はてなキーワード: ダイバーシティとは
精神だとそもそも電車に乗って通勤するのが体調(精神)的に厳しいから通えなかったとかはないやろか?
体調が思わしくない時は、幻聴がしたり、被害妄想や加害妄想が出やすいとかあるやろ?
それが満員電車だと体調のせいなのかガチなのか分からんくなるやん?
非常に不謹慎なことをいうと精神の場合は新たな設備を用意する必要がないんだよね
あと重篤な病気や身体の障がいと違って会社で死んだりする可能性が少ない
なのでダイバーシティのアピールをしたい会社であれば設備投資しないで雇えるので
なんとか通勤ができれば職があると思うんだ
あとやっぱり親戚の誰かや知人の誰かは鬱なり精神系のなんかになったりするご時世なので
純粋に力になりたいって方々もおるで
大変だと思うが諦めないで欲しい
いや衝撃だった、あのシーンは。
自分としては、今年観た映画の中で最も衝撃的なシーンだった。
原作小説や実写映画は未読・未見だったのもあってあまり期待せずに劇場に来て、
……というような感じで、元々低かった期待値は終盤になっても更新されることはなく、自分の中では「駄作」ではないけど、せいぜい「凡作」くらいの評価で終わるのかな…
と思っていた。終了15分前のあのシーンまでは。
作品がいよいよクライマックスに入ろうかというタイミングで、突然ある登場人物がとった行動。
(え、ちょっと待って、まさか……いや、でも深夜アニメならともかく、これは「そういう作品」ではないだろう…………え、嘘、マジで!!!!!?????)
それまでのあまりポジティブではない印象が全部吹っ飛んでしまった……。
しかしあまりにも唐突過ぎないだろうか……いや、確かにあとになって思うと「伏線」と言えなくもない描写はいくつかあった。(深読みすると、公式サイトのキャッチコピーも…)
でも、その登場人物が「そっちの選択肢」ではなく、無難な、というかありがちな選択肢を取ったとしてもなんらおかしくないくらいさりげなかったし……
いや、やっぱり取ってつけた感は否めないぞ…。それに、○○要素を入れるならもっと作品全編を通して描くべきでは?
…と思ったが、そうなると完全に○○作品になっちゃうよな…。特に思い入れがない自分としては大歓迎だが、原作や実写版のファンからすれば
「原作付きじゃなくてオリジナルでやれよ」ってことになるのかな…。だとすればこれがギリギリのラインだったのか…?
(ただ現状でも星雲賞のメディア部門やコミック部門に並ぶいくつかの作品が「SF作品」である以上には、この映画は「○○作品」だったとは言える)
でも、この作品に○○要素を持ち込む理由は…? チェーホフの銃の原則からすると、あの登場人物が○○である必然性はなかったのではないか…?
……いや、そもそもそんな「必然性」なんていらないのかもしれない。ダブル手帳氏がブログで
と書いていたように、○○も「何の理由もなくアニメに登場してもいい」のかもしれない。
実際「あのシーン」のあと、どの登場人物も茶化したり、嫌悪感を示したりすることなく、ごく当たり前のこととして受け入れていた。
これを「ありえない、非現実的だ」と思う人もいるかもしれないが、ダイバーシティの観点からすると極めて真っ当な描写なのかもしれない。
(だがその一方で××を笑いものにするシーンがあったりするので、脚本家の人そこまで考えてないのかもしれないが…)
ぼくは同性愛者(男)。
でも、多分ホモじゃないんじゃないかなと思っています。多分、ただの同性愛者です。
同性愛者なので、うしろにいれたりだしたりすりし、ちんこもしゃぶるし、めちゃくちゃ格好いい男性には欲情します。
でも、無言の抑圧というか、「お前は仲間にしたくない」という雰囲気は、いつも感じています。
自分は、めちゃくちゃ女の子と付き合ってそうな、いわゆる「今風・前髪系」と呼ばれるような、イケメンではないし、
ホモの象徴というのかわからないけど、「ゴリゴリのマッチョ」でもない。
また「GMPD」と呼ばれるような、太っているわけでもないし、ガリガリでもない。
要するにホモとして浮いているのだ。
かわいくない、かっこよくない人は「ブス」でひとまとめだ。もちろん、自分はブス。
ステータスがなければ人権もない世界である。(これはどこでも同じか)
また、カルチャーとして必須でないといけないようなものとして、
「浜崎あゆみ」「倖田來未」「ハロプロ」「AKBグループ」といった、アイドル的存在の歌手については、全員曲を知らないといけないらしい。
自分はもともとキモオタだったけど、アイドルは興味ない。学生時代はそれを合わせてロキノン系バンドをめちゃくちゃ聞いたし、今ではヒップホップのほうが大好き。
なので上記アーティストは目の片隅にも入っていなかったが、飲みに行くとすると「ゲイであれば歌えて当然」であるようで、それがとても自分が苦しく感じる1つになっていた。
Twitterで話題になっている元風俗ボーイをやっていた方のTwitterを見ると思うのは唯一つ。きれいにかけてるなってこと。
批判するつもりもないし、本当にホモの感じが出ていて共感ができる。
が、これまた上級者じゃないが、上澄みなので、ちょっと読んでいて「自分とは違う世界の人間の話だな」と感じている。
パレードを行っているのを見たりすると、記事とかでよく見かける「ダイバーシティ・多様性」。
受け入れてほしいような主張をするが、実際はというよりも他人を受け入れたくないような、壁しか感じない世界である。
きつい言い方すると、「小学生がお酒飲めるようになったような感じ」である。本能動作がすごい。それもまた、理解しがたい。
同性愛者だけど、自分は「ホモ・ゲイ」として名乗れるかというと、多分「同性愛者です」って言うと思う。
ただ同性愛なだけ。
あの人たちは、
自分は一体どこにいて、どこに生きているのだろう。わからないな。
悲しい寂しい男の話はこれで終わりです。
結局定性的なもんだから都度議論するしかない。弁護士集めて回答聞いたって意見が割れるんだから。
んで最後は多数決になっちゃうわけで、じゃけん偏らないようにダイバーシティな職場にしましょうね~につながっていく。
さらにそれは現実的にできないから全部安全サイドに倒しときましょうね~となり、最終的には画一化された基準になって自由を求める活動家が産まれて・・・のループ。
当たり前だけど、絵だろうが裸ならアウトだよね。微妙な線引きの話してる時に「じゃあ絵ならヤッてる絵でもいいのか!」ってのはおかしいのよ。線引きは常に微妙で、だから「肌が何パーセントはダメ」みたいなよく分からん指標を作らざるを得なくなる。
なにを言いたいのかさっぱりわからなくなってしまったので、ただ書き散らかした文章になってます。ごめんなさい。
・ジャンプについて
週刊ジャンプに女性が配属されたことはない(はず)。週刊ジャンプ編集部はバイトもほとんど入れていなくて、ほかの部署ならアルバイトさんに作業してもらう
作家さんへの発送作業とかも自分たちでやる(前に聞いたときは)。
ダイバーシティとは程遠い状況ではあるけど、女性にめちゃくちゃ受ける作品は定期的に生まれているので問題視していないのでは。
逆に+に女性が配属されたのがホントなら驚き。もともとジャンプから派生した部署だし。
でも、WEBとアプリ、という媒体の特性上必要と思ったのかもしれない。
あと、ジャンプといえば純血主義。新卒の時にほかの部署に配属された人がジャンプに異動することは基本的になかった。
鳥嶋さんみたいに、一回出てまた戻る、とかはあるけど。基本出ていくだけ。
これは確かにある。ラッキースケベ、覗き、いろいろと女性性を搾取している、と取れる表現。
読まなければよい、という反論はできるが、ほかの作品目当てで読んでも目に入る可能性はある。
そこは賛同する。
編集者は創作者ではないけど、その周辺で創作の手伝いをする立場。
で、基本的には創作者は生活のほとんどを割いて作品を生み出す。
それに対峙する編集者がなかなか適正な労働時間で帰りますんで、とは言えないよね。
もちろん荒木先生とか秋本先生とか、きっちりしている方はいるけど、例外だからこそよく取り上げられるわけで。
少なくとも、集英社に限らず、自分で生み出せない立場で創作者の都合を優先しないと思われる人間は、採用されないよね。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこのイベントに対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、今年の事を書いてみる。
この条例は報道以上に効果があったと実際に現地にいると感じる。しかしこの条例は単に仮装者が羽目を外しすぎないようにするという印象とは異なり、数年来発生していたある問題を解決できたことが大きい。それは①酒の無許可販売②警備がなくなる深夜~早朝帯の乱痴気騒ぎ問題であった。
① 酒の無許可販売は2016年頃から見られるようになる。2018年のハロウィン当日には20名ほどの人が、テキーラやウオッカなどを販売していた。個人が勝手に販売する方が多いが、飲食店に雇われた売り子も、年齢など見境なく度数の高い酒を販売するのはよろしくなく、またルールなしの状況下では、酒の品質低下はもちろん、密造酒販売の可能性も発生する恐れがあるので、2019年に歯止めがかかったのはとても良かったことだった。
しかし2019年10月30日でも数名、31日当日では確認しただけで少なくとも5名が販売していた。仕入れたビールサーバーを背負い、仮装で隠した売り子は、マスコミのカメラの前で「規制の事実は知らなかった」と笑顔でのたまうずぶとさで、このような場でどうしても鬻ぎたい山師と企業は今後も出てくるだろう。
② 警備している警察官や警備員も人間なので、夕方から翌朝まで全力で雑踏警備を行うのは不可能である。大多数の方が帰宅した終電以降は警備人員もほぼ撤収するので、その時間帯に騒ぐ人々に酒を与えないという目的があった。2018年の軽トラックを横転させる事件は、深夜2時~3時に発生し、動画をよくよく見ると、トラックの周りで騒いでいる人は、誰も仮装をしていないという事が確認できる。毎年ネット上に上がる喧嘩の動画もそうだが、現地に行ったことのある人は「その喧嘩が起きている場所は、ハロウィンが発生している時間帯は人がすし詰めで、殴り合うだけのスペースはなく、これは人が少ない深夜に発生している」と直感として把握できるのだが、ネットや報道だけで情報を得て想像を膨らませている人々にとっては、四六時中喧嘩と乱痴気騒ぎが起きていると解釈になっている。
警察は「将棋倒し」への対策に苦心している。過去何人の人が圧死しているこの現象は、起伏が少ない渋谷の底である宇田川の上に集まった人々にも起こることで、仮に発生した場合は目も当てられない大惨事になる。2016年にホコ天を設置したのも、これが理由である。今年の警備は警察官と警備員が協力して、センター街に集まった人が撮影や雑談で滞留しないように、しつこく動くように声をかけ続けたことが大きな変化であった。結果は当日の19時までの人手であればこの方法が有効に機能していた(対応する人員の疲労は目に見えて明らかだったが)。当日に渋谷に集まる人々はすさまじく、19時には路上の収容人員がパンクしてしまい、そこから全てのホコ天が開く21時までは非常に苦痛な状況であった。
実は渋谷区としては、昨年の騒ぎがなければホコ天の先や、別にサテライト会場を用意し、混雑の分散や、「共感」という目的のために来た人々の一部マインドを消費に回すことを少しながらも実行に移せていた状況であったが、上記3点の安全のためと、マスコミのネガティブ方向への報道癖がついている状況下で、前進する対応が取れなかったのは彼らにとっても残念なことであっただろう。
ゴミ問題について毎年思うことを今回書こうと思う。今回はコンビニと名指しするが、自動販売機を除き、他にめぼしい外に持ち出せる飲料や食事を販売する店舗が見当たらないのにも関わらず、自店舗で出したゴミを回収させる為のゴミ箱を設置しない上に、
店舗の目の前で飲食した客が路上に落としたゴミを、「街が汚れたのはマナーのせい」で、
後始末を行政とボランティアに全て丸投げする納得できない状況が毎年続いている。
明け方でなく、ハロウィンのコアタイムにセンター街のコンビニの前で、コンビニから出たゴミを拾う警備員と、それを眺めるコンビニ従業員の様子をネットに上げてもいいぐらいである。普段から責任を全て若者と行政のせいにしている姿勢の店が一定数あるからの行動なのだろう。新しく出店しているケバブ屋やタピオカ屋にはあり、関係ないのにわざわざゴミ箱を出す店もあるので、そういう店の姿勢に客も合わせてやっているんだなと感じる。
今年の特徴は「ダイバーシティ」である。昨年は日本のあらゆる立場の人々が集まるヤミ鍋状態と表現したが、今年はその鍋にラグビーW杯の観戦に来た欧米の観光客が大量に押し寄せた、日本文化にリスペクトしてわざわざ来日したわけでない欧米文化圏の人、更に増え続けるアジア系技能実習生と、中国の大型連休が重なり、当日でも3割~4割は外国人の様相で、欧米文化における「ハロウィン」なる文化と日本の「はろうぃん」、アジア圏の方々が更に解釈した「ハロウィンのようなもの」の3つ巴の衝突が起きた。記号に頼らない私の考えるハロウィンの仮装だらけである。
ギャラリーも酒が入っていないので、それでも人が多いが、仮装した人同士で盛り上がる場に割り込んで、観光欲を満たす行為は多少減ったように見られる。
コスプレは、衣装やメイクを作りこみ、撮影による仕上げにより、世界観を作り上げる一連の行為とした場合、仮装は世俗における一瞬のなりきり、又は社会を風刺していく行為で、その出自がかなり違う点を理解したい。
参加した人々を傍観する人々
カラーギャングの時代から街の浄化作戦を街頭で行ってきた商店街からすれば、深夜に“ボボボ”とやってくるヤンキーは「またかよ」という気持ちだろうし、当時精力的に活動していた方々の年齢問題もあるだろうから、マスコミに叫ぶ気持ちはわかる。ヤンキーも、地域社会に受け入れられず、持っている力と金を余らせている上に、承認欲求が人一倍強いので、入り込める余地があれば求められなくてもやってくる。しかしヤンキー同士のコミュニティが強固な為、仲間を差し置いて仮装している集団に入れないし、クラブに行って踊ることもできないジレンマがある。さっさとコミュニティ変えろとしか言えない。パンチラスポットでパンチラを見ているような、下半身の欲求で来ている輩と存在感がどっこいなのに気づいていない。
ネットや報道で分かったフリをしている人々も厄介である。2018年に渋谷区へ来た抗議数百件の内、ほとんどが区民でない人の抗議であったという報道が示すように、自分の知らないところで楽しそうにやっている人を嫉妬する傍観者も多くいる、ニューヨークやロンドンと同列にして問題を語っているような国際的な街と、あなたが住んでいる町が同じでないのは当たり前で、そこで起きているイレギュラーな問題を必死に解決している人と、その大小様々な果実を受け取っている人をあざ笑っても、仕方がない。芸能界の恋愛事情に一喜一憂するぐらい不毛な事柄である。
現地にいると、さも当然のように、さまざまな人種・民族が、さまざまな年齢・性別が、
さまざまな社会的背景を持つ人が、それぞれの文化背景を元に、又はそれらから開放されるための仮装をしている。
資本主義が求めるダイバーシティである、(金をより稼ぐために)優秀な様々な立場の人が活躍(生産)できる都市ではないかもしれないが、実はその概念が最も実現できている環境がいまの渋谷ハロウィンにあるのは非常に面白いことである。都市は、生き物のように変化していき、日本の首都である東京でさえ、不意に訪れた雑踏の流れ、物事の速さに追いつけず、傍観者を大量に生み出しているのはとても味わい深い。
以前から多様性を認めよという論調にかすかな違和感を感じていた。多様性は認めようと認めまいとそこにあるじゃないか、なぜそれが認められていないから認めようという発想が出てくるのか?と。
実際私の目には世の中には多様性しかないように見えていた。誰しもが生まれが違うし、得意なこと、出来ないことが違う。
だから、多様性という言葉は性的マイノリティの権利を主張するための言葉に思えてもいた。でも、それなら多様性とまで言葉を広げなくてもいいように思えたが、しかしやはり多様性の大切さを訴える主張を読むとマイノリティの人権だけではなくさまざまな人の多様性を認めよという主張らしい。
だとすると今既に多様性は存在しているし、それは認めようと認めまいとそこにあるだろうという実感がまた頭をもたげる。本当に不思議だった。
だが、ややあってそれを主張する人々の多くがおそらくインテリ層に所属する人々ではないのかということに気がついた。ここではインテリ層を身の回りに大卒の人ばかりしかいない人々を意味させてもらう。きっとそれだけでインテリか?と思われるだろうけど、私は学校の先生以外に大卒者に触れることのない育ちをしたので、親兄弟みんな大卒という人々はやっぱりインテリに見えるのでそう呼ばせてほしい。
そして、そこから導き出された答えは単純で、多分インテリ層には多様性がないのだ、というものだった。
想像だが、中学校から(人によっては幼稚園から)私学に入りより良い大学に入りより良い企業に入って安定した暮らしを目指すといったような世界では、きっと私が実感している生まれや育ちの違いといった多様性などはなかなか無いのだろう。
そう思えば、多様性を認めよと主張する人たちがいることに納得ができた。
そしていいことだと思った。そうした人たちが多様性を大切だと思わないとしたら、新たなエスタブリッシュメントになって行くだけの未来しか見えなかったからだ。
ただ、それでも疑問が残った。多様性を認めよという人が貧しい人々を支援するのは行政の仕事だと言い切っていたのを見た時だ。本当に多様性を大切にするのなら、貧しい人々を自分たちのコミュニティに迎え入れるというような発想にはならないのかと思ったのだ。
そして今日、ある言葉を知ってその疑問も一応晴れることとなる。その言葉は、「縦のダイバーシティ」と「横のダイバーシティ」だ。
縦のダイバーシティとは貧富の差や能力の寡多を指し、横のダイバーシティとは性質や能力の種類を指す言葉らしい。その言葉を発した人は、縦のダイバーシティより横のダイバーシティの方が重要だと言っていた。
ああ、多様性を求める人たちは縦のダイバーシティではなく横のダイバーシティを求めていたからこそ、貧しい人々は行政に任せて自分たちで包摂しようとはしなかったのか、というように納得してしまった。
私に見えていたのは縦のダイバーシティであって、彼らが見ていたのは横のダイバーシティだとしたら、私には多様性がそこにあるように見えるのに彼らはそれが無いと言わんばかりにその必要性を訴え続けていたのも当たり前ではないか。
そしてさらに飛躍するのなら、彼らが唱える多様性を尊重するという題目は色々な形で不利な人々を包摂する思想ではなく、自分たちのコミュニティをより強くするための思想だったのだ、などとまで思った。
もちろん、それが思い過ごしなのはわかっている。ここまで書いた色々な人の話も、当たり前だが一人の人が発した言葉ではなく様々な人の言葉であり、そこに一貫した主張や裏の意図を見出す方が間違っている。
だが、利己的な動機が一見きれいに見える言葉で飾られていて、しかもそれを発する人々が無自覚なのだとしたら。
その滑稽さは私には耐え難いくらいに醜い。