はてなキーワード: 権力とは
淫夢が男性同性愛者差別で無い訳が無いだろう。あれは差別だよ。それは否定しようがない。
コロナによって東京オリンピックの開催がおじゃんになった世界線の2031年。
世は禁酒法ならぬガチャピンが定めた禁嫌法から10年が経っていた。
かつてガチャピンの片腕であったムックは禁嫌法の緩和を訴えるも反嫌法に基づいて電気椅子に送られてしまっていた。
「嫌い」をキめたくて仕方がない人々は、
はてなというアングラなサービスを使い日々「嫌い」という感情をぶちまけるのであった。
いったい、どうしてこんなことになってしまったのか?
このようにきわめて重大な法令を、
国民はなぜこのように圧倒的に、まるできまぐれのように受け容れたのだろうか。
コロナの流行は禁嫌指導者に大きなチャンスを与えることになった。
完全禁嫌プログラムには反対していたはずの人びとの注意はコロナに奪われ、
国家存亡の危機に際しては、人間の自由意志などは些細なことだと考えられた。
またコロナは、ガチャピンに広範な権力を与える思いきった法律制定に、国民を馴らしてしまった。
感情の節約が必要となり、感情節約の手段として、ガチャピンはリベラリストたちに禁嫌奨励することになった。
憲法修正第ガチャピン条はその自然な表現だが、コロナはまたスパルタ式理想主義のムードをもたらした。
マイノリティが良いものであり、マイノリティが生産能率の良い存在であるならば、禁嫌論議は、さしあたり反駁の余地のないものだった。
もしこのコロナとの戦いがすべての争いを終わらせるものであり、勝利が新たな輝かしい世界秩序をもたらすことを可能にすると考えるならば、
この効果的な禁嫌を無限に続ける時代に入っていくことを想像するのは、いかにも容易であった。
そして結局、コロナとの戦いは国民を、即座に結果があらわれないと苛立つように変えてしまった。
2022年と2023年は、やる価値のあるものは何でも、官僚式手続きや反論や快不快や便不便を無視して、即刻やる価値がある、ということになってしまった。
こうした諸勢力の結合は、抵抗し得ないものだった。国民は熱病にかかったように、息せききって、禁嫌のユートピアへの近道を選んだ。
横入りだけと、増田の意見と元の意見、次のように整理できると思う。
なお、比喩がしばしば問題を誤魔化す可能性があることは承知だが、適切に使用すれば、問題の構造を単純化するのに有効なツールだとも思う。だから、あえて比喩を使って整理してみる。
「嫌うこと」=嫌うこと
「差別」=被害が生じるような行為(だから、社会的に許容されない)
「批判」=注意する
これを用いた私的整理
元の意見は、「嫌いな奴を叩いたら痛いでしょと注意された」という人に対して「嫌うのと叩くのは別で叩いたら注意されるでしょ」
……こう整理してみると、問題は2点ある。
(1) 元の意見は、「注意は正当だよ=君は行為を改めるべきだ」と相手を諭す意見。つまり活動家の立場。それに対して増田の意見は「社会的公正さ」に関する話。これは理論家の立場。主張のレイヤーが全然違うので、これはそもそも「議論」にならない。
(2) 元の意見に対する増田の批判を上のように要約すると分かるが、増田の意見が「叩く行為」と「被害が生じる行為」の区別が難しいことを前提としていること。
(1)は理解しやすいと思うが、(2)の問題がどこにあるかを少しだけ付言。「区別できないケースがあること」は「区別できないこと」を意味しない。だから「区別できないケースがあること」をもって「区別した行為」を批判するのは筋が悪い。現代社会で「オレはLGBTが嫌い」を公言することは、明らかに差別になり得るし、それを指摘したこと自体は適切だ。それは、増田も認めるのではないだろうか。
その上で、増田の意図が「区別できないケースもある」だからそういうケースでは当然「手加減すべき」という趣旨にあるのは理解する。(ポリコレ棒を用いて人を殴りまくる行為は、確かに最悪だ。そういう光景に覚える怒りにも共感できる。)たとえ相手が強者であっても、叩かれて被害がゼロというわけではないので、それが受忍すべきものかそうでないか判断が難しいケースもあるだろう。弱者に人殺しのフリーライセンスがあるわけではないのだから。だがそれは、元の意見の人も当然認めるのではないか。
では、問題はどこにあるか。私は、強者は当然のこととして「痛くない程度には叩かれるべきだ」と思っている。多分、このあたりが増田と私の違いではないか。
おそらく、増田は公正さに敏感で、かつ、強弱に関する自己責任論をどこかで軽く前提しているのだろう。それなら、「自分の責任で弱者になっている人間」に少しでも「余計に権力がもたされる」ような行為に社会的不公正さを感じる(言い換えれば「頑張って強くなった人間を、頑張らずに弱者である人間がバチバチ叩くのは間違ってる」という感覚)のは当然かもしれない。それに対して前に述べた私の個人的見解は、強者・弱者は社会が構造的に作り出している部分が大きいという考えをベースにしている。それは、言い換えれば「強者は社会の中で置かれた立場で強者として役割を与えられて振る舞っているだけであって、強者としてのメリットを享受するなら当然そのデメリットを受忍する義務がある」と考える立場である。たとえばノーブレス・オブリージュもその一つだし、なんなら民主主義も(どんな強者も、その権利については弱者と同じレベルまで切り下げられることを認める、という意味で)その一つだ。これについては、強者は泣き言を言うべきではないとも思っている。なぜなら、まず先に社会は構造的に弱者を痛めつけていると考えるからだ。強者が気づきもしない痛みを弱者は日々甘受させられている。ならば、強者もまた同様に痛みを甘受すべきだ。これが私の思う「公正さ」だ。増田は「それなら、誰も強者になろうとしないし社会の発展も無いでは無いか、それは資本主義的ではないではないか」と言うかもしれない。だが、資本主義にも無限の自由が許容されているわけではないし、無限の自由を許容しなければ発展が見込めないというはずもない。むしろ「適切に強者を弱める」方が社会の流動性を高め、健全な競争を促し、社会全体を活性化させることが見込めるという考え方もできるだろう。「だから、その『適切さ』が問題なのだ」……と言うなら、もちろんその通りだ。そしてそれは、個々の場面について論じることでしか解決できないと思う。
だから、元に意見については〈今回の指摘は適切だった〉。だが、増田が言うように〈それは常に批判が正しいことを担保しない〉。それでいいのではないだろうか。
anond:20210301102544 LGBTを嫌う自由はあるのか、に対する b:id:muchonov 氏の意見 anond:20210302093544 について、
結論に関しては同意しなくは無いものの、やはり倫理学的にみてロジック部分に引っかかる部分があったので指摘 & 自分の意見を書きます。
マジョリティがマイノリティーに対する嫌悪を公開することを悪的行為としているが
そもそもマイノリティーがどっからマイノリティーなのか、というのは実は非常に曖昧ですよね。
日本においては男女の人口比は 49:51 なので この論だと「男は嫌い」という意見も差別ということになってしまいますよね。
(もちろん、はてぶで見る過度なブコメはまずいと思っていますが)
そもそもマジョリティもマイノリティーも切り取るコンテキストによって大きく立場が変わりますよね。
前述したように切り取るコンテキストによって勾配の傾きは変わる以上、ロジックとしては非常に危ういんですよね。
何より、その理屈でいえばマイノリティーがマイノリティーに対する嫌悪は問題ないということになるのでは。
ゲイ本人が自身のもつ特性に嫌悪感がありそれをもって「ゲイの人間はクソだ」と言うのは問題ないんですか?
むしろその属性が持つ本人がいうことにより、偏見が社会的に強まりません?
表現をするものの属性のみによってその表現の道徳性が変わるのは倫理学的におかしいですよね。
だから社会的少数派へ嫌悪を表明してはいけない、というロジックはいささか問題ありますよね。
内心で嫌う自由はある。マジョリティに100%保障されたその自由を、存分に享受してほしい。それって、すごい特権だと思わないか? だってマイノリティにはさまざまな社会的抑圧や差別によって、内心ですら自分自身を100%受容・肯定することがままならない人達もたくさんいるんだぜ
まるで性的マイノリティは内心の自由すら無いような表現だけど余計なお世話。
本当に余計なお世話。
なんで他の人と違うんだろうとか自分が受け入れてもらえないとか悩むけど、その悩みがあることと内心の自由の権利の有無は別の話。
社会的抑圧のせいで自分の性を肯定できないでしょ、って言わんばかりの上から目線というか。
マイノリティーだから内心の自由が制限されているはず、という id:muchonov 氏の意見の方が内心のあり方に関する干渉にしか感じられない。
そこは人によって違うし性的にマジョリティであっても様々な要因でうまくいかない人もいるはず。
(突き詰めていくと自己決定はどこからか、という話になるんだけどそれを言い始めると全ての人に話がおよびますよね)
もちろん、嫌いの公言の仕方にもよります。なんらかの先入観や偏見を伴った言説を元に嫌いだとか排斥運動するのは
あと、「LGBTを禁止する社則/校則を作って欲しい」とか言ったりするの。
でも、そうーいうのをさけ、「男のくせに女の格好しているのは嫌いだ」とかの話は
ただ、この日本においてはTVのバラエティ番組などでLGBT、
というか特にホモセクシャルは面白おかしく扱われ、自分の性的指向を公開することをためらわせる
exclusive な流れがあった/ある、ということはご理解いただけると思います。
「私たちはあなたたちがこの社会の中で当たり前に存在することを許さない」という価値観の表明で、それは彼らに対する抑圧に直結する
とまでは言う気は無いものの、やはり結構きついものがあります。
なのでできたらやめて欲しいのです。
これを強制するつもりは無いですし、なによりできないでしょう。
何が言いたいかというと、あなたがLGBTを嫌いであったとしても敬意を持って欲しいということです。
敬意持って欲しいとは偉いと思ってくれってことではなく、僕もあなたと同じように仕事をしたり、遊んだり、
日々いろんな悩みを持って駆け回ったりしていて
ただ性自認があなたの想像と違うだけでそれ以外はほとんどあなたと同じ人間である、ということを認めて欲しいということです。
本来、多様性やダイバーシティとか言われることの根幹はそーいうことですよね。
だから、id:muchonov氏の元増田の考えを悪と断罪する考えは同意しませんし、
なんかブクマ集めてるけど、納得できないわ。
だって現実では、かわいそうランキング(権力勾配認定)でそんなにかわいそうじゃないとされてる奴らへは、嫌悪の公言すら許されてるじゃないか。
君がトラバで書いた内容は、「心の中で嫌う自由と、その嫌いを公言する自由は別で、公言する自由は制限されるから気を付けよう」ということだと理解した。
これが、現実で一律に通用してるルールならある程度頷くけどさ。というか昔は俺もそのシンプルな切り分けに頷いてて、他人をその理屈で説得しようとしたことすらあったけどさ。
でも実際には、あいつらに対しては嫌悪を表明してもよい、と扱われてる対象が沢山いるじゃん。
サムいダジャレをいう奴、仕事ができない奴、コミュ障アスペ傾向空気読めないオタク、チンピラ、ホスト、ロリコンショタコン、メンヘラ、アル中パチ中、服装のダサい奴やだらしない奴、体育会系、オッサンオバサン、デカくて腕力ありそうな奴、老害、富裕層、強大な国家としてのアメリカ、など。(これだけあげた中には一個や二個反論が思いつくかもしれんが、それは俺が例示をミスっただけで話の大筋は覆らんからな)
「サムいダジャレばっか言う人ってマジでキツいわ」「体育会系のノリが嫌すぎる、近寄らんとこ」みたいなのは、Twitterに書いてもエッセイに書いても友達との会話で出てもほぼ問題がない。
たしなめられるにしてもマイノリティを嫌った時の猛烈な責められ方とは違う。
これって結局、権力勾配があるからマイノリティや弱者は手厚く保護されるべきだが、マジョリティや強者への保護は薄くしますよっていう、しょっちゅう非難されてる逆差別じゃないか。
こういう話をすると、これからだんだんとマジョリティへの攻撃や嫌悪表明も咎められるようになっていくでしょうみたいに言う人もいるが、そんな理想的未来が来ることはまずありえない。
どんな層への嫌悪も咎められる社会って、持続ができないだろ。一歩一歩地雷を踏んでないか確かめるようなコミュニケーションを日常からやるなんてコストがかかりすぎて崩壊する。
だから「この弱者層への言及で地雷を踏んだら致命的に咎められるので気を付けましょう、それ以外は強者だし言及で地雷を踏んで咎められてもダメージ少ないのでリラックスして語っていいっす」という逆差別がどこまでいってもまかり通る。
老化で鈍感になり、センスや気遣い力が落ちたやつらは弱者じゃないのかい。
ギャグの面白さはたまたま世間と違う好みに生まれ育ったんじゃなく自分の意志で決めてることで、サムい人は「つまらないこと言うぞ!」とわざと顰蹙を買ってるから、そこら中で嫌いと言われるのが妥当なのかい。
俺は、老化で足腰が衰えたり、たまたま男だけどバレエが好きに生まれ育ったりたまたま普通に話す時どもったり顔や体がゴツくて怖いのと近い、仕方のない要素だと思うけど。
(以前、センスが悪いなら黙ってればいいだけだろなんていう、ある種の人間は楽しい会話への参加を求めず沈黙しろってヤバい抑圧を無自覚に書いてる奴も見たが)
もしも強者弱者認定がそこそこきっちりできたとしても、強者なら嫌悪を公言されても受け入れろという非対称性を盾にした逆差別の問題は残るしな。
それにしても、こういうかわいそうランキングの線引きや逆差別の問題って指摘されすぎて、してる側の方が一つ覚えって言われそうだが、それでも問題が残ってるなら指摘されるべきだわ。
あと一応言っとくが、だから弾圧や差別もオールオッケーにしろとは言ってないぞ。
そういう趣旨だと思って読んでた奴は、正義vs悪とか差別vs反差別みたいな、白黒わかりやすいイデオロギー闘争に夢中になりすぎだから自覚しときな。
逆差別なり恣意的な弱者強者認定なりの問題があることを認めろ、そこを見ないふりした説教や説得はするな、そういう不誠実な説教の尻馬に乗るな、自分たちは正しく筋が通った考え方をしているという安心感を捨てて、「ワルモノ」からの疑問や反論があったらちゃんと自分たちを疑え、それでも総合的に考えて犠牲はあっても断罪の剣をふるうべきと判断したなら構わないがその剣を振るうのは最小限かつ手加減するくらいの理性を持て、可能ならアフターケアもしろ、という話だ。
こういうこと書いてる俺自身は自分を疑ってないんじゃねえのという点については、その自問自答も入れてたらクソ長くなるので省略してるからな(自問自答が十分である自信は確かにないが)。
少なくとも今日の俺はまだわずかに世の中や社会に期待しているから、こういう立場だ。
まあ、この記事にトラバしてるやつにはすでにすっかり絶望してもっと過激なこと言ってる増田がいて、俺はその絶望と諦めにも大いに同情するけどな。精神病の調子が悪い時の俺はもっと破壊的な気分になる。
ブクマカ 元増田の趣旨は「マイノリティを抑圧してはいけない」で、マジョリティへのヘイトは許されてるとは書いてない。お前の主張と何も矛盾しない。書いてないことを読み取るな。
書いてなくたって、マジョリティや強者(と認定された層)への悪口が甘く見られている現実は目を開けりゃ見えるだろ。
いわば議論の前提だ。
紙幅にも文章書く元気にも限りがあるので何もかもカバーした話をしろなんてことは言わないが、強者叩きは許されてる現実があるってのは重要だろ。
不都合だからって重要な要素への言及を避けて、都合のいい部分だけ使って綺麗な断罪の剣を研ぎあげる、その輝きに人々が群がって正しいと持て囃す、そういうことのズルさと危うさを問題視してるんですよ俺は。
仮にリベラルが正義と社会に認められ、国の権力を欲しいままにできるようになったところで、
最終的に彼らはどうなるの?
某インフルエンサーや某大学教授が再教育施設に入れろって話をしてネトウヨに燃やされたけど、
彼らに従わない人たちはどこに送られ、どう処理されるのか?
クオモがMeTooされたおかげで日曜夜の憂鬱が吹き飛んだ。明日の朝は気持ち良く目覚めて仕事に取りかかれそうだ。
CNN.co.jp _ 米NY州のクオモ知事にセクハラ疑惑、元側近2人が被害を告白
https://www.cnn.co.jp/usa/35167084.html
「クオモ知事は特権を乱用し、セクハラ・パワハラを常習化した」被害女性が赤裸々告白。市長も眉ひそめる(安部かすみ)
https://news.yahoo.co.jp/byline/abekasumi/20210226-00224538/
でもクオモも可哀想だと思う。これがトランプがホワイトハウスの女性スタッフに手を出したスキャンダルだったらこんなにダメージなかっただろう。
トランプ支持の白人オッサンたちは「英雄色を好むと言うしな。男らしくて良いことだ。憧れる」とむしろ尊敬を深め、敵対するリベラル層も「本当にトランプはしょーもないオッサン。でもみんな知ってることだから今更減点にもならない」と攻撃できなくて悔しがることだろう。
セックススキャンダルで言行不一致を叩かれるのはいつも「女性の権利を尊重する」「弱者へのハラスメントを許さない」と主張するリベラル派の政治家ばかり。
保守派オッサン政治家たちは奥さん公認の愛人がいたりプロ女性で性欲処理したりしつつ良き夫・良き父みたいな外面でいられる。それがバレたとしても「金と権力のある男なんだから、そんなもんでしょ?」と支持者は離れない。
MeTooは誰を有利にしてるんだろうね?
都知事が政治的に一匹狼で小泉首相とかいろいろ渡り歩いて権力つかんだ、とか
橋本大臣は森元首相だけに庇護されて出世した、とかそれで北海道のオリンピック誘致なんちゃらとかいうゲスい記事をみたけど、
なんかつまんないことやってんなーと正直思ってしまう。
もちろん地元有権者の期待に応えるという責任感からくるものだと思うのでそれは立派だけど、
つきつめていくと「一部」の人間の「利権」の最大化を求める行為が政治だと思ってしまう。
といっても共産主義を肯定するわけでもなく、貨幣経済である以上はしかたないのだが、
農本主義というか二宮尊徳やケネーのような時代は利権=土地みたいなとこがあってシンプルだったと思う。
つまるところ金融経済システムは根本的に騙す・騙されるのゲームに依拠しており株なんかはまさにそれだと思う。
可愛さは従順さや支配しやすさも意味するけど、無垢で無害であることも意味する
可愛ければ可愛がられる
可愛ければ可愛がられる
どうせ能力主義においても上に立てない存在なら、権力など放棄して可愛くなることに切り替えたほうがいい
可愛くなろう可愛く
Twitter上の男性は、何故弱者男性の生き辛さについて結託して訴えようとしないんだろう?
辛いなら結託して別の場所で訴えれば良いのに
なぜフェミ側に反論という形で辛さを伝えるだけに止まってるんだろう?
権力側に訴えるのが怖いのか?
それとも「俺達がこういう扱いされて我慢してんだからお前達も我慢しろ」ってスタンスなんだろうか?
理解できない。