろと言われたら細かいところなんて調べず勢いで書いてしまうけど140字ならググる気もでる。
3は不治の病だと思っていたユーモア欠落症を治そうと何時思ったのかは知らない。
因みに今でも治ってる気がしない。
でもリアルじゃ絶対に言えないような類のユーモアもどきリプライをして1度も面白いと言って貰えなくとも言わずに悶々とするよりも言ってしまった方がスッキリする。
それに言えるなら考える気にもなれるから色々考えてみる、もしかしたら改善するかもしれない。希望があるのは良いこと。
4正直1~3なんてオマケに思える位目的になっているのがこれ。
チャットしている人がいたり心の病を患っている人が暴露療法(?)として使っていたり、同じ病の人と励まし合ったり、日記として自己表現にしている人がいれば単にブックマークに使ったり公式アカウントをフォローだけで情報収集ツールがわりに使っている人がいたりと多様な使い方があった。
同じTwitterでも使い方はそれぞれあって色々な人が色々な考えや思いを他人が見れる形で表現しているのは興味深かった。
ここまで推古すらしていない駄文にお付き合い頂き有り難う御座いました。
オフ会とかしているリア充は"オフ会なう"とつぶやいている時に携帯が爆発するべきだと思います。
あと単語、文節単位でつぶやく使い方の人も足元から段々と溶けてください。
最後まで読んで下さり有り難う御座いました。
増田の文章を読んで、ちょっと頭悪そうだなと思った。
細かい言い回しで、ミスとも言えないような微妙なミスが目立つ。
>必要性としては皆無といっても差支えのない提言ではある。
わざとらしい文語体にしてるのはわかるけど、この言い回しは不自然だ。
>つい先日夜遅くまで増田で論議をしていたわけだが
普通は「議論をしていた」か「論議を戦わせていた」じゃないかな。
あえて論議をしていた、にした意図が不明。
>俺が俺自身のことを多少なりに賢明だと思っているからなのだ。
「多少なりとも」ね。
正直、文法なんてのは言葉のリズムが良ければ、どうでもいいと思ってる。
残念なことに、増田の文章には、リズムも知性も欠けているんだ。
他にも「まあ」が多いとか、口調が回りくどいとか、そこはかとなく衒学的な感じとか、
色々「ちょっと頭が悪そう」な要素が揃ってるんだよね。
なんつうか、中途半端です。がんばりましょう。