はてなキーワード: 丁稚とは
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浜ちゃん on Twitter: "@ok_aaa_you ばこねんねんでーっす、どー ...
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@ok_aaa_you ばこねんねんでーっす、どーでもいいでしょうけどロボの動画でーっすw https://youtu.be/fRj34o4hN4I. 2:14 AM - 3 Sep 2018. 1 reply 0 retweets ...
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ねんねんさとばこねんねんねんねん ねんねんやねんねん さとばこ 弥市が子起きたや コッコにやってやろグワングワングワンね かましちゃろう. □ねんねこさいのこねんねこ さいのこ 酒屋の子酒屋の丁稚が言うことにゃわしの弟の千松が 七つ ...
「旦那」という言葉の語源を理由に夫婦関係を表すのに相応しくないというけど、言葉の意味は変化するってことにも目を向けてほしい。
丁稚奉公がほぼなくなった現代では「旦那」って言葉はシンプルに「配偶者」を指す言葉に変化している。
女性が「うちの旦那がさぁ・・」みたいに話しているからといって、うちの家庭は男尊女卑です、みたいなニュアンスは全くない。
「パートナー」は現代でも夫婦関係以外に使える場面が多すぎるから「配偶者」を分かりやすく示す言葉としては向かないし、
むしろそれを使うことで「男女は平等であるべき」という思想が会話に乗ってしまう。色々な意味で使いづらいと思う。
話はちょっと変わるけどさ
欧米で「パートナー」という言葉が男女関係を指すようになった当初は、「事実婚しているカップル」とか「同棲をしているが性関係はない男女」とか、そういう「結婚」という枠ではくくれない関係を指していたらしいじゃん。
2人がどういう関係か他人に説明したくない時に使う「隠語」のようなものだったから、多義的なニュアンスがむしろ相応しかったんだろうね
それなのに「夫婦は対等であるべき」という思想を持つ人たちが後付けで「夫婦=パートナー」という風に使いだしちゃったもんだから、わりと本末転倒感があるんだよね・・・思想がまず先に来て、言葉の使いやすさは二の次というか・・・
「旦那」を叩くのに語源を理由にするなら、むしろ俺は「パートナー」という語のここ最近の歴史的経緯を鑑みつつそっちを叩かせてもらうよ。
SESでも受託でも人材確保のためにスクールに入れたり、自分でスクール作ったりしてるところは珍しくないよ。
けど、そこで身につくのは人月計算にカウントできる歯車としての機能だけ。
全体構想やインフラ、セキュリティ含めた全体像が見えてこないと、追い回され感はぬぐえないと思う。
プロジェクトリーダーに聞けば全体像は簡単には説明してくれると思うけど、それが理解できるようになるにはスクールでは足りない。
理解できるまで基礎から何度もかみ砕いて教えてくれる聖人君子はまあいない。そんな時間もない。
参考書を教えてくれてこれを読めといわれるだけ。(しっかり読めばちゃんと書いてあるんだが)
我慢して丁稚奉公を続けていけばだんだんわかってくる人が多いが、才能ない奴はいつまでたってもわからない。
悪くない提案だと思う。
ま、敷居低いWeb系企業に非正規でも、丁稚でもいいから潜り込んじまうのが一番手っ取り早いけどね。
ただし、敷居低いWeb系企業に定住しちゃダメ。ずーっと使いっぱしりになるのが関の山。
短くて1年、耐え抜いて3〜5年勤めれば大抵のWeb系企業の募集要項は満たせる。
経験と勤務年数を稼ぐと割り切って、人生の数年を売り飛ばす覚悟で挑む。
ただ職場環境があまりにもクソな場合は即辞めて一旦リセットすべき。時間と気力体力の無駄。
あと、100%適正ないと痛感したらとっとと辞めて別の道を模索。時間を浪費しないこと。
35まで、かつ大都市圏在住ならこれで割となんとかなると思う。それ以降は知らん。
避妊法で実効性のあるものは無いに等しかっただろうけど、子供が生まれ過ぎたら間引く、養子に出す、丁稚奉公に出す、遊廓へ売る、早くに嫁にだすなどしていた。
第1話当時に12歳だった禰豆子(着ているものや髪型からして"大人"として扱われている)がまだ家にいる辺り、貧しいながらも極度に生活に困ってはいないのだろうな、と思う。
竈門家の場所は明らかではないけど、岐阜や石川、長野辺りの山の中ではないかと思う。そういう土地は貧しくて口減らしが普通だったはず。富岡製糸場の女工達がそういう地方の出だ。
そういう処でも禰豆子を家に置き続けていられたのは、竈門家が山の中にポツンと建った一軒家に住んでいて、どこの集落にも属しておらず、他人からごちゃごちゃと口を出されにくい環境だったからなのではないかと思う。
※本人より聞いたまま書いたため何処まで正確な事柄なのか不明。
(祖父、当時83歳)
映画は昭和14年の10月ごろから観はじめた。当時14歳で静岡県浜松市の卸問屋で丁稚として働き、主にそこの配達仕事をしていた。その仕事にある程度の余裕ができてきたので、暇なときに映画を観に行けるようになった。映画館で映画を観たのは海兵に志願する前の18歳頃までだった。行っていた映画館は何軒かあって、機場町か塩町にあった「浜松アズマ座」、連尺町の「松竹館」、「浜宝映画」に主によく行っていた。その中でもアメリカの映画などの洋画は、「浜松アズマ座」でのみ見ることができた。映画会社の協定か何かで決まっていたらしいね。映画館には、フィルムの新しい、最新映画を見せる封切り館と、何ヶ月かまたは何年か前の映画を見せるところと二種類あったが、「アズマ座」は封切り館ではなかったので、たまにエノケン(榎本健一)の、まげもの(コメディー映画らしいです)を最新作として上映していたほかは、何ヶ月か、または何年か前の古い映画の、特に洋画を流していたよ。当時映画は2本立てが普通で、それに加えて短いニュース映画がついていた。(ニュース映画は、戦時中だったためかなりプロパガンダ色のつよい内容だったようです。)邦画は邦画と邦画の2本だったけど、洋画を見るときは邦画と洋画一本ずつがセットでの2本立てだった。洋画の方が邦画に比べて長かったからじゃないかな、だいたい洋画が1時間半くらいで、それに短めの邦画が一緒にやっていた。
洋画を見に来ていたのは、若者が多かった。英語を習っている学生なんかも多かったよ、映画は字幕だったから。自分も観ているうちに「カモーン」などといくらか覚えた。昭和12年頃はトーキー(声が入っている映画)と無声映画に弁師がいたのと半々だったけど、自分が映画を見はじめた頃にはもう大体今みたいな映画だった。あと、洋画は、高校生以下は保護者同伴でないと観に入ってはいけないという決まりがあった。自分は学校に行ってなかったから関係なく観ていたけども。
――どんな映画を観た?
初めて観たのは「ターザン」。20世紀フォックスだったかの、ハリウッドものの映画だったよ。主演のターザン役が何回も変わっていて、ターザンのシリーズは4本くらい観たことがある。バスター・クラブがやっていたのは覚えている。(バスター・クラブが主演を演じたのは「蛮勇タルザン」(1933) Tarzan the Fearless )ターザン役をやっていた奴は皆、オリンピックとかでメダルを取った選手だったみたいだよ。でも、「ターザン」を観た、と言ったら「そんなもの観るなんてガキだ」と奉公先の年上の人たちに馬鹿にされた。その次に覚えているのは、「ジェロニモ」。昭和15年に観た。タイロンパウアーが出ていた。(タイロン・パワーのことだと思います。しかしタイロン・パワーは「ジェロニモ」に出ていないようなので人違いでしょう。)アメリカのマフィアやなんかのギャング映画はあんまり受けてなかったなぁ。よくわからなかった。見た中で一番印象に残っているのは「再会」(1944制作。原題TOGETHER AGAIN。日本公開は1947年。このため、祖父が実際にこの映画を観たのは戦後であるのかもしれない。) シャルル・ボアイと、女の方がアイリン・ダンがやっていた。記憶喪失した女性が何年かして再び記憶を取り戻す話だった。
――その後は観る機会はなかったのですか?
19歳から兵隊として海軍へ行っていたので観られなかった。横須賀の竹山海兵団に3か月、そこで試験の成績がよかったので、飛行機整備学校へいって飛行機の整備についての勉強をしたよ。戦争も終わりの方だったから、整備学校では4か月ですべての事を勉強させられた。そして海軍で整備士として働いていたのだけど、そこで娯楽として洋画が観られた。教育期間中や、新兵にはみせなかった。「進め竜騎兵」(1936年制作)「ドナウ川のさざなみ」(詳細不明)「青きドナウ」(1963年公開のためこれも記憶違いか?)などを観た。あまり色んな種類がなかったらしく、同じ映画を何度も観せられた。
――なんで軍隊の中で観ることができたの?
敵の情報を知るため、というのが名目だった。でも、軍でみているということは他言してはいけないといわれていた。アメリカの映画を娯楽として観ることができたのは海軍だけだったみたいだ。映画のフィルムは、映画館から取り上げたものを上映していたらしい。映画を見るときは夕食を30分早くやって6時以降に観た。右舷、左舷と二つのグループに分かれていて、交替で観ていた。その頃は就寝が8時、飛行機の整備のためにパイロットの連中よりも1時間早く朝2時に起こされ飛行機の整備をしていた。
――戦争が終わった後は観に行った?
戦争が終わった後は、映画なんて見ている余裕がなかった。戦後すぐは警察官になっていたので、仕事の見回りで映画館にも観に行ったことはあった。でも昔ほどは興味がなくなり、外でたばこを吸ったりしている時間が多かった。
結婚したら親の家を出て、夫婦と子供だけの「核家族」を作り、ローンを組んで都会に家を買う、というのは高度成長期~バブル期だったからこそできた贅沢だったのです。
1960年代までの日本では、抽選に当たらなければ住宅金融公庫から住宅ローンを借りられなかったくらいです。もちろん戦前には住宅ローンなぞありません。
戦前より以前は、長男夫婦は親と同居し、次男以降は使用人みたいな生活を送るか、丁稚奉公にでるかという感じだったのです。
もちろん令和の世に戦前回帰などできるわけはないのですが、人口が減少していくのに今までみたいに新築をどんどん建てていくことも無駄ですよね。
夫婦どちらの親でもいいから、頼れる親がいるなら頼って財産を引きつぎ、地縁血縁で生活を回していくことを見直すときがきているのです。
江戸時代に江戸に出てくる連中は、(1)参勤交代による武士階級(2)地方農民の次男三男で職人・商人の丁稚になるもの(3)売春婦として売られた女性、くらいしか思い浮かばない。
(1)は家族帯同は一部の上級者のみ。(2)(3)はそもそも家族をなすことが少ない。
日本人の核家族が一般化したのは、戦前の満州・大連に赴任した官僚・会社員あたりからであったと記憶しています。
また、地方から都会への人口移動が本格化したのは高度成長以降です。
平均寿命が短かったのは主に乳幼児の死亡率が高かったからで、大人まで成長した人は、戦争や災害を除けば、60~70くらいまでは普通に生きていた。
一昨日は辞める人の課送別会
先週は懇親会
ねぇ、あのさ、揃いも揃ってさ、
あんたの俺すごいんだぜ自慢や
会費とか払ってるわけじゃないんですけど???
「俺ってこういう厳しいところがあるから、拘っちゃうんだよな」
「おれはこうやったから課長になれた/部長になれた/役職になれた」
「今のこの事業部があるのは俺のおかげ」
「本当にお前らは考え方が/姿勢が甘い」
「限界までやってんのか?」
「(更に酔ってくると)お前はこういうところがダメなんだよ。俺を見習え」
意訳するとこんなんばっかり。
何で若手のメンバーが40、50のオッサンたちを褒めたりそやしたり自虐したりして気を使わないといけないの?
こちとら金払ってお前らの機嫌を取るほどの給料は貰ってないんだよ!
尊敬されてる上司ほどそう言うこと言わないから!背中で見せてるから!
そういうこと言う奴は周りから痛い目で見られてる奴ばっかりだ
本当に。
あのね、ちゃんと言っておくけど、
30〜40くらいのメンバーだと、ある程度年次を重ねてるからそれなりに受け止めてくれる(それでもレガシィしていい訳じゃないぞ)けど、
すぐ飛ぶからな。
とくに優秀なやつはその会社やその上司の下で学べる上限を瞬時に悟って気づいたら飛んでるぞ。
35歳以下を若手と呼ぶとすると、今の時代、若手の確保のコスト、維持の大変さは想像を絶してるぞ。
若手や非正規の低賃金労働者がいなくなったら、お前ら役職のもらってるたっかい給料がな、維持できなくなるから数を減らさないといけなくなるんだぞ?
甘やかせって言ってるんじゃない。
「上のやつがちゃんとしろ」「理不尽なことを止めろ」って言ってるんだよ。
それがひいては業績の維持・事業の拡大・
俺語り、
パワハラ、
セクハラ、
お前の承認欲求を満たすための道具に使うのはやめろ!!
その説教が相手の為なのか、それを装った自己満足か、鼻血出るまで一度考えろ!
サボんな!
思考を停止するな!
お前こそ伸びろ!
「法律・社会常識・自分と相手の家族の事を考慮に入れても正しいと言えるか」
このあたりを考えるといい。
それは分かるよ。
でも、レガシィおじさんの自己満足に付き合わせることの罪を自覚してほしい。
一回●んで、生まれ変わってください。
ほんとお願いだから、あんたらみたいのの下にいると、辞めたいとしか思えなくなるから。
仕事を辞めさせないで。
仲間を辞めていかせないで。
鼻血出るまで考えろよ。
誤字ではない。
居眠り「した」のではなく「されて」受験に落ちた人がいる。この理不尽さを誰かに吐き出したく、殴り書きさせて頂く。
身分はぼかして書くが、とある国立大学の大学院における選考会議の様子を把握できる者だとだけ言っておこう。
言うまでもなく選考過程を漏らすのは御法度である為フェイクも多々入れるが、多めに見てほしい。
詳細を記す前に、まず大学院の選考方法を説明する。といっても甚だ単純で、基準は基本的に「教授が忙しい間を縫って面倒みてやってもいい論文が書ける学生と判断したか」の一点に尽きる。こう書くと随分いい加減に思えるかもしれないが、基本的に研究というのはプロ同士であっても「こんなの研究と認めたらこの分野崩壊するわ!」とか平気で批評しあう世界なので、ましてやペーペーの学生の研究に価値があるかなど真剣に議論しても満場一致の答えなどでない。よって、直接面倒を見て博士論文指導をする教授に一任されるのである。無論、ある程度外国語技能や専門分野の知識のチェックはされるが、レベルの高い大学ほど論文が全てという傾向は強い。何か国語話せようが知識が凄かろうがあまり関係なく、教授に「この研究は自分、ひいては業界の役に立つ」と思わせるのが肝要である。当然、コネによる入学や担当教授の暴走を防ぐ為に「副査」と呼ばれる、一緒に論文をチェックする人もいるが、副査は指摘すべき点がない場合はまあ無難な点数を出す。担当教授(主査)と違って、専門分野ではないから評価が難しいし専門家が採るといってる者を落とす理由がないからだ。よっぽどのことがない限り、主査が入れる気があるかどうかで可否が決まる。
特に、この大学は絶対博士号をとらせる大学(学生向けのキャッチコピーではない。国がそういう事業の一環として認定し、補助金も多く出している)である。博士課程というのは卒業すれば博士号がでるわけではなく、むしろ在学中にとれない人の方が多く、所謂「満期退学」になりその後何年も経ってから博士号をとるのがスタンダードなのは有名な話だが、この大学は殆どの生徒にとらせるべく指導するというわけだ。これが何を意味するか。めんどくさいのだ。博士号とらせなきゃいけないからといって、基準が緩くなったりはしない。日本ではなかなか貰えない博士号を、確実に取らせなければ怠慢と言われるのである。当然、教授の負担は大きく、できれば採りたくないとさえ考える人も多い。そのうえ、この大学は方々から国にスカウトされてきた研究者が教授になっており、それぞれ現役で研究に励んでいる。というか、研究所に大学がくっついているという状態なので、教授はそれぞれ優秀故に「自分は研究者」という意識が強く、彼らにとって学生の指導は副業である。職人と丁稚奉公みたいな関係、というと分かりやすいかもしれない。本来自分の研究だけでお金を貰える人が、そんなにできるなら学生も見てよといわれるわけである。当然給料はいいし研究費もたんまり貰えるが、まあやりたくない。大学側も研究でも成果を出してほしいので、毎年わずかな生徒しか入れず、教授たちはそれぞれ数年に一人担当すればいい方だ。つまり、採ったら最後責任が重いし採らなくてもそんなに怒られない。故に、プライドが高く研究意欲のある教授がと重い腰をあげた時点で合格というわけだ。だいたいこんな風にして合否は決まる。
長くなってすまない。本題に入ろう。
居眠りしていたのは主査(実際に面倒を見る予定の人)ではなく、副査(担当しないが論文チェックはする人)だった。
長々と書いた通り、この大学で学生を採るというのはめんどくさい。しかし、おとされた学生は幸運にも主査に合格点を出された。何人かいる副査も無難な合格点、人によっては少し高めの合格点をつけたりもして、問題なく入れるはずだった。しかし、一人の副査が、法外に低い点数をつけたのである。理由は定かではない。何故なら、点数を発表した会議でその教授は爆睡しいたからである。
これがもし、何がおかしいという顔で鎮座していたならあるいは、合格を出した主査の姿勢を問い直す必要もあったかもしれない。
自分が採るわけでもない生徒にとんでもない低い点数をつけた、まではもしかしたら研究へのこだわりであったかもしれない。いくら自分が面倒を見なくても、こんな学生を入れては国立研究機関の名が廃る、とかそういう信念のもとの行動だったのかもしれない。主査の教授のメンツに泥を塗ったと嫌われても、他の教授に非常識な奴と白い目を向けられても、研究のレベルの低い生徒を入れるわけにはいかない。ありえない行為に騒然となる会議室で、それでも己の信念に基づいて何が合格に足らないのかを雄弁に語ろう。そういう覚悟と純粋さ故の頑固さがこのような事態を招いたのかもしれない。もしそうだったなら、研究所内での自分の立場など顧みない、人間関係など研究においては関係ない、そういう研究者としての誇りある人物だといえるのではないだろうか・
しかし、そんな一抹の擁護の可能性を吹き飛ばす爆睡。一般企業なら上司から爆弾を落とされるレベルの、爆睡。ヤバいと思った隣の席の教授に、つついても声をかけても、起きないと確信される、爆睡。一切の説明責任を拒否する、爆睡。
採る予定だった学生を予想外に落とされ愕然とする主査、ドン引きする他の教授、眠り続ける副査。
あまりにあまりな顛末に、良心的な教授の間では「あれは狸寝入りだったのではないか」説まで出始めた。「本当は私情で落としたので、何故こんな点数をつけたのかと追及されるのを逃れる為に、あんなことをしたのではないか」「学生の論文の出来に嫉妬し、しかし無理に難癖をつけるのはプライドが許さず、苦肉の策だったのではないか」「本当は気が小さい人で、主査のメンツを潰すのがしのびなかったのではないか」という憶測が飛び交ったが、定かではない。個人的には、そんな深い事情はなく、なんか気に入らなかったからじゃないかと思う。学生も
気の毒だが、寝てた人の点数でも考慮せざるを得ないのが、寝てた人を怒れないのが、寝てた人でも教授になれちゃうのが、国立研究所である。一例だけで申し訳ないが、国費をかけて研究者を増やそう!という研究所でこういうことが起こり得るのが今の研究者の現実の一端である。
そうやって下っ端として何とか下積みしようとしてる時に「これは労働ダンピングでは?」って疑問が生まれると毎日が本当に辛いんですよ。
①先輩の1/3も仕事出来てない自分が先輩の3割減ぐらいの給料もらってて本当にいいの?
②でも既に最低賃金スレスレの時給でサービス残業なんてしたら労働ダンピングでしょ?
③だからって自分の仕事なんとかするの辞めたら職場に居づらくて自分が苦しくなるよね?
④ならいっそこんな職場辞めちゃえばいいのかも知れないけどどこも最初はこんなもんでしょ?
⑤そもそもこうやって素人がプロを名乗って仕事してることが顧客や取引先に対して失礼だよね?
⑥でも勉強してプロを目指そうとしても生活費稼がないとどうしようもないじゃん
⑦それならせめて経験値が稼ぎやすい仕事したほうがいいでしょ?
⑧でもこんなにつらい思いするならこの業界自体がもう嫌になってきたよ
⑨というかこの国ってコンプライアンスガバガバなのに変なマナーにうるさ過ぎでしょ
⑩だからって日本を出ていけるほどの能力も語学力もないしそれを身につける間生き延びる金もないよ
⑪どうしようもねえなあ死にてえなあ
⑫だけど死は不可逆だから早まらずにもうちょっと様子見しておくか
⑬でもやっぱ毎日が辛いし頑張ってしあわせになろうとするほどドツボにはまる気がするよ
八方塞がりなんですよ。
本当に。
どの道に進んでも希望がないの。
幸せが見えない。
どこにあるのか。