同じく表現の自由を大切にしている立場として、一部の人たちが「表現の自由戦士」と呼ばれることに疑問を感じていました。
どうして、同じ目標を持っているはずの人たちが互いに対立しなければならないのか、と考えていたのです。
これは「仲良くしろ」という意味ではなく、意見の違いが生まれること自体が不思議であり、少し愚かに感じていました。
しかし、夏のコミケでの盛り上がりを見て、私の考えが少し変わりました。
特に、コミケ会場近くで行われたヴィーガンデモに対する批判を見て、その気持ちが強まりました。
これまでもデモに対する批判は見かけていましたが、今回の批判は少し違いました。
”サークル申し込みして、なぜ人はヴィーガンになるべきなのかの本を出せ!自然完全配慮のコスプレをして歩け!”
https://togetter.com/li/2416923
この状況を見て、私は確かに一理あると感じる一方で、なぜコミケでやることを強制されなければならないのだろうか?と疑問に思いました。
その瞬間、色々な考えが解けていくような感覚を覚え、「エウレカ!」と腑に落ちる瞬間を感じました。
批判をしていた人が普段から表現の自由を主張しているかは分かりませんが、この瞬間、「表現の自由戦士」という言葉が持つ意味が少し理解できたように思いました。
自分が慣れ親しんだ領域では表現の自由を大切にするが、それ以外の主張や方法に対しては無意識に排除してしまう感覚。
それが、「表現の自由戦士」と揶揄される人たちに特徴的な傾向として捉えられているかもしれない、と感じたのです。
一度そういう概念を取り込んでしまうと急に過去の諸々が輪郭を帯びてリンクしてきます。その後、他のまとめを読むと、
グロいものを見せるな、警察に通報した、公共の場だというのがわからないのかといった非難が出ているのを見かけました。
https://togetter.com/li/2416758
これが一般的な意見なのかどうかは分かりませんが、これを読んで、どうしても「宇崎ちゃん」献血ポスターに向けられた非難を思い出さざるを得ませんでした。
「宇崎ちゃん」献血ポスターに対しても、公共の場における表現についての批判があったことを思い返しました。
ヴィーガンデモでの批判と「宇崎ちゃん」献血ポスターへの批判は、表現に対する反応という点で似ていると感じました。
こうして考えが巡る中で、
「嫌なものを見させられない権利」を主張して宇崎ちゃんとか叩いた人たちはコミケでのヴィーガンぽい連中の行為を批判してくれるのだろうか
https://togetter.com/li/2417081
というまとめが作られていることに気づきました。
なるほど、こうやって自分の主張ではなく他人の主張に対するカウンターというスタンスになるのですね。
これらの思考の流れの中で、私は何か重要なことに気づいてしまったような感覚を覚えました。しかし、同時にその気づきが少し怖くも感じられました。
ネットで真実とか、Qアノンとか神真都Q会とか、あるいはそれに近いのかもしれないと考えると背筋が寒くなります。
最後に、これはあくまで私の気づきを共有したものであり、ヴィーガンが正しいとか、批判者が間違っているとか、そういうことを主張したいわけではありません。また、「コミケでやれ」という意見がネタやノリであったことも理解しています。