はてなキーワード: 修士論文とは
もしも、お前さんが、教授に対して、不義理なことをしてなければ、
辛い時は、笑って、そんなこといわれましてもーねぇー、とか言ってればいいんだよ。
できない?できない?できないとどうなるの?死ぬの?先生死ぬの?死なないの?爆発するの?
それじゃあ、留年はするかもしれないけれども、がんばるから、ちょっと待っててよ。
って言って、引き続き前向きに研究。
もしも、お前さん自身が、約束を守らない、相談をしない、等、人としての義理を書いている部分があるなと思ったら、謝って、これからがんばるから、
もう少し待って欲しいと真摯に言え。それが嫌とか言い出したら、研究室変えれ。
あと、そもそも論だけれども、お前さんの研究テーマの前提が論理的におかしいだとかそういう部分があるのであれば、それはよく相談した方がいい。
それと、研究に対する指摘は、きちんと議論をしたほうがいいと思うけれども、人格否定は禁じ手だし、やっちゃならんことなので、もしもそれをやられたなら、
そこで一旦キレるべき。
それ、研究の話に関係無いですよね?研究の話で、指摘されるのは最もだと思いますが、人間性に関する部分を攻撃するのは、卑怯だと思います。
私は、そういう行為をとても卑劣な行為だと思いますので、次、そういう行為を見かけた場合は、しかるべき機関にアカハラとして相談します。
ぐらいのことを言えよ。
研究機関は、研究をするべきところであって、人格育成の場ではない。お前さんの人間性に問題があるのであれば、まだしも、そうじゃなければ、はっきり言うべき。
と、修士論文の予備審査をこれから発表するクソ野郎が言ってみました。
最後に、なにもかも嫌になったら、こいつは殴ったら静かになるのかな。いつでも、こいつをだまらせることができるから、まぁ落ち着いて話を聞こうじゃないか。
ぐらいの気持ちでいるといいと思うよ。
先輩。頑張ってください。
3日前に彼女に振られてきたが、なんとなく区切りがつかないので、自己満足日記を書いてみる。
高校は男子校で、彼女というものが欲しいと思ったことはあったが、大して強い欲求はなかった。
大学にはいって、大学も男子比率の高いところで、サークルや学生寮やバイトやオフ会が楽しくて、彼女というものが欲しいとは思っていなかった。たまに、遊びにいく女友達はいたけど、付き合うってのがいまいち分からんかったし、他にやりたい事のほうが優先順位が高かった。、
大学3年の冬に、高校の時からのオフ友人に、「大学のうちに、ちゃんと彼女を作って童貞を捨てとけよ」と熱く説教されたので、彼女を作ろうとしてみた。個人的にも少し焦りはあった。
その前後に、オフ会で知り合った子とかなり意気投合して、何回かデートをして、告白までした。
告白をしたときに、「私は処女じゃないし、SEXに対して嫌な思いしかしてきたから、あなたとは少なくとも近いうちにやりたいとは思わない。もしかしたら、ずっとできないかもしれない。」と言われた。
その時は彼女のことが好きだったし、大した問題ではないとないと思っていた。それに、彼女がスキンシップとかが苦手なタイプだということは初対面のころから薄々感じていた。
しばらくのうちは、やりたい気持ちが間違い無くあった。しかし、彼女が望まないならしないと考えていたので結局、なかった。しばらくして、温泉旅行にもいったが、エロいことはなかった。
このころから、諦めがついたのか、だんだん気持ちを抑えられるようになり、どうでもよくなっていた。
しかし、そのあと特に喧嘩をすることもなく、1年半ぐらい付き合っていたが、修士1年の冬に
「やっぱり、私のために我慢させるのは申し訳ないから、別れよう」
と言われた。もちろん拒否したが、当然このことは表向きの理由だっただろうし、そのまま別れた。
この後、強く女に対して性欲を感じることは無くなってしまった。
しばらくして、修士2年の冬に、塾講師の時の教え子で、バイト仲間になった子から告白された。
なんで。俺がよかったのかが未だに分からないが。くるものは拒む必要はなかったので、OKをした。
その直後、修士論文が忙しくなり、しばらく放置してしまったので、GWに旅行に行った。何事も無く終わった。
彼女を抱くこと無く、先週まできていたが、土曜日に彼女から別れを切り出された。
抱かれないことが嫌だったらしい。
世の中に出たらもっとキツいこと言われるんんだけどなぁ。どこまで甘いんだろう。そうかと思えば職員が「単位やらないぞ」と学生を脅すケースもあるし。 2011/11/22 Add Star
言葉よりも「研究指導や助言を求められた際も、適切な対応をせず、修士論文の指導では、半月前に受け取った原稿を締め切り前日になって添削指導」こちらの不作為のほうが重大。指導できないバカな教授。相当存在。 2011/11/22Twitterでのツイートを閲覧3 clicks Add Star
この対応のほうが問題視されたんじゃなかろか。>"教授は、研究指導や助言を求められた際も、適切な対応をせず、修士論文の指導では、半月前に受け取った原稿を締め切り前日になって添削指導をしたとしている。" 2011/11/22Twitterでのツイートを閲覧0 clicks Add Star
「失礼ながら…お嬢様はそのような計算もできないのでしょうか?」とか言っておけばよいのだろうな。 ⇒ 「ばか、そんな計算もできないのか」教授を懲戒 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2011/11/22Twitterでのツイートを閲覧 Add Star
むしろ大学ってのは馬鹿が懲戒される所なのでは… 2011/11/21Twitterでのツイートを閲覧 Add Star
(誤)「ばか、そんな計算もできないのか」 → (正)「予め忠告しておくが、そのくらいの計算はできないと単位を落とすことがある。」: 叱責や非難ではなく、助言であれば問題にならない。 2011/11/21Twitterでのツイートを閲覧14 clicks Add Star
うむ…。 「ばか、そんな計算もできないのか」教授を懲戒 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2011/11/21Twitterでのツイートを閲覧 Add Star
教授が「ばか、そんな計算もできないのか」と学生に言って一体何が悪いのか理解不能。この女子学生はトレーニングを受けているというのに。 2011/11/21 Add Star
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
要するに、問題は、確実に大学院を来年修了することだよね。で、最初に言っておくと、修論には最低限の体裁というものがあって、そこで足切りしているはず。どんなに教授の指示を無視したとしても、その最低限の体裁さえ抑えた論文を提出すれば、教授としても修了させないことは立場的にかなり難しくなる。
よく考えてみよう。どの大学院のどの専攻でも、どの人の修論を落とすかは、専攻の教授が参加する会議で決めているはずだ。君以外にも、年に1人程度は修論が提出できなかったり、論文として形になっていない修論を提出したりして、落ちる人たちがいる。が、落ちる人をあまり大量に出すと、専攻としての教育能力がありませんでしたと自分で言っているようなものだから、落とす人を大量に出すことは通常考えられない。
どこかで、M3になってしまう人と、そうでない人の線引きをしているはずなのだ。その線引きさえクリアできれば、君は終了できる。で、その線引きというのが、修論が体をなしているかどうか、だ。
概要があって、章立て(はじめに、既存研究、提案手法、評価、考察、結論)があって、枚数があって、参考文献がついていて、結論がちゃんと書かれていれば、他の分野の教授には一見、落とす必要がないマトモな修論に見える。他の分野の教授でも、概要、はじめに、結論ぐらいは全員分のをチェックする。君の教授がいかに君の研究を嫌っていたとしても、体裁が整った論文が提出されていると、君の教授は君の研究がどのような点で修論として未達であって、なぜ君を落とさねばならないのかを、専攻の他の教授の前で、皆に説明しないといけなくなる。体裁が整った論文が提出されていると、これは、かなり難しいことだ。
逆に、最もまずいのは、教授に色々言われたことを気に病んでしまい、結果的に、修論を書けなくなってしまったり、まずい修論を書いてしまったりすることだ。修論を書かないと、教授に、君を落とす絶好のチャンスを与えてしまう。
というわけで、僕のアドバイスとしては、今は就活に力を入れて、とにかく、確実に次をつないでおけ。研究は、就活が終わってからでいい。バイトは、時間が割かれるなら出来れば辞めたほうがいい。できれば、親に相談して、「この数カ月が正念場だから、数カ月分だけお願いしたい」とか何とか言って、工面してもらう。実際、必要になるのは本当に忙しい数ヶ月分だろ。
教授は、「年度内に結果が出なかったら修了させない」と言っているようだが、4月~5月になって、まだ残り1年ある段階で、君を公式に留年させることは教授には出来ない。留年や休学を勧めることはできるけど、授業料さえ払っていれば、教授としては君を強制的に留年・休学させることは出来ない。授業料さえ払っていれば、研究室の研究機材を使って研究する権利が、君にはある。
「今は次を繋げないといけないので、就活します」とでも、先生にメールを一本打って4月とか5月まで研究室に行かずに就活しろ。で、就活が終わってから、研究室にやってきて、教授に何を言われても、「頑張ります」とか言ってのらりくらりやり過ごして、ひたすら研究しろ。今年の12月までに、過去の修士論文(大抵見れるようになっているはず)を参考にして、修論を書いて、一方的でもいいから教授に送りつけろ。
そうすれば、なんとかなるはず。
修士1年のこの時期になって、大学院なんて来なければ良かったとよく考えるようになった。
それを思えば院試の勉強も苦じゃなかった。というか、4年間でやってきたことをだんだん思い出してくるのが楽しくて、気がつくと問題を解くのに夢中になっていた。
進学後に受けた色々な講義もやはり面白いものが多く、テストにビビりながらもなんだかんだで楽しめたと思う。
一応、個人的な進学の目的は果たせたのかもしれない。
問題は、研究だ。
私は研究に向いてない。
この重要なことをやっと自覚できたのは院試を終えてまもない頃。
研究室は放任主義で、ゼミはほぼ進捗報告会。事務的なものを除けば、日常的な教授との交流はほとんど無い。
そもそも研究とはそういう物なのだろうが、すべてを一人でやらなければならなかった。
進まない。進まない。
壁にぶつかるたびに遠回りし、計画通り進めることができず、徐々に大きくなっていく研究の遅れ。
学部の方はどうにかこうにか卒業まで漕ぎ着けたが…
このままでは修士論文が書ける所まで研究を進められるかというと、正直言って自信がない。
卒研の前科があるため教授からも信用がなく、この前もこのままなら卒業させるわけにいかないとプレッシャーを掛けられた。
今年度中に何か形にできなければ、1年延長だそうだ。
でも、こっちは就活が忙しい上に、生活のためのアルバイトもしなくちゃならない。
僅かな時間で、そこまでのものができるのか?
「これはもう詰んだかな」って考えがふと頭をよぎった後、ゆうべは一睡もできなくなってしまった。
食事も丸一日ほど食べられずにいる。
どうすればここから脱出できるんだろう。
■修士論文の代わりに退学願を提出してきた - As a Futurist...
http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733
大学で学生支援をする仕事をしていたけど、この人は大学に退学願を出せるだけ良かったんじゃないかなと思う。
私がしていたところは主に「大学に来られない」とか「教授からのパワハラがあって」とか「退学したい」という悩みの学生が多かった。
思えば私がここで働き始めたのはそこで世話になったからだったか。
ただ、退学願の提出については私と上司には差があった。
私は別に退学しても良いと思っていたし、踏ん切りが付かないなら休学でもしておけばいい。
上司は退学なんて絶対にダメだし、そんなことをしたら人生後々どうなるのか分からないから絶対に卒業させないといけない。
全く逆方向だったが、それはそれで別に良かった。
ただ、卒業のために私たちが過剰に踏み込んでしまったことだけは今でも後悔している。
レポートを代理で書いたり、場合によっては卒論さえ私たちが書いた。
講義の担当教官に「こういう事情で」と説明しに行き、単位が取れるように取り計らったりもした。
授業計画も私たちが立てたりした。
上司からの命令なので私には拒否権もなく、与えられた仕事をこなす。それだけだった。
きっと私たちは彼らのできることを奪ってしまったのではないかと。
私たちが手を出したとしても、代理でしてしまったのは彼らのためにはならなかったのではないかと。
他の学生さんにも申し訳なかった。
教授達にも申し訳なかった。
学生がしっかりと学べるように支援できるならと思っていたのに、いざとなってみれば私たちがしていたことは学問への冒涜だった。
言葉は悪いが、私たちが支援という名の下でレポートや卒論を代理で書いて、強制的に卒業をさせた学生さん達は今どうしているのだろうかと頭をよぎる事がある。
どうしているのか分からない。
彼らに憎まれていないだろうかと不安になる。
・博士課程2年目は修士論文ではなく総合テスト・リポートで審査
ここはまあいいや。博士課程の人がこれでいいならいいんじゃないの。
修士論文って、自分の2年間のまとめ論文みたいなもんだと思ってたけど、なんか違うみたいだ。
でも、D2で見切りをつけて就職すると、最終学歴は修士じゃなく学部卒だよね。
だって修士論文も書いてないし、そもそも学位ないでしょ?院は中退も有効なんだっけ?
・博士課程では指導教員を特定せず複数研究室・複数指導員とする
ふつう、所属としては研究室1つでも、研究内容によっては他のとこへも出入りするよね。
ちょこちょこ入り浸ってれば席ができたりするよね。
指導教員だって、名目上は1人だけどその時々で教えてもらうよね。
それじゃだめなの?
ゼネラリストになるならないはまったくもって個人の自由であって、
大学院はそもそもスペシャリストの育成のためにあるんだと思うけど、違うのかな。
自分の研究の役に立つことなら専門外でも学ぶ、というのは別にゼネラリストでもなんでもないし。
id:aionarapです.自分のブログがなく,ブコメじゃ情報を書き足りないのでこの場をお借りしました.
“徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm
はてなブックマーク - “徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm
この中教審の答申に関して,ブコメでは否定的な意見が多数,というか肯定意見は皆無ですね.しかし,私個人はある程度この試みに賛成です.あ,先に書いときますが,完全肯定じゃないですけどね.修論は書いたほうがいいし,徒弟制の完全廃止もどうかとは思っています.
じゃぁ何が賛成なのよ,という話ですが,Qualifying Examの導入,及び広い範囲の教育に関してです.これは必須,と私は考えています.この辺りのお話に関するご意見を皆さんに聞いてみたいと思い,当エントリを書くことにしました.
今回の中教審の答申は,博士の現状の問題を反映した意欲的な取り組みに感じる.丸呑みにするには良くない部分もあるが,期待しても良いのではないのか.
さて,そもそもの出発点ですが,博士は「スペシャリスト」でありさえすれば良いのでしょうか?私は否と考えます.博士こそ「ジェネラリスト」にもならねばならない.…と書くと誤解を招きますね.要は専門馬鹿になっちゃいかん,ということです.
勿論,博士課程の人間は自分の専門分野に関して,国際的な第一線に立てるような知識と経験が必須です.一生懸命に自分の研究に取り組む必要があります.ですが,それだけではダメで,最低限隣接領域(まぁ定義が微妙ですが)に関して,可能であればもっと大きな枠組で知識を深めなきゃいけません.科学技術はどんどん煮詰まってきて,先に進むためには学際分野の融合による新しい概念の創出が必要です.それをイノベーションと呼ぶこともあるでしょう.それを生み出すためには,少なくとも2つの分野に関してよくものを知っていないといけません,そうですよね?
テクニシャンとして分野を極めるのもひとつの道かもしれませんが,博士に求められているのはそういうことではないと私は考えています.
加えて,博士が「スペシャリスト」のみを意識していると,博士課程の人材の活用先は研究者,それもかなり狭い分野に限定されます.
ここで,大学院設置基準が定めている博士課程の役割を見てみましょう.昭和49年の時点では,
「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」
「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行い,又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」
と,敢えて変更を行っています.差分は,
「又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力」
「社会の多様化,複雑化等に対応し,博士課程において,大学等の研究者のみならず,社会の多様な方面で活躍し得る高度の能力と豊かな学識を有する人材を養成する必要から明確化」
(以上,http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/021/003-3.pdfの2ページ目より引用.)
平成元年の時点で,大学院設置基準は博士課程学生に「社会の多様な方面で活躍しうる」人材たることを求めているのです.
「おいおい,博士が研究者にならなくてどうするのよ…」という意見もあるでしょう,それは理解します.ですが,包含関係を取り違えてはいけません.研究者として生きて行けるのは,博士号を取得したうちの一部の人間です.研究者になるのは博士号取得者でしょう.ですが博士号取得者は全員研究者にはなれません.国家として,限られた国庫の中から博士を全て取り込めるほどポストを恒久的につくるのなら別ですけどね….
それに,(ありえませんが)もしそうなったとしても,全員研究者になるのもどうかと思います.一人ひとりが研究テーマを持って,プロジェクトリーダー的な役割を果たしつつ,世界の最先端を突っ走ってきた人間が,その経験と知見を他の分野に持っていくことは非常に意義があるでしょう.ある意味,一人でプロジェクトチームに求められる役割を全て果たす必要があるのですから,その能力は推して知るべしです.是非,社会のあちこちで活躍するべきです.
非常にポピュラーなのは,専門を活かした職業でしょう.企業での研究開発を初めとした「明示的に博士を求めている」職業は多いです.…まぁ敢えて書く必要はないですね.
初等,中等教育の教師もいいでしょう.勿論高専も.起業もいいですね.
そして,本当はその他の「博士が求められていない」と考えられている職業にも行ったほうがいいと思うんです.だって,ずっと知的体力を鍛えてきたわけですから,同年代の博士号非保持者と比較してその辺りは大きくリードしているはずです.
彼ら/彼女らが持っている問題発見能力は,必ずや企業にとって大きな助けになります.
前節の内容に関して,同意して頂けましたでしょうか?して頂けた方も,そうでない方もいらっしゃるでしょう.
でも,同意/非同意にかかわらず,ほとんどの人は「夢物語乙!www」という感想を抱くのではないでしょうか.いえ,私もそう思います.
例えば,id:scicom 氏の快著,「博士漂流時代「余った博士」はどうなるか?」(http://goo.gl/Pd0ls amazonへのリンク)には現状の博士号取得者,特にポストドクター(PD)の状況が整理されています.
簡潔に言えば,現状は散々たる物です.企業は博士号に魅力を感じていません.これは伝聞ですが,採用担当者は「博士は当たり外れが大きい」と感じているようです.ハズレを引くリスクを恐れて採用を控えるそうです.
そもそも,皆さん,博士号をとっている人間が「最低限」「共通して」何を出来るか,分かりますか?
言い換えると,博士号が担保しているものは何か,知っていますか,ということです.
特に,博士課程では,①学生に特筆すべき顕著な研究業績を求める大学院もあるなど,博士の学位が如何なる能力を保証するものであるかについての共通認識が確立されていないこと,②博士課程(後期)の教育が,個々の担当教員がそれぞれの研究室等で行う研究活動を通じたものにとどまり,学位プログラムの整備という観点から不十分であること,③大学と産業界等との間において,大学院が養成する人材像と産業界等の評価や期待に関する認識の共有が十分でなく,修了者が産業界等の社会の様々な分野で活躍する多様なキャリアパスが十分に開かれているとは言えないこと,といった問題点が見られる
(http://goo.gl/Jq0LU, pdfファイル,5ページ目)
文科省は,博士号が担保するものに関する共通理解は無い,と述べています.また,教育の質もバラけていることを指摘しており,このことも共通理解の妨げになるかと思います.
個人的には,博士号は「専門知識」と「プロジェクト(研究)遂行能力」は担保していると思います.…が,サンプル数が少ないので断言はできません.
この「一般的な博士像の不存在」が,世間一般への博士の浸透を妨げていることは想像に難くありません.
当の本人たる博士号取得者は活躍の場が減る,すなわちたつきの道の選択肢が減ります.
納税者の皆さんは,せっかくお金をつぎ込んで育てた人材が有効に活かされず,「税金の無駄だ!」と感じるかもしれません.
後進の学生は,この惨状を見て博士に進まなくなります(というかそうなってます).
こうして,本丸たるアカデミックの世界ごとジリジリと衰弱し,…あとは言わずもがな.
勿論,「これさえやれば万事解決!」みたいな簡単な処方箋はないでしょう.でも,チャレンジは出来ます.
私は,そのチャレンジの一環が今回の中教審の答申だったのではないか,と考えています.(というか資料はそれを物語っています)
専門の知識だけではなく,基礎知識や計画力,語学力,倫理観などもちゃんと持っていることをQualifying Examで保証しましょう.
どこに放り出しても生きて行けるほど強くするために,総合的な教育もちゃんとしましょう.
そういった取り組みが,今回の答申の意図ではないのでしょうか.
この新課程を出た博士がその有用性をアピール出来れば,在野の博士号取得者にもスポットが当たり始めるでしょう.
さて,ここで,「大学院に進んでまで人に教育を受けるとかwww自分で学べよそれぐらいwww」という気持ちになる人もいるかもしれません.
正直,私も「それぐらいじぶんでするわい」と思ってたりします.
でも,主眼はやっぱり「質の保証」なんだと思います.ちゃんと大学院は「最低限」「共通して」一定の能力を持った博士を輩出しますよ,という保証.
さぁ,経営者の皆さん,安心して共同事業を博士が経営するベンチャーと行って下さい.
さぁ,保護者の皆さん,安心して博士の教員を迎え入れてください.
そういう事を,皆が自信を持って主張できるように,ということでしょう.
ええ,上記の効果を狙ったとしても,逆効果になる部分もあるでしょう.
徒弟制を完全廃止すると,一本軸の通った研究ができなくなって,結果として「スペシャリスト」にもなれなくなります.
(念の為に再度主張しますが,博士は「スペシャリスト」の能力を最低限備えてなければなりません,と考えています)
博士課程に進学希望の学生が修士論文書かないと修士/博士の間のフレキシビリティを損なうことになります.
なので,細かい部分は考える必要があるでしょう.
でも,今回みたいに,現在抱えている問題に対してちゃんとコミットメントしたということで,私は文科省をちょっと見直しました.
というかなんか雰囲気で「お役人は肝心なことに取り組まない」みたいな思い込みがあったのですが,やっぱりそんなこともないよなぁ,と思いました.
なんせ,前述の「博士漂流時代」を読んで気になったことを調べ始めたら,殆ど中教審の資料にまとめられていたのですから.
さて,長くなりましたが,これにて本エントリはお終いです.お付き合い下さり誠にありがとうございます.
確かに怠惰を奨励するような言説が世に跋扈していて、それに惑わされる若者がいることは認めよう。そういう人たちを批判すること自体は構わないと思う。しかし森毅をそこで非難するのは誤爆と言わざるを得ない。
そんなときに、森が著書の中で
「ええかげんでいいんや。大学では勉強なんてしなくていい。エリートは勝手に育つもんだ」
と主張していたのに、救われた気がした。
いったい森毅がどこでそんなことを言っていたのだろうか。
「こうあるべきだ、という型に囚われる必要はないし、『エリートたるものかくあるべき』という型に学生をはめるのも馬鹿らしい」
「人に言われたことやイデオロギーを何でもかんでも真に受けて生きるのは痛々しいし危ない」
というそれだけのことに尽きる。ただ、これらの命題は自家撞着と紙一重(「俺の言うことを聞くな」というのはパラドックスである)だから、あんな持って回ったような言い方になっている、それだけのことだ。
私はそれを当時理解できずに痛い学生生活を送ったからこそ、その言葉の正しさを今になって身に沁みて実感していると確信している。
私が大学生になるかならないかの頃には、「怠惰の奨励」とはちょうど逆の言説が流れていた。「分数ができない大学生」だの「東大生はバカになったか」だのその手の本だ。その手の本を読めば、
「日本の大学生は勉強しない、教養がない、東大生でも厳密な学問を理解できない、旧帝大生といえども外国の大学生に比べて圧倒的に劣っている」
というようなことばかりが書かれていた。
それを真に受けた私は、「教養」とやらを身につけ、「あるべき大学生の姿」に自分を近づけるために随分つまらないことをやってしまった。興味も何もないのに哲学書だの文学書だのを紐解いてみたり、あるいは勉強の過程において、興味の範囲をはるかに超えて厳密さのために厳密さを追究してみたり。全く無駄であったとは言わないが、著しく非効率だったことは間違いない。そんな衒学的な「教養」だの、必要最低限を越えた完璧主義的な「厳密さ」だの(ε-δ論法というレベルではなく、物理数学を勉強するためにまず数理論理学を勉強するような類、あるいは読み始めた本は最後まで一行たりとも漏らさず理解しなければ許さないとする類の)を、自分の興味から逸脱してまで追い求めても、苦痛なだけで身に付くことは乏しかった。今だから分かるが、私はもっと自分を信用して、自分の興味に忠実になるべきだったのだと思う。そうすれば、「教養」だの「厳密さ」だのは、必要になった時点でいくらでも身につけることができただろうからだ。「青春」をエンジョイすることを放棄して人よりも多くの勉強時間を使っていたのに、人より飛び抜けて優秀でもない自分に嫌気がさしつつ、どうしてよいか全然わからなかった。修士論文のための研究をやっていて最後の数ヶ月でようやく自分の過ちに気づいたとき、余りに自分が時間を無駄にしていたことに気づいて絶望的な気分になったものだった。
敢えて長く自分語りを続けてみたが、あなたと対極的な私の失敗談を読んであなたはどう思っただろうか。「お前の下らん失敗など知るか、そんなどうでもいい本を真に受けたお前が悪いんだろうが」。その通りである。私が馬鹿だったのである。人に馬鹿と言われたくないがために、「教養がない大学生」「学力低下の大学生」と言われたくないがために、自分を無意味にガチガチに縛ったために自分の学生生活を楽しくなくしてしまった私の単なる自爆である。しかし私の失敗とあなたの失敗の一体なにが違うのか。どこかで見聞きしたことから勝手に自分で組み上げてしまった自己規範に従った結果、自分の人生をスポイルしたという点で、あなたと私のやったことは全く同じだ。そして森毅が言っていたことの真意を全く読み取れていなかったのも全く同じだ。
「他山の石」という言葉をご存じと思う。私の自分語りが痛いと思われるならば、あなたの自分語りも同じぐらい痛いことを思い知るべきだ。そして人を恨むのではなく、逆に過度に自分を責めるのでもなく、ただ自分が失敗したという事実を受け入れるべきだ。運が悪かったのか、環境が悪かったのか、そういったことが原因であなたや私は正しい道が見えなかったのかもしれない。だが、そのことに不満を言っても誰も助けてくれないし、失われた時間は返ってこないのだ。ならばせめて、今後の時間を無駄にしないようにお互い努力しようではないか。
卒業研究が上手くいかない。
何故卒業研究が上手くいかないのかを考えた結果、自分は「頑張っていない」のだと気付いた。
いわゆる「他人と比べて自分が頑張っていないように見える」「自分を過小評価している」状態ではなくて、本当に頑張っていない。
本とか論文なんて殆ど読んだ記憶がないし(せいぜい先輩の修士論文を読んだくらいだ)研究室なんて用がなければ行かない。最近は用があるのに行きたくない。
こんなときによく発声練習さんとか卒業研究に関する話とかやる気に関するライフハックとかどうたらに目を通す。そしてやる気が湧いてくる。湧いたやる気でお茶を淹れて寝る。翌日には何も残っていない。
何故こんなにだめ人間なのかということを考えた結果、自分は「本気になっていない」のだと気付いた。「なれない」のかもしれない。22年間生きてきて自分がこれを本気でやったな!と思えるようなことがひとつもない。授業はさっぱり聞いていなかったが中の上くらいの成績は取れた。体育に至っては必修でないことをいいことに履修すらしなかった。趣味も広く浅い感じだ。就職活動はちょっと頑張ったが、それでも終わってみると本気で取り組んだとはとても言い難い状況だった。
そもそも「本気」というのがどういうことなのか、改めて考えてみてわからなかった。ちょっと怖いと思った。
人生80年あると仮定して、その1/4が終わっているのにそんなことすらわからないだなんて、いよいよ自分は大丈夫じゃないかもしれない。
「本気を出す」というのは「何かに集中して取り組む」ということなのだろうか、と考えてみた。そうすると、やはり自分は本気になったことがない。
昔から飽きっぽいのは自覚があった。人の話を10分真面目に聞いていられない。気付いたら全く別のことを考えながら適当に相槌を打っている。
興味がある話題でもこのざまなので、人と対面して話をするのが苦手だ。メールやメッセンジャーのように何度も繰り返し読めるものでないと頭に入ってすらこない。
考えることに飽きてしまったので辞書を引いてみることにした。
(名・形動)[文]ナリ 冗談や遊びなどでない、本当の気持ち。真剣な気持ち。また、そのような気持ちであるさま。
「―を出して頑張る」「彼の言ってることはどこまで―なのかわからない」
――にする 人の言ったことなどを本当のことであると受けとめる。
「―・って怒り出す」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/180736/m0u/%E6%9C%AC%E6%B0%97/
本気にすることならしょっちゅうあったが、その話はどうでもいい。「本当の気持ち」ということらしい。
本当の気持ちを言ってしまえば「卒業研究なんてやりたくない」。身も蓋もない。そういえば高校1年生のときに「卒業研究なんて自分には絶対向いてないから大学行きたくない…」とぼやいていたことを思い出した。当時の自分は自分の事をよくわかっていた。何故高校3年生の自分は先生の「おまえは勉強ができるから○○大学も夢じゃない」という言葉に喜んでしまったのだろう。「○○大学は正直無理だと思うけど△△大学くらいなら」と思った自分、ちょっと待て。どっちにしろ卒業研究がある大学じゃないか。
「研究楽しい!」という正の方向から本気で取り組めないのなら、負の方向から本気で取り組めないだろうかと考えてみた。「卒研ができないと卒業できない!」かれこれ7年くらい考えていることだった。効果は今のところない。思えば追い込まれた自分が正攻法で頑張ったこともなかった。「○○ができなければ××できない」という状況に陥った時、○○は大した苦労なく実現できることであったし、そうでなければ××は代替手段で叶えてきた。具体的に何をしたかと言えば、匿名ダイアリーですら書くのを憚られるようなことをした。自分の生き方はいつだって不当なものだった。
「卒研ができなければ卒業できない」。今回は代替手段がない。卒研ができなければ留年するしかない。そして、自分はダメ人間だということは十二分に自覚しているので、留年したらもう坂を転がるように休学退学引き篭もりニート自殺となる自分の姿が容易に想像できる。
「やらないことにああだこうだ理由をつけているくらいならやれ」全くもってそう思う。思うだけでやらないという状況に名前をつけてくれ。
米国合衆国憲法は、大統領になれる資格を「米国内で産まれた者」と規定している。
オバマはハワイ生まれを主張する。しかしハワイのどの病院にも出席証明をだしたところがなく、また情報開示を要求すると、オバマ大統領弁護団がプライバシーの侵害を楯にして妨害する。オバマは、この弁護士チームに百万ドル以上を支払って防戦に努めている。
オバマ大統領はケニアに生まれたと証言する人が多い。父親はケニヤ人、2番目の父親(義父)はインドネシア人、だからオバマの名前はバラク・フセイン・オバマとイスラムの名前が入っている。
以下、「全米公正財団」によれば、実にこれだけの書類が不整備であるという。
● 出生証明
● パナホウ学校の記録
● ノエラニ幼稚園ならびに小学校の在籍記録(外国人はパスポート提示の必要があるから)
● 両親の結婚ライセンス、離婚書類ならびに母親の再婚ライセンス。
とりわけオキシデンタル大学において、オバマは「外国人」として奨学生の資格を得ていた可能性が高いので重要である。
かれがアフリカで出生した書類が明らかになれば、オバマは大統領の資格を失う。これらの証明書を要求すると、弁護士が一丸となって公開を妨害し、アメリカ国民の知る権利を奪う。
実はこの件は、大統領を狙うシュワルツェネッガー・カリフォルニア州知事(米国生まれではない)による合衆国憲法改正論議にも関係してくるのだが、ともかくも、全米公正財団(テキサス州)は、情報開示運動を呼びかけ、とくに全州の司法長官宛にFAXによる要請運動を展開している。
まぁ、元記事の大学(院)出身な私なわけですが、母校の残念な出来事にしょんぼりしてます。
ただ、こういった進学・進級に関するトラブルは東北大に限ったことじゃなく、特に理系の大学では多かれ少なかれどこにでもある話だ。
留年がかかった実験レポートを本人の目の前で丸めてゴミ箱に投げ込んだ教授の研究室で学生が首吊ったなんて事件もあったよなぁ・・・某大で。
就職が決まった学生なんかとっとと放流しちまえばいいのに、たいした指導もした記憶もないくせに修士論文の一次審査直前になって慌てて研究成果に目を通して、「今までなにやってたんだ!」と罵ったあげくに修了させず、ついにはM4なんて珍妙な院生を作った某大とかね
こんな残酷物語なんて実は珍しくない。
しかし、博士課程に関してはこういうリスクが100倍以上高まるという感覚もある。
大体、ここ数年ちゃんと博士号取って入社したドクターコース出身者なんて見たことねぇ。(一応、一部上場企業メーカーです)
大概、単位満了で退学・・・・だ。(それでも本人たちはかなり優秀よ)
大学院を中退した人の日記が話題になっているようだ。http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733
自分も大学院を中退したことがあるので、昔話を書いてみたいと思う。といっても件の人とは違い、確固たる考えがあってやめたわけではない。
地方の進学校の高校にいた自分は、たまたま勉強ができたので東大に進学した。
自分の成績と照らし合わせた結果、たまたま東大になったという感じ。
(一時期は京大に興味もあったが、数学の過去問を見てできる気がしなかったので東大にした)
進振りのときも、将来のキャリアプランなどについては全く何も考えず、専攻を決めた。
「キャリアプランについて考えることすら思いつかず」と言った方が正しいかもしれない。
働くなんてことは想像もつかなかったし「勉強」は嫌いじゃなかったので、大学院を受けないなんてことを考えすらしなかった。
これまでは与えられたことを勉強していればよかったが、研究はそうじゃない。(指導教官の力を借りつつも)自分で問題を見つけ、解決していかなければならない。
しかし自分は、明確にこれをやりたいというものがあるわけではなかったし、論文の探し方すらロクにわからなかった。
一番の問題は「自分に熱意がなかった」ことだろう。
ある問題に対して寝ても覚めても、毎日毎日考えられるような熱意がなければ、研究はやっていけない。
でも自分は、専攻領域に興味はそれなりにあったが、人生をそれ一筋に染めるような熱意は到底なかった。
卒業研究は、全くのまぐれ当たりで面白い結果が出たので取りつくろうことができた。
M1のときの健康診断で、医者だったかカウンセラーだったかの人に対して「やっていけるか不安です」って答えたのを覚えている。
M2のとき限界に達し、修士論文の中間発表に出たのを最後に全く学校に行かなくなった。(中間発表までいったのにもったいないと思う人がいるかもしれない。でも、ぶっちゃけ修士になってから出した成果なんてほとんどない。卒業発表の焼き直しみたいなものだ)
家にずっと引きこもり続けた。
電話も鳴ったが、全く出なかった。電話が鳴るのが恐かったので、電話線を抜いたりしたこともあった。
その後もろもろあって指導教官と数度話をし、結局、籍だけは3年間置いてもらったものの、研究に復帰することなく退学した。
そのあとどうなったかというと、退学後も半年くらい引きこもり続けたあと、このままやっていくこともできないなと思いハローワークに行った。
自分はプログラミングしかできることがなかったからプログラマーを募集してる会社を探し、そこで見つけた会社に入社した。
今は最初に入った会社とは別の会社で、それなりに楽しく働いている。
今から考えると、修士を取ることはできないことはなかったのだろうなとも思う。
病院に行って適切な治療を受け、研究方法についてわからないことは何でも研究室の先輩や指導教官に聞くべきだったのだろう。
まあでも過ぎたことだし、修士を取れなかったことに対して今は特に後悔の気持ちはない。
そもそも、研究に熱意のない自分が流れで大学院に進んだこと自体が間違いだったのかなと思っている。
退学という強制ルート変更がなければ就職なんて考えられなかっただろうから、退学になってしまって逆によかったのかもしれないけど。
本エントリは
http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733/
に対するコメントとして書いたら非常識な長さになってしまったため,
仕方なく日記にしてしまったものです.今更推敲するのも面倒だし.修論締切やばいし.
以下コメント.
私,ちょうど現在修士論文の提出用最終稿を書いている真っ最中です.
卒業を諦めかけ,それでも卒業できることになりそうな身の上の者が,修士までの研究や卒業について書きます.
あなたのエントリを読ませていただいて,一番強く感じた疑問は,「卒業は誰のためのものか?」です.
私は卒業とは自分と保護者のためのものではないかと感じています.
「日本的お優しい環境なので(学部)卒業できた~」とありますが,研究室の先生は研究者.純粋な教育者ではありません.
あなたの保護者ではないのであなたが卒業研究から何か得ようが得まいが関係はありません.
たとえば博士課程後期にでもなれば自分の研究に利益をもたらす可能性が多少高まるので積極的に構うでしょうが,
学部生レベルじゃ「留年すると担当教諭として面倒だから単位やっちまえ」くらいに思っているかもしれません.
(特に東大ではその傾向を感じるのですが,ここでは言及しません.根拠となるデータなんてないので.)
だから卒業できた,いやさせられたのではないかと感じました.
何しろ卒業生の優秀さはその先生の研究者としての評価に直接は関係ないのですから,ある意味当然の振る舞いかもしれません.
あ,念のために注釈すると,それでもやる気のない生徒を卒業させようと頑張ってる先生は大勢います.
理由は研究者を育てるという教育者の責務に駆られたとか単純に甘いとかはそれぞれなんでしょうが.
結局,卒業にこだわるのは本人とお金出してくれてる人だけ.あと内定先の採用担当もいれましょうか.
そして,本人以外は卒業の事実だけで充分.学校生活の内容にこだわるのは本人だけ.
卒業までの短い期間で自分が満足いくまで研究するのも,就職予備校と割り切って卒業に必要なだけの研究をするのも,
こんな短い期間じゃ研究なんてできっこないと決めて何もしないのも本人次第.
大学ってある程度自由な選択肢があるところなんですよ.授業出席やテスト勉強に限らず,卒研さえも.
勿論明言はされませんが.
それに気づけるかどうかも本人次第.
そこに18歳だから気づけないとか22歳だから気づけるなんて因果関係はないと思います.
私は齢22にして卒研の意義が分からず,とりあえずやってみて,そんなもんかとがっかりしたクチです.単純ですね.
あなたは,同じ状況で頭を働かせ,とりあえずやらなかった.それだけのことでしょう.
そこに新卒採用制度が絡んであなたの問題を複雑化させているのはわかりますが,
就職先で卒業研究の内容を駆使することが求められるわけでもありませんしね.
そうそう,私がなぜ卒業を諦めかけたかの話が抜けてました.
(どうでもいいなら一段落すっ飛ばしてください)
すごくありがちな話で,ビョーキです.
学校に行きたくても行けない期間は辛かったでした.
なぜって,内定をもらってるのに卒業できないかも,という恐怖が常に襲ってきたので・・・
その時に再び思ったのですよ.
あー,やっぱり卒業研究は成果じゃなくて,本人が頑張ったらOKの世界なんだな,って.
この曖昧な文章に無理矢理結論づけるとすれば,
あなたが「学問」できなかった,しなかったのは,他でもない,あなた(のせい)だということ.
そしてそれにうちひしがれて自分から退学を願い出たということ.
担当の先生でもなく,就職予備校でもなく,学の府でもなく,あなたがね.
あなたは学問したいのであれば,きっと研究者を目指せばよかった.
でも,卒業研究ができなくて就職,という(逃げ)道を選んだから,あなたの中で大学で学問する意義がわからなくなってしまった.
大学院に行くということは,就職のために行くのではないという,オトナ達からの刷り込みによる思い込みのためだけにね.
大学院での研究生活は就職だろうと研究だろうと,人生の糧になりうるものですのに.
そして私がこれを書きたいと思った動機は,あなたが研究室に入ってくる生徒達にとてもよく似た考えをしているから.
研究室に入りたてだった頃の彼らに.
毎年,あなたみたいな考えの人が研究室にきて,無駄なことはいやだと最短ルートの入口を探し,
それが正しいのか,抗うべきなのかはわかりません.
でも,私は毎年こう声をかけてきちゃいました.
「とりあえず,研究っぽいことやってみなよ.
頭で考えられる範囲で研究になるかどうかわかるようなテーマは研究ではないから.単なる演習だから.
卒業研究は成果よりもやってみることが大事だから.
やってもみいくちゃ無駄かどうかわからないことにチャレンジするのも,長い人生,たまにはいいんじゃない」と.
私は今でもそう思っていますから,うっかり言ってみたくなったんです.
卒業研究や大学の意義について悩んだ挙句,私とは別の選択肢をとったあなたに,私の考えを.
所詮は終わってしまった選択肢,戯言ですがね.
なにはともあれ,就職おめでとうございます.
あなたなりに納得のいく人生が送れることを切に願いつつ.
http://anond.hatelabo.jp/20090206052528
英語で書く、を書いた増田でーす。ブクマしてくださったみなさん、ありがとうございました。
まずご質問にお答えします。
チャットはレスポンスにある程度、早さが求められますので、初心者の方は掲示板の方がいいんじゃないかな。
YouTube のコメント欄もおすすめです。ビデオがあるわけですから、何について話しているか、一目瞭然ですから。
問題はむしろそこで何を話すかということですね。
コミュニケーションもいいんですけど、英語の学習が目的なら、ただただフレンドリーな話題、環境では「やあやあお元気?」で終わってしまいがちなんですよ。
そうじゃなくて、相手も自分もそう簡単に譲れない問題、何でもいいんですけど、政治とか宗教とか、思想とか、わりあい固めの話の方が、突っ込んだ会話になりやすいんですね。インターネットではむしろ。
私も、英語の学習という意味では、友達よりもむしろ論敵の方が役にたってくれました。
私を育ててくれたのは私の敵です。
だから争いや議論を恐れずに、どんどんハードな環境に身をおいた方が結局は近道なんですよ。
私たちは受験のために膨大な熟語や英単語を覚えてきましたよね。
でもそのほとんどは一回も実際に使うこともなく、見ることもないんじゃないでしょうか。
受験のためには必要なんですよ、どういう試験問題が出るかわからないですから。
でもあなたが化学に何の興味もないなら、化学関係の英単語は使う機会もないでしょうし、見る機会も少ないでしょうから、必要から言えばそれを覚えるのは無駄なんです。
あなたに興味のある分野のことを英語で書いたり話をすることのメリットは、あなたにとって必要性の高い単語や構文を集中的に覚えられるということです。
私は文法はとても大事だと思います。
単数と複数の違いとか、時制の違いとか、三単元のsをつけ忘れただとか、そういうことは正直言ってどうでもいいです。間違えても全然問題なく通じます。国際語としての英語は今後そういう方向に進むでしょう。
先日も、You and him is student? とか、間違って書いてしまったところ、突っ込まれたんですね。
私もbe動詞の疑問文の作り方や、主語の人称とbe動詞の関係はもちろん知っていますけど、たくさん書いていればこういう間違いもやってしまうんですよね。
でもそれでもまったく問題なく通じます。だからあなたが文学作品を書きたいとか、英語で修士論文を書きたいとか、そういう高度な欲求がないのであれば、そんなことはまったく気にする必要はありません。
けれども文法そのものは大事です。
文法が分かっていないとそもそも何をどうやって言えばいいのかが分からないからです。
やっぱり中学の英文法くらいはざっとおさらいしておくのがいいでしょう。
it~to, it~that, so that 構文はとくによく使います。関係代名詞もあやふやではなくきちんと分かっていたほうがいいでしょう。
完了形、過去完了形はあんまり気にする必要はありません。
それでしか言えない文章、過去の経験とか、継続してその状態にあるとか、そういう時以外は普通の現在形、過去形で押し通して差し支えありません。
話していると、相手ももちろんいろいろ書いたり言ったりしてきますよね。
それも、私に対して、私が興味があることについて言ってくるわけです。
その時、ああ、なるほど、これはこんなふうに言うのかっていうことがよくあります。
そういうのは興味と驚きとともにインプットされるんで忘れないんですよね。
そういう時は早速自分も使ってみて、表現力を高めましょう。
表現力を高めれば、ニュースを読んだり聞いたりしても、何を言っているかが分かります。
私、日本人はヒアリング能力がないんじゃないと思うんですよ。ヒアリング能力がないんじゃなくて、そもそも単語力や構文力がないから何を言っているかが分からないんだと思うんですよ。
その発想を理解するってのも大事だと思います。
たとえば…。
インターネットを通して知り合ったアメリカ人の友達にデービッドくんっていう男の子がいます。
彼、ニューヨークに住んでいるユダヤ人でものすごくイケメンなんですよ。
「あほか、そないなゼニにならんことしてどないするんや。男は甲斐性やで」
と言ったところ、
「あのな、うちのお父ちゃん、ものすごくお金持ちやねん。そやからわいはお金のために勉強せんでええのや」
と言っておりました。
なに!お金持ち!ということで、
「そかそか、ほなら結婚しようか」
と言ったんですが、「わいはゲイやで」とおっしゃいました。
「ゲイでもなんでもええわ。うちが欲しいのはあんたの体やない、あんたのカネや。正確に言えばあんたのお父ちゃんのカネや。カネのために結婚してやろうって言っとるんじゃ!」
と言ったんですが、なかなかうんと言ってくれません。強情な男です。
その、ユダヤ人でニューヨーカーで哲学者でゲイでイケメンで金持ちのボンボンのデービッドくんと、ある時、パレスチナ情勢について話したんですよね。
彼はユダヤ人のくせにシオニスト嫌いっていう希少種で、イスラエルに批判的なんですけど、その時に彼がこう言いました。
What do you think of israeli invasion with impunity?
私、衝撃を受けましてね。この文章を画像にして、いま、デスクトップの背景にしてますけど、それくらい衝撃を受けたんです。
訳しますと、
「イスラエル、好き勝手に侵略やっておりまんな。あなたさん、どない思われます?」
くらいの意味です。
impunity (不処罰性、処罰されないこと、免責)ていう単語がちょっと難しいくらいで、他はどうってことないですよね。
別に何の変哲もない文章です。文法的にもまったく難しくありません。
ただ、この意味する内容のことを日本人が英文にする時、まずこういう構文では言いませんね。
Israel invades. But it never be punished. What do you think of them?
とかでしょうか。
まず with impunity ってのがほれぼれしますよね。日本人だとここは without punishment ってするでしょう。
不起訴、とか、免責、じゃなくて「処罰されない」って言うのが日本語の癖なんです。
侵略、じゃなくて、「侵略している」って言うのが日本語の癖なんです。
それと、否定文ももちろんありますけど、形としての否定文じゃなくて肯定文に直して言う、そういう発想は日本語にはあんまりないですよね。
without punishment や not with punishment じゃなくて、with impunity ってやるってのが英語っぽいというか、英語の癖なんだなって思います。
日本語の構文に沿って英訳すると、どうしても長くなりがちなんですよ。
接続詞や関係代名詞が複雑に入り組んで、そういう時はひとつの文章を複数にわけるのもひとつの手段なんですけど、動詞を名詞に変えられないか、否定文を肯定文に変えられないかって発想するのも、すっきりした英文を書くコツなように思います。
で、まねをして、I don't know him っていうところを、I have absent of knowledge about the male って言ったことがあるんです。いくらなんでもこれはやり過ぎだったみたいで、「君はイギリス人みたいな英語を書くね」って言われました。
これ褒め言葉じゃないですよ。
なにもったいつけてんだYO!ってことです。
ただ、もったいつけるべき場面、論文とか文学作品とか、ちょっと高尚に見せたい時には有効だってことです。
彼はイギリス人みたいって揶揄しましたけど、実際、イギリスのメディアではこういう文章を書く人が案外います。
BBCとかはすっきりした表現が多いですけど、新聞ではけっこうありますよね。
ま、そういうこともお楽しみのうちということで。