はてなキーワード: 自由選択とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/10anj10/status/1378252302696390659
あてがえと言ってる人はいない
確かに直接的に言ってる人はほとんどみないが、「あてがう仕組み」自体は現実に存在しており、それが失われることを危惧する言説は散見される。
単婚(一夫一婦)制は配偶者候補の独占を抑制するという意味で既にマイルドな「あてがう仕組み」になっている。また、廃れたとはいえ見合い制度は直接的な「あてがい」だ。
「あてがう仕組み」には、孤立した個人・「無敵の人」を減らすという社会的な効用があった、という視点は妥当なものだろう。
それらの言説を含めれば(表現がかなり悪意的ではあるが)あてがえ論は存在すると言ってもいいと思う。
分配されても承認欲求満たされないだろ
これは見合い結婚で幸せな共同体生活を送っている方々が反例になるかな。
「分配」とか「あてがい」とかのワードが悪意的でよくない。その点「見合い」は両者の尊厳を損ねずに、実態としては「あてがい」であるという点で上手い仕組みだわな。歴史は偉大だ。
「人間は一緒にいればだいたい仲良くなるものである」という自然な前提が抜けてるかなと思う。
人間の自由意志はそこまで強固なものじゃないし環境に左右されるよ。
でもブスはいやなんでしょ?
「三日で慣れる」「あばたもえくぼ」という先人のありがたいお言葉がありまして。
なんとなく仲良くなる環境、みたいなものをもうちょっと多様に考えてみてもええんちゃう。
「分配」という言葉を選ぶから話がずれていく気がするんですが、あえて分配の話をすると、実際男性は分配されてる。
生涯未婚率は男性の方があきらかに高く、配偶関係においては単一の男性が複数の女性に分配されている構造。
これは、男女の生殖コストの非対称性によるもので、「種を貸す男性はいるが、腹を貸す女性はいない」。
この点は特にフェミニズムで男性の特権として解釈されることが多いけど、遺伝子の継承という文脈においては、男性と比して「望んだ相手との子供を作りやすい」という意味で、女性の特権である。
このへんの逆方向の権力勾配はもうちょっと意識されてもいいんじゃないかなと思う。
まあ明示的に分配されたわけじゃなく、自由選択の結果として時間差一夫多妻になっているだけではあるんだけど。
ただ無敵の人が増えちゃう構造ではあるんで、人権を毀損しない範囲で是正されるべきだとは思うのよね。
初婚重視傾向の男女バランスを整える方向に流行を動かすとかね。あるいはラジカルには「腹を貸す」のを制度化するとかもあるかもね。精子バンクは既にあるし。
草食男子ブームはその点マイルドで丁度いい潮流だったと思うんだけど、定着しなかったのはやはり本能に勝てなかったということなのだろうか。
上述のとおり、男女の生殖コストの非対称性から、男性と比べて女性は相対的に「あてがわれている」んだと思います。
構造的には弱者男性(孤立男性)の反対側にいるのはシンママなんだけど、シンママは子供いるからあてがえとか言ってる余裕ないんよね。
養育権のアファーマティブアクションも一つの是正の道かもしれんね。
上野千鶴子が叩かれてんのを「上野は進歩的考え方なのに、世間は古いからついてこれないんだな」みたいに言ってる人いるけど、古いのは君とか上野千鶴子だろ。
婚姻制度や一夫一妻制や純潔主義の意味を疑う、なんてのは数十年前には進歩的発想だったかもしれんけど、今はそんなとこもう通り過ぎてんだよ。
結婚しても他の相手に欲情を抱くのは自然だの、結婚は自由を失うデメリットがある契約ですだの、そんなのはもはや当然のことなの。
自然に湧き出る浮気欲を我慢することも、自由を失うことも、その他結婚のデメリットも、ふまえた上で結婚に合意する人たちの行動になってんの、今のフェーズは。
「結婚のデメリットが気づかれてないから、婚姻関係を重んじる意味はなく、よって不倫も責めることじゃない」なんてのは、まーーーじで古い。ましてそれを進歩的と感じるのは輪をかけて古い。
昭和とか明治とかの時代なら、結婚は人生に勝手についてくるキャンセル不可の悪徳オプションだったから、その悪徳性を指摘するために、契約破りパフォーマンスをするのも意味があったかもしれないよ、しらんけど。
でももう結婚ってのは任意選択のオプションで、結婚を選ぶ人は望んで「我々は他の相手と性的関係を結びません契約」を採用してんだからさあ、そこで古い契約破りパフォーマンスをしてオプションの信用性をぶっ壊されたらひたすら迷惑なんだよ。
色んな相手と遊び続けたい人は、結婚せずにやりまくるなり、ポリアモリー関係なり、結婚してもスワッピングサークルに参加するなりしてんだっつーの。
自分も相手も遊び合う生き方はしっくりこないから我々は決まった配偶者とだけイチャつきます、という自由選択をした人を脅かしといて、自由を大事にしておりますもないもんだ。その逆で、自由の抑圧者だよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/36855
なぜか投稿から二日遅れでブクマつきだしたから、もう少し長く説明する(重要な追加情報はない)。
そして、人間なんて結婚しても不倫したくなるもんだしその方が自然だし自由尊重のためには正しいので、結婚自体しない方がいいと彼女は考えている。不倫しないのが信じられないというか、そもそも結婚することが信じられないという感覚だろう。
私が上野千鶴子を古いと批判しているのは、「それでも両者の合意で結婚契約が結ばれたなら、二人も社会もそれを尊重するに相応しいだけの良質な任意選択オプションへと、結婚契約はこの数十年で変わった」ってのを踏まえてない主張をしてることだ。
大した違いじゃないと言われないよう、もう少し説明する。
結婚はいわば、「自由恋愛グループから脱退しました」というステッカーを自分とパートナーに貼りつける行為だ。
他にもたくさん効果があるが、あの記事のような恋愛と不倫と結婚の話題の中では、そういう意味を持つ。
そして、多くの契約や約束がそうであるように、この恋愛脱退ステッカーも、当事者や周囲が真面目に受け取ることで初めて意味を持つ。
尊重するに値しない、無視してもいいだろ、と上野に煽られてそういう風潮になれば途端に無意味になる。
たとえるなら、国と国が軍事同盟を結んで第三国から戦争を仕掛けられないよう牽制したいのだが、「同盟は名目上だけで結ぶ関係だろ」というのが世界の常識になったら、遠慮なく攻められちゃうし同盟を結ぶ意味がなくなる、みたいなものだ。
上野は、自由恋愛グループに居続けたい人も社会圧力で結婚させられて恋愛脱退ステッカーを貼られまくってた古き時代を引きずってて、「そのステッカー邪魔でしょ、気にしなくてよくない?(そもそも貼らないのが最高だけど)」と煽っている。
現代では、自分たちで望み自己決定として恋愛脱退ステッカーを貼ってる人たちが結構いるのに、上野の主張はそういう人たちのステッカーまで無効化してしまう。
かつての、「望まぬ恋愛脱退ステッカーを無効化するメリット」のほうが、「望んだ恋愛脱退ステッカーまで無効化するデメリット」より大きかった頃の感覚のまんま。
恋愛脱退ステッカー無効化のデメリットが大きくなってきたって気づいてないのか無視してんのか、いずれにせよ感覚が古い。
「恋愛脱退ステッカーを貼らないことをおススメするが、貼られたものは尊重すべき」って話ならいいのに、そうならないところがだめなんだよ。
「上野自身が自分の主義に従って結婚しない人生をしてるし一貫してるじゃん」とか言う人もいるが、上野が結婚してるかはどうでもよい。
上野の煽り言説によって世論が結婚を軽んじる様になれば、世の中の夫婦の、性的自由を失う代わりに性的安心を選んだ決断が無駄になっちゃうだろって話。
結婚契約で自由恋愛グループ脱退の意思表示をしたい夫婦には、させてやりなよ。それが自由の尊重じゃないか。
かつて、結婚という縄で強制的な拘束をするのが横行してた時代は縄を片っ端から切断して世界からなくそうとするくらいがよかったのかもしれんけど、今は好事家同士が合意で結婚というSMプレイを楽しむ時代になってんのにその人らの縄まで切ったら迷惑だろ。
あと、「古いとか新しいとかで物事を判断するなよ」みたいな反応あるけどさ。
そりゃあたとえば芸術の作風だったら古いのも新しいのも好みの問題であり、売れる売れないはあってもどっちがダメとかじゃないよ。
そーゆーのは、その時の社会の状況に応じた提言じゃないと、無駄どころか悪影響なわけ。
数十年前の人口爆発が懸念されてた時代を引きずって、少子化の現在に人口抑制論とか語られたら困るだろ。
社会運動は社会の病理をよくする物と捉えれば、古い言説を主張されるのは、数日前は風邪がキツくてお粥を食べるべきだったからって、一息ついて体力取り戻すべき時期なのに白粥ばっか出されるようなものなんですね。
建造物侵入、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反(事件番号 平成30年(わ)1145号)第4回公判
9時20分
本日の傍聴定員25名、超過すれば抽選、以下であれば定時までに整理券配布に並んだ者がそのまま傍聴できるのだが、整理券配布締切直前に1名超過となる。しかし1名辞退者が出たため抽選なし。
9時50分
905法廷。傍聴席に座席指定はなく、最前列に記者席、向かって右手側に関係者席、その他を自由選択できる。
両脇に被告人入廷。紺色スーツ、ネイビーのネクタイ、黒っぽいセルフレームの眼鏡、ただし足元はサンダル。逮捕直後に報道された姿より体重が落ち、坊主頭がそのまま伸びたような短髪。姿勢が良く、痩せているというより締まっているため、休日にジムでトレーニングしているエンジニア、と言われても違和感がない。
そして目立たなかったが手錠と腰縄、それらを外した後、裁判官と裁判員入場。右手側に検察、左手側に弁護人と被告という配置。
10時
「低能先生と言われるネット上のモンスター」「死んで償ってほしい」
被害者妹の証言。証言席は衝立で囲まれ、被告人からは見えない状態。
終始涙声、「誠意などまるでない」
検察官。
鑑定人に自閉スペクトラムと鑑定されているが、自閉スペクトラムは攻撃性を特徴とせず
被害者参加人。
我が国初の事件であり、ネット上の表現活動に影響を与えることになる
極刑を。
弁護人。
自閉スペクトラムが影響している
汲むべき情状で量刑判断してほしい。私利私欲や快楽目的ではない。再犯可能性なし。真摯に反省している。今後家族の支援監督あり。
被告人。
すべての方々にお詫びしたい、すいませんでした
人生を前に進めてほしい
父に連帯責任は問わないで
以上。筆記メモ難しい。
でもそういう消費豚がオタクを自称することはなかったのよ。その主な理由はオタクが賤民であって自称する魅力も利益もなかったからなんだけどね。
そもそも中世から昭和に続く日本社会において、未成年は家の従属物(ソフトな表現)だったし、成人女性は家事労働提供者(ソフトな表現)だったし、成人男性は会社の奉公人(ソフトな表現)だった。この社会において自由の幅ってのは現代に比べて極めて少なく、特にそれは趣味分野において顕著だった。庶民が嗜んで白眼視されないものなんてのは、男性において飲む打つ買うとその後継だけだったし、パチンコなんてのはその最たるものだった。女性においては男性にもましてきつきつであり、かろうじて数種の習い事が芸として社会認知されてたかどうかくらい。書物を購入してそれを読み漁るなんてのは、金持ちの道楽であり、庶民の間ではむしろ唾棄すべき軟弱さの現れとみなされていたふしがある。まあ、だからこそ与謝野晶子あたりの明星派などによる「既存の価値観への抵抗」としてのそれがあったわけだけど。
高度成長期を経て70年代から急速に文物が発展して、今現在趣味と呼ばれる文化が爆発的に多様化した。多様化した以上に「余暇に個々人が己の興味のあることをして過ごすのは当然の自由であり権利である」という認識が一般化した。テレビ文化がひろまって、ヒッピームーブメントの余波から洋楽ブームが来て、ニューエイジ思想からオカルトブーム、UFO!心霊写真! そしてフジテレビとホイチョイが結婚してユーミンがウィンタースポーツブームを生んで、広瀬香美とチューチュートレインが若者を苗場に連れ出した。
の、だけど、そんなに主体的に生きてる人間ばっかじゃないのよな。増田の言うとおり。結局現在、「ソシャゲと深夜のアニメとネットの炎上案件に対するコメントで時間を潰している、オタクを自称している(下手したら自分自身ですらそう信じ込んでいる)人々」ってのは、昭和中後期で言えば「パチンコやって飲み屋で愚痴言ってる箸にも棒にも引っかからないおっさんたち」だったわけよ。別段彼らはそれが好きでやってるわけではなく、「受け身で流されて適度に脳内麻薬がチョロチョロ出る余暇の消費」としてそこに流れ着いただけで、最初から徹頭徹尾ただの消費者であって、オタクでも何でもなかった。多分当時であったとしたって、パチンコや博打や酒が本当にそこまで好きだったかどうか疑わしい。そういうふわっとした人々が社会の大多数だったってのは、当時も今も変わらない。
どちらかというと「社会人は全員そういうもん(休日はパチンコするくらいしかない消費者)だろ」っていう同調圧力がなくなり「余暇は自由選択」になっちゃった結果、それが可視化されただけにすぎない。そのうえ「社会人は全員そういうもんだろ」っていうのは同調圧力である以上に、大多数にとっては劣等感を刺激しないカバーストーリーでもあったっていうのが問題で、いまのこの日本の現代社会は「余暇の過ごし方」でさえも階級があるってのが、多分きつい。
あまりはっきりとは指摘されないけれど、「何ら主体的な趣味を持たない人間」ってのはやはりいまの社会では軽んじられる。一回級下の存在だと現在みなされるんだよ。それこそ「オタクであるほうがまだマシ」と考えるほどに。
だから「(絵が好きなわけでも今まで描いてきたわけでも強い動機がなんにもないにも関わらず)絵が掛けるようにな(って賞賛を受けるようにな)りたいな」なんてボヤキがWebにあふれる。
べつに「何ら主体的な趣味を持たない」って罪でもなんでもないのにね。前述の戦後から高度成長期にかけて、そんな人々は、社会に出て飲む打つ買うを一巡経験したら、すぐさま「どうやったら異性に興味を持ってもらえるかレース」に回収されて、あまり悩む間もなく半強制的に結婚させられ、身体に異常でもない限り速やかに子供ができて、子育てに忙殺されるというスケジュールに打ち込まれていた。そうすれば「主体的に趣味を持ってない」なんてことは遥か彼方にぶっ飛ばされて、問題意識すら持たないで済んだのにね(その後は、後輩や年少者に対して「結婚は社会人の義務だ」とか「子育てはいいぞ」ってマウンティングして余生をすごせた)。
社会の多くの人にとって、「個人のアイデンティティと紐付けられた強固な趣味に邁進する」人生の強要は苦痛だし、でもそれを拒否するにせよ趣味する余暇なく仕事を詰め込まれるのはもっと苦痛だ。多くの人にとっては自由が毒にしかなってない。そういう価値観の変遷に、オタクは巻き込まれちゃっただけなんだよね。
もともとはあまり興味なかったが、なかのひとがどうの、魂がどうの言い出す人の多さに流石に頭くらくらしてきた。
「現実とフィクションの区別」というワードは、これまで二次元の児童ポルノの取扱に関する文脈で頻出していたが、どうやら多くの人たちがこの「フィクション」という言葉を矮小化して考えていたらしい。心底驚いた。
おそらくノンフィクション(とされる表現物)との対偶として、「物語の設定や登場人物が現実とは関係ないもの」を想像しているのだろう。
だがその区別は、表現物の内部の論理であり、現実の社会問題で語られる「現実とフィクションの区別」とは別のレイヤーの話だ。
考えても見てほしい。現行法において、同じ二次元のエロ漫画に、あとからノンフィクションだと銘打っただけで違法になるだろうか。それは望ましいことだろうか。
社会問題の文脈の中で語られるべきは、「現実と表現物の区別」であって、表現物の内部区分として「フィクション」であるかどうかは問題とはされないし、されるべきではないのだ。
表現物の内部論理として、Vtuberが既存のアニメなどのキャラクターよりも人格性がある、魂があると認められるのは構わない。大いに結構だ。
だが、それはあくまで表現論・表現者と二次創作者との倫理的距離感など、あくまで表現という枠組みの内側での話であって、社会問題での批判に対抗する方法ではない。
キズナアイというキャラクターの造形が社会問題となった場合、あくまで表現としてのキズナアイを問題とするべきである。
表現物の内部論理としての人格性を持ち出して、社会問題のステージで「このキャラクターには人格と魂があって、その自由選択の結果です」と反論することは、なんら現実を反映していないし、より厄介な問題をはらんでいる。
仮にその主張が認められるならば、同時に児童ポルノの文脈においても人格と魂のある存在として社会問題のステージに立たなくてはならなくなる。それは誰も幸せにしない事態であろう。