はてなキーワード: 自体とは
「悲しむ」と「悲しいとTwitterに書く」のあいだで損なわれるものに対してそんなもの無いことにしてあげようよという態度はキモいし、全員その醜さは引き受けた上でなお言いたいことを喋るべきだろ、と思うがこれも盗撮犯的感覚な気がして恥ずかしい部分もある
「精神病の漫画に理解あるパートナーが登場する事への恨み節」もそれ自体は美しかったのに共感の雲みたいなの形成しだして完全に見る価値なくなっただろ
10年以上働いてて今3社目だけど社内でくっせーなみたいなオッサンに出会った事がない。製造業で男が多い職場にも関わらず。都内で電車通勤してるとたまーに顔自体を背けたくなるレベルで臭い人はいるけど。いやそれでも部活帰りの臭い中高生の方がよほど遭遇率は高いけど。俺が恵まれているだけなんだろうか。それとも俺が臭いのか?
今回の一件でちゃんと風呂入るのが当たり前みたいな価値観自体見直そうという意見が出てきて安心した。生粋の風呂嫌いとしてはそもそもこんな習慣自体が生きづらくなるだけでこれが当たり前みたいなこと考える時点でおかしいと思ってた。
もともと昔は風呂なんて週に一回入れば結構な贅沢で毎日入ることなんて考えられなかった。
そんな変な習慣を当たり前のように言わないでほしい。
むしろ漫画家なんて毎日風呂に入るのは今でも圧倒的少数派だろう。
まず初めに私は男ね。
托卵についてこのまえ少し考えさせられたんですけどね、結局、女性が自分の望む男性と子供を持ちたいと思うのは、極めて自然なこと。
優れた遺伝子を次世代に残すというのは、メスとして至極当然の欲求でしょう。ただ、残念ながら、全員が全員理想的な男性と結婚できるわけではない。
結婚には、ただの恋愛感情以外にも経済的な安定や性格の相性といった要素が絡んでくるし。
だからこそ、妊娠は『この人の子供を産みたい』と強く思える男性と、そして結婚は『まあ、一緒に生活していくには十分かな』と感じることができる男性、または自分で努力して捕まえられる範囲の男性と行うのが理に適っていると私は考える。
そう考えれば、托卵も一つの合理的な選択肢としてそう言った行動に出てしまう女性がいるのもまあロジックは理解できる。
そして、これは余談だが、托卵を道徳的に非難する人たちは、そもそも女性が理想の男性で子を作り、結婚して経済的に安定する方法は托卵しかないと言う社会の構造は一切問題視しないよなと思う。
女性が自由な選択肢のもとパートナーを持てる社会が存在するなら、そもそも托卵なんて概念自体が不要になるはずですし。
女性自身が精子バンクなどで理想の男性で妊娠し、共に人生を歩むその子の父親となる人はまた別で選ぶことができる。そんな制度があれば男女ともに托卵を問題視することはなくなるんじゃないかなぁと思う。
こんにちは、あなたの気持ちにすごく共感しました。性欲というのは、時には自分ではコントロールしづらいもので、特にそれに振り回されてしまうと、自己嫌悪に陥ってしまうこともありますよね。
でも、性欲があること自体は自然なことだし、それをどう扱うかで自分の気持ちや生活に変化を与えることができると思います。私は、瞑想や深呼吸を取り入れて、心を落ち着けるようにしています。自然の風景や美しいものに意識を向けることで、性欲から少し距離を置くことができることもあります。
それでもやっぱり性欲が強くてつらいと感じるときは、自分を責めずに、「今の自分はこうなんだ」と受け入れることも大切だと思います。無理に抑え込もうとすると、かえって逆効果になることもあるので、少しずつ自分のペースで取り組んでみてください。
あなたが高潔で清廉な気持ちを持ち続けられるよう、応援しています。無理せず、少しずつ、自分らしい生き方を見つけていってくださいね。
ほんこれ。「トドみたいで可愛い」なんだからめっちゃ褒めてるよね。実際かわいいし、トド。これを侮辱と解釈する人間は「トドは醜い」という先入観を持ってるわけだから、それを「トド差別」っていうんじゃないの?「人間を人間以外の生き物(すなわち畜生)にたとえること自体が侮辱」っていうなら、他のあらゆるそういうたとえも同時に批判すべき。一本足で打つのをフラミンゴ呼ばわりするのも無礼だし、ムハンマド・アリーの蝶のように舞い、蜂のように刺すも当然アウト。
「絵を描かない人は上手い絵のことも下手って言うことある」って話題に「絵描きの選民思想」って感想をいくつかみかけてびっくりしたんだけど、「凄い技術でなりたってるのに門外漢はそれに気づかない」なんてよくある話じゃん。
たまに独学でめちゃくちゃ上手い天才がいるけど、絵が上手い人のほとんどは技術獲得のためにとんでもない時間を使ってるよ。
タイムラプスだと時間を圧縮してパパッと描いてるように見えるけど美麗な一枚絵とか何十時間かけてる人普通にいるからね。
でもちゃんと絵を学んだことがないと簡単に描いてるように見えるし、それなのに自分が上手く描けないのは単に才能がないからだって思うのかも。
ある技術を勉強してる人が、ほかの人の技術の高さを見て凄いと思ってたら、技術を知らない人が「なんか自分の好みじゃない」を「下手」と表していて、「いやッ……!下手では……!ない!!」ってもどかしく思ってる状態を、「はー技術持ちはお高くとまってますねぇ」って言うの、変じゃない?
例えばエンジニアがすっきりしたコードを見て凄いなぁって思ってたら、プログラムを知らない人に「これなら自分もできそう」とか言われて「いやそれは高度な技術が……」って思ったらそれもエンジニアの選民思想?
先の投稿を見ましたが、詩的表現の範囲内であり、特段日本語として破綻しているようには感じられませんでした。
そもそも「日本語として正しい」「間違っている」という概念自体、あやふやなものです。言葉とは、言語のルールに則って書かれる面もあれば、オリジナリティのある表現として、あえてそれを破ることもまた要求されるのです。
バトラーはどちらかというと、誰しもがトランスジェンダーであるというような立場ですよ。そもそもシスジェンダー自体が、「無」から「女」や「男」になったということですね。自認がどうこう、医学がどうこうというような話ではないですね。
医学と自認と政策の関係については、法学者や政策学者の方が詳しいでしょうね。このこととバトラーを結びつけるのは筋違いです。バトラーのしてきた仕事は、考え方の枠組みを提示することであったり、人間同士の関係性を観察して理論化することでした。
最近の若い奴で18歳くらいになると、40代の者には分からないくらい、同一人物が、特殊装置、およそ理解しえない背後の装置で、A,B,C,D,Eの複数の形態を取るように
なっているし、それ自体が分からない。しかも秒単位で変わるし、どうやってやってるか、分からないしな。
同じく表現の自由を大切にしている立場として、一部の人たちが「表現の自由戦士」と呼ばれることに疑問を感じていました。
どうして、同じ目標を持っているはずの人たちが互いに対立しなければならないのか、と考えていたのです。
これは「仲良くしろ」という意味ではなく、意見の違いが生まれること自体が不思議であり、少し愚かに感じていました。
しかし、夏のコミケでの盛り上がりを見て、私の考えが少し変わりました。
特に、コミケ会場近くで行われたヴィーガンデモに対する批判を見て、その気持ちが強まりました。
これまでもデモに対する批判は見かけていましたが、今回の批判は少し違いました。
”サークル申し込みして、なぜ人はヴィーガンになるべきなのかの本を出せ!自然完全配慮のコスプレをして歩け!”
https://togetter.com/li/2416923
この状況を見て、私は確かに一理あると感じる一方で、なぜコミケでやることを強制されなければならないのだろうか?と疑問に思いました。
その瞬間、色々な考えが解けていくような感覚を覚え、「エウレカ!」と腑に落ちる瞬間を感じました。
批判をしていた人が普段から表現の自由を主張しているかは分かりませんが、この瞬間、「表現の自由戦士」という言葉が持つ意味が少し理解できたように思いました。
自分が慣れ親しんだ領域では表現の自由を大切にするが、それ以外の主張や方法に対しては無意識に排除してしまう感覚。
それが、「表現の自由戦士」と揶揄される人たちに特徴的な傾向として捉えられているかもしれない、と感じたのです。
一度そういう概念を取り込んでしまうと急に過去の諸々が輪郭を帯びてリンクしてきます。その後、他のまとめを読むと、
グロいものを見せるな、警察に通報した、公共の場だというのがわからないのかといった非難が出ているのを見かけました。
https://togetter.com/li/2416758
これが一般的な意見なのかどうかは分かりませんが、これを読んで、どうしても「宇崎ちゃん」献血ポスターに向けられた非難を思い出さざるを得ませんでした。
「宇崎ちゃん」献血ポスターに対しても、公共の場における表現についての批判があったことを思い返しました。
ヴィーガンデモでの批判と「宇崎ちゃん」献血ポスターへの批判は、表現に対する反応という点で似ていると感じました。
こうして考えが巡る中で、
「嫌なものを見させられない権利」を主張して宇崎ちゃんとか叩いた人たちはコミケでのヴィーガンぽい連中の行為を批判してくれるのだろうか
https://togetter.com/li/2417081
というまとめが作られていることに気づきました。
なるほど、こうやって自分の主張ではなく他人の主張に対するカウンターというスタンスになるのですね。
これらの思考の流れの中で、私は何か重要なことに気づいてしまったような感覚を覚えました。しかし、同時にその気づきが少し怖くも感じられました。
ネットで真実とか、Qアノンとか神真都Q会とか、あるいはそれに近いのかもしれないと考えると背筋が寒くなります。
最後に、これはあくまで私の気づきを共有したものであり、ヴィーガンが正しいとか、批判者が間違っているとか、そういうことを主張したいわけではありません。また、「コミケでやれ」という意見がネタやノリであったことも理解しています。
まさにそこなんだよ。
「男が悪い」みたいなシンプルな判断基準を適用できないから、内部で連帯できずに混乱してる。
そもそもそういう「客観的な基準」を設ける手法自体が破綻してる。大事なのは「感情」だから。
でもこうなることはわかってたことなんだよね。
「一日に数回シャワー」とか言い出したのと、本人がハラスメント対策講師だったことの合せ技だよな
一般の勤め人には無理なたっかいたっかいハードルを越えろと言うのは、それ自体がハラスメントじゃないか、対策講師が最もやってはならないことじゃないかっていう
仕事上の信用を失ったから解雇されただけで、男の臭いを指摘したのが原因の全てではない
例えて言うなら、女性に寄り添うことを謳うジムの経営者が「女性は筋力がなさすぎる、一日10時間は筋トレしてください」とか言い出してボイコットされるようなもの
テレビないしNHKとかの契約もないからモニターで見るしかないんだけど
Youtubeでやってたのな?
映画を一緒に観に行った時の話なんだけど、映画館から出て、俺が「どうだった?」って聞くじゃん。
そしたら毎回返ってくるのは「面白かった」だけ。
サスペンス観ても、ラブストーリー観ても、なんならドキュメンタリーだって、「面白かった」の一言で終了。
もっとこう、ストーリーについて語り合ったり、キャラの感情を深掘りしたりとか、そういう会話がしたいんだよ、俺は。
俺が料理を作った時も同じで、「美味しい?」って聞いたんだ。
そしたら彼女は「美味しい」って言うだけ。
「マジ?ありがとう!」って返したけど、内心では「美味しい」だけじゃ物足りないんだよね。
料理の味のバランスとか、使ってるスパイスの話とか、そういうのを語りたかったのに彼女の「美味しい」だけで会話が終わる。
何か、味に対してもうちょいコメントしてくれよって思うんだけど、彼女はそれで満足してる。
極めつけは先日の出来事。
仕事でクタクタになって帰った時、彼女が「どうしたの?元気ないね」って声かけてくれたんだよ。
それ自体はめっちゃ嬉しかったんよ。彼女だって疲れてるはずなのに俺を気にかけてくれるなんて、ほんと優しいなって思った。
でもね、そっからの会話が全く続かない。
「なんかさ、色々あって疲れたんだよね」って俺が言ったら、彼女は「そっか、大変だったね」の一言だけ。
いやいやいや、もうちょい掘り下げてくれない?俺の話、ちゃんと聞いてくれない?ってなるわけ。
でもさ、彼女の語彙の少なさが俺たちの会話を狭めちゃってる感じがしてね。
時々思うんだよね。もしも彼女がもっと言葉を持ってたら、もっと色んな話ができて、関係ももっと深まったんじゃないかって。
まぁ、これは俺のわがままかもしれないけどさ。
いやまだ早い早い!
さすがにこの時期のおでんは太田プロさんたちもこしらえないと思うわ。
もう暑さあまって私キュウリばかり囓っているのよ。
夏のキュウリは夏に食べる理に適っている実がいっぱいなのよ。
そんでね、
私あんまり野菜自体には関心が無いぐらいなそんなレヴェルだったんだけど、
マーケットによっては野菜はここは元気が良い!ってマーケットの野菜の仕入れの気合いの違いがあるのよね。
私が気に入って買っているキュウリを買うマーケットはキュウリの立派さが立派なのよ!
1本1本が1本でもニンジンではないどう考えてもそれキュウリ!っていうぐらいの存在感!
キュウリなんてどこで買っても一緒よ!なんて思っていた時代が私にもあった回る回るよ4時台は!って
夕方の駆け込みの買い物だと人が多くなるから夕方の4時台の買い物はなるべく避けていたけれど、
だけど
買っていて私それに気付いちゃったのよ!
他の野菜もいまさらだけどなんかここのマーケットの野菜はいいと思ったわ。
くたびれて細いしなしなになったフランクシナトラでも聴かせて気合い入れ直しなさいよ!って言い聞かせたいほど
くたびれたキュウリ。
例え安くっても
ちょっと高い元気のあるキュウリを食べる方が美味しいと思わない?
それをルービーのおつまみに最近囓っているのが私の最近のキュウリストーリーよ。
スプラトゥーン3とキュウリの話しかしてなくない?ってほどだと思うわ。
でね、
夏と言えば冷蔵庫に炭酸レモン水を冷やし忘れないように心がけているんだけど、
そうよ!
今はキュウリ!
いま2本入って冷やしてあるんだ!
いいでしょ?
うふ。
一時期は夏の野菜のゴーヤーにハマっていたシーズンの季節でもあったけれど、
ゴーヤって刻んで水にさらして下処理しないと苦くて食べられないじゃない?
あれ?
でもひょっとして本場のゴーヤー食べる人ならもしかして直接囓ってみて食べたりしてる?
そっかーその方法があったわ。
ゴーヤー直接囓るっての。
あのゴーヤーの苦味が夏に苦ーいって
試してみる価値はあるわね。
ゴーヤー直接かじってみるのもありかも!
試してみようかしら?
ちょっと怖いけれどね。
私にひとかけらの勇気があれば抱きしめて入浴して手のひらの中で儚く消えていくのはそれはバブ!
さすがにキュウリを握りしめながら入浴って事はないと思うけど
ゴーヤーはお風呂じゃなくても囓ってみるのは刻むのがめんどくだか直接囓って食べられるか実験してみたいものだけど、
今この机上で思い付いたんだけどつーか気付いたんだけど
ゴーヤーって種あるくない?
いい案だと思ったのになぁ。
もしかしたら種なしゴーヤーってのが開発品種改良されたなら人気ゴーヤ出るかもよ!
というか、
もし人間がゴーヤーに情熱を燃やしていたらとうの昔に種なしゴーヤーってのはもう完成されているはずだし
おまつりで見かける冷やし1本キュウリも
あれは冷やし1本ゴーヤーもあっていいと思うんだけど
それがないってことは、
やっぱりゴーヤーは直接囓るにはまだ人類は早かったのかも知れない。
ゴーヤー直接囓ってみたらどうなるかは人類初の試みとして私が代表でやってみてもいいわよね。
たぶん苦いと思うけれど。
うふふ。
みかんの花咲く丘公園前駅の駅前商店街のいつも行く喫茶店でモーニングね。
朝の焼き魚定食で今日のランダム焼き魚シェフのきまぐれおまかせ焼き魚は何かなと思ったら
また鯖でしたー。
鯖率高し!
安定のオッズ1だわー。
これじゃーそんな舟券買ってもお金がそのまま戻ってくるだけじゃない!って
そんな競艇の鯖率高選手がいたらオッズがそんなことになってると思うわ。
でも美味しいからいいけどね。
ちなみにお値段は
ふたせんふたひゃくふたじゅうえんよ!
なんてね
それはさすがに高すぎるわ!
夏だ今だ!と言わんばかりに作ってゴクゴク飲むわ。
夏に限ってはごく普通のことよね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
中学生の時に地震で家が壊れたことがあって、中に取り残されたことがある 家具とかの中に埋もれる感じで
とりあえず携帯持たなきゃ!親に電話しなきゃ!ってなって、揺れる直前まで手に持ってたスマホを探そうと思って体動かしたときになんかメキッ!って音がして
色んなものが崩れて自分の体に寄りかかってきてめちゃくちゃ痛かった
実際顔に擦り傷とかいっぱいできてた
パニックで訳がわからなかったけど、今思えば私があの家にとどめ刺したのかもしれない
じっとしてる間もなんかミシミシいって何か崩れたりしてたし
copainterが登場してからというものの、もうこのツールなしには自分は絵が書けなくなってしまった。なので今後のためにも月50枚のプランにも加入している。
前提として、自分はフォロワーが何千何万といるような絵描きではない。ただの趣味で、自分の好きなキャラを下手なりに描いては投稿している一般オタクだ。
copainterの便利さを知ってからというもののずっとこのツールを使用し絵を書いているが、ネットを見る限り他の人と使い方が違っているのか自分と同じような使用方法の人を見かけないので、ついでに書き残しておこうと思う。
まず自分にとってのcopainterは「自分のラフを線画にしてくれるツール」ではない。
インターネットに数多くいる「神絵師」と違ってラフの時点である程度整った絵なんて描けないのだ。書いた絵を左右反転したら明らかに破綻が分かるし、けれどどこをどう直せば良くなるのかも分からない程度の画力しかない。
なので、copainterを「線画を出力してくれるツール」として使うのは諦めた。
代わりに、「自分の絵のどこが破綻していてどう描き直せばいいか教えてくれるツール」として使うことにした。
①まずはある程度描きたいものを書く。線数が多いとそれだけ間違って認識される可能性も高まるので、なるべく線が重ならないよう、シンプルに描く。
↓
②copainterで出力。忠実度は初期設定の0.7でずっと続けている。自分はクリスタユーザーだが、ダウンロードした出力画像の透過作業が毎回面倒だったのでcopainter側で透過をしてくれるようになったのがありがたい。
↓
③出力した画像を最初のラフの下にレイヤーとして置く。そこから破綻している部分などの修正や加筆を①で手描きした自分の絵に対して行う。
このように、copainterを線画を出力してくれるツールではなく線画の修正すべき点を指摘してもらうツールとして自分は絵を描いている。
ある程度整えた線でないとcopainterは思ったように出力してくれないし、自分にそんな完璧な線画を一発で出せるような画力はない。出力される線画は忠実度の問題もあるだろうが大抵自分の絵柄と乖離しているのでそのまま使うことも出来ない。「自分の絵柄」と呼べるほど大したものでもないが、それでもcopainterで出力されたものをそのまま使うのは違和感がある。
最近はずっとこの手法を使って絵をアップしているが、今のところ「生成AI使いましたか?」のようなメッセージは未だに来ていない。
自分で見るとcopainterを使う前からすれば明らかに顔や体のバランスの破綻が少ない絵に変わっているが、大きく絵柄自体が変わった訳でもないから、確かに「AIで出力した絵を下絵にしている」とは分からないだろう。まあ元々フォロワーも少ない弱小絵垢なのでそもそもこういったメッセージなんて来る可能性の方が低いのだが。
ちなみにcopainterを使うようになってからの投稿したイラストの伸び方が変わったかというと、あまり変わっていないような気もする。安定した数字を取れるようになってきてはいるが、AIを使わずに描いた以前の絵の方が未だにいいねの数も多い。これに関してはキャラであったりシチュエーションも関わってくるので一概には言えないだろう。
このやり方は「AIで生成した画像をトレスしている」という風にも言えるので、生成AIを良く思っていない人間からすれば自分のこの描き方は「AIトレス」とでも言われてしまうのだろうが、「自分の描いたラフ(手描き)をAIに読み込ませて出力したものを下絵として、その下絵(AI出力)を元にAIに読み込ませる前に書いたラフを修正して完成した線画(手描き)」を果たしてAI絵と呼んでいいのだろうか。
繰り返すが、自分の画力は本当に大したものではないので逆にその程度の絵に「copainterを使いました」ならまだしも、「#AI」なんてタグをつけるのはもはやAI絵に失礼な気もしてくる。というかそもそも、絵に「クリスタ使いました」とか描いてないのにAI関連はAIを使ったという注意書きを必要とするのかも理解しがたい。
正直、無学な自分には無断学習だとかデータセットだとか、生成AIの法的な正しさだとか詳しいことは分からない。なので、今はとりあえず一ユーザーとして提供されたサービスを利用することにしている。もしcopainterというツールが黒だったなら、その時はその時だ。
相互フォロワーや好きな絵師は結構な割合で生成AIの危険性について注意喚起するポストをRPし、生成AIを目の敵にしているので、自分がcopainterを使って絵を描いていることは黙っている。このアカウントがいくら弱小だろうが万が一目に入りこの手法が「正しくない」と思われた途端反AIに燃やされると分かっているのに、自ら「AIを使って描きました」なんて言えるわけがない。
もう自分はこの先絵を描く限りcopainterを使用していくことになるだろうが、勿論、自分で描く絵が上手くなりたくない訳ではない。
AI絵の自分が描くよりもバランスが整った絵を見ながら描いているからなのか、最近では今までよりも手描きのラフの段階で破綻の少ない絵を描けるようになってきているのは嬉しい。作業時間も短縮出来ているし、自分にとってはいい事づくめだ。
とにかく自分が言いたいのは、どうしても絵が思うように上達出来ない身としては便利なツールがあるなら使いたいし、そんな自分にとってcopainterはAIだろうがなんだろうが便利なツールであり楽しく絵を描くのに役立っているということだ。
常識のないアスペが本気でなにもわからず吠えてるのかと思ってたが
そもそも「感」以前にお前ら本当に洗濯しない風呂入らない汚部屋の腐敗臭が染み付きドカ食いで病んだ内臓の臭いがあふれるという
そういうタイプの「清潔」自体がないガチの臭い人間だったんだな
知恵は、非常に多くのことを包含しているため定義するのが難しい資質の 1 つである。
心理学者は、知恵には知識、経験、深い理解の統合、そして人生の不確実性に対する寛容さが含まれるという点で同意する傾向がある。
賢明な人は一般的に、人生の問題は解決できるという楽観主義を共有し、難しい決断に直面してもある程度の平静さを感じる。
知恵には知性が必要かもしれないが、それだけでは十分ではない。
全体像を把握する能力、バランス感覚、知的謙虚さ、そしてかなりの内省も知恵の発達に貢献する。
知恵は経験を通じてのみ獲得できるが、経験自体が自動的に知恵を与えるわけではない。
知恵を測定およびモデル化しようとする理論が数多く登場している。
心理学者のポール・バルテスらが開発した有力な理論では、知恵を「複雑で不確実な事柄について優れた洞察、判断、助言を可能にする、生活の基本的な実用性に関する専門知識」と定義している。
これには、豊富な手続き知識、豊富な事実知識、さまざまな生活環境の理解、価値観と優先順位の相対性に対する認識、不確実性を認識して管理する能力という 5 つの主要な要素が含まれる。
これらの基準は、仮想シナリオを提示し、参加者がそのような状況で何を考え、何をするかを評価することで測定される。
社会学者のモニカ・アーデルトは、個人は反省、思いやり、真実の追求を含む性格特性として知恵を発達させると考えている。
心理学者のロバート・スターンバーグは、知恵とは自分と他人の間のバランスであり、行動が共通の利益に向けられることだと理解している。
知恵には、知識や経験などの認知的要素、状況や自分自身を分析する能力である反省的要素、そして慈悲や思いやりを意味する向社会的要素が含まれる。
知恵は、視点の転換、心の広さ、知的謙虚さなどの能力にも関連している。
賢明な人は過去の観察や意見をより微妙な思考スタイルに取り入れ、白か黒かの選択肢ではなく複数の視点を考慮する。
新しい考え方にオープンであること、つまり現状に挑戦することは、知恵の特徴であり、知恵を培うのに役立つ。
賢明な人は一般的に公益のために行動するが、同時に自分自身のニーズも満たされるようにし、競合する要求や目標の間で調和を図る。
また、賢明な人は他人の行動を単に判断するのではなく、他人の動機を理解しようとする。
他人への理解と尊敬を育むことに加えて、知恵は充実した目的意識をもたらす。
仕事上の重大な決断を下したり、辛い人間関係の葛藤を解決したりするなどの経験を積むことで、より多くの知識が得られる。
また、教育の場で批判的に考え、視野を広げることを学ぶことで、スキルを磨くこともできる。
決断を下す際、偏見を持たず、客観的な視点を持ち、知的謙虚さを持つことは、すべて適切な結論に到達するのに役立つ。
これらの特徴により、全体像が生まれ、特定の状況の要求と、さまざまな状況に対処する方法に関する知識との適合性を判断するのに役立つ文脈的要因が明らかになる。