はてなキーワード: てっぺんとは
私の名前は百合子(ゆりこ)なんだが、口頭で漢字を説明するとき
だいたい「お花(植物)のユリに、子供のコです」で通してたのね。
「百合=ユリ」を知ってる人相手じゃなきゃ、上の説明は通じないんじゃないかって気づいた。
今まではたまたま通じてたけど、もっとわかりやすい言い方を考えないといけないのかも。
まず考えたのは「漢数字のヒャクに、『合わせる』のアうに、子供のコです」なんだけど……
百は良くても、合が危ない。下手すると「百会子(惜しい!)」とか「百併子(??)」になる。
「富士山八合目のゴウ」はどうかな。そこだけ妙に具体的になっちゃうけど、口頭ならこれくらい説明しないとかな。
「アメリカ合衆国のガッ」はダメだね。ガッてなっちゃうからね。
あとは合同演習とか……うーん……
「お米(お酒)をはかる時のゴウ」はね、
実際説明するときは「お米(お酒)をはかる時の、1合2合のゴウ」まで言わないといけない気がする。
○○百合子っていう名前の、国民のほとんどが知ってるレベルの有名人が出てきてくれれば、しばらくは楽なのになぁ。
小池百合子さんはそこまでじゃないよね。10代だと知らなかったりするよね。
ちなみに英語圏で名前を解説したことはないけど、lilyのことだよって言えばいいからそれはよさそう。
ナンデ100がlilyの意味に関係シテマスカー?って聞かれたら、球根の話までしなきゃいけなくなりそうで面倒くさいけどね。
あれこそ神の与えたもうた奇跡だ。
すまないが、ここから先は乳首の嫌いな男と、乳首の美しくない女性は帰ってくれないか。
たぶん、読んでも気分が悪くなるだけだろうから……。
いや、正確に言えば、美しい乳首を持つ女性の乳首は美しい、だ。
美しい乳首は、何分、何時間、いや何日見続けても飽きることがない。
美しい顔、美しいスタイルなのに乳首が美しくない女性は、とても罪深い。
乳首のかたちを確認せずに、顔やスタイルや性格だけでパートナーを決めることは、
ブルカで顔を隠したまま相手を見初めるイスラム圏の風習よりも、はるかに不条理である。
乳首の形状には、人によって色々と好みがあるだろうが、自分が至上の乳首と崇めるのは、
直径3cmほどのなだらかな山状の乳輪から連なる、直径1cm高さ5mmほどの円柱型の乳首だ。
勃起時には、乳輪にツヤとハリが出てふくらみ、乳首は高さ7.5mmほどの円柱にふくらむのが望ましい。
もうお分かりだろう。
自分は、大きすぎる乳輪もお断りだが、小さすぎる乳輪にはもっと魅力を感じないのだ。
勃起すると縮んでしわくちゃになる乳輪など、むしろ憎んですらいる。
逆に、ほんの少しだけパフィーニップル気味(知らないやつはググれ)の乳首など大好物だ。
軽めのパフィーニップルの魅力は、勃起した時に乳首と乳輪と乳房がロケットのように一体となることだ。
だが、結局のところ地の肌の色によって決まるので、極端に黒かったり逆に白すぎたりしなければ良い。
基本的に、女性の乳輪から乳首にかけての色は、ノーメイクの唇のふちの色から推測可能だ。
これを覚えておくと、脱がさなくても乳首の色がわかるので便利だ。
女性のノーメイクの顔を見るよりも、服を脱がす方が楽かも知れないが……。
わかっていただけただろうか。
大きかろうと小さかろうと、乳首さえ綺麗なら「がっかりおっぱい」はあり得ないのである。
柔らかそうな山のてっぺんにボタンがあれば、そりゃ押したくなる。
その無駄のないデザインは、今にも押されるのを待っているかのようだ。
実際、自分は恋人の乳首を日常的に押しすぎるので、よく怒られる。
押すとへこみ、離すともどる。
乳首を押せば、ほぼ必ずなんらかの反応がある。
セックスの前に押すことで、セクシーなモードに入るスイッチになる。
ただし、このセクシースイッチの効果には、非常に大きな個人差がある。
本当に乳首の感度が高く、平常時にも乳首を押すだけで一気に性欲が高まってしまう女性もいる。
最も多いのは、性欲が高まっている時はセクシースイッチになり、普段は敏感なので押されるのを嫌がる女性だ。
逆に乳首が鈍感すぎるあまり、普段から押しまくっても全く平気で、嫌がることもない女性もいたりする。
自分は、平常時にいきなり乳首を押すので、女性の乳首タイプによっては怒られたりする。
だが、それもまたインタラクティブだ!
乳首丸見えでパリやミラノやニューヨークのランウェイを闊歩するファッションモデル達のように、
日本女性もノーブラで乳首の形をおしゃれに見せることを覚えてはいかがだろうか。
不自然な谷間など見せている場合ではない。横乳と下乳は認める。
乳首の形がくっきりと浮かび、時にその色までがうっすら透けて見えるノーブラの女性は美しい。
とりわけ、柔らかで編みの細かいニットを下から突き上げる乳首の突起には激しい興奮を禁じ得ない。
特にピタっとした白いTシャツなどはノーブラで着るためにあるのではないだろうか。
日本では、濡れTシャツコンテストがあまりメジャーでないのが、とても悔やまれる。
日本人女性は乳首をひた隠しにすることで、自らの乳首の価値をおとしめていることに気づいてほしい。
胸元のゆるい浴衣はもとより、着物と乳首の組み合わせも素晴らしい。
着物?と、意外に思われる方もいるだろう。
あんな分厚い着物に阻まれた状態で、どうやって女性の乳首を愛でるのか、と。
これだから、着物を着ている女性に対し、帯でくるくるあーれーをするくらいしか能のない素人は困る。
和服には、脇の下あたりに小さく空いた穴、身八つ口(みやつぐち)というものがある。
この穴の役割は、表向きにはお端折り(おはしょり)を調整しやすくするため、と言われている。
しかし、身八つ口の本当の役割は「男がすっと手を入れて乳をダイレクトに触るため」だ。
もし、彼女や奥さんが和装を身につけることがあったら、是非ためしてみてほしい。
脇の下にある穴、ここから手を入れることで、襟元を一切乱れさせることなく、ダイレクトに乳首を触れるのだ。
着物を着たままで、ダイレクトに、指先で、女性の、乳首を、まさぐれるのだ!!!!
このホールインワン乳首とも言えるダイレクトアプローチ感は、試してみないとなかなかわからない。
ひとことで言って至上である。
こんなところからも、乳首と乳首を愛する文化の奥深さがかいま見える。
長々と女性の乳首の魅力について語って来たわけだが、素晴らしさが伝わっただろうか。
女性の乳首の美しさ、尊さ、気高さがわかっていただけただろうか。
人間の女性の乳首は、乳児への授乳のためだけにあるものではない。
男性を魅了し生きる活力を与えるために、女性の乳首以上のものはないのである。
われわれ男性は、今後もおっぱい画像の収集に励み、女性の乳首をますます崇めたてまつろうではないか!
……と、言いたいところだが。
それを皆に伝えて、この文章を終えよう。
はじめておっぱいを触った http://anond.hatelabo.jp/20130416120520
【そして、名も無きおっぱい星人に捧ぐ】
最初からのセットだった有線マウスから無線マウスに買い替えた。
今までのものに比して、
・電池の分、重い。
結果として手や肩が休まらず肩こりになりそうだ。今のところこれが一番使いづらい。もうちょっと鈍感なボタンの製品の方がよかった。これはマウスのてっぺん手前から既に左右ボタンの切れ込みが始まっている。本製品は店頭にて実際触れるように展示されていなかったから確かめようがなかったが、触るのは大事だ。ただ、展示されているものはすべて触ったのだが、実際机の上で使うとまた違った使用感が出てくるように思う。
・ポインタ動作に関して、大きく動かす分には問題ないが、微細な動きにおいてほんの少し思い通りに動かない気がする。無線がどうこうではなくレーザーセンサーの能力か。
・マウス全般に言えること:自分は手で包み込むようにマウスを保持して操作するのではなく、指先でつかんでほぼ指と手首だけで動かす。
手で包み込むと腕まで使わないといけなくなり面倒だ。
したがってマウス側面に親指にフィットするようなへこみを設けてあっても意図された効果はない。むしろ上部に親指を引っ掛ける出っ張りか滑り止めがほしい。よりつまんだ感じになるように。
・いかに軽くつまむように動かせるかが重要になるから、重いのはマイナスになる。
・高速スクロール後に逆戻りする。
今まで使っていたものを大したことないと思っていたけど、地味だけど実に堅実に動作していたんだなあ。壊れなければもっと使っていたんだが。
コーディングとは、を検索する所から始めなければならないズブの未経験素人が、
三か月ちょいでhtmlとかcgiとかjavascriptとかphpとか全部使いこなせるものなの??
それって天才じゃない?それ出来たらweb制作なんて仕事いらなくなっちゃうんじゃない?
未経験でいいなんて嘘だったね。
未経験を雇って育てる余裕のある会社じゃないって気付けたら、この数カ月無駄にしなかったのになー。
実務でなんとなーくhtmlは覚えたけど、本当になんとなーく。正しいのか良く分からない。
cgiを動かす時のチェックのためにjavascriptだのjQueryだの入れろやいじれやらって言われても、新たな言語登場になすすべもなく、呆然。
if構文とか知らん。ソースがやっと読めるかな…位になった頃にif構文の説明されても頭に入らない自分の頭が悪いのか?
未経験者に説明するときに、専門用語で説明するんもんじゃない。と思う。
基礎が出来てない人間にこの仕打ちは酷いんじゃないか。とも思う。
スマフォサイトをゴミカスレベルだけどコーディングしたんだから
よくできまちたね~~!位でも良いから言ってほしいわ~~。
チェックが甘いんだよクソったれが…本当使えねぇな…、というニュアンスを含めた御指導御鞭撻を頂く毎日です。
97点で、よくできました、って言ってくれる優しいサイト。ただどうしても100点は取れない。
勉強すればまるっと解決なんだろうけど、残業しないと制作終わらないし、
残業して帰ったら時計の針がてっぺん越えているのでちょっとご飯食べて寝てしまうし、
なんか異常に疲れて予定がない休みの日は夕方位まで寝るという、
眠りを貪るのに忙しくて勉強する時間がとれません!というクズな点は置いておいて、
やる気出せよ!って感じだけど、javascriptとかphpを好きになれないのでもう無理。何書いてあるかさっぱりわからん。
htmlのタグすら全部覚えてないしルールも分かってないのにさらに訳のわからないものをねじ込ませるなんてゲスの極み。
未経験でも大丈夫☆とのお話でしたが、仕事のレベルと量は未経験じゃまわせねーよ、と。
未経験okの会社には気をつけた方がいいな…という勉強にはなった。
だまされたほうが、わるい。きぶんも、わるい。
http://anond.hatelabo.jp/20130205153620
鷲巣麻雀も決勝二人麻雀も導入目的は明らか。「普通の麻雀より、相手の思惑を推理できる要素を増やす」よ。
福本は「相手の策を読み、裏をかきあっての心理戦」が描きたい(読者もそれが読みたい)が、
麻雀というゲームそのままでやるのは無理があるので特殊ルールにしてるのだ。
そもそも、麻雀漫画で闘牌がメインになっているもの(ギャグとか実録物とか「麻雀をめぐる人間模様」がメインな話とかはとりあえずここでは置いておく)は、
「麻雀というゲーム」か「麻雀を打つ人間」のどっちかで嘘をついてる。麻雀が運ゲー過ぎる(少なくとも短期戦では)からだ。
前者はどういうことかというと、「麻雀はこうこうすれば捨て牌から相手の思惑を読みきることができるゲームだ」とか
「麻雀はこうこうすれば運気の流れを自分のものにすることができるゲームだ」とかいう嘘(麻雀は運ゲーじゃないよ、という嘘)。
一般的に麻雀漫画というのはこういうのを想像されがちだと思うが、現実にはこれは無理。
手配読みとか、100%嘘ではないが、あんなピンズドで読むのは条件が相当限られないと無理。
「嘘じゃねえ!流れはあるんだ!」と言いたい人もいるとは思うが、一応、現代の麻雀戦術では、流れというものはないし、
相手の手牌を読むのは条件が相当限られないと無理ということになってるのだ。納得できなくてもそういうことにしておいてくれ。
バトルマンガで例えて言うなら「拳銃持った相手と素手で戦う時、銃口の向きを確認して高速で動けば全部避けられる」みたいなもんで、
「一見理屈は通ってるけど、現実にはそれ無理やろ」という話やね。
もちろん「嘘だからつまらない」なんてことはなくて、嘘の付き方がそれっぽければ面白いわけだ。
麻雀漫画でこの手のだと、土井(旧ペンネームは山根)泰明原作(『勝負師の条件』『幻に賭けろ』など)が特に素晴らしいね。
福本の特殊麻雀はこの変形で、「相手の待ち牌を読まなきゃ勝てない」とか「相手の手牌が部分的に見える」みたいなルールをプラスすることで、
「それっぽい理屈が成立しそう度」を上げてるわけだ
(まあ鷲巣麻雀とか二人麻雀は実際にやったことないので、もしかしたら「成立しそう」ではなくマジで理屈が成立してるのかもしれないが)。
こんな七面倒臭いことせず、限定ジャンケンみたいに新しいものを作ったほうが無理ないけど、近麻でそれできなかったろうし。
ちなみに後者は、「雀士には人智を超えたすごい奴が居る」という嘘(人間は運をねじふせられるよ、という嘘)。
この代表例は来賀友志原作(『あぶれもん』『ザ・ライブ』『てっぺん』『天牌』など)。
『ザ・ライブ』で、神業的な打ち筋を見せた主人公がなぜそう打ったのかと問われて
「明確な説明は僕にもできません」とはっきり答えたり、
『てっぺん』で「何を切るかではない何を引くかだ それが超一流の条件!」ってアオリがあったのが典型的だが、
「すごい奴ってのは理屈ではなく当たり牌を切らない」「すごい奴ってのは理屈ではなくツモる」って具合なんね。
さっきの例えで言えば、「すごい奴ってのは堂々としてるだけで拳銃の弾が当たらない」みたいな感じ。
理屈にはなってないが、ある意味リアリティはあるとも言える(そういう「持ってる」って言いたくなる人間って居るじゃん)。
『哭きの竜』なんかも土井作品(クレジット無いけどあれ土井)にしては珍しくこっちだし、
『むこうぶち』も、理屈は出てくるけど本質的にはこっち(傀が負けるところ想像つかねー)だと思う。
で、上の二つが分かりやすいけど、「強い! 絶対に強い!」という黄金バット的サムシングを読者に納得させることが出来るキャラクター造形であれば面白くなるわけだ。
なお、咲とか兎、片山まさゆきの『ミリオンシャンテンさだめだ!!』とか『まんちょくスナイパーとどめ』(どっちも片山作品の中では知名度低いが超名作)とかはこの変形で、
人間力的な漠然としたものではなく限定的な異能にしてるわけやね。
ちなみに、「咲は麻雀漫画としてはダメ」とか言うのを見ると「それはどうか」と思うのは、
「麻雀が分かってる人間なら、咲が『牌にドラえもんが描いてあったって成立する』ようなもんじゃなく、
ちゃんと牌譜作ってあって、ネト麻とかとつげき東北以降の戦術をベースにしてることは見て分かるだろ」って気持ちが半分と、
「能力麻雀だってdisるの、片山の名作群をdisるってことだから承服しかねる」ってのが半分。
イカサマものはまあまた別論にしといてくれ。哲也とかのヒット作があるので勘違いされやすいけど、80年代以降の麻雀漫画シーンでは一貫して傍流(『(旧)バード』『凌ぎの哲』『ショーイチ』だけ読んどけばいいよ)だし。
AKBが、安全地帯からオワコン価値観とエゴをふりまくための格好の的になっていることは、気づいていた。でも見ないふりをしていた。
いくら自分はそうじゃないと否定しても、AKBのファンでいる限り、彼女たちを搾取する構造に乗っかっていることを認めることになってしまうのが怖かった。
そんな時のみぃちゃんの動画だった。ファンはここまでメンバーを追い詰めるところまできてしまったのかと思い、悔しさと怒りで壊れそうだった。
そしてAKBファンを辞めなければと思った。フェアトレードされていない商品を買ってはいけないのだ。
AKBの人気を支えていることのひとつに、時代錯誤のルールが若い女性によってお色直しされつつ、安全な位置からエゴを振りまけるのが大きいと思っている。
自傷的反省も、鉄の掟も、求められる女性像も、とっくにオワコン化した昭和のそれだが、メンバーは注意深く従わなければならない。
お客様精神で理不尽にクレームをつけることだってできる。一方で体罰は時代錯誤だ、いじめは集団主義のせいだと言いながら
AKBの理不尽なルールに従わないメンバーがいたら容赦なく糾弾する。
「好きでやってるんだから、それがAKBのルールだから、お前の責任だ、糾弾されるべきだ」と息巻く。
それがどれだけ暴力的なダブスタである自覚があるのかもわからない。
そもそも恋愛禁止というものがどう考えてもおかしいとは誰も言わない。
そこに疑問を持つ人はファンにはならないか、私のように見ないふりを決め込むかしてるのだろう。
AKBに嫌悪感を覚える人は、このへんのダブスタや気持ち悪さを感じ取っているんではないかな。そりゃあ気持ち悪いし、怖いわな。
みぃちゃんの暴走は、ファンがそうやってメンバーを追い詰めてしまっている状態が最もショッキングなかたちで出てしまったのだろう。
そして少なくはないファンがなおも彼女が申し訳なさそうにしていることを望んでいる。
立派にいじめである。安全な位置からエゴを振りまいて生身の人間を傷つけることが、アイドルの名のもとに罪悪感のないエンターテイメントとなってしまっている。
AKBがヤバイのは、そういったものすらストーリーにしてしまう倫理感のズレがむき出しになってるところだ。
断っておきたいが、倫理もなにもないのは日本の芸能界一般にいえる。
気づかせないように一般化されてるけれど、ルール無用、勝利と金こそ正義の残虐な世界で、倫理などあったものではない。
AKBはそのヤクザ社会でのてっぺんを目指すリアリティー・ショーである。
だからともーみ(河西智美)の写真集でエロの文脈に子どもを使うことの倫理的意味もリスクも無視できてしまうし
10代の女の子がほぼ裸で風呂場にいる写真を公開してしまうのである。
自分はこういう運営の倫理観のやばさや、少なくはないファンが安全地帯から束縛と攻撃と安易な性的過激さを求めたりして
普通の人間であるメンバーが追い詰められていくのを見るのが本当に、辛かった。
きわどいグラビアを見かけるたび、それに悲しむ10代のメンバーを見た時、握手会でメンバーに理不尽に説教するファンを見かけるたび
それをブログで悲しそうに報告したメンバーをみるたび、そうやって傷ついたメンバーを守るでもなく映画のコンテンツにする運営をみるたび
腸がにえくりかえった。なにが「少女たちは傷つきながら夢をみる」だと思った。
でもやめられなかった。
みぃちゃんや、日々理不尽に耐えている他のメンバーは、まだAKBにいないと輝けない。
そして私はAKBが大好きなのだ。夢を追いかける若者を応援したいし、キラキラ輝く姿を見て頑張らなきゃな!と思いたいのだ。
そのためには、倫理的配慮やファンの暴走を食い止めたいと、声をあげるファンも必要なのではないかと思った。
というか、AKBファンをやめるという選択肢がどうしても現実的でないところまで来てしまっている以上、そうするしかなかった。
分かりやすい話をすると狭いブラック企業で必死こいて働いてる愚直な人が世の中にはいるのよ。
純粋で騙されやすくて弱い人を選んで雇うんだってね。弱さにつけこんで洗脳する。デスマが社会人なら当然のことであると洗脳する。
彼ら愚鈍な奴らはその企業で管理職とかなることを「てっぺん」だと思ってるのよね。ハタから見たら滑稽な話で。
お前ほんとにそこ目指したいのか、お前の目指したいところはほんとにそこだったのかと笑われちゃうんだけど、本人は意に介さず、聞く耳持たず、なんだよね。洗脳されちゃってるから。
でな。それと同じことが一般大衆にも言えるわけ。
みんな人それぞれのやり方で「てつぺん」を間違ってる。ホワイト企業の管理職なんかでもその例外ではない。
むしろ管理職の方達ってその手の思い込みがキッツイ。てっぺんへの執着が強いからこそ管理職なったんだろうからね。当然のことである。
「地方ではブイブイ言わせてたんだぜ」的な御仁が東京なんかじゃ失笑を買うのと一緒で。しょせんは狭い世界の小山の大将。井の中の殿様ガエル。
てっぺんだと思うとったらそこはていへんでしたw 底辺だ底辺だ! 三角形の底辺だ!
「人間として一回り成長」という使い古されたフレーズも、もういい加減にしろってくらい間違わされ続けてボロ雑巾のごとく間違われ古されている。
結局のところ現実社会という名の「非常に特殊な価値観の体系」に適応できた者が喝、いや勝つ。dank○gai風。それだけのことに過ぎぬのだ。
なおさら滑稽なことに、あるランクに到達するリソースが、しばしば次のランクに到達する足枷になる。昨日の糧が今日の枷。
何故かというと、現実社会のルールが「非常に特殊」で「整合性などお構いなし」だから。汎用性がまるでない。レベル3で学んだことがレベル4ではお邪魔ぷよになって降ってくる。
アホかと馬鹿にしていたが、昔の茶人とか、野原や河原、しまいにゃ戦場や山のてっぺんで茶会を開いてたんだよな。
敷物もって、釜もって、茶筅、茶杓をもって、紙コップや軽量プラスチックのカップなんてなかったから、落としたら割る重たい茶碗を持ってさ。
火をおこしてお湯を沸かして、お茶を飲む。
カレー作ったりバーベキューするならとにかく、お茶だけのためにその労力わけわかんねぇ。
と思ったんだが、山でお茶を淹れて飲んだら美味かった。
急須持ってってお湯沸かして飲んだら最高。
山まで出かける必要もない。
深夜の歩道橋でお茶を沸かして、ミルで豆を挽き、ドリップしてみたら、もう飲む前に香りだけでやばかったね。
いつものコーヒーがまるで酒のように気分を高揚させた、住宅街の窓の明かりが、世界遺産かなにかのように思えてならなかった。
西の空が赤く染まり、東の空から一つ二つと星が輝き出す様子をみていると、地球って素晴らしいと思うことさえできた。
野点とかいう野外の茶会って、大名だってはまったんだから、貧しい者にとっても富める者にとっても、単身者にとっても独身者にとっても、気持ちいいことなんだろう。
コーヒーでもお茶でもいいんだけど、お湯を沸かしてカフェインチャージするだけで、人は簡単に幸せを実感できる。
閉店間際のスーパーで、半額の寿司と発泡酒を買って、公園で食べるのもなかなかのもんだ。
就職できないからとか、リストラされたからとか、モテないからとか、そんなことで悩む必要はない。
涼しくなっていい季節だ。
リュックにヤカンとコンロを詰め込んで、ドアを開けて外に出よう。
月刊『致知』の2005年12月号に掲載されたいた「縁を生かす」をいうある先生と生徒のお話がある。
ネット上に全文が掲載されている。
↓
http://www.chichi.co.jp/enwoikasu.html
※これも教わった話とあるので本当の大元はわかりませんけどね…。
これが『致知』に掲載されたのが2005年11月頃、どのタイミングでwebにアップされたかは不明ではあるが、ここからブログ・facebookへ転載され、多くの人の目に触れている。
自分が確認できた限り、ブログで一番初めに掲載したのは、有限会社てっぺんの大島啓介さんのブログ
↓
http://ameblo.jp/k-teppen/entry-10388082855.html
本来の「縁を生かす」ではなく、「招待状」というタイトルに変更されている。
そして、クリスマスの午後に関するエピソードがごっそりなくなっている。
私が初めて目にしたのもこのバージョンであった。大島さんのブログではなく、2chのまとめ記事ではあったが。
そして、今、facebookへとまたまた転載され、多くの人に感動を与えている。
今回、転載したのは、どっかの会社の取締役らしいですが、先の社長も含め“引用元を記載する”ことができないんですかね?
今現在、作:facebookの転載者となって多くの人のブログへと再び転載されている。
この転載者さん、現時点で6000を超えるシェアを集め、多くの友達を集めていますが、どのくらいの人が“転載”されたものであることに気づいているのかな?
人より言葉やパンクチュエーションを無駄に(というのもそこには大した美学や整合性もないから)気にするたちであるとは自覚している。
「死」という言葉の重さ云々と今更ここで滔々と述べても誰の為にもならないと思うのでそこは省略するが, です。
「死ねばいい」という言葉は彼女達にとってきっとジャングルジムのてっぺんの様な誇らしいものなのであろう。
最初は「嫌い」「気持ち悪い」という言葉だったのがどんどん高いところへ憧れていき
「死ねばいい」と飛び降りる瞬間その言葉の持つ危うさ,スリルを楽しんでいるのだろうか。
死ぬという言葉を否定しているわけではない。例えば「 」に描かれる死はまさに的確に人の死への恐怖や好奇心を描写していると思うし,その他私たちにとって乗り越えられない(そして乗り越えられないことが好ましいであろう)死について興味深い考察を残した作品は沢山ある
http://anond.hatelabo.jp/20110925204621 のブコメを見てたら、女性版も欲しいという声があったので考えてみる。
まずは鏡を買う。
次に美容院に行く。
・大きくてスタッフが多い
・トリートメントに力を入れている
・ネイルメニューがある
このへんを満たしていればまず外れはないでしょう。小さなお店は当たり外れがあるので初心者には危険です。
予約の電話をする時に、髪型の相談をしたい旨伝えるのを忘れずに。
美容院では、女らしく大人っぽい髪型にしたいと伝えましょう。個性的な流行りの最先端のお洒落なヘアーは駄目です。ロングかセミロングで。
癖毛の場合は無理に生かそうとせず、縮毛矯正しちゃうといいと思うな。お金はかかるけど、印象は劇的に変わるので必要経費だと思って割り切りましょう。
髪をブローしてのばしたり、くるくる巻く技術がない事も正直に伝えましょう。
手間いらずな髪型にしてくれるし、簡単な事なら美容師さんが教えてくれます。美容師さんは綺麗になりたい女性には親切なので怖がらないで!
眉カットもお願いしちゃうと良いでしょう。眉が変わると女は変わります。
段々書くのが面倒になってきました。
お化粧は参考書が必要です。雑誌のメイクページよりも「初めてのお化粧」「メイクの基本」的なムック本が丁寧に書かれていていいかと思います。
スキンケア用品は安くていいものを揃えたいので、基本はちふれで揃えましょう。
化粧水、美容液、乳液、洗顔フォーム、化粧落とし。全てちふれで十分です。
ここまで書いたら眠くなりました。
実際的なメイクの話とファッションの話は後日、時間を見つけて書きます。
おやすみなさい。
都会の港にいた
馬車があって、これに乗るの? でもここ海だよって尋ねたら
馬も泳げるんだよって誰かが言った
馬がどぼんと海に飛び込んでゆったり泳ぎだしたのを見て
へえ、本当に泳げるんだと感心してたら
じゃあ、花火を見に行こうかって言われた
いつの間にか馬は水陸両用の荷台を引っ張ってて
半分まだ夕暮れで半分はもう夜になった海の上を静かに滑り出してた
チャポチャポ水の音がして、ようやく動いているのに気付く
馬車(って呼ぶのかな)は、空が明るく光っている方へ向かっていて
なんでもう日も暮れるのにこんなに明るいんだろうって思ったら、虹が掛かってた
ああきれいな虹だなあと思って見上げると
てっぺんの方の形がなんだか崩れて、もやがかかったような光と影
不思議な虹だなあと呟くと、あれはオーロラだよと誰かが教えてくれた
これは絶対見逃したくないだろうから早く妻に知らせないとと、妻の携帯に電話をかけた
そのとき、夕焼けで明るい場所だけが野外映画館のスクリーンみたく浮き上がって見えた
オーロラの淡い光に向かって、鮮やかな赤いラインが描かれていて、
その先に目をやると人工衛星が飛んでいた
おおむね正しいかと思ったけど、作品の評価ができない者が大勢ではない。
賞が打算で授与されるのは否定しないけど、節穴の意見と打算だけで芸術作品の評価が決まるわけではない。
なんだかいろいろ見えすぎてて、すかして物事を見てしまって逆に本質が見えてないな。
俺から言われても、プwって思うだけなんだろうけど。
知り合いに研究者がいて? 姉が医者で? 弟が弁護士で? 芸術家と話し合ってことがあって? それで何をわかったの?
言葉をかわしただけでもうその世界がわかった気になってるのは増田じゃないですか。
ああ、それ知ってる知ってる、で表面だけで終わらせて、何も真剣に考えてこなかったのが丸見えじゃないか。
芸術なんて金持ちの権威のためにしかなくてそもそも存在し得ないかのような言い方だぞ。
現代の作家の評価を現代にするのがおかしいって意見もナンセンス極まりない。
他者の意見がないと物事の良し悪しを評価できないって論理がひどいし、普遍性が芸術で最重要の要素ではないし、カウンターカルチャーのレベルが低いとするのもナンセンス。
最初は、そうねそうねと思って読んでたけど、やっぱり増田さんも全然わかってないわ。
クリエイティビティが作家論ととられてしまっていたのなら失礼。
言いたかったのはその作品が存在することとなった作品内にあるモチベーションで、完全に作者は死んでいて構わない。(今生きてる死んでるって意味じゃもちろんないよ)
高橋源一郎も言ってるけどね。
間違いないわ。
すかして達観してるやつがわかるわけがない。
動かしてる仕事のてっぺんにいるからわかりやすいからそう言っただけ。