はてなキーワード: 住宅とは
今日は2軒行ってみた。
1軒目はゲージが9個ぐらい。黒いの白いの三毛の仔猫。オトナ猫は5歳ぐらいの。
おばさんが抱っこしてみますかーとか声をかけてくれる。
主催者と思われるヒゲのおじさんは、終始ママ〜ママ〜と奥さんを呼んだり
帰り際どんな色がいいの?と聞かれたが
色で猫が欲しいわけではないのだ。
受付のおばさんは、いかにもおばさんな感じで
なんかおばさんだなと思う。
一軒屋の2階にあがると2部屋が猫スペース。
片方はゲージに入ったオトナ猫。洋風猫もいた。おねーさんが一生懸命説明してくれた。
もう一方の部屋はオトナ猫放し飼い。
おばさんも三頭ぐらい放し飼いでそれぞれがオトナ猫を撫でながら世間話。
しばらく猫見学して失礼させてもらった。
ぴぴっとくる猫さんがいなかった。
明日も2軒行ってみる。
運命猫に会えれば良いな。
https://bunshun.jp/articles/-/15590
こういうニュースを見て思うのは、規制を求める側がそれを必要としてる人間に対してどういう「解決」を想像してるかっていうことなんだよね。
おそらくは、「適切な社会活動によって他者と適切な信頼関係を築き、同意の上で性行為を行う」というのが正当な理想的ケースであると考えているのでは、と想像するんだけど(あくまで想像なので、「違うよ!」って思う人は「違うよ!」って言ってほしい)、世の中にはルックスだったりコミュニケーションだったりあるいは身体的・精神的障害及び疾患などの問題で、どうしても他者とその理想的な関係を結ぶことが難しい人というのもいるわけじゃない?
そういう人に対してどういう「解決」というのを想像してるのかなっていうのが、いつも気になるんだよね。
もちろん他人と良好な性的関係を結べるなら、それはいいことだとは思うけど、「そうではない」「そこから漏れてしまう」人間について、その性欲や人恋しさをどうした方法で解決することを望んでるんだろう?
もしそれを、「普通の人間」のラインに達するまで努力しろとか、それができないなら我慢しろ、っていうふうに思っているなら、それはなんていうかものすごくむごい発想なんじゃないかって思ってる。
それっていうのも、10代のときの自分がわりとそういう考え方だった。「他人と良好な性的関係を結べる」状態にない人間が、性的なことに興味持ったり、エロ漫画やエロメディアで、「自分勝手な欲望」を満たすことが気持ち悪い、そういうふうに思ってたのよ。
自分は女性なんだけど、10代の頃はセックスがあまり好きではなかったし、「求められる」からやる、「求められる」ことは嬉しい、みたいな感じで、セックスというのが「他人から求められるだけの価値がある人間の特権」みたいに思ってた節があった。だから、オタクの人とかがエロ漫画とかエロゲーとかに興奮してるのを、「他人から求められてもいないくせに、物言わぬ相手に性欲求めて気持ち悪い」そういうふうに軽蔑してたんだと思う。
年齢や経験を重ねて、自分の中で「性欲の自我」みたいなものが芽生えてきて、それはかなりガラッと変わった。今では当時の幼稚な…というより他者に対する排他的かつ支配的な考え方をとても恥じてるよ。
男性だろうが女性だろうが、性欲のある人間にとっては、自分が性的対象としてるものへの客体的魅力というのはあって当然だし、それを何らかの媒体によって消費することは、たぶん無意識のうちにみんなやってると思うんだよね。その表現が「性」や「セックス」に結びつきやすいかどうかでわかりにくかったりするだけで。
あとやっぱ女性も男性も、セックスする気になれる・なれないラインって個人の中でどうしてもあるだろうな…って思う。もっと言えば、セックスしたい・別にしなくていいラインも。それが、それぞれの人ごとにバラバラなら平和だけど、やっぱり偏りがある。「セックスしたい」は結構割れるところあるけど、「セックスする気になれない」は、わりと似たようなところに固まる印象がある。
「理想的な性的関係の結び方」というのが、双方の同意と感情によるものな以上、どうしたって他人と性的関係に至ることが難しい人というのがいて、そういう人がお金という方法でラブドールなどの平和的な解決が図れるなら、それはそれでいいことだし、他人から批判されるようなものではないと今は思うんだよね。
他人の性生活や性のあり方に口を出すことは、非倫理的で不躾なことだと認識している人の中にでさえ、エロ娯楽に厳しい人もいるので、なぜなのだ…という感じはするけど。
自分は料理があんまり得意じゃなくて、美味しいものを食べたいときは奮発して外食するんだけど、もしそれを「料理のできない人間には美味い食事を食べる資格はない!自分で作れるだけの身の丈にあった飯だけ食ってろ!」って言われたら、そんなの味気なくて死んじゃいそう。お金を出して合法的に美味しいご飯を食べられる、そういう市場が社会に育ってることをとてもありがたいと思うよ。
まぁ、もちろん「女のくせに」「社会人にもなって」料理ができないとか、怠けているんじゃないか?何か問題があるんじゃないか?人として欠陥品では?みたいなことを言ってくる人は、まあまあそこそこいて、「ハイハイさよですね〜うるせー死ね」って思ってる。
>「リアルドールは女性の身体を男性の性欲・支配欲解消の手段として消費する性搾取文化」と批判。
ってあるけど、性欲だの支配欲だのの「人の業としてどうしても持ってしまうが、無差別に行使すると大変なもの」を、シリコンの塊で解消できるなら、よっぽど平和じゃない? 性欲も支配欲も持ってて自然な情動だし、それを「道徳的でない」として持たないことを強制するよりも、どう平和的に処理・解決するかのほうが現実的だし抑圧を生まないと思う。
女性の立場からすると、ラブドールという「女性の形をした人形」が性のために製造され、意志もなく性的な玩具にされている、というのが、「女性を性的客体として貶めてる」と嫌悪感を持っても仕方がないだろうな…とはなんとなく想像する。ただ、女性の性が人形や漫画などアンリアルな形態で客体的に消費されることと、現実の女性が貶められるような価値観が社会で醸成されることに、本当に相関があるのか?というのは個人的にとても疑問に感じている。
住宅や経済的な事情、あるいはアレルギーなどで猫を飼えない人間が、だけど猫が好きだからと本物そっくりの猫のぬいぐるみを買って家で撫でていたところで、おそらく批判はされない。ペットという生育に責任もお金も必要な存在を、ぬいぐるみという安価な手段によって「かわいい」だけを抽出して一方的に楽しんでいても、たぶん誰からも怒られない。猫にもそれぞれ思考と感情があり、生命を持った生き物なのになあ。
別に猫の尊厳を問いたいわけではないが、猫のぬいぐるみによって生きている猫の尊厳は毀損されるのか、ということを考えるとラブドールについても、もっと考える余地があるのではないかと思う。
もし、現実で「女である」ということを理由に誰かが傷つけられるようなことがあれば、それは許されるものではないし声を上げるべきだと思うよ。
その上で本当に健全な、近代的な社会というのは、女性あるいは男性の客体としての性的魅力が肯定され、「他人と良好な性的関係を結べない」人間にもその性欲を慰め満たす媒体を持ちつつも、現実の女性あるいは男性が性による差別や被害を受けない社会、他者に対する人権意識が娯楽メディア程度では曲がらない強靭な精神を育てる社会なのではないかな、と思う。もちろん、その理想が遠いというのはわかるんだけど、「究極的な理想」はそこなんじゃないかと思うんだよね。
うちの母にちょっと状況が似てる。私が小学生の頃に父方の祖父が倒れて介護の末見送った。祖父の妻である祖母は健在だったけど、仕事中心の人生を送っていたので家事とか介護の能力が低く、七割ぐらいは母が介護したといって良いのではないか。
そうでなくても一時的に別居しただけで、ほとんど姑との同居生活。父と結婚してすぐ私を産んだので、ほとんど夫婦水入らずの時期はなかったのではないだろうか。私がある程度成長してからは多少仕事もしていたけれど、家事は全て母の分担だった。
そして時が経って父が定年退職。祖母の趣味が旅行だったので、祖母が出かけていると「もう帰ってこなければ良いのに」と愚痴りつつ、くそ真面目に家事をやり、家族のおさんどんをする日々。祖母はやたらと顔が広くて外面が良かったのでやたらと電話がかかってきたり贈り物が届いたりしたのだが、それらの対応もなかなか手がかかるのだった。
元気にあちこち旅行する体力がある時期はまともに人付き合いをしていたけれど、祖母は片付けられない、捨てられない女だったので、部屋の中はとんでもない状態だった。安いもの、タダでもらえるものに目がなく、使い道がなくてもそういうものをもらってきたり買ってきたりするので部屋の惨状は悪化する一方だった。
そのうちに祖母の頭は老化により認知症の症状を呈し、しっかりしていた母方の祖母も足腰を悪くして一人暮らしが難しくなった。父方の祖母はかなり歳が行っていたので何とか特養に入り、母方の祖母は老人向けの住宅(基本的に自分で炊事や洗濯をするのだが、お金を払えば食事などを用意してもらえる)に入った。
今、母は実母と姑の面倒を同時にみている。だいたい向こうで衣食住の世話をしてくれるので週一回程度顔を出せば良いのだが、父も母も70歳を越えて、本当なら自分たちが介護を受けてもおかしくない状況だ。こうやってひたすら誰かのために尽くし、気がついたら自分の人生を楽しむ時間がなくなってしまわないかと心配だ。
一般市民に金だけは意地でも出したくない。とすると、心理側を操る必要があるということで、権謀術数と同調圧力ばかりが盛んになる。
そして、やりがいや使命感を煽って、地獄に叩き込んで逃げれなくする。
新自由主義は、結局の所、金になること以外政府はしないということだ。それからこぼれおちるものはある。
先々につながるものの先行投資(教育、科学技術投資)や、弱者保護(再分配や弱者救済住宅、制度)。
そこで、こぼれおちるものをなんとか頭の弱い奴にやらせようと権謀術数と同調圧力ばかりが盛んになったと。
30代前半で政令指定都市に在住。社員数百人の古き悪しきSIerに勤めている。
年収は500万~600万未満と言う感じで大したことはないが大企業の子会社ということで仕事は安定していて、退職金や企業年金制度もある。古臭い企業文化と将来性の無さに目を瞑れば働きやすい。
最初に転職を考えたのは5年ほど前、ギリギリ第2新卒だった頃。要因は時代遅れの仕事環境。スキルが身に付かず人の管理とエクセル操作ばかりの仕事に嫌気がさした。
勢いで「とにかく東京だ」と考えて無計画に活動を始めた結果、深夜バスで東京に行き1日3社面接して心身共に疲労困憊の中、3社とも面接通過してしまい「もう疲れた...」となってしまった。
実はその時も選考を進めるべきか考え直すべきか悩んで増田に投稿した。すると思いの外反応があり「とにかくチャレンジしてみるべき」「安定して収入そこそこの仕事を捨てるなんて信じられない」「本当に技術的なことに興味があるなら日頃からもっと勉強してるはず」など様々で余計に悩んだ。
結局その時は「まだ今の会社で頑張れることがある」と自分に言い訳をして転職を中断した。
それから5年。結局仕事環境は何も変わらなかった。相変わらず開発環境はインターネットに繋がらないしエクセルで課題管理・進捗管・スクショを取って、subversionでバージョン管理している。
その間、仕事では数人チームのプロジェクトのPMをやったり、個人ではクラウドなりDockerなり勉強してアプリを作ってリリースしてみる、などしていた。
だけれど会社の変わらなっぷりを見て危機感は日に日に増している。別に多くを求めているわけではない。世界を変える仕事や高い収入を求めているわけでもない。エクセル地獄と酷い社内システムを止めて、IE以外のブラウザ、githubやチャットツールが使えてCI/CDできるようなインターネットにつながった環境で働きたいだけだ。でもこの会社にその環境が入る頃には世間から2週遅れぐらいになっているだろう。
最初の転職活動の原動力は希望であったが、今は危機感に変わった。このままここにいては、この会社以外で生きていけなくなる。
そんなこんなでまた転職活動に思い立ったわけだかだ、タイトルのとおりツケが回ってきたと感じる。
それは年齢が上がったこと、そして今年第一子が生まれたことだ。
前回の反省を活かして今回は東京ではなく住んでいる地域で仕事を探し、詰め込みすぎないように進めている。というか詰め込むほどの求人は無い。一応転職先の軸みたいなものはあるが、声がかかるのはベンチャー企業だったり英語能力が求められるところ(当方TOEIC610のクソザコ)が多い。さらには大部分が東京本社の地方拠点扱いでリモートのコミュニケーションがベースになるような環境だ。
ここまでぬるま湯に浸かってきたもう30を過ぎたおっさんがいきなり環境が全く異なるベンチャーなんかでやっていけるんだろうか。自分の適応能力に不安を持ち、古い保守的な考えが染み付いてしまった。
自分だけならまだいい。でも今は子どもがいる。妻も育休を終えて職場復帰する予定なので共働きではあるが、妻は転職に難色を示している。
収入はどうなる。仕事が大変でうつになったりしないか。子どもが保育園に行くようになれば休まないといけない日も増える。いずれは住宅も購入したい。
一人だった頃より考えること、決断を鈍らせる要因が増した。
確かに子どもが生まれた直後に転職なんてリスキーだと思う。だけれど現職に留まるのはそのリスクを先延ばしにしているだけとも考えられる。もし10年後、今の会社が無くなったり人員整理を始めたら自分の行き先は無い。子どもが大きくなるのを待ってから転職しても拾ってくれる会社があるとは思えない。既に遅い自覚はあるが、動くなら本当に今がギリギリだろう。
自分は将来のリスクを見て、妻は今のリスクを見ている。そんな感じだ。
みんな知ってのとおりエンジニアは深刻な人材不足で超売り手市場。2社だけ受けてどちらも内定をいただいた。
仕事内容や技術周りの環境は現職からすれば申し分ない。だけれど前述のとおり、待遇や制度さらには自身の適応能力への不安で決断に迷っている。全ては過去に転職を放棄したツケが回ってきたものだと感じている。身軽なうちに環境変えるべきだった。
https://anond.hatelabo.jp/20191005110358
以前こういう内容を書いた者なんだけど。
あれからさらに物件探しが続き、何件か条件(予算、立地、間取りなど)にあう物件が見つかった。
しかし私たちがよいと思う物件は他の方もよいと思うのだろう、ほんのわずかな時間差で売約済みになっているなど、購入契約には至っていない。
ここで改めて思うところがある。
自分たちだけが住める場所を得られると考えれば資産だし、維持管理費や税金など金食い虫であると考えれば負債である。
私としては、アテはないものの万に1つ、億に1つ結婚ということを考えた場合に、多額の借金を負っている頃はプラスにはたらくことはないし、仮に住宅を購入したとして、何十年か後に両親が他界して私1人に家だけが残されても諸々の後始末が大変だし、といった意味から完全に「負債」という認識しかもっていなかった。
「親が最期を迎える場所を」ということは考えなくもないが、それはあくまで感情の話であって、いくら感情が満たされても税金は安くならないし、支払うべき額も安くなることはない。
冷徹なようだが、現実的な思考をすればおのずとこうなるものと考えている。
…が、金はかかっても「家を手に入れることではじめて得られる何か」というものもあるような気がするのだ。
まだ結論は出していない。
そんなわけでこの1件は私にとって結構なストレスになっている。
繰り返すがこういったことを相談できる相手がいないのでここで吐き出させていただいた。
失礼。
ここ10年で都心部のマンション価格は1000万〜2000万上昇している。
共働き世帯が増えたことで世帯収入が増加していることから、住宅価格を下げる要因がない。
というか政府が税収を上げたいために女性活躍を推進しているのに乗っかって、
利益を上げようとしているように見える。
デフレと言われて久しいが、そんなことはお構いなしに住宅価格は上がる。
加えて、不動産価格の上昇トレンドに乗っかって不動産投資にお金が流れ込んでいる。
モノやサービスが儲からないのでそちらに投資するより不動産に投資したほうがいい。
再開発という名目で目玉となる建物を作れば、周囲の住宅価格が上昇するので利益が上がる。
とはいえ新店舗を多く作ったからといって、モノの需要が劇的に増えず、次第に空き店舗が多くなり衰退していく。
高い価格で住宅を買ってしまったのだから、モノを買う余裕などない。
住宅を買う時期はライフサイクルで決まり、必要になったときに購入するもので、
35年ローンを払い続けるわりに、価格の上昇下降を検討するのは1,2年だろう。
その間、不動産業側からすると高い価格を維持していれば、購入者は待ってても下がらないなら
ローンを組むかということになる。
人口が減って需要が減ったとしても、価格上昇でペイできれば問題はない。
購入者には、所有することになる住宅+売れない分の住宅分の費用を負担することになる。
(需要はないので転勤などで売ることになったら低価格になるにも関わらずだ)
一体、このサイクルは誰が得をしているのか。
国からすると共働きにより世帯収入が増加することは税収アップにつながるため、
定年後も働かなければならない金額の負債を負ってもらうのはプラスに働く。
年金受給の話もあり、定年になっても借金返済ができておらず、働かざるを得ない状況に追い込むのもプラスだ。
銀行から信用創造でお金を回す必要があるが、働いて借金を返し続ける人が必要だ。
モノが売れないし投資先がない銀行からすると、35年もの長期で返済し続けてくれる人がいれば、将来を予測しやすくていい。
住宅ローンの補助があるので、不動産業界としては、それを前提に価格を上げることができる。
ローン補助がなくなり、借金を踏み倒されると困るが、不動産業界が釣り上げた価格を統計でみて、
補助を出さざるを得ない状況を作り続ければよい。
他に国からすると人口が減っていくなかで、建築業に携わる人口の減少を止める必要があり、