はてなキーワード: フェールセーフとは
友達に「自慰も含めて性行為したことないんだよね~」という話をしたら健康を心配されました!
多くの人とちょっと違うパーソナリティなのは認識しているけど、
自分みたいな人は世界でどう分析されてるのかあんまり知らないので、
キミのことはこういう言葉で説明できるよってのもあれば教えて下さい!
以下、自分語り
エロコンテンツはコンテンツ内の1ジャンルとして認識してるので、別に嫌悪感などはないです!
異性・同性の友達とも特に抵抗なく話せます!自分と仲良くしてくれる好きな人達と話すの楽しいね~
射精の快感を得たことがないので、射精したい!みたいな気持ちはないです。
不定期で”溜まってる”な~という感覚を認識することがあって、
そのときはお腹の中がモヤモヤするし、焦燥感やイライラが発露する機会が増えるので人との関わりをセーブするようにしてる。
でも、大抵は夢精による射精のあと、事後的に認識することが多いです!
頻度は1ヶ月だったり半年空いたりするので、いつ来るか予測できません~;;
少女漫画とか恋愛小説とか読んでると、一緒にいて信頼できるパートナーがいるってことに、純粋に羨ましいな~と思う。
ただ一人でいる時間がしっかりないとストレスがたまるたちなので、積極的に求める行動はしてない~
好意を示されたり、仲良くしてくれるとすぐに喜ぶのでチョロいんだと思う!
肉体が男なので、性別を求められたときは”男”じゃーん?と言うようにしている(ドーキンス&ソーカルが言うように)
望みを言えば、美少女ボデーになりたい。
しかし、これは女性になりたいといよりも女体のフォルムにとても美を感じているから。
自分も自分の美的感覚に則った美しい存在でありたいという願望です!
恋愛対象は、女性でも男性でも僕の好きな要素がつよければどっちでも問題ないと思う
猫のかわいさにオスもメスもない、みたいな?あ、でも、女体のフォルムが好きなので基本は女性が好きです!
かわいいものが好きなので、自分がかわいいと思う要素が多い方が好きという単純な?理由
かわいいおんなのこを見ると「かわいい~!」となります。性的なことをしたいとは思わない。
かわいい服を見たときと同じように、自分もこうだったらもっと幸せだろうな~!という気持ちが強い。
好きなものに関われるのは幸せなので、かわいい人とは男女問わず仲良くなりたい気持ちはあります!
僕は子供の頃からちゃんとした大人(人間)になるぞー!という気持ちが強かった。
性的なものはいけないものです!という大人からの暗黙的な(或いは直截的な)意図を感じていたので、
純粋に「あ、性的なものを欲するのは、いけないことなんだ!」と考えていました。
他にも「人間は理性的であるべき」と認識していたので、肉体や感情からくる要求は理性で捻じ伏せるように頑張っていました!
小学六年生くらいで第二次性徴を迎え、女の子を見ると性的なことをすぐに考えてしまうようになった。
これまで培ってきた理性を突破し、本能に突き動かされることに恐怖した僕は、これをどうすれば抑え込めるのかを考えました。
まず、性的なことを考えてしまう(本能に従う)自分というものを強く嫌悪しました。
これはとても辛いことだったのですが、この嫌悪を乗り越えることで、性的なことを考えられない状況に追い込むことに成功しました。
つまり、「性的なことを考える自分」「それにに対する強い嫌悪」「自己嫌悪はものすごく苦しい」から「性的なことを考えるのは精神的にものすごく苦しい」に転嫁し、
「性的なことを考える」というのは苦しいことだと肉体に教え込ませました。
その結果、肉体は苦しいことをやめ、理性が勝利しました!やったね!
でも、成長してみたら性的なものって全然ダメじゃなかった!あんなに苦労したのに!?
中学生になって、自慰行為をしてみようと思ったこともあったんですが、やろうとした瞬間自分への嫌悪感から吐き気が・・・。
まあ、あれから20年たってるので、もしかしたらできるかもしれないけど、全くやる気は起きないですね!
野球部に野球知らないことをバカにされて、体育でルールも教えてくれないくせに野球させられたせいで、
因みに、別に親が厳しかったわけじゃないです!僕がめっちゃ理性的にあろうと勝手にがんばってただけです!!
おかげで怒ったりしないし、理性的で平和な性格に育ったので自分は満足してます~
「え~!こんなに頑張って人間(理性的)であろうとしたのに!?悲しい~;;」ってなったこともあったけどね。
そのせいで?(鶏が先か卵が先かみたいな話ですが)
僕は肉体の感覚(内受容感覚?)が薄いみたいで、体の不調が認知しづらいです。
会社に行こうと思ったら急に動けなくなって、病院行ったらうつ病と診断され休職したりしてます。(この12年で2回)
理性というか意識としては「え~?なんで?ある程度の休みは与えていたよね?」という気持ちです!
予防的に行動しても、結局不具合は起きるものなので、できればフェールセーフも用意いたいんですが、如何せん認知できないので難しい!
おまえらすみっコぐらしの映画が公開しているのに、すみっコぐらしの話をやらねえな。ネットのすみっこにいるんだから親和性はバッチリなのによ。
ただ、前二作にあったような思想の強さは今回はナシ。最後の方に取って付けたように「物を大事にするのは大切なこと」「なかまは大事」というメッセージを入れてくるけど、そこまで全体的なテーマとして表れているわけでもないしな。
というか、すみっコたちって結構ドライなところも多いから(今回の映画のぺんぎん(本物)に対するぞんざいな扱いなんかまさにそう)、なかまは大事と言われても、う~ん???という感じは割とする。
さてさて、今回の映画もいつものようにイントロで、すみっコたちのメインキャラクター全員の紹介から始まるので、この映画で初めてすみっコを知ったという人でも安心。
今回はすみっコたちが迷い込んだ森にある玩具工場を舞台に話が繰り広げられるわけだけど、予告編にこの工場には何か裏がある……?と、匂わせた内容になっているだけあって、中盤以降は急にホラータッチな内容になってくる。工場長の真相が明らかになるシーンや、みにっコたちが工場から脱出して街にたどり着くシーンはそこそこ怖い。
あと、ホラーを緩和するためか、ギャグシーンも多め。すみっコたちが工場から脱出するシーンは、かなりシリアスな展開にもかかわらず、妙なことやってるから変な笑いが出てくる。あのとんかつのラジコンカーはどうなってるんだよ。
そんなわけで、全体的にちょこまか動き回るすみっコたちが可愛らしく(非常に重要)、話としてもまあ綺麗にまとまっていて、ワクワクしながら見れる程度には面白かった。エンディング~エピローグの映画そのものも巻き込んだ話のまとめ方も、なかなか手の込んだ展開になってて好き。
でも、今回はメッセージ性を弱めにして単に子供が楽しめるだけの映画にしている感が強いのは確かにそうなんだけど、大人が見るとね、玩具工場のあれやこれがブラックジョークにしか見えなくなかったりする……。
玩具工場に迷い込んだすみっコたちは、工場長からのお願いもあって、玩具工場で働くことになる。
始めはみんな和気藹々と玩具作りをしていたんだけども、次第に工場の設備が改善されるにつれ、単なる流れ作業を淡々とやるだけになる。
仕舞いにはすみっコが機械に巻き込まれても、フェールセーフ機能が無かったり、その件ですみっコが大変なことになっても、持ち場を離れるなと言われたり、さらには過剰なノルマを突き付けられたり。
さすがにこんな工場で仕事なんかしてられるか!と、すみっコたちが反乱を起こして、工場を脱出しようとするけども、工場の入り口には見張りのロボットなんかもいたりして、前述の工場からの脱出の話につながるわけ。
いやもうこの辺は、大人目線で見ると、現場猫でも見ているかのようなブラックジョークの塊にしか見えない。
全くすみっコぐらしで、なんてことやろうとするんだ。
あと、そうそう今回の映画のテーマソングは「すみっコディスコ」というタイトルで、当然ながら「すみっコ」の単語が歌詞に入りまくりなので、最近のアニソンはアニメのタイトルを歌詞に入れないと嘆いている御方にはぜひお勧めしておきたい。
ノートの再考を申請することはできるし、反論ツイートをぶら下げることもできるし、そもそも反論できなくて何か問題あるか?
ただ、自分が言いたいことを言っているだけならツイートにノートがぶら下がろうとどうでもいいんじゃないか?
間違ったノートが付いたのなら再考を申請すればいいだけ。間違ったノートの尻馬に乗って騒ぐ人間がうざいって話なら、保存してノートが修正された後でさらし者にしてやればいい。
それなのに、一部の人があれだけノートを毛嫌いするのは「いい加減なこと言ってるのがバレるから」でなければ「リツイートしてもらいにくくなるから」だろう。
(前者の理由で嫌ってるような人間なら影響力を削がれて当然で、それはよいこと)
昔、リツイートが盛んになり出した時、間違いや一方的な情報がリツイートで拡散して、あとで間違いとわかっても修正できないことが問題視されてた。
実際いくつも深刻なトラブルもあって、何度も元ツイートを検証してそれが拡散先で表示される機能があればと言われていた。それが実装されただけでは?
ノートは議論のためのツールというより、リツイートの暴走のブレーキとか害毒の解毒剤と考えたらいいかと。
今までリツイートの拡散機能があまりに便利で強力だったのに、その暴走を掣肘する仕組みがなかった方がおかしかった。
リツイートの連鎖に水を差しやすいのはフェールセーフと思えばやむなし。
ネトウヨに自分の意見に水を差されてムカつくってのは、実は社会全体で見れば本当に些末なこと。
個人的には拡散を意図したすべての書き込みにノートが付いたっていいと思う。
どうしてもノートを付けられたくないなら、リツイート禁止・おすすめ停止(拡散拒否)にすればノートを付けられなくするような仕組みにする方法もあるし。
食品衛生法では、飲食店は食材と食器の洗浄を別に行えるよう2槽以上のシンクが必要となっている。つまり三角コーナーの無いきれいなシンクが存在するってこと。家庭で掃除用スポンジを分けないのは不衛生。
全部間違ってる。
家庭でスポンジを分けないのが不衛生かどうかは、洗い用シンクが存在するかどうかではなく、シンク用スポンジを使って食器を洗ったときに有害物質が残るかどうかで決まる(間違い①)
有害物質が残るかどうかは科学の問題であり法律の問題ではない(間違い②)
食品衛生法は飲食業界向けの法律で家庭を対象としたものではない(間違い③)
ちゃんとすすげば菌は残らない研究成果はあるし、それ以前に食器を洗う前にスポンジをちゃんと洗って洗剤をよく泡立てて使わないとダメ。これはスポンジが食器専用だろうがシンクに使おうが変わらない。要はスポンジ分けろは、フェールセーフの意味は多少あれど、実際はお気持ち根拠のマイウェイの押し付けでしかない。
このブクマカは論理に飛躍がありすぎる上に、問題を正しく捉えることすらできていないので、いずれググった生半可な知識で食中毒を起こすから調理には関わらないほうがいいと思う
子ども作らないと後悔する系の論で一番気になるのは自分の子どもが障害持ちで一生世話見るだけの人生になっても同じこと言えるかどうかって話なんだよな
一見博打に勝ったっぽい、公立学校から東大合格みたいな子ども産んだとしたって、就職したらアスペだから使い物になりませんお払い箱ですってなってずーっとこどおじニートされたらどうするつもりなんだろう
あるいは一生寝たきりで喋ることもない、みたいな重篤な身体障害を持って生まれてきたとして、今その状態でも運が良ければ成人ちかくまで生きるんだよ?
その間ずっと喋りもしないのにでかくなるだけの肉塊に対して何万も払っても「子どもを産んでよかったなあ」って本当に思えるん?老後は生活保護みたいな生活になりかねないのに?
いくらなんでも博打がハイリスクすぎてきついよ。ハズレ引いたらその負債を生涯負わされなきゃいけないと思うと、途中で損切りすることができないんだからそもそも産むというリスクを取らないようにするしかない。
個人的に産んだ後の金銭的な補助とかより、そういうやべーやつ産んだ時に何歳でもそのまま引き取ってくれる施設がないと出産のリスクがあまりに高すぎてキツい。
家とかクルマと違って失敗した時の人生に対する損益が重すぎるんだよなあ。本当に取り返しがつかない失敗はやっぱできない、その責任は取れないし取りたくないもん。フェールセーフの仕組みを作ってくれれば産んでもいいかなとは思うけど。
単なるブコメへの雑感
雨で運動会が順延したら失敗かというブコメにスターが集まってるが、正しい設例は「安全配慮不足で運動会を延期して怪我人は出なかったら失敗か」で、普通は失敗だしこれ褒め称えるんだ?って思う人がいるのはわかる
違うな
安全配慮不足に至っては、なんだか分からない、怪我人は何に対比してるんだ?
ロケットと対比するなら、運動会の場合、問題なくすべての競技をする事が成功と「定義」し
順延しても、設定された予備日で賄えるなら「成功」だという視点に立てなければ
対比した考えなんてできない
(でも無理があるだろ?)
少しでも何かあったら「中止」だ
そして、予備日が沢山あるんだよ、打ち上げはな
今回わかった原因は、「ブースターへの着火信号が出ずブースターが機能しなかった」だ
着火信号が出なかったのはイレギュラーで、それを受けてブースターが動かなかったのはフェールセーフが発動したから
打ち上げて爆散させたわけじゃない
だから、中止して延期
ロケットも、衛星も失わずに打ち上げを中止できたのだから、失敗ではない
出水や崩落などの「想定外」が起こって遅滞したら「失敗」なのか?って話
運動会に当てはめるとなんだろうな?
パッと思いつかないが
怪我人なしってのを成功条件に含めるなら、神経質に中止を行って、結果けが人が出なかったのなら、それは「成功」だ
異常を発見して飛行機が飛ばなかったら、乗りたかった人は怒るだろうが、飛ばして墜落するより何倍もマシな「成功」だ
それを「止める事が出来る」というのがどれだけ素晴らしいか
文系()にはわかんねぇんだろうなぁ
そこら中で「止められなかった陰惨な事故」が多発しそうだよな
大日本帝国はそれを繰り返して滅んだんだぞ?
たとえばこれがどうしようもない自然災害による中止なのだとしたら「いいリハーサルが出来た!ガハハハハ!!デカイ神輿を肴に酒でも飲んで今日は帰ろう!ガハハハハ!!!!」もアリだと思う。
でも実際には「予定していたリリース日に」「原因不明の失敗」。「フェールセーフにて一命は取り留めたが」「大損害を被っていた可能性」。
これはかなり不味いだろう。
俺が陰謀論者なだけかもだが、共同新聞のアホはヘイトを逸らすための仕込みとかだったんじゃねえのか?
あまりにもどうしようもないだろコレは。
単に日本だから皆甘めに採点してるだけで、これが中国・韓国・北朝鮮・ロシアだったら指差してゲラゲラ笑って「失敗も認められない哀れな言論統制国家wwwww」みたいな扱いだったんじゃねえのか?
とにかく最悪なのは「よく分からんけど警報が鳴りましたね」で終わってしまっている所。
いやお前さぁ……フェールセーフのシステムの誤作動なのか実際に条件が揃わなかったのかの分析が出来ねえならそれはセンサーの作りが雑すぎるって今どき。
エラー出ました原因不明ですなんてウィルスバスター未満じゃね―か。
たとえばこれで「問題点は洗い出せました。少なくとも同じ不具合による中止は二度と起こりません。我々が関わるロケットでは」まで言えたらよっぽど間抜けじゃなきゃ「失敗」とは呼ばんだろ。
賛否両論になる理由はこれが実際に「失敗」としての側面があるから。
皆JAXAに甘すぎるね。
自分の車が納車された日に「あれ?なんかフェールセーフかかってますね?アレレレレレレ???とりあえず工場に戻しますね。アレレレレレ???それとこれカスタム結構はいってるから同じ車じゃないと駄目なんで~~~原因わからないと納車無理っすね~~~」って言われたらどう思う?
「事故る前に気づけてよかった~~~。次もこのメーカーのをこのお店で買おう~~~」ってなるか?
俺なら「(は?弁償とかないの?新車でやろうとしていたこと普通にあるんだけど???つうか謎のエラーってなに???何このクソメーカー。つーかこんな車乗って大丈夫か???)あの~~キャンセルとかって可能だったりは~~~?」ってなるかな。
貧しかった学生時代の名残だろうかと思いながら生活してきたが、30代になっても全然変わらない。それどころか使い古されたものの方が好きになってしまった。中古品には誰かの影が残っていて、耳を傾けるとものを言う。昔の何気ない日常を熱心に語る。そういうのを聞くのがすごく好きだ。
車も中古車だし、服も靴も半分は中古だ。椅子は中古のコンテッサ。パナの加湿器もモンベルのテントもクリステルの大鍋も中古。これは蓋が別売りなのだが、それも中古。鏡面仕上げの隅に磨き傷がある。その他に目立った傷はない。気軽にクリームクレンザーか何かでひと拭きしたところで、粒度が粗すぎたことに気づいたのだろう。
フェールセーフは機能したが、蓋を閉めるたびに自分のミスを突きつけられているようで我慢ならなかったのだ。ところが私は他人である。他人の些細なミスを引き受けるのは容易い。その蓋は「本来そういうもの」なのだ。少し奮発してぴかぴかの鍋を買い、うっかりから無用の傷をつけてしまったことにどうしても耐えられなかった。この悔恨の情が彼女の影を色濃くし、おでんを味わい深くする。
オーブントースターは知り合いの厨房のお下がりだ。ボロボロの佇まいが妙に魅力的で、もう使えないというのに無理を押して譲ってもらった。洗い場の棚にあったもので、戦場の罵声と泡まじりの飛沫にさらされ続け、2015年製とは思えない錆び方をしている。引き取るとき「グラタン用だったから...」と口を濁していたのが印象的だったが、電源を入れると漂うチーズの香りで腑に落ちた。私の好きな磯辺焼きがまずくなるため、しばらく使っていたのだが捨ててしまった。
正直にいうと中古の電気シェーバーを買ったこともある。先回りしておくが、いくらなんでも刃は取り替える。一応健康リスクという言葉くらいは知っている。だが日常的に使いこんだ道具には特別な魅力がある。いずれ中古住宅も買うだろう。割れた石畳が並び、炭酸カルシウムのこびりついた亀の子格子がついているといい。長く使われた板の間はゆるやかに窪んでいて、松の木は取り返しのつかないほど枯れているといい。秋めいてきて、私は出どころのわからない隙間風を止めるのに必死になる。これは懐古趣味が行き過ぎていると思う。
食器も中古の方が好きだ。それもできるだけ多くの人の手に渡ったものがいい。骨董屋も好きだが、掘り出し物を探しに行くというよりは単に古い食器を見に行く。欠けたり萎びたりしているもの、古いものほどよい。こういう目線も一つの美観だと思えなくもないが、その一方で品評基準や技術的なことはあまりわからない。開き直ったように、不完全な主観を甘やかしながらものを愛している。貴重性のようなわかりやすいものなら理解できるのだが、知れば物怖じの原因になるだけだ。かといって知らないまま使って台無しにしてしまっては寝覚めが悪い。人並みの道徳心が働く。したがって、ただ古いだけの日用食器が一番よい。器の前に座った昔の人々を想像しながら、手の中でくるくる回して欠けやひびに入った汚れを眺めるのが好きだ。あまり酒は飲まないが、熱い湯を李朝の徳利に移してから注ぐと、300年前の丸い赤ら顔がうっすらと蘇ってくる。底座はすり減っていないがヒビは濃く色づいている。清潔な卓の上で大切に使われていたに違いない。奥の間の文机には美しい硯が置かれていて...
状態が良い中古もまた良い。大切に扱われてきたものには独特の緊張感がある。タグが破れかかるほど繰り返し洗濯されているのに、型崩れもせずきれいに保たれている服。裏返しにしてネットに入れ、丁寧に洗って乾かしてもらっていたんだろう。自分は几帳面な人ではないので、几帳面の染み込んだ服は神々しくさえ見える。隅に手垢がつくほど読み込んであるのに、折り目の一切ない本を見たことがある。それは大正後期の本で、日焼けして小口にはポツポツとカビが生えていたが、中は一昔前のCGみたいに均一だった。人が何度も開いた本は湿気を吸ってごわごわしていくので、それとわかる。奥付に強い朱色で購入年月日が書いてあった。尾の長い達筆だった。日常生活を勝手に楽しまれるのは気味の悪いことかもしれないが、増田に書くぐらいはよかろと思う。
本は好きでも間の悪いことに古典や思想書が好きだ。浅学なので最先端の思想や技術を吟味するような知識はない。開拓された新天地を後から眺め、「おお」とのけ反ることしかできない。だから勧められて読むことはあっても新刊あさりをすることはない。死ぬまで教わる側だろうと思う。買うのは電子書籍を優先しているが、それはスペースが足りないからだ。遠慮なくびっしり引いた傍線や、付箋や、日付入の署名はいつでも恋しい。折り目もないよりはあった方が好みだ。
新しいものというのは、誰にも使われていないものだ。時代の御沙汰を経ていないものだ。自分には後世に残すべきものを見抜く目がない。最大多数の最大幸福というものが、わかるようでまるでわからない。誰かが作ったものに勝手な理屈でうなずき、あるいは名批評の情熱を譲り受け、誰かの生活を勝手に愛することくらいしか幸福に向けた積極性を持っていない。でも世の中の多くのものの価値は、そこにくっついた誰かの影ではないかという気がする。誰かの生活を愛する時間と時間の間に、それらの記憶と記憶の隙間に、ガスのように後の未来からゆっくりと幸福が満ちてくるのではないかという気がする。中古品を買い漁っているとき、この作用に期待しているという自覚がある。それらを構成するのは自分の記憶でなくとも良いのだ。
作った場所から直接やってきたものが、何か恐ろしい未知の存在に見えることがある。そこに何が宿っているのか、自分の目には判断がつかない。それはひとりでに明らかにはならない。誰かが指摘してはじめて、私達は宿るものの姿を見ることができる。ここまであえてこの言葉を使わずに来たが、どうしても気持ちが悪いので書いておく。私はこれが魂だと感じている。私が勝手にものの中に見出し、呼びかければ話し出す誰かの姿。恋人にもらったネクタイに宿ると感じるもの。死んだ犬の首輪に宿るもの。それに触れた子供の指に宿るもの。それを見た私の目に宿るもの。こうして文字にしたことでどこかのあなたの目に宿るもの。言葉と物とが受け継がれる中で、それは形を変えながら宿主を移り、誰かの指摘によって唯一性を獲得しながら無限に増えてゆく。歴史は生活の集合であり、魂の集合であり、決して失われない無限の価値だ。こういう虚構を片手に中古品を愛でている。あと中古品は安い。そこもいい。