はてなキーワード: 記号とは
元増田じゃないけど、選ぶ選ばれないって何の話だ?まさか化粧は男のためにやってるとでも思いこんでる?
https://jp.stanby.com/magazine/entry/2300167
上記以外にも、新聞表記と正式名称が異なる会社があります。新聞などで見慣れている分、正式名だと勘違いしてしまいがちなので、気をつけたいですね!
当方、女
男性向け清潔感を上げる美容法(肌の保湿とかのやつ)がホッテントリに入り、めんどくせーと思った人も多いのではないか
増田もめんどくせーと感じている。降りたい。切実におりたい。現実の異性に興味がなくなった喪女の腐女子なので、最低限社会人としての身だしなみを整える程度で十分なのだが、社会人としての身だしなみのハードルが高すぎおりられない助けてという感じ
増田は肌遺伝子ガチャで負けた脂性肌であり、鼻の毛穴とか顎の毛穴が黒い。いわゆるブラックヘッドってやつ。保湿してレチノール(脂性肌トラブルにエビデンスのある成分)塗ってやってるけど多少マシかなってレベル。やらないともっとグロ画像みたいな鼻の全毛穴が黒くなるからやるけど。清潔感ゼロなので化粧で隠してさらにマスクで隠してるけど降りたい
次に髪。これも遺伝子ガチャに負けて多毛の剛毛くせ毛で髪が広がりまくりなので、清潔(サラサラでまとまりのある髪)に見せるために縮毛矯正、トリートメント、月1で美容院で毛量調整が必要で、無染色の黒だとしめ縄みたいな髪質ゆえ中学生みたいなのでほんのり茶色にしている。プリンになるので毛量調整と同時に根元の髪を染める。降りたい
次に睫毛。清潔かつ化粧をしていますよというイメージ作りにためには丁寧な睫毛メイクが重要なので(睫毛がきれいに整っていてカールしていると目が清潔に見える。よくわからない人は清潔感のない睫毛の例として「ダマ 睫毛」でググったらわかるかも)毎朝丁寧にマスカラを塗り、睫毛をカールさせている。増田はまぶたが分厚いのでカールさせないと睫毛が下を向き、いかにも化粧してない感じになるんである。もうこういう時間や手間から降りたい
でもこれ、全部辞めると、増田の顔立ちの問題もあるんだけど、中学生にもおばさんにも見える、悪い意味で年齢不詳の人になる
だから化粧してますよ、手入れして清潔感という記号を理解してる大人ですよっていう無言のメッセージが必要なんだけどね。いやクソすぎる。降りたい。このお金と手間を趣味に費やして生きれたらどんなに幸せか
清潔感なんてクソ喰らえだよ。生まれつき肌が綺麗とか、生まれつき髪質や量が丁度よく生まれた人や、生まれつき二重で睫毛が上がっててきれいな人に、そっからはみ出たタイプの人間が頑張ってそこに寄せていく作業だもん
https://togetter.com/li/2424053
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2424053
ブコメにも本文にもこのシーンの可笑しみが読み取れない人がいるようだ。
作者は読者を信頼して「ギャグ的な記号」をあえて抑えてコミカルなシーンを描いてくれてるわけで、それが伝わらないリアクションがあるのは残念。
その読解力に合わせると演出のレベルを下げざるを得なくなってしまう。
でも反応が寄せられるとどうしても意識して、伝わるようにわかりやすいギャグ記号入れたほうがいいかなって誘惑がよぎるようになるんだよな。負けないでほしい。
突然のご無礼失礼します。しかし、残念ながらおっぱい ≠ 胸です。
みなさんがおっぱいと聞いて思い浮かべるものはなんでしょうか。
あの神聖なる球体です。
その証拠に、男の胸はほとんどおっぱいと呼ばれません。男のおっぱいというと大きく違うイメージになりますね?
おっぱいは乳房でもありません。乳房ならば、房さえあればいいのです。
しかも乳房はかなりフォーマルな場で使われます。したがって意味も限定されます。エロすらない。
みなさま、すでに混乱してきたと思います。「おっぱい」とはなんなのか。わかりますか。説明できますか。
巨乳。
実は巨乳というのは男性がよく使う言葉です。女性でも使いますが、エロが含まれているのが巨乳です。
その証拠に「おっぱいが大きい」と「巨乳」でGoogle画像検索をして違いを比べてみてください。全然違います。
それに男性が「おっぱい大きい」と言うのは変態に聞こえます。なかなか他人の胸を指して「おっぱい」とは言いにくいのでないでしょうか。
それよりも「巨乳」と客観的に評価しないでしょうか。どちらも卑猥で下品ですが、「巨乳」の方が一線引いている印象があります。「おっぱい大きい」は距離感がだいぶ異常です。
話がそれました。
ともかく「巨乳」には「自分ではない女性が持つおっぱいに向けたエロ」という意味が入っているのです。これが重要です。
胸が小さい人と話すときとおっぱいが大きい人と話すときで、例の部分についての話をしたときに気付いたことがあります。
おっぱいが大きい人は自分の例の部分について「おっぱい」と自信を持って言うのです。「私のおっぱい」「おっぱいが張って痛い」「おっぱいのせいで肩が凝る」「おっぱいいらん」など。
しかし胸が小さい人は「おっぱい」ではなく「胸」と言います。「私の胸」「胸が張って痛い」「胸がない」「おっぱいがほしい」「おっぱいがない」など。
これは衝撃です。胸には膨らみがないとどうやら「おっぱい」として認定されないような価値観が醸成されているように思えます。
とりわけ、Aカップ以下の人にとってはこれはかなり深刻な問題です。おっぱいが小さいだけで、まるで「おっぱいが無い」というふうに自己を規定されるわけです。
笑い事ではなくなってきました。おっぱいのイデアとは深刻な問題なのです。
また、先程「巨乳」には「自分ではない女性が持つおっぱいに向けたエロ」という意味が入っていると言いました。
胸が小さい人に対しては「貧乳」とか「微乳」とかそういった言葉で「自分ではない女性が持つおっぱいに向けたエロ」を表現するようです。
ちなみに貧乳も微乳も、男目線の言葉です。ググるとエロばかり出てきます。
それから「おっぱいが小さい」でググると「胸が小さい」ばかりヒットします。もちろん、「おっぱいが大きい」でも「胸が大きい」もヒットしますが。
この「⊃」は数学で部分集合の関係を表す記号です。おっぱいではありません。たまたまです。
おっぱいとは巨乳と胸の間にある存在だということです。はさみうちの定理のようなものですね。
巨乳には間違いなくおっぱいがあるとされます。そして一般的な男の胸には間違いなくおっぱいはありません。
その間のどこかにおっぱいの境界線がある、という価値観が現状の価値観になっていると思います。
「おっぱい」と名乗るために、一定の大きさが必要となる資格が設けられているように見えます。
みなさま、そうではありませんか?違いますか?
だとしたら、ひどくないですか?
太った男が、ギャグで「おっぱいww」などといって、自分の胸を持ち上げたりします。その男本人でなくても「おっぱいじゃん」と言ったりします。
この笑いこそが、胸が小さい人の自尊心を傷付けているのです。「それぐらい大きくなければおっぱいではない」とされるそのさまは異常ではないでしょうか。
だからわれわれは、こうしたとき「いや、それはおっぱいじゃなくてただ太っているだけですよね」と冷静にならなければなりません。
また男性でも、偽性女性化乳房といって胸が大きくなっている人がいます。そういう人に向けて「おっぱいがある」と言うことは男性の尊厳を傷付けることにも繋がりかねません。
「巨乳」なら言ってもいいと思います。でも、おっぱいはダメだ。
一方で、男性の胸はただの胸です。おっぱいはありません。どれだけ大きくても、どれだけ巨乳で、どれだけ乳房に似ていたとしても、それは男性の胸です。おっぱいはありません。
「私にはおっぱいが無い」は、間違っています。おっぱいが男に奪われているのです。
正しくは「おっぱいが小さい」です。自信を持っておっぱいと言ってほしいです。
これが世界最大という超超巨大書店を、どーんと僻地でもなんでもいいから街が作れそうな平野に作ってほしい。その超超巨大さは世界第2位を突き抜けてほしい。
政府もテコ入れし、クラウドファンディングも募り、数多ある企業も全勢力が参入してほしい。もうとにかく全力をかけて作ってほしい。
「そんなことして失敗したらどうする?!バカじゃん?!」とか考えず作ってほしい。勝算とか考えず勢いで作ってほしい。
そこには和書だけではなく洋書もある。西洋の本だけではなく中国語の本、アラビア語の本、アフリカーンス語の本、とにかく片っ端から「いやこれいらんだろ」みたいな本だったとしてもすべておく。
なんなら和書が中央ではなく洋書が中央である。日本語を中心で考えてほしくはない。言語別に存在する知の量に応じた配分をしてほしい。
客層に応じてカテゴリ分けは必要だろう。1つの書店だけでなく複数の書店が統合してもかまわない。古本屋を集めてもかまわない。
「よくわからなくても物理の本を買うなら日本のここへ行け。たぶんあるから」という状態になっていてほしい。日本の中規模以上の書店はほぼすべてここに集める。
全勢力が協力してできた超超巨大書店を中央に据えて、その周りを他の超巨大書店が取り囲む。その周りは巨大書店。その周りは中規模書店、その周りには小規模書店。
海外からも片っ端から誘致する。必要なら補助金も出す。「バカなの?」とか「さすがに海外出店は難しいです」とか一蹴されるだろうが「まあ採算とれそうだからいいよ」と言われるまで粘ってほしい。
税金をたくさん投入してもかまわない。重要なことは「そこにある」「とにかく日本のここに来たらある」「お前のやりたいことは知らんけど本がほしいなら日本のここに行け」という願いが叶う場所だ。
例外を作ればそのブランドは失われる。このブランドこそが他国が追随不可能な圧倒性を生む。先行者利益だ。バカすぎて1つ1つで見るとデメリットしかない行為が、結合すると巨大な1つのメリットを作り出す。
どこかで手を抜くと終わる。そんなことまでする必要ないんじゃないのとか、それってめちゃくちゃ損しますよねとか言われようが、究極に本を集める。
書店と書店の隙間にはさまざまなカフェが立ち並ぶ。個人で経営するカフェからチェーン店が密集する。コンビニも立ち並び、公園には読書に適したベンチがある。公園は読書に最適化されている。
その街にはどこにでも椅子が置いてある。買った本をすぐ座って読む人向けのものだ。
この街には有名人が毎日のようにやってくる。たとえば「ビル・ゲイツが本を選びに来日!」など当たり前のことになるだろう。
読書家はこの街の付近に別荘をかまえる。なんにもなかった僻地の近隣に富裕層街が誕生し、地価がとんでもなく上昇する。意味不明なおいしい話だ。
一方で本を読むことが目的でない人間には居心地が悪い空間になる。この街に存在している人間はほぼ全員本かその周辺が目的なのだ。本以外が目的の人間は異様に目立つようになり警戒される。
街の中央部分は徹底的に、本、本、本、本、本、と本が存在するのが当然の本の密集空間になっている。普通の人間が「ここまですることはないんじゃ・・・だって採算とか・・・」とドン引きするぐらいの熱量で本で溢れかえっていてほしい。
地面に敷かれたタイルには、文章が書かれている。まっすぐ歩くと偉人の言葉などがそのまま読めるようになっているのだ。たとえば「良い本は私の人生におけるイベントである。」「本の無い家は窓の無い部屋のようなものだ。」「天才とは努力する凡才のことである」などという文が永久に書かれている。有名な書の冒頭部分だったりもあるし、古典文学もあるし、文学のみならず数式も書かれていたりする。それを読むだけで日が暮れる。
この街の広告はすべて本に関するものでいっぱいだ。ほかでは絶対に見られない、読書家にだけ向けた広告が撃たれる。「こんな難しそうな本の広告ある?」というのがそこここで見つかる。
たとえばベトナム語のマンガの新刊広告なども見受けられていてほしい。
この街にあるのは紙の本ばかりではない。電子書籍派のための書店もある。他では絶対採算がとれないような形の店であっても、「読書家が毎日のように集まることが普通」の街特有の書店ができる。たとえば巨大な8Kモニタにその人へレコメンドされた電子書籍が大量に表示され、立ち読みすることができるとか。「辞書専門店」や「単語帳専門店」や「栄養学書籍専門店」などがあったりもする。そういうものを作っても不思議と利益が出るのだ。
この超超巨大書店圏内部には研究所や大学なども誘致する。どのような言語でも関係ない。化学系のカテゴリが立ち並ぶ「化学通り」のようなところには実験器具専門店も立ち並ぶ。
そういうところは、基本的には英語がメインだ。英語の下に日本語が書かれている感じ。イメージ的にはハリーポッターだろうか。ときどき「なんで化学通りにオムライス専門店がこんなにあるんだよ」などということもあるかもしれない。秋葉原や神田にカレーがたくさんあるようなものだろう。
やや込み入ったところにはマイナーな本屋がある。「なんだよこの本屋・・・」という、見るからに異国感が漂う本屋だ。謎の部族の謎言語で書かれた謎の材質の本が置いてあるなど。ネクロノミコンのような本も見つかる。
石版などもなぜかある。読書向けの椅子専門店もある。「本のためだけの椅子専門店」が生存できる場所は日本ではここしかない。
しかし、この超超巨大書店群の主目的は「本の集積」である。そこから逸れるようなことがあってはならない。何か欲をかいて「ここに企業をうんたら」などとして利益を優先するとこの街はあっという間にその意味をなくし滅びるだろう。ありとあらゆる人々が周辺の利益を求めて集ってくる。そういうのを一蹴できるような体制であってほしい。
「この街意味ないだろ。なんで作った。赤字だろ」と罵られながらも存続する街であってほしい。そして、そう罵る人も、ひとたびその街に入ると「すげえ・・・この街は地球に必要だわ・・・」とどうあがいても認めざるをえないほど感動できる街であってほしい。街自体で見ると赤字なのだが不思議と日本経済が潤う源泉である摩訶不思議都市であってほしい。完全に未来へと投資された都市である。
この街では、夜もたくさんの書店が営業している。こんな大きな本屋が24時間営業できるのはこの街しかありえないとなっていてほしい。「夜眠れないな・・・本でも買いに行くか・・・」という人外の行動を普通にするような場所であってほしい。
街の周囲には民家が立ち並ぶ。ただしこの民家に住む民間人はややおかしい。本のために移住してきた狂信者たちだ。軒先には自分の選書が並び「1冊100円」などと書かれていることも多々ある。
富豪がゴッソリ買っていくことを見越して少し離れたところに在庫置き場がある。
富豪が「ではこの棚からこっちの棚まで」などと爆買いしていく。もはやテロリストのようなものだが、そんなことは気にせずまた入荷する。本はバカみたいに売れる。
この街は、「日本人なら1度は絶対行け」と呼ばれる場所になる。そしてひとたびそこに立ち入れば「世の中にはこんなに知識があったのか」「世の中はこんなに頭のいい人たちで溢れかえっていたのか」ということが、嫌でも全身の細胞に刻みつけられる。伊勢神宮みたいなものだ。それよりも神々しいかもしれない。
そして、全身の細胞で体感したその人は、格段に読書するようになるだろう。それは地元へ帰っても同じことだ。一流を目の当たりにした者は一流になる。
取次の問題も、書店が潰れかけている問題も、日本人が本を読まなくなってしまっている問題も、経済が深刻化している問題も、だいたい解決できるだろう。
誰か作ってください。
ちなみに国防にも役に立ちます。一度作ってしまえばここを潰すやつは「バカ」なので。ペンは剣よりも強し!
ただそれは、「本がたくさんあっても意味がない」のではない。逆。
それに「物理本を読む人が少ないから本屋が潰れちゃう」というのも逆だ。
「物理本を読みたいと思う人を増やす。そのためには本屋すべてが潰れることも辞さない」という情熱が正道である。
本というのは知の源泉である。だから知識がない人に迎合すれば、潰れるのは自然だ。知識がない側に与するのだから。
本の機能はそれとは真逆であり、全体を引っ張り上げるものである。知識がない側が「欲しい」と願える場にすべきなのだ。
ない側に媚を売っていれば潰れて当然。
「この本は今は読めないけれど、読みたいと思う」そういうものがない。
「この本は内容はちんぷんかんぷんだけど、そういう本の存在を知っている」そういうものもない。
ジュンク堂書店などですら、知らない人々が多い。大型書店の重要性を知覚できていない。入ったことがない人間もいる。
記事を読んでくれた人へ: 記事を読んでくれたのはありがたいが、たぶん自分が考えている規模と読んだ人が考えている規模に大きな差があると思う。
自分が考えているのは、もっとも小さく考えても深圳書城中心城の数十倍の大きさであり、既存の書店をちょっとだけ大きくしたものとか、蔵書が全く同一であるような大型書店が単に10個ある街という形ではない。
コーチャンフォーつくば店は50万冊、池袋ジュンク堂書店は150万冊、深圳書城中心城は400万冊、国会図書館は4685万点。Amazon Kindleは60万点。
自分が言っているのは、数億冊あるような書店群である。つまり、コーチャンフォーやジュンク堂書店や紀伊國屋書店は超超巨大書店(世界中の意味わからんハイレベルの本から選びぬかれ集まったエリート本屋)の周辺を取り囲む「日本区域最大の超巨大書店」の周辺を取り囲む「大型書店の1つ」という状態を考えている。ブックオフなどはその周りを取り囲む中型書店になるだろう。その周りを、身近にあるご近所の本屋さんがたくさんずらーーーっと並んでいるというような領域だ。いうならばこれが日本区域である。
世界の蔵書数はGoogleによると約1.3億冊であるらしい。日本区域内に別に中国語や韓国語の本があることもある。ただし日本区域の横には韓国区域だったり中国区域だったりする。その中国区域でもばかみたいにデカい超巨大書店があり、それを取り囲むようにジュンク堂書店並の大型書店があり、英語区域では……というような状態だ。言語別に分けられているだけでなく、「数学領域」で分けられていることもあり、そこでは「高校数学」の棚に世界各国の高校数学が並ぶ。数学の参考書を買いに来た高校生が、カメルーン人の中学生と仲良くなるみたいなことも想定できるわけだ。
地方のクソデカ本屋が数百個単位で入る「は・・・?」「この街が・・・全部・・・本屋さん・・・?」という規模の書店群である。
イメージとしては↓な感じ。
まもなく目的地の駅に近付く。電車にいる人々は全員が本を読んでいる。スマホを触っている人たちなど誰もいない。不思議な光景だ。多くの人がそわそわしている。初めて来た人たちが多いのかもしれない。
電車が駅に滑り込み走って降りる人々の後ろでのんびりと降りる。全く、はしゃぎすぎだろう。
降りた直後、本の形をした案内板が表れた。真っ先に飛び込んできたのは「↑ バベル中央書店」というやたらとデカい黒文字と、その下にあるやや大きな黒文字の「↑ 北区域書店」だった。
右を向くと・・・あれは・・・本の自動販売機?! 本を自販機で販売するのか。カルピスの作り方・・・自動販売機の歴史・・・Why could he make vending machines?・・・なるほど。
床には文字が書かれている。Station, State, Statue, Status. 何のことやらわからない。
改札を出る。改札を出ると、ああ、もうこれは本のテーマパークだ。最奥部に見える巨大な塔には雲がかかっている。おそらくあれが中央書店だ。その横には数えるのもバカバカしくなるほど書店が並ぶ。街には今まで見たこともないような人々で溢れかえっていた。ベンチでは読書をしている中東とおぼしき人が中国人らしき人と何やら議論している。彼らが話しているのは何語だろうか。
デジタルサイネージで目まぐるしく本の広告が入れ替わっていく。「サウダージにさようなら」「入門グロッキング」「般若心経の終焉」
子どものときに巨大書店や巨大図書館に人生で初めて行ったときとか、論文と大学と研究の仕組みと接したときに、知の偉大さに震えたことがないだろうか。
目に見えないものは見えないことが多い。たとえば、ライブ会場に行ったことがなければライブの偉大さは本当にはわからないし、「本当にこんなにたくさんの人がファンなのだな」ということもわからない。
いま「自分が考えるクラスの巨大な本の集積地を人類の誰もが見ていない」というのが問題であると思う。誰1人として。
そういう知がたくさんあることは存在としては知っていても、「それを見たことがある人は誰もいない」のだ。いわば、月は見えるけど、月に行ったことは誰もいないような状態だ。
神田の古本屋街や、既存の大型書店というのは、いわば地球上にある月に似たところでしかない。「たぶんこれとこれがこうなると月」というふうにしか想像できない。だが月に行かなければ月の隕石は無いのだ。
ほとんどの人は、目に見えないなら存在しないと感じてしまう。マッチングアプリで人間を左右にスワイプするとき、人間ではないように扱う。それは人間として存在しているのに。
一方、眼の前に相手がいるとき、同じように左右に指を振って弾くのは容易ではない。これが目の前にあるかないかの大きな違いである。
自分が言っているのは、そういう知の集積の偉大さが理解できなくてもとにかくそこに行けば、「ああそういうこと」「人類は偉大だったのか」と、誰もがたちどころにわかってしまう場所がほしいということである。
「ピカソ 写実的」とかでググってもらえば分かると思うけど、自分もちょっとだけ絵を描いてるけど、基本的に写実的な絵ってのは努力に比例するんだよね
努力に比例するってのは、スポーツで短距離やるとか、受験勉強するとかと同じで、「学校」では評価されやすい
だって、写真に近いかとか、筋肉や陰影が正確に描かれてるか、とか、他人に評価しやすい基準なんだよ
ジャック・ハムとかルーミスの本読んで真似るだけで、標準的な白人を写実的に描くことができる
でも、ピカソの抽象的な絵というのは、それを超えたところに位置してる
あれは、いわゆる「学校」で評価される絵ではない、言うなれば「社会」で評価される絵だ
短距離なら100mが何秒か?とか、受験勉強なら何点か?とか、そういう他人誰しもが評価しうる基準がない
では、基準がないものをどう評価するか?と言ったら、もう究極的には、好きか、嫌いか、しかないと思う
そんな理屈で理論で、この絵は素晴らしい、この絵はくだらん、というものではない
(もちろん、美術論や美術史を並行して評価することは大事だ。絵の理解が深まるからだ。それは否定しない
ゴールデンカムイの話をするなら、私は正直山田芳裕の絵がちょっと苦手だった
へうげものとか読んでて、あまりにも線対称な絵を描こうとしたり、ちょっと偏執的な感じがしたからだ
ただ、へうげものを初めて読んだときから変わらず思っていることだが、山田芳裕は絵が上手い
上手いということは否定しない
ただ、昔は山田芳裕の絵が苦手だった
自分にとってはゴールデンカムイも似ていて、最初は絵柄が苦手だった
画力はある、でも自分の好みかというと、うーん、となってしまう
今はアニメになったりもしたこともあって、ゴールデンカムイの絵に慣れてしまった
あったとしても、絵はスゲーけど、なんか写真レタッチしただけみたいに見える…😟になると思う
ピカソで言うなら、漫画の絵というのは、ピカソの抽象画のレベルと同じなのだ
そもそも、今の日本のアニメ絵、オタク絵の顔は、昔の手塚、少女漫画、劇画、その脈々たる道のりの末にちょっと洗練され過ぎてて…
ていうか、MMDとかプリキュアのCGパートみたいなの見てると、単にお面被ってる人に見えてこない?俺は見えるんだけど…😟
(いわゆるアニメ絵、オタク絵の源流のひとつは少女漫画なので、顎のラインとかやっぱりおかしいと思っちゃうんだよな、まぁ、すべてがもう単なる記号なんだけど…
目の上の謎の交差する線とか、あれも頭蓋骨のくぼみなのか、まぶたを表現したいのか、その両方なのか、
よく分からんけど、描いておこう、みたいになってるし、最近の定着した謎流行だと、尖った髪の毛が前で交差してるとか、
なんかよく分からんけど、自分が好きな作家、売れてる人が描いてるから、自分も描いとこ、みたいなのが多すぎる気がする
ゴールデンカムイとか山田芳裕とかの方が、そういう流行しているだけの絵、顔の描き分けができてない絵よりよっぽど良いと思う
というか、ロシア人のツンデレが出てくるアニメ、顔の描き分けができてなくて誰が誰だか分らんのだが…😟
ああいう絵はこれからはどんどんAIが描いていくんで、もっと読み手の好き嫌いが大きく乖離するような攻めた絵柄をもっと描いていくべきだと思う
そのためには、小林源文先生じゃないけど、写実的な絵とかヌードデッサンみたいな地道な努力と、そこから自分の手で抽象化していく過程が必要になると思っている
すぐ下に
この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。
伝統的に主人公は「@」記号で表され、他のキャラクター(敵モンスターなど)はアルファベットで表される。ローグでは大文字のアルファベットしか使用されていなかったが、最近のローグライクゲームでは大文字と小文字で異なるモンスターを表していることも多い。例えばイヌ(dog)は小文字の「d」で表され、ドラゴンを大文字の「D」で表されるなどである。さらに文字の色を変えることによって異なるモンスターを表すこともある。例えば、レッド・ドラゴンは赤い文字の「D」で表され、ブルー・ドラゴンは青い文字の「D」で表されるなどである。ダンジョンの地形やアイテムなどはASCIIに含まれる他の記号が用いられる。
があるの草。